雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

推薦休み反省

 

 

 いつも雑記帳扱いしているけれど、いつも以上に自分用の記録。

 

 7連休だった推薦休みが今日で終わる。もっと正確に言うと、私は11月19日に宗教学実習が終わってから疲れ果ててしまって、翌日の20日・21日は一コマのみ、22日の勤労感謝の日を挟んで、23日も2コマしか行けていない。普段は義務教育並み(ほんの少し盛った)の時間割をしているから、随分休んだ気がする。

 

 それにしても学校の授業は好きだし、高校と違って自分の存在を否定されるような感覚もないんだけれど、やっぱり無理な日はまだある。自分の感情がコントロールできない感覚。そうした体質って割り切れている部分もあるけど、難しい部分もある。

 

 これだけ休んでやったことを列挙する。

・コートクリーニング

 今まで毛玉がついたまま着ていたけれど、これから冬本番だから気合を入れた。

 

常備菜づくり

 本当はそこまで立派なものじゃない。キャベツ、長ネギ、ゴボウ、ニンジン、白菜、大根等々買ってきて、下ごしらえをしたうえで小さく切って冷凍。しかし、動ける時にこれをしていたおかげで後々とても助かった。鍋に水とだしパック、上の冷凍野菜を入れるだけで、まともな野菜スープの完成。まともな自炊をする気力もなかったし、私の場合メンタルがダメな時はたいてい胃も一緒にダメになっているので、このスープのみで生きていたようなもの。因みに私の主食はうどんなので、この野菜スープにうどんをいれて食べたりもした。

 

・髪を切る

 春に切って以来伸ばしっぱなしだった。しかも当初はボブで伸ばす気のない髪型だったこともあり、痛んでいるのが気になったため。でも本当はむしゃくしゃした気分をどうにかしたいっていう気持ちもあった。

 初めて行った美容室だったけれど、良い美容師さんに当たったらしく、成人式前なのに髪を切りに来た私を全力で止めてくれた。最終的に痛んでいるところだけ切ったほか、成人式後も伸ばせるような髪型にしてもらった。

 

・介護等体験のお礼状

 重い腰をあげてようやく書けたお礼状。どんなに遅れても1か月以内だよなぁと思っていたので、ギリギリです。もっと早めに書くべきだった。

 私は手紙を書くのが大好きで、友達宛てとか、先生に宛てる時は封筒に入り切れないくらい書くのに、このお礼状はどうも苦手。形式ばりすぎているというか、なんというか。しかも今回は実習最終日に感想を提出してあって、私はそれに色々込めたつもりだったから、なかなか筆が進まない。うーん、どれも言い訳だ。

 

・パスポート更新

 ラオス研修を前に高校一年生の頃取得したパスポートの期限が切れそうなので、20歳を待って10年のパスポートに更新。私は住民票をまだ沖縄から移していないので(というか移す気ない。今のところは沖縄県民で居たい。仮住まいの茨城の選挙区に投票するより、沖縄の政治に参加したいので)実家から住民票を送ってもらって手続き。市役所に行ったら、係の人が出てきてつきっきりで申請できた。住民票の関係で面倒臭いことになることを覚悟していたから拍子抜け。受け取りは12月になってからだけれど、土日でもよいとのこと。便利でらくちん。沖縄で取得した時は学校を早退して那覇まで行くしかなかったので、その感動は一入。

 この時も調子は良くないので偏頭痛に耐えながら行ったんだけれど、後にこの行動も良かったと知る。

 

・冬ごもり準備

 正確に言うと、GUでムートンブーツとニット帽、セーターを購入した。私は去年から冬はGUのムートンブーツを気に入って履いている。何が良いかって、一番は価格。去年はアプリ会員限定セールの時に買ったから、なんと800円。でも侮ることなかれ。このGUのムートンブーツ、1シーズン毎日履いていてもしっかり耐えてくれるのだ。しかもちゃんと暖かい。形も色も結構可愛い。

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・中国語勉強

 ここで中国語の進捗を生むはずだったけれど、少ししかできなかった。途中までは頑張っていたけれど、やらなくちゃという意識でメンタルをこじらせていることに気づいた時から中断。しんどい時に無理して机に座っても、頭に全く入ってこないから、これはやむを得ないかな。

 

・宗教学実習 フィールドノートまとめ

 本当は宗教学実習レポートまで書き上げるつもりだったけれど、フィールドノートまとめで精一杯だった。フィールドノートはその場や当日書けたら良かったんだけれど、かなりのハードスケジュールで、できたのはメモ書きくらい。だから、自分の興味関心を整理する意味も含めて、後日撮りためた写真を整理しながら聞き取った話をまとめる必要があった。

 

・個別教室でのバイト

 休みたかった気持ちもあるけれど、受け持ちの生徒の受験が迫っていることもあり、行った。バイトがあることで、ご飯を食べたり、アイロンかけたり、社会的生活を営めたところはあると思う。バイトに行くまではしんどいしんどい言ってたけれど、行けば何とかなるものだった。スイッチが切り替わるように、いつもの自分に戻れた。でも、やっぱりそれは無理しているってことでもあって、許される時くらいは思い切り鬱々したいなって、帰路に帰る自転車を漕ぎながら思った。

 

 

 

 このことの他には、高校の友人に愚痴吐きの電話をしたり、大学の友達とご飯に行ったりしたけれど、あとはずっと寝ていた。本当に記憶がない。推薦休みが始まる前の計画では、カラオケとか漫画喫茶にも行く予定だったし、富士山を見に山梨一人旅を計画していた。積本だって溜まりまくっているし、観たい映画もあった。でも、一旦疲れ切ってしまってからはそんなことも叶わなかった。ストレス解消は、楽しいストレス解消ができるうちにやった方が良いなっていうことを学びました。(これも何回目かの学び、知っているのと実践できるのでは違う)

 

 動けたのは最低限。でも羅列してみると、その最低限はいつもやりたくても後回しにしていたものだったりするから、それらを片付ける為の良い機会だったってことにしたい。

 認めたくないけれど、私は要領が良いタイプどころかその逆。キャパも大して大きくない。それなのに、11月は実習二つに学園祭、弾丸帰省なんて詰め込んだから疲れてしまった。本来なら日々ちょっとひと息、みたいな時間を取るのが理想なのにそれができないから、どっかーんとくるんだろう。うーん、反省。

 

 推薦休み最終日の今日、良い出来事が一つあった。

 大学の研修で春休みにロシアとアルメニアに行けることとなったのだ。研修はロシア語履修していることが条件だったうえ、私は英語もボロボロ。だからダメ元で応募していたのだけれど、どこで誰が拾ってくれるか分からないものだ。大学から航空券と給付奨学金を貰って海外に行ける機会はまたとないチャンスだと思う。しかも、自分じゃなかなか行けないロシアとアルメニア。特にアルメニアはその宗教にとても興味がある。だから、今からとっても楽しみ。

 でも、研修に合格したということは春休みも忙しくなるということでもある。今度はちゃんと自分の気持ちを置いてけぼりにしないようにしたい。頑張ること以上に、私にとってはそれが大切。

 

写真は推薦休みで唯一楽しかった夜。友人が鬱屈とした部屋から連れ出してくれた。このお店、ナポリタン専門をうたっているだけあって、ナポリタンの為に生まれてきた麺がとっても美味しい。

沖縄戦を伝え続けていくべき理由、を自分にも問いかける

 写真は実家近くの海。小学生、中学生の頃、よく通って本を読んでいた。海は私の原風景で、やっぱりそこでも自分の中で沖縄というキーワードを感じる。

 

 このずっと放置していたこのブログは、私の中の書くことが好きっていう気持ちを大切にするための場所にしようと数日前に決めた。だから、できるだけどうでもいい話題を書こうって思っていた。ダラダラと思いのままに書く為に。でも、次のブログを読んでしまった。

 

 

yuka-s.hateblo.jp

 

 一つ下の大学生のブログ。沖縄から関東の大学に進学していること、それから彼女も高校一年生の時に県のプログラムでラオスに行っていること(私は1期で彼女は2期にあたるだろう、多分)というところに共通点を感じて、ぐっと惹かれた。

 

 分かる、ラオス研修ってやっぱり衝撃的だった。一方で沖縄との共通点もたくさん見つかった。私たちの代もやっぱり不発弾被害者の為のリハビリセンターに行って、お互いのモヤモヤをたくさん話していた。

 

 (下は当時の日記)

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 ラオスからの帰国後、私の場合は自分の足元を知りたいと思った。そして沖縄の文化に惚れ込んだ。沖縄の土地神、土帝君(とぅーてぃーくん)もその一つ。土帝君について調べているときも、やっぱり戦争による断絶を目の当たりにもした。私は現代沖縄の土帝君について関心があったから、沖縄の各市町村にFAXで質問状を出した。その結果は様々だったけれども、中でも基地のある町からの回答が忘れられない。

 「土帝君は現在も基地の中にあって、調査不可能。住民は住む場所だけではなく、心の拠り所も失ったんです」

 基地のある町だけじゃない。土帝君が沖縄戦で破壊されて、その後復興されていない地域はたくさんある。住民がその土地神をもう必要としていなかったと考えたらそれまでだけれども、そこにも文化の断絶が確かにある。

 

 私は沖縄の人がどのような生活をしているかに興味があって、現在、関東の大学で民俗学を学んでいる。それに加えて、国語の教員免許や地歴の教員免許、学芸員資格の取得も目指している。

 将来はまだ分からないけれど、なんとなく教育に関心がある。でも、学校教育ではないはず。もっと広い意味での教育。いや、教育は与えられるものっていう意味をはらんでいて、それは政治的なものから抜け出せないと思っているから、教育という言葉は相応しくないかもしれない。自分の興味に近いことをいうと、学習支援という言葉が良いかも。思えば、この広い意味での教育に対する興味も、なんとなく取った生涯学習論で芽生えたものだった。そこらへんは全然まとまっていないけれど、沖縄で教育に携わるなら、やっぱりタイトルの質問に対する答えを自分なりにも持っていたい。

 

 ずっと沖縄について知ることが大切だと思ってきたし、知りたい欲求のままここまで来た。知ることと同時に伝えることも大事だって思ってた。高校時代公募マニアをしていた時も散々そういうことを小論文に書いていた。でも、知ってどうする?伝えるってどのように?何のために?

 だって、伝えるということにはどうしても主観が入る。伝えるにあたって、自分の立場が求められる点はたくさんあるはずだ。この立場っていうのは、例えば、米軍基地反対か賛成かっていうような二元論じゃない。自分がどういうバックグラウンドをもって、どういう経験や本を読んで、どういう考えを形成してきたのか。そして、どういう点で迷い、結論が出ていないのか。この空白の部分までしっかりと把握していることだと思う。

 

 ここで、自分はもっと学ぶべきとか、自覚しながら日々を過ごすって書いて締めると、あまりに公募マニアしてた頃と成長がない。もちろん、知ることに終わりはないんだけれども、知った先を見据えてみたい。

 

 先週、大学の民俗学の授業で米軍基地の問題と民俗学を絡めた話を聞いた。戦争で破壊された門中墓を戦後復興においてどのように再建したか、というトピックと、突如返還された西原飛行場の利用についてのトピック。後者の方では返還された地域の聖地がどうなっているか、ということにも言及された。これは土帝君でも感じた問題だったからすごく興味深かった。

 沖縄の問題は経済とか政治的価値について語られがちで、そこの人の感情とかリアリティみたいなものがいつもそぎ落とされているように感じる。でも、上の講義では民衆の感情史みたいなものを論理的に数値も用いながら語っていて、私の中でこれだ!という感覚があった。今大学で学んでいることがどこにどうつながるか分からなくなって不安に駆られることもあるけれど、私は今まで見えなかったものを適切に論理的に言語化できるような人になりたいなと思う。その為にはスキルが要るから、今それを学んでいるのだと思う。

 

 (まぁ、実際の私は自分じゃどうにもならないような感情の起伏に振り回されたかと思えば、体調を崩したりと踏んだり蹴ったりだし、今も課題を溜めちゃっているんですけれどね。)

 

 

 沖縄戦を伝えていくべき理由、それは悲惨さを繰り返さない為だとか色々あるけれど、私的に今思うのは次のようなこと。(それも理由の一つに過ぎないんだけれども)自分が自分を語り続けるため。

 

 沖縄の人にとって、やっぱり沖縄戦というのは自分の中に染み付いたものだと思う。(これは私が戦跡が多い南部出身だったり、祖父母が戦争体験者だというのも大きい、かも)自分の地域で不発弾が見つかった思い出、高校の通学路には異様な雰囲気のガマがあったということ、そういうものがあったということそのものも、それを自分はどう思い見ていたのかという感情の面も、紛れもない事実である。しかも、それって自分がどう感じていたか、という一世代の問題じゃない。自分の祖父や母がどう見てたか、ということも自己形成に大きく関わってくる。そういうことをしっかり言葉にして、認識するということは、自分を捉え直すことにもなると思う。そして、次の世代にもちゃんと伝えることは、次の世代の自己形成にもつながる。(うーん、うまく言葉にできているか不安だ。)

 

 うちの祖母は戦争体験についてあまり語りがたらない。でも、それじゃあ戦争の記憶は継承できないんじゃないと怒ることは絶対にしてはならないと思う。それも記憶や経験そのものも祖母のものだから。それ以上に、祖母が何故語らないのか、語らないということの情報がもつ意味の方が大きい。

 祖母が言うことをかき集めたうえでの推測なんだけれど、祖母は裕福な育ちで戦争の時は台湾に疎開をしていた。台湾での暮らしは貧しかったらしいんだけれど、そこは語らないからよく知らない。でも、「私の戦争体験は一般的じゃない」という点において引け目みたいなのを感じるときがある。その時私は語らないことこそが祖母の抱えたものを雄弁に語っているように思う。

 

 私ができること、伝え続けるべきことは、祖母が語らなかったという記憶を伝えることだと思う。祖母が語らない姿は私の目にどのように写ったのか、という内省も含みつつ。

 

 うえの方に私は広い意味での教育に関心があると書いたけれど、私は郷土教育や社会教育に関心があって、子供だけじゃない広い立場の人が自分の足元を知り(沖縄の文化や記憶とか)自分を語ることを手助けしたいのかもしれない。そして、その語り自体も記録して、一次資料として伝えたい。

 

 ここまでつらつらと書いてきて、私が自語りが好きであることはバレバレだけれども、私は人のライフヒストリーを読むのも大好きだ。

 沖縄について(いや、沖縄という土地にしばられずにも)政治や経済で語られてリアリティを失う、当事者を軽視した議論になることが多いのは、やっぱり自分語りが上手くいっていない、伝わらない自分語りになっているからじゃないか、とさえ思う。自分語りは主観的なもので、政治や経済は数値で表せるという問題も大きい。

 

 もちろん、当事者意識をみんなに持ってもらうというのはかなり難しい。沖縄に居るとき、私は東日本大震災原発についてあまりよく知らなかった。それが北関東に越してきて、周りの同級生が「震災の時は~」なんて気軽に話しているのに驚いた。震災というワードが当事者性をもって語られていたから。茨城には東海原発があるし、うちの大学は全国各地から学生が集まっていることもあって、原発の問題も他人事ではない。そこに来てようやく私は当事者意識を少しだけもつようになった。でも、今住んでいる学園都市は仮住まいのつもりでもあるから、当事者意識は当事者とは比べ物にならないと思う。(このことについては長くなるからまた今度、書きたくなったら書く)

 

 あんまりまとまらくなってきたから、そろそろ終わりたい。

 

 私は伝えないことで、そこにあったものがなかったことにされることが怖いのだ。戦争体験者の高齢化、沖縄戦の当事者が減ることは時の流れとして当たり前のことである。でも、同じ「ない」でも、そういうことがあったと知っているうえで失われて「ない」のと、もともとそういうことが「なかった」とされるのでは全く意味が違う。これは文化に対してもそうだ。失われていくものを止めることはできないかもしれないけれど、そういうものがあったことを記録することはとても大切だと思う。

 

 そうやって考えてみるとやっぱり今の自分が、沖縄南部の田舎で育って関東に来た自分が、何をどう考えているかをこうやってちゃんと言葉にすることも大事だし、私のやりたいことって多分そこからなんじゃないかなと思った。

 

 うーん、大きなテーマを語りすぎた。大層でもないことをつらつらと書いたから、これを電子の海に投げるのは勇気がいる。(深夜だから許して)

 

 ちなみに、平和について中学生の頃に書いたものがブログに落ちてたので、貼る。拙いし、公募マニアの片鱗も見せていて恥ずかしいけれど、自分の根っこみたいなものも感じた(今から5年前(!))

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 因みに直接コメントで書く勇気がないので、ここで書いちゃうけれど、このブログを書くきっかけをくれたゆかさん(最初に引用したブログの彼女)とは、共通点を感じることがあって、ラオス話もしたくなったし、折角同じ関東にいるんだから、会って話す機会があったらな、と思いました。

はじめたこと、諦めたこと

 今日も何だか調子が悪く、美容室に行っただけで気分が悪くなってしまった。

 周りからは「病院に行ったら?」とも言われたりするんだけれど、病気とか病気じゃない以前にこういう体質だと思う。今までだってそうだったように、自分の弱いところをしっかり知って上手く付き合いたい。そしてそれが出来ているうちは、病院は良いかなぁと思う。今は人生つらいモードなので省エネで行こう。

 

 そうは言っても、今日もサークル行けなかったなぁなんて落ち込んでいると見つけた下のツイート。

 

 

 ああ、まさしく自分だって思った。

 興味の範囲が広いから、あれこれ手を出して限界を知る。時間が有限で、体も心も一つであることが惜しくてたまらない。でも、そんなんだからキャパオーバー起こして調子を崩す。大学生になってからようやく私も手放すことの大事さを知った気がする。

 ということで、大学生活において自分が始めたことと同時に諦めたことをまとめてみようと思う。言語化することでサークルに行けなかった今日の自分を慰められるかもしれないし。

 

 はじめたこと

・単位ゲッター

 私の所属している学科では、履修における規則が緩い。その為興味の赴くままにたくさん履修できてしまう。専攻の民俗学文化人類学、周辺領域の地理学や宗教学。趣味としての日本語学、日本文学。必修の英語と中国語と体育。そのほかにも資格の為の博物館学や道徳教育など、本来課せられる履修上限を取っ払ってもらったうえで今年は70単位履修している。

 単位ゲッターなので単位数だけ考えると、今年で卒業できちゃったりする。大学生活で頑張ったことなんて聞かれたら、多分真っ先に挙げられることは授業だろうなぁと思う。就活なんかでは課外活動の実績をよく聞かれるらしいし、私は専門を突き詰める以上に幅広くとっているので、あまり自慢できることじゃない気もするけれど。来年以降はさすがに自重して、専門の勉強に勤しみたい。そうは言っても、大学の楽しみ方の一つとして単位ゲッターは絶対にアリな選択だ。実際、色んな分野の授業を受ければ受ける程、自分の視点が広くなっていくのを感じてすごく楽しい。

 

・資格

 上の勉強と関連して、私はあり得ないほどの資格取得を目指している。国語教職(中高)、地歴教職(高校)、学芸員資格、社会教育主事資格、司書教諭資格。教育学部じゃないのに、これだけ資格を取ってどうするんだっていうくらい。資格状況だけみると「ブレている」という指摘も受けるけれど、どれも私の中でつながっているから何一つ諦めたくない。

 

・茶道

 サークルとして茶道をはじめた。理由はたくさんある。まず、日本文化にどっぷりつかってみたかった。私は沖縄出身で、大学進学を機にはじめて本土に来た。満開の桜や、ありえないほどの寒さ、黒いつゆのうどんなど、入学当初の私は見たことなかったものをたくさん目にして、半分留学生のような心持だった。だから、どうせ卒業したら沖縄に帰るかもしれないし、この4年間どっぷり日本文化に浸かってみたいと思ったのだ。

 それから、私の専攻は民俗学、特に精神文化に興味がある。信仰とか、死生観とか。茶道は禅の思想から来ているので、お稽古の時には禅語の掛け軸をかけたりするし、先生が解説してくれる。これが嬉しかった。大学での学びは文献資料中心だけど、教科書じゃできない学びもあると思っているから、サークルと授業とで上手くバランスとりたいと考えたのだ。

 似たような考えで、守破離の思想みたいなのにも惚れ惚れした。茶道では一応教本があるけど、先生の前でそれを出すと嫌な顔される。メモを取るのもやめた方が良いといわれる。あくまでも見て、実践して覚える。その考えって何とも日本的(東洋的?)だなぁと感じた。ひたすら漢詩を暗唱する寺子屋的な?大学という機関そのものは西洋から輸入されてきたシステムだし、ここでいっちょバランスとるかーなんて呑気なことも考えた。(しかし、後に見て学ぶ、体で覚える方法が自分に向いていないと気づく)

 あとは、定番だけどおしとやかになりたいとか、和菓子につられたりもした。

 

 実際茶道に入ってどうだったかっていうのは、また別の機会に書きたいけれど、私は茶道が向いていないと思う。同期の中で一番下手でよく注意を受けるし、実際今日みたいに行けないことも多い。今までやっていた部活は全部創作系(美術とか文芸とか放送とか)で、正直そっちの方が向いていたような気もする。でも、茶道が楽しいなって感じることも多い。人間関係も恵まれているので、何とか続けて居られる。茶道は奥が深すぎて、4年間続けても全く理解できないと思う。「茶道、ほんのちょっと齧りました」くらいにしか言えない。でも、それだけ文化の奥深さに触れられたっていうことだから、良いかなと思っている。

 

・旅行

 沖縄に居るときはあまり旅行できなかった。本土に来て見るもの全てが珍しくて楽しいから、どこにでも行ってしまう。小旅行みたいな感じで、東京散策も好き。

行ったところ(時系列・よく行く東京以外)

袋田の滝18きっぷの旅)

・水戸(偕楽園

・大洗(友人のお勧めスポットをまわった)

筑波山(初登山)

・横浜(友人を訪ねて)

・静岡(新聞部合宿・川でキャンプしたり、深海水族館に行ったり)

・中国(北京・上海・四川省)訪中団というプログラムで

・日光(弾丸一人旅)

・長野(スキー)

・愛知(友人宅で年越し)

・福島(雪の中の露天風呂に入りたかった・大内宿)

・北茨城(御船祭)

・岐阜(岐阜大仏に会いに)

・滋賀(日吉大社

・奈良(世界遺産巡り)

・京都(ぶらぶら一人旅&茶道合宿)

・タイ

秩父(宗教学実習)

 

諦めたこと

・大学新聞

 大学入学したての頃、サークルを掛け持ちしていた。その一つが大学新聞。文章を書く仕事をしてみたかったし、マスコミにも興味があったから入った。実際、理系の最先端の人から話を聞いたり、オリンピック強化選手と話をしたり、とても刺激的だった。でも、体育会系のノリと拘束時間が長いこと(別に強制じゃないんだけれども、頑張っている人が居る中で自分が休むことに罪悪感を抱いて無理だった)で辞めてしまった。体がもう一つあったらやりたかったことの一つだ。

 

・県人会

 全く行けていないのが沖縄県人会。たまには沖縄の人と話して思い切り訛りたいし、沖縄で就職も考えるなら情報交換の場にもなる。何より、同じバックグランドをもっている人たちってやっぱり強い。でも、学園祭の時にエイサーをするという話を聞いて、行かなくなっちゃった。リズム感がないので踊れないのだ。もったいないことしたと思う。

 

・(バリバリする)バイト

 大学一年の秋から冬にかけて飲食バイトをしていた。美味しいまかないもあったし、何より地元の人に愛されている老舗で、とても素敵な空間だった。そこで働けるのは嬉しかったんだけれども、忙しくてダメだった。授業の関係で入れるのは休日だけ。となると、一日13時間みたいなシフトになったりしてどんどんしんどくなった。お局様に気に入られなかったのも、悪口が蔓延していたのも辞めた理由の一つ。給料明細もなくて、自分の計算と給料が合わなくなった時、辞める決心をした。

 バイトで得たことは色々あるけど、その中で私はバイトができないんだなという発見があった。状況を見て動くということが苦手。いつも「もし、こうだったらどうしよう」という考えが先行して、自分の頭で考えられない(いや、考えてはいるんだ。考えすぎて動けないだけで)。何かする前には指導係のお局様に確認してしまう。そして怒られる。いわゆる使えない奴だ。これはショックだった。机に向かって黙々とやる勉強はわりかし得意だったから、自分は賢いと思っていた。でも賢さにも色々種類があって、私は飲食バイトが向いていなかった。

 今は大学周辺にある研究所での被験者バイト(自動運転の自動車を作る為に、電極を付けて単調なゲームをしたり、株取引きゲームをしたり)や大学見学に来た高校生に案内をする短期雇用、そして週一回個別教室で受験生に日本史を教えている。どれもあまり稼げないけれど、仕方ないかな。キャパオーバーを起こしている今、塾講も受け持ち生徒の受験が終わったら辞めたい。節約家の自分の中でバイトは限りなく優先順位が低く、何かあったらすぐ辞めたくなる。

 

あしなが育英会

 あしなが育英会奨学金を借りていた関係で、募金活動とか合宿とか色々活動があった。他大学の大学生と関わる良い機会だったし、社会活動としても興味があったから、はじめは喜々と参加していたけれど、これも忙しくてしんどくなっていった。あしなが育英会は、その理念が自分の考えとずれていたこともあって、退会した。経営理念に納得できない自分が借り続けることは、全国のあしながさんに失礼だと思ったから。

 最近になって、あしなが育英会の中で給付奨学金ができたらしい。それを聞いて退会したことを少し後悔した。

 

・学生団体・ボランティア

 本当はもっと外に出て活動したーい。高校生の時に参加した聞き書き甲子園でスタッフとして働いていた大学生に憧れていた。だから、関東の大学に進学した暁には学生団体で活動すると決めていた。でも、現実は厳しい。茨城から都内に行くだけで重くのしかかる交通費。自分のことだけで手いっぱいになってしまって、結局参加できずじまいに居る。

 ボランティアもそうだ。私は自分が言語通級に通っていたこともあり(滑舌が悪く、ラ行とダ行の区別がつけられなかった)聴覚障害に関心を持っている。春の文化人類学実習の授業でPC要約筆記の団体を調査対象としてことをきっかけに、PC要約筆記者として活動したいと思った。でも、この養成講座が授業と被っていることに心が折れ、これも実現できずにいる。手話通訳も同じ。

 

 

 

 

・書くこと

 正しくは公募マニア、かも。前のブログでも書いたように高校生の頃はアホ程書いていたのに、書かなくなった。でも、こうやって書いていると気持ちがどんどん整理されていくのを感じるから、私にとってやっぱり書くという行為は手放したらいけないものなのかもしれない。そして、今も前と変わらず好きな人、お世話になった人には手紙を出すようにしているし、こうしてブログを書いているんだから諦めたとはまた少し違うのかもしれない。

 

 

 まとめてみたら、はじめたことより諦めたことの方がずっと多い。諦めたことに悔いがないというと嘘になるけれど、それ以上に選んだもので得たものもあるから仕方ないのかもしれない。

 

書くってどういうこと何だろう

 

 どうやら今日は書きたくてたまらない日のようだ。

 何かをひたすらに書きたいという欲求は、懐かしく感じる。一方で、私は何で大学生になってから書かなくなっちゃったんだろうとか、自分の気分が落ち込んでいる時に書きたくなるって何だか皮肉だなぁとか考えていた。

 

 そして思う、書くって私にとってどういうことだろうと。

 

 物心ついてからは書くことが好きだった。誰に頼まれるまでもなく、壁新聞を発行したり絵本を描いたりして遊んでいた小学生時代。ブロックメモを持ち歩き、いつでもどこでも書いていた中学生時代。そして、公募マニアとして数々のコンテストに出品して、世界を広げた高校生時代。

 私はあまり要領がよくないので、書くことが自分の気持ちを整理する手段でもあった。話すより、書く方がずっとずっと得意で、本好きの名と共に自分の学校での立ち位置を作ってくれていたようにも思う。そして結果として、公募マニア(副賞と東京に行ける表彰式目当てだった)として活動していたことが大学受験でも役に立った。こうして書いてみると、私は書くことにずっと救われてきたなと思う。

 

 私が何で書かなくなったのか。多分、今は救われる必要がないから、なのかもしれない。書かなくなった日々は書いていた日々よりずっと楽だ。授業中、誰も私のことなんていじめてないのに、ひたすらつらくなってトイレに逃げる日々は終わった。国語便覧でどれだけの文豪が自殺しているか数えて呆然とする日も、数学のテストが出来な過ぎて全ての解答欄に短歌をつづった日も全て過去のことだ。世界史の授業でどっかの国で起きた内戦の話を聞いただけで気分が悪くなるような、感受性の強い自分はどこへ行ったのか。

 

 別に今だって完全に書いていないわけじゃない。大学では人文系学部に属しているので、結構な文字数のレポートが頻繁に課されている。憧れの国語の先生がいたから、国語教育にあまり関係ない専攻なのに、国語教職を取っている。ツイッターでも相変わらずよく呟いている。でも、あの頃とは何かが違う。

 

 あの頃と今、重要な違いは、現在私の文章を読んでくれる国語の先生がいないことだ。高校時代、国語の先生はいつも私の一番の読者で居てくれた。国語の誤答ノートに有島武郎の自殺理由を書き連ねてみれば、先生も3ページ越えで感想を寄こしてくれた。今思えば先生の本来やるべき仕事量を超えたお願いばかりしていたのに、いつも嫌な顔一つしなかった。ある小論文コンテストで入賞した際、表彰式という名目で行った鎌倉旅行や太宰府天満宮、高校が閉門する20時まで粘って書いていたこと、私の高校生活は孤独であったように思っていたけれど、いつも先生が見守ってくれていた。

 

 そして、あの頃の私は自分では抱えられないほどの自己顕示欲を持っていた。容姿が良いわけでもなければ、運動ができるわけでも、リーダーシップを発揮するわけでもない私が自分を表現する術は書く以外なかった。中学、高校にかけて思っていた、特別でありたいという考えがなくなったのは、いつの頃だったのだろうか。

 

 沖縄を離れたのも大きかったと思う。今でも沖縄に帰ると書きたくなる。大好きな沖縄の景色や民俗、一方で現実に引き戻されるような数々の暗い事情。数年後に迫った就職をどこでするのか、という問題とも重なって、沖縄は私の問題意識である。

 別に今住んでいる茨城が嫌いなわけじゃない。学園都市は学生にとってすごく住みやすい。ほとんどの学生が大学の周りに住んでいるから、夜遅くまで飲んだり遊んだり。大学を卒業してもこの生活が惜しくなると思うし、ああ青春だったなぁなんて思う未来が想像できる。でも、沖縄みたいに土地を愛して、土地に好かれている感覚はない。今は上手く言語化できないけれど、うちなーんちゅアイデンティティと絡んで、これもまた私の書きたい欲を大いに刺激してくれていたんだと思う。

 

 要するに今の私は、読んでくれる読者も居なければ、社会に向かって大声を放つ必要性もなく、仮住まいの見知らぬ土地でブログを書くくらいしか手段がないのだ。そりゃあ書かなくなる。今だって、11月末恒例のどっかーんと心が沈んでいるから書きたくなっただけなのかもしれない。

 

 でも、正直、少し楽になったよねと思う。結論も見えずにこうやってダラダラと書いてて思ったことだけど、社会的要因とか欲求不満とかからではなく、書きたいから書く。それってすごく楽だ。

 上に書いたように私は高校時代、公募マニアだった。自分でも言っちゃうけど、結構凄かったので全国最優秀賞もバンバン取っちゃって、コンテストで賞を取る為の文章を着々と製造する職人みたいだった。それはそれで、副賞が欲しいとか、スパルタ学校になじめなかったけど別に落ちこぼれじゃないんだぞアピールがしたかったとか、色んな欲が隠れていて、それが今につながっている。当時はあの学校で生き残る大切な手段だった。でも、評価される文章を書く為に自分が好きだったことを忘れていたとするならとても寂しい。

 

 別に救われようとして書かなくてもいいじゃん。着地点が見えないまま書き連ねて、その結果首尾一貫してなくても、ここはブログだから誰も何も言わない。気楽にまた好きに書けたりしたらいいなって、大学二年の秋にようやく思った。

 

luvlife.hatenablog.com

 好きなブログはいくつかあるけど、特にこのブログが好き。きらくにいこう