雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

ネットアイドルだった鈴木純の命日~南条あやによせて~

 

 どうしても書きたくなったから勢いで書く。

 

 3月30日は南条あやの命日。

 南条あやはネット黎明期に現れたネットアイドルである。自らを「いつでもどこでもリストカッター」とし、日常を明るくインターネットサイトに綴った日記は人気を博した。そんな彼女は口癖が「卒業式まで死にません」だったという。実際、彼女は卒業式の数週間後、カラオケボックスで自殺を図った。しかしこの自殺は直前に行ったODによるものではなく、日常的に繰り返してきた自傷行為により、心臓の弁に穴が空いていたことが死因につながった。

 彼女の死後、インターネット上に発表された日記をまとめた本『卒業式まで死にません』が出版された。

 

南条あや - Wikipedia

 

 私は南条あやの日記をずっと持ち歩いていた。精神科への通院はしなかったけど、ただひたすらに南条あやに心酔した高校時代だったと思う。初めて存在を知ったのはちょうど3年前、中学と高校の境にある春休みだった。アーカイブサイトを見つけてからは、一日で日記の全てを読んだ。思えば、今や大好きなCoccoの存在を知ったのも南条あや経由だった。南条あやが生きていた90年代の世紀末感にはどこか憧れるし、私は彼女を入り口に夭折した少年少女の日記を日記を集めてる。

 

 南条あやの何がそんなに私を惹きつけたのか。それは南条あやの後ろに居続けていた鈴木純の存在なんだと思う。

 南条あや、という名前はネットアイドルとして売り出すためのペンネームに過ぎない。彼女の本名は鈴木純という。鈴木純は南条あやの明るい日記の底にいつでも存在していた。

 

 いや、そもそも南条あやの日記はポップに見えるだけで決して明るくない。文字色を変化させたり、自らにツッコミを入れたり、彼女の日記のテンポがあまりに良いから勘違いしてしまうだけだ。自分が自傷行為を止められないこと、精神科でのやりとり、父親との軋轢。その全てを笑い飛ばすように文章を書いていたけれど、そこには自分自身のことさえも笑い飛ばすしかない鈴木純の苦悩があったようにも思える。そして、そんな自分のことをまたどこかで嘲笑してたのではないか。

 

 だって、彼女が死ぬ直前に彼氏に送った詩にはこうある。

誰も私の名前を呼ばなくなることが

私の最後の望み 

  

 日常を細かく記していた南条あや。ネット上に発表された日記には、彼氏のことなんて書かれていない。ただ「Aちゃん」としてボカしているだけだ。しかも、Aちゃんは美女と描写している。それだけでも分かる。南条あやと鈴木純は決してイコールではない。インターネット上にファンクラブがあり、卒業式にはテレビ取材も受けていた南条あや。病んでいること、そして女子高生であることこそに価値があると思っていた鈴木純にとって、南条あやの名前はあまりに重かったのかもしれない。

 

 一読しただけでは明るい文体につい見逃してしまいそうになる、鈴木純の存在。しかし、たまにこぼしてしまっている弱音や溜息に気付いた時、私はもうこの日記の虜になっていた。傲慢なことだと思うけど私はその時から、彼女の無理な明るさも溜息も知りたいと思った。そしてその上で、南条あやと鈴木純に寄り添いたいと思ったのだ。

 

 でも、実際は私が南条あや・鈴木純に寄り添われていた。手首を切らなちゃやってられないくらいの感性をもった鈴木純が書いた南条あやの文章は、それだけのパワーがあったからだ。そのパワーにはいい意味だけではなく、悪い意味でも大きく影響を受けた。『卒業式まで死にません』なんて題名の文庫本を持ち歩いている高校生なんて、多分すごく痛かったと思う。しかも、授業中抜けだしてCoccoを聴きながら南条あやを読んでいた。

 

 自分に嘲笑を向けるなんて日常茶飯事だ。この世の全てが大嫌いだったこともあるけど、何より一番自分のことが憎かった。多分、自分のことをもう傷つけられないと思うくらいに傷つけた。

 だからこそ、鈴木純に本当の意味でシンパシーを感じていた。逆説的だけど勝手にシンパシーを抱いて、南条あやの姿から自分の弱さを笑う術を教えてもらった。南条あやが大好きだった。さらにいうなら、それだけで南条あやにも愛されているような気がしていた。それに南条あやが大好きで、その底に鈴木純を見ている自分が何より好きだった。

 

 でも、南条あやはもう居ない。そして鈴木純も。どんなに南条あやを神聖化しても、彼女が故人であることは間違いない。南条あやと鈴木純は決してイコールでないけれど、南条あやの命日は同時に鈴木純の命日だ。

 

 私は先日高校を卒業した。鈴木純が迎えることのなかった18歳の3月31日を迎えた。希望の大学に進学も決まり、この春は希望の春だ。彼女の命日だった昨日一日、死にたいなんて一瞬たりとも思わなかったし、私はこれからも生き続けるだろう。いつの日か30までには死にたいなんて会話を友達としてたけど、多分30を過ぎてものうのうと生きてると思う。そしてオバサンになって「ああ今自殺しても決して美しくない年になったなぁ」って思うだろう。思いやがれ。

 でも、同時に私は南条あやのことも、その底にいた鈴木純のことも、彼女に心酔した高校時代のことも、忘れたくない。

 鈴木純は、南条あやとして、ネットアイドルとして、生きてしまったばっかりに死を選ぶことになった。自傷行為を止めようと思う度、「私の病状が悪化したほうが読者の皆様が喜ぶ」なんていう計算があったのは間違いない。そのようなツッコミも多く見られたし。セーラー服を好み、女子校生であることに一番固執していたのは彼女自身だ。彼女が迎えることのなかった3月31日は彼女が女子高生で居られる最後の日だった。

 しかし、そのネットアイドル南条あやは今もきっと生き続けているのだと思う。「忘れたくない」なんて私一人が言うよりずっと大きな形で。

 


【初音ミク】 南条あやになれなくて 【鬱曲】

 


アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI

 南条あやのことをモデルにした曲は今も出続けている。彼女の全てを分かるなんて誰にもできないことだけど、みんな彼女の無理した笑いもそこにあるどうしようもない悲しさも全部分かっていたんだと思う。そして、そのうえで彼女を愛している。そんな人が今も大勢いるからこうした曲が出るんだ。

 

 南条あや、やっぱり今でもどっかで惹かれる。

卒業式答辞

 

 私、卒業式の答辞を読んだんです。

大の学校嫌いだった私が、卒業生代表として答辞を読むなんて何かのギャグかのように思えるけれど、実は自分自身が立候補したこと。苦しんだ3年間だったから、ちゃんと言葉にして良いフィニッシュを飾りたいと思った。

 

 折角だから、ここに全文を載せる。

 

 

 暖かな春の日差しに包まれ、私達は今日旅立ちの時を迎えます。制服という名の戦闘服を脱ぐ時、この3年間の日々はまさに戦いの名にふさわしいものだったのだと実感します。私達は、日々自分の存在に悩み、人間関係に悩み、思うように伸びない成績に悩みました。もがきながら歩んだ3年間は、決して楽な道のりではなかったはずです。息苦しくてたまらない日もありました。学校に上手く馴染めず、そんな学校を嫌い、何より上手く適応できない自分を憎んだ日がありました。しかし、苦しさのなかにも輝きがあったこともまた確かです。あまりに複雑な感情が交差していたその日々は、卒業の二文字を前に、より一層の重さをもって輝いているように感じるのです。

 

 3年前の春、履き慣れない革靴とたくさんの教科書をつめたリュックと共に私はこの高校へ入学しました。足元がおぼつかない私は、しっかりと前を見据え歩く先輩達の姿を見ながら、「私は一体どこへ行くのだろう」そう不安に思った日々を昨日のことのように覚えています。そんな、中学生気分の抜けない私達を待っていたのは体育館に机を運んで行う我が高校らしい勉強会でした。そこで先生方が語られた学校のこと、受験のこと、未来のこと。緊張の張り詰める体育館で、私達は一体どのような高校生活を描き、そこでみた未来とは一体どのようなものだったのでしょうか。

 

 私達の日常は、学校の机と家の机の往復でできていました。中学までの幼馴染に囲まれた居心地の良い空間はもうそこにはなく、1年生の頃ははじめて出会う人達、はじめての環境に戸惑ってばかりでした。自分の輪郭があまりにぼやけていたから、何故自分が机に向かっているか分からず、いつか憧れた進学校の制服が苦しかった。自分の感情が思い通りにならず、周りの人を傷つけて、傷つけられないと自分の存在が分からなかった。自らの未熟さを学校のせいにして、高校を辞めたい。そう思ったこともありました。しかし私は、この学校で学び続けることを選んだ。それは、どうしようもない閉塞感の中にも、きっとここでしか得られない何かがあると思ったからです。この学校で感じるもの全てを私の糧にしてやる。その思いは、私の高校生活を本当の意味で始めされてくれました。

 

 高校での日々は、忙しさに揉まれながらも刺激にあふれていました。1年生の頃に体験したインターンシップでは、働く意義を考えさせられました。将来を考えるときに避けては通れない「働く」ということ。自分は社会とどう関わっていきたいのか、真剣に考える機会を与えてもらいました。2年生になり、高校生活最大のイベントである海外研修がありました。台風の影響を受け、那覇空港での10時間もの待機などハプニングはありましたが、だからこそ、級友と訪れた海外での風景がより際立って鮮やかなものとなったと思います。自分達だけの力でまわったシンガポールの街、美味しいカレーをごちそうになったホームステイ。そして、夜通し語った友人の笑顔。4泊5日の海外研修は、それぞれの心に多くのものを残したことでしょう。ハプニングをものともしない私達20期のパワーは目をみはるものがあります。学園祭や遠足、社会科巡検、いくもの行事を共に過ごしていった私達は、不安で仕方なかった入学当初の日々を越え、気が付くと、大切な戦友となっていました。時にはぶつかりながら、時には受け止められながら。お互いに傷だらけになろうとも、大切な友人と過ごした日々は私の一生ものの宝物です。

 

 部活動では、学年、学校の枠をこえた多くの人に支えられました。日々の勉強との両立に心が折れそうになったことも、自分の実力不足を突きつけられた日もありました。しかし、「全国の舞台で私はやってやるんだ」という気概、「もっと、もっともっと上手くなりたい。全身で全てを感じ、全力を注いで表現してやるんだ」という思いは、常に私を突き動かしました。それも全て、前例がないコンクールへの挑戦も笑って応援してくれた顧問の先生、生意気な私を優しく見守ってくれた先輩方、そして頼りない私達についてきてくれた後輩の存在があったからこそのことです。等身大の自分を出せる場所、部活動での時間は教室とは違った安心感を私に与えてくれました。放送ブースで必死になってラジオドキュメントを作ったこと。文芸部室で、一生懸命にペンを走らせたこと。それらは、血肉となって今の私を形作っています。

 

 苦しかったはずの学校も、こうして日々を過ごしているうちに、少しずつ苦手ではなくなりました。それは、勉強一色に思えていた高校の多くの顔を知ったからです。相変わらずこの制服を着る自分に違和感を抱くこともありましたが、それでも1年生の時に感じていた「それ」とは種類が違っていました。勉強も、部活動も、人付き合いも、自分が真摯に向き合っていれば、結果はちゃんとついてくる。ちゃんと分かってくれる人がいる。そう知れたことは、私の高校生活で最も大きな学びでした。いつの日か、高校に期待した何かはちゃんとあったのだと思います。

 

 永遠に続くかのように思えた高校生活も、3年生になると同時に少しずつ終わりが見えてくるようになりました。笑顔で胸を張って、この学校を卒業したい。そう強く思うようになったのも、ちょうどその時です。しかし、卒業を目指してずっと過ごしてきたはずなのに、卒業の二文字が迫ってくるにつれて、なにか大切なものを落としてきたような感覚に襲われる自分もいました。静かな図書館も、海が見えるベランダも、全てこの手に納めていられたらどんなにいいか。しかし、そう思っている時にも時は一秒一秒と過ぎていき、私達は卒業という人生の岐路に立たされています。    

 

私達はこれから一人ひとり自分の道を歩んでいきます。しかし、その根っこが高校時代にあるのは紛れも無い事実。私達は、自分の道をみつめ、自分で歩むだけの強さをこの学校で育みました。

 

 いつも真摯に私達生徒と向き合ってくれた先生方。「全力で好きなことをやってごらん、全力で応援するから」と言ってくださったあの日、多くの疑問に次々とぶつかる私に対して嫌な顔ひとつせず、優しく根気強く教えてくださったあの時、決して忘れません。「あなたらしく頑張ればいい」そんな先生方の応援が、どれだけ心強いものだったか。土日も私達の為に学校へ来てくださった先生の情熱が、いつも声をかけてくださった先生の優しさが、私達を支えてきました。本当にありがとうございました。

 そして、朝早くからの送迎や毎日の弁当作りなどいつも一番の応援団でいてくれた両親。今、私はちゃんと大きくなれましたか。お母さんの笑顔も、お父さんの背中も、ずっと私のことを思ってくれていると知っていたからこそ、私はここまで来ることができました。例え春からの新生活で親元を離れても、帰省した時は何度だっていつもの笑顔で「おかえり」と言ってください。そこが私の拠り所です。これからも見守ってください。 

 

 そして在校生の皆さん。皆さんとは同じ〇〇校生として多くの時を過ごしてきました。聡明な皆さんは、これからも我が高校の伝統を引き継いでいくことでしょう。だからこそ、後輩の皆さんは立ち止まることを恐れないでください。自分の感情を信じて、もっと外に飛び出していってください。誰の手にもある高校三年間の時は有限です。高校にいると忙殺されることもあるでしょう。しかしそんな時は、自分は一体何がしたいのか、と問いかけてみてください。その問いが皆さんの高校生活をより豊かなものにすることでしょう。わずか3年しかない高校生活。自分が本当にやりたくないことをやっている時間はありません。ゴールは同じでも道は無数にあります。思い切り悩んで、思い切り笑って、高校生活を謳歌してください。そして、そんな皆さんのことを受け入れてくれる高校であって欲しいと思います。

 

 今日、私達は卒業します。この卒業は、一人ひとりの胸の内でそれぞれの意味をもっていることでしょう。しかし、これだけは断言できます。この卒業は決して一人だけのものでない、と。親、先生方、別の道を選択し高校を去った友人、私達の高校生活は、たくさんの人の一瞬一瞬が積み重なっています。あの時の笑顔も、苦しみも、切なさも、全てが今日の卒業につながっているのです。思い返してみると、あの不安定な足取りで歩んでいた私達は、多くのことを吸収していきながら、多くの友と支えあいながら、前を向いて歩んできたのだと思います。これから先、私達の未来はどうなっていることでしょう。挫けそうになることがあっても、高校での毎日を乗り越えた自分に自信をもって、一歩ずつ確かな足取りで歩んでいける、そんな強さが私達にはあると信じています。今、この学校を胸を張って笑顔で卒業できる。そのことが誇らしくてたまりません。

 

 最後になりますが、ご来賓の皆様、地域の皆様、保護者の皆様、そして高校で出会ったすべての方々に感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。わが母校、〇〇高校の限りない発展と後輩の皆さんの活躍を願って、20期生の答辞と致します。

 

 平成28年 3月1日

 

卒業しました

 

 3月1日、私は高校を卒業した。

 

 卒業式から昨日まで寂しさを埋めるように遊ぶことで一生懸命だったけれど、少しだけ時間ができた今、少しこの卒業について書いてみる。

 

 この3年間は長かった。学校は大嫌いだったし、自分のこともとことん嫌ったと思う。いつだってCoccoを聴いていた。登下校の車、パソコンしながら、そしてたまには授業中に抜けだしてトイレの中で。Coccoを聴きながら、文章をたくさん書いた。コンクールに出品して東京の表彰式と副賞が目当てだったりもするけど、それだけでない。

 ただ単に文章を書くことが楽しくてたまらなかった。それは先生が私の文章を楽しみにしてくれたからかもしれない。「あなたの感性が好きだよ」って言われたのは初めてのことで、自称進学校に入学して自信を失っていた私はこの言葉が何よりも嬉しかった。手帳を肌身離さず持ち歩いて、いつも何かしら書いていた。口では言えないような恥ずかしいことも(例えばこの記事)文字で書く時は半ば酔ったかのような勢いと気持ちよさで書いていける。次々と襲い来る課題に飲まれそうになりながらも、ノートの端に書いた文章はペーパーテストじゃ測れない私をアピールしようと必死だった。

 それに文章を書くことは、私を外へ連れてってくれた。修学旅行と幼い時の家族旅行以外で地元を出たことのなかった私を、ラオスアメリカ、東京、福岡、神戸を初めとする多くの土地に連れて行ってくれたのは間違いなく書くということだった。きっかけは県の事業だったり、部活の大会、はたまたコンクールの表彰式というように様々だけど、どこへ行っても大きな衝撃を私に与えたことは間違いない。学校があまりに息苦しくて、そこにいると私は窒息してしまいそうだったから、外へ出ることが何よりの楽しみだった。学校を出ると、沖縄を出ると、こんな人がいるんだ。その驚きはいつしか喜びへと変わった。色んな人がいるから、私がどれだけ学校に馴染めなくても大丈夫。そんなメッセージを受け取ってからは学校も少しだけ楽になった。外に出て、庚申塔を探し歩いたり、土地公を見に行ったり、子規庵にも訪れたし、河童忌には芥川龍之介の墓参りもした。自分の好きを確定させ、好きを好きと言えるだけの強さを持てるようになったのは、それだけ多くのものに触れ、多くの人と知り合えたということなんだと思う。

 そうした経験は私をもっともっと知りたいことがある、見たいことがある。全身で全てを感じたいという欲求へと駆り立てた。

 勉強面という意味でもこの3年間は大きかった。もともと学校の勉強はそんなに好きじゃなかった私だけど、数学で落ちこぼれたことには少なからずショックを受けた。中学まではクラス平均点なんて興味がなくて、気になるのは最高点だけ。だって、私が最高点なことも多いから。そんな嫌味なやつだった。そんな私が高校生になって赤点を取るようになるなんて。赤点を取るのはマンガの世界の話だと思っていた。課題はまだコツコツやっていたから、内申はそんなに酷くなかったけど、辛かったなぁ。自分はまだ理解できてないのに、どんどん授業が進むあの感覚。考えても考えても分からなくて、終いには数学教師に「苦手な人は解法を覚えた方が早い」と言われてしまったこと。そのあと悔しくてトイレで泣いた。何故?という疑問は、私を一番興奮させたけれど、同時に苦しさも伴っていたのだと思う。分からないと自分がとてつもないバカになったような気がして、みんなに取り残されている不安に駆られたし、その一方で何も考えずに解法を覚えるなんてできないくらいに要領が悪かった。

 数学ができなかった反面、夢中になった教科もあった。国語と日本史、そして倫理だ。古典文法をやる意味が分からないって嘆きながらも、更級日記を原文で全文読んだこと、電子辞書とにらめっこしながら日本史と格闘したこと、そして倫理はマンツーマン授業でいろんなことを話した。キルケゴールベルクソンフーコーと格闘して、モノの考え方に論理性が加わった気がする。言葉一つ一つにぶつかる感覚はどれも楽しかった。これは中学までにはなかった種類の楽しみだ。何故?という思いは私を掻き立てるし、今まで普通に納得していた日常に疑問が隠れていることが面白くてたまらない。国語の課題ノートに日記文学への熱い思いを綴ったことも、「有島武郎は何故死んだのか」という評論まがいものを貼り付けたこともあったなぁ。あの頃は課題をほったらかしてこんなことを書いている自分が馬鹿みたいだと思っていたけれど、こうやって卒業した今からすると、そういう学びが効いたのではないかな。

 

 何故何娘だった私は学校の勉強だけでは飽きたらず、地元沖縄の文化に対する興味が止まらなかった。部活動でつくったラジオドキュメントも、担任を巻き込んだ観光甲子園も、情熱をもって取り組んでいた土地神の研究もすべてその延長にある。自分が生まれた地域について知ることは、時の流れを感じることと同等だった。教科書には載らないような人たちがどのように生きて、この世界を捉えていたのか。民間信仰にはその答えがあるような気がして、必死になって本を読んだ。寝落ちもたくさんしたけれど、研究に真剣に取り組んだあの夏は私の高校生活の中でもとりわけ輝いている。

 

 しかも、そうした諸々が全て積み重なって大学へ私は行く。結局ペーパーテストが一切ない試験方法で進学が決まった。自称進学校と揶揄される学校で必死にしがみついたあの期間は何だったんだと思わなくないけど、逆にもがきつづけた3年間だったからそれだけのことを吸収できたのかもしれない。あと1ヶ月もしないうちに私は沖縄を出て、東京のそのまた向こうにある大学へ行く。寮に住むことは決まっているけれど、あの馬鹿でかい場所でどんな大学生になっているかはまったく想像がつかない。卒業式のあと、私が進学する大学出身の先生に「あなたはその時々で苦しむことはあるでしょうけど」って言われてしまった。ああ悲しや。もう苦しみたくはないのに。でも、そういうことさえも明るく笑い飛ばせるのは、あの高校で3年間しがみついた強さなのだろう。

 

 卒業できて本当に良かった!

読書記録をどう保存するか

 学校図書館が三年生に対する貸出を終了した。本が借りれなければ、学校へ通う意味の半分は失われたようである。高校三年間お世話になった図書館を去らなければならないということに、そしていつか読もうと思い続けてきた本を読むいつかはもう来ないということに(高校図書館以外で読むのとはまた違うのである)、少しの寂しさを感じながらも、三年分の読書記録を出してもらった。そこで起こる問題が「読書記録をどう保存するか」ということだ。

 

 この話題、実は三年前にも書いていたりする。進歩がないものだ。

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 巷には読書通帳たるものがあるらしい。

www.asahi.com

 

 図書館システムと連携したATM風の専用機に読書通帳を入れると、借りた日や書名、作者名などが印字される仕組みだ。図書の定価も記帳できるため、「金額にしていくら分の本を読んだ」という記録も残せる。*1

  読書記録が手軽に管理できて便利なうえ、すごく楽しそう。羨ましいものである。

 

 また、三年前の記事を書いた時「ブクログ読書メーターが便利」とwebサービスの名前を挙げられたが、どうも使い出したのは最近である。

booklog.jp

 なかなかこのサービスを使うまでに腰が重かったのには、理由がある。読書冊数がグラフで表示され、より多く読むことが推奨されている気がしたのだ。そんなことを言われたって、読んでいる本の文量も内容もまちまちだし、多く読むことを急かされても困る。学校の多読賞てきな違和感があった。見ようによっては自分の読書記録が可視化できるのは素晴らしいことであるし、ただの機能にすぎないから気にしなければいいだけなんだけれども。

 それから、面白くない本は途中でも読むのを諦めてしまうこと、さらにエッセイ、新書、詩集に限ってはつまみ食いのように自分が好きなところから読み進める読書方法がさらに管理の難しさを際立たせた。私は半分以上読んでおきながら挫折する本も多くあるのだ。この微妙に読んだような、読んでないような本を含めた読書記録って大分面倒くさい。そもそも、そういう本ってどう管理すればいいの。

 

 そうして色んなところに目をつぶり、ブクログも始めつつ私は読書ノートもはじめた。もう一切を手書きで、何もかもを管理してやろうと思ったのだった。

 

 

 

 このきったないノートが私の読書ノートである。早々に進路を決め、学校の自習時間全てにおいて暇をしていた私は、一冊につき1,2ページの読書感想文も書くように決めた。

 10月の後半に合格を決め、続いたのは1月の初旬まで。計60冊が記録されているけれど、その多くは11月末に高校の授業が全て終わり、多くの授業が自習になってからの1ヶ月間に書かれている。

 

 

 ノートの書き方は特に決めてなく、一番ノーマルな書き方として、上に読了日・題名・作者名を記し、下に引用・感想を書いているパターンがある。

 

 この本は『僕たちのマルクス』私にはマルクスブームが年に一度来るんだよ。

 もちろん誰に見せるわけでもない自分のノート、しかも手書きなのだから、自由度はMAXで上に書いたようなパターンに沿わないこともしばしば。例えばこれ。穂村弘の『短歌ください』の中で気に入った短歌をただひたすら書いている。

 これとか最高。

体育祭君は言ったね泣きながらなんにもしたくなくなっちゃった 

 

 それから、こんなページも。

 『沖縄の事始め・世相史事典』なんていう沖縄の世相史をまとめた事典がものすごく楽しくて、私はまさかの事典を一ページ目から読むという変態みたいなことをしたのだった。しかもそれだけでは飽きたらず、うけるポイントをノートにメモ。

だって、明治29年に握手が始まったって面白くない?明治44年にはイルミネーションだって始まっているし、なかなかハイカラな香りがして素敵だわ。

 

 

 そうやって、日々読書記録をまとめてきたけれど問題があった。これ、継続するには向いていないんだな。そう、続かなかったのだ。

 

 自習時間が程よくある時はまだ良かった。でも、本を読むペースに対してノートを書くペースが追いつかなくなった頃から、さらに言うとセンター試験後自習時間が減り、読書はしてもノートを書くまでの体力が持たなくなってきた頃から、ノートを段々サボりだした。

 自由度の高さは時に怠けを生む。せめてフォーマットが決まっていれば続けやすかったかもしれない、そう思った頃には時遅し。読了後も感想を書かず、本は溜まっていくばかりだった。進研ゼミもそうだけど、人は溜まったものに対してやる気を出せない。

 そうして私は読書ノートをとることをやめた。

 

 その反面、本棚に登録するだけのブクログは比較的続いている。マンガや映画も登録できるし、何より手軽だ。しかし、やはりどうにもしっくりこない。本当だったら、本はデジタルではなくアナログで管理したいのだ。ただのわがままに過ぎないんだけれども、本の感想ってぐだぐだ書きたい。読後の興奮をそのままに陶酔したような文章を書きたいんだ。だから、ただ読了本の管理だけだったら良いけれどもそれ以上はwebサービスでは物足りなく感じる。

 

 そういうことで、現状はほぼ日手帳に本の感想を書き込むだけにとどまっている。読書ノートをまた作っても継続できる自信はない。でも、本を読みっぱなしにしておくのもまたもったいない気がするんだよね。理想は上に書いたような読書通帳かな。それのシール版なら尚良し。

 

 それから、ブクログをはじめる前までに読んだ本も知りたいと思った私。高校1年生、二年生の頃は読書ノートもつけてなかったから、自分がどんな本を読んだかの記憶なんてない。そういうことで、また司書さんにお願いして読書記録を出してもらった。

 しかもそれを前述の読書ノートに貼った。三年前から一切変わっていない己の行動に笑えてくるけれど、それが今できる最善の策のようにも思える。今更全てブクログに登録なんて面倒くさいし、読書ペースだって狂って登録されてしまいそう。

 

 しばらくは試行錯誤の日々が続きそうだ。