雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

日記 あいみょんとアーバンギャルドが染み入る夜です

 

 3月5日

 

 今日は23時には寝るのが目標。ここ数日、色々あって睡眠時間が短いのだ。今日の復習や、明日の予習、明日の課題等々、山積みなのは端に置いておいても日記を書きたいと思うのは、ひとえに私が書くことを愛しているからだと思う。わたしはインターネットのある時代に生まれて良かったな。わたしの小さな自己顕示欲を満たしてくれるインターネット。

 

 私の日記は往々にして役に立ちません。だってそのようには書いていないんだもん。特に今日はそう。私の日記は、あくまでも私のために書いているんだと思う。長らくブログを放置しておいたくせにこう言っちゃなんだけれども、私はキーボードを打ちながら今日あった出来事を緩やかに消化していっているんだと思う。

 高校生の時なんかは、消化なんて穏やかなものではなかった。排泄だったと思う。書かなくちゃ死ぬぞ、みたいな。絶対に正気を保って高校を卒業するんだぞ、という気合い。いや、何言ってるんだって思うわけだけれど、あの頃は本気だったからね。

 

 今の自分にとって、日記を書く時間は消化の方がぴったりくる。書かないと気持ち悪いけれど、死にはしません。たまに便秘になったりする程度。これも高校生、中学生くらいの自分だったら許せないことだったろうと思う。人間、いつまでも激しくあるべきだと、心から思っていた。激しくあればあるほど、喜びも大きいんだと。いまの消化日記、誰のためにもならないはずなのに、わざわざネットの海に流してしまうのは、私の自己顕示欲です。えへへ。

 

 グーグルで何かを検索するとトップに出て来るのは、たいてい「役に立つ」系の記事なんだけれど、そしてそれらは大概「気になりますよね?ちょっと調べてみました!」系の薄っぺらいものなんだけれども、わたしはいつまでもインターネットで、誰かのタメにならない言葉を聞いて居たいなと思う。そして、私もインターネットにそういう言葉を流し続けたい。自分で役に立たないとか言っていたけれど、そういう日記ってインターネットの財産だと思うんですよね。伊達に思春期を南条あやで過ごしていないんだよ、こっちは。

 

 

 日記のお供は、高校の先生からの仕送りに入っていたショウガ甘酒。高校の恩師は、今でも私のことをよくしてくれて、台湾の宿舎に日本と沖縄のいいものを送ってくれる。有り難くって涙が出る。喉がちょっと痛いので、甘酒で暖まって寝たいと思います。

 

 それからyoutubeを垂れ流しにしながらBGMにしているのは、あいみょんの歌。あいみょんは、2018年の紅白に出ていたこと、友達が話題にしていたことで名前だけは知っていたけれど、ここ数日初めてちゃんと聴いてハマってしまっている。「あいみょん」という名前からして、自分がハマるとは思わなかった。

 

 そのきっかけとなったのは、「生きていたんだよな」という曲。


あいみょん - 生きていたんだよな 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

二日前このへんで
飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた
血まみれセーラー 濡れ衣センコー
たちまちここらはネットの餌食
「危ないですから離れてください」
そのセリフが集合の合図なのにな
 

  という歌詞からはじまる。「あいみょん」という名前のポップさからは程遠い歌詞にびっくりしてしまった。

 私は今台湾に住んでいるから、グーグルで検索すると繁体字のサイトがヒットする。台湾のサイトでは「厭世少女あいみょん」という風に紹介されているわけで、「え、そっち系の人でしたか」となった。

 自分でもこじらせを引きずっていることにびびるけれど、アーバンギャルドCocco椎名林檎が好きな私には、気になっちゃっている。前に出したアーティストより、あいみょんの毒気は大分薄いんだけれど。

 

 私がこの曲の中で好きなところは、「生きていたんだよな」と事実だけを述べ、自殺少女に対する解釈を行わないところだ。明るく、前を向いて行こうという曲調ではなく、かと言ってアーバンギャルド「平成死亡遊戯」のようにメンヘラ的な世界から抜け出せないわけではない。

 


アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI

 だって、アーバンギャルドの「平成死亡遊戯」は自殺した南条あやに捧げる曲なんだけれど、

インターネットであちらにつないで

画面の向こうのあの娘につないで

ADSL ISDN

テレホーダイならつながるかな

 

あの娘みたく きっと死ねない私

変わろうとも変われない時代と似てるかな

 

 って歌っているからね。南条あやの自殺から16年が経とうとしていたけれど、(平成死亡遊戯は2015年公開)ずっと南条あやが生きていた世紀末に居るような歌詞。「南条あやになりたかった」女の子がたくさん居る世界。どっぷりその世界観に浸かっていた自分はいたのは確か。

 

 でも、あいみょんの正直な「生きていたんだよな」という感慨みたいなもの。確認みたいな、実感ようなもの。そのテンションの方がいまの自分の気持ちに合致しているのかもしれない。もう、あちら側には住んでいない。笑っちゃうくらい、日々が穏やかで、あの頃の私だったら「ずるい」と思った気がする。いや、それでも引きずっている部分があるから、自殺をテーマとした曲が気になったりするんですけれど。そして、こじらせている自分もそんなに嫌いじゃないんですけれど。

 

 でも日々を穏やかに過ごせても、20歳を越えて21歳になっても、ハマっちゃう音楽に出会えることが嬉しい。

 私は、母が音楽を聴かないし、映画も観ないし、本を読まない人だったから、そしてそうやって生きることが「大人になること」だって言われてきたから、自分が思春期を抜けたら染み入る音楽に出会えなくなるとばかり思っていたよ。そうじゃないんだな、そのタイミングならそのタイミングなりで響く音楽に出会えるんだな、と気付いたよ。

 

 あ、今日は日記を書くつもりだったのに、youtube巡回しているうちにもう23時半をまわっている。もう寝ていたはずの時間だ。まだ今日の授業もことも、入会を迷っているオカリナサークルのことも、言語交換のことも書けていない。困ったな。でも、そうやって論理的じゃないところで、youtubeが止められないとか、自分が書こうと思ってなかったことを書いているっていうのも、素敵なことだよね。ここで自分の発見があるわけだから。

 

 

 

 SHISHAMOライブに行った話を貼る。

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 21歳になった話

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

台湾留学日記 台湾語を学び、オカリナサークルに行く

 


f:id:kinokonoko11:20190305005651j:image

 

 今日は既に一つ日記を書いた後だけれども、言葉にしておきたいから書いておく。

 

 今日の授業である台湾語の話と、放課後に行ったオカリナサークルの話。

 

 今学期からはじめた台湾語はとにかく難しい。中国語(台湾華語)とそんなに変わらないでしょ?と高をくくっていたけれど、そんなことなかった。発音記号から声調、単語まで全く違う。中国語の声調が4種類(+軽声)あるだけで精いっぱいだったのに、台湾語は八声まである。しかも、先生はド、ミ、ソ〜♪とか言っている。台湾語の声調は、単純な音の高低差だけの問題ではないようだ。 

 

 中国語や英語だけでも手一杯だというのに、わたしに台湾語まで学べるのか?と思った。でも、その意味の分からない言葉を、訳分からないなりに話している瞬間が楽しかった。

 あ、わたし、いま台湾語を話しているよ!という小さな、でも確かな感動がそこにはあったのだ。

 またほんの少しだけ、この土地と近くなったような感覚かもしれない。

 台湾語には、日本語や琉球語と類似した語彙がある。そういうことを見つける度に、自分の言語感覚が拡張しているような気持ちになる。どんどん、研ぎ澄まさせるような気持ち。これは快感である。

 

 

 

 台湾語の授業を終えて向かったのは、オカリナサークル。

 見学のつもりだったけど、備品のオカリナを借りて実際に吹かせてもらった。

 私はオカリナ未経験。義務教育で習ったリコーダーくらいしかやったことない。実際、運指はなかなか覚えられないし、かなり指がもつれる。一緒に行った友達はスラスラ習得していくから、少し焦った。そもそも楽譜すら読めないし。友達が見せてくれた楽譜に、カタカナで「ドレミファソラシド」を振らないと分からない。

 でも辛抱強く、繰り返し繰り返し続けていけば、段々と運指を覚えてきた。ほんの少しずつだけれども、聞き馴染みのあるメロディが自分のオカリナからも流れるようになった。嬉しい。楽しい。

 「音楽の才能がないから〜」と泣きつくわたしに、友達が言う「大丈夫」という言葉。オカリナができない自分を笑っているのは、私自身のみであった。もしかしたら、本当に大丈夫なのかもしれない。そもそもね、これは音楽の授業じゃない。下手でも良いのだ、大切なのは自分が楽しいこと。

 

 楽譜を読んでいる時、これも一つの言語のようだと思った。身体で覚えろ、と「ドレミファソラシド」の音をひたすら繰り返している時、そしてふとした瞬間に指が思い通りに動く時、理屈だけでは到達できないある一点のほんの少しを覗いた気がする。こうした気付きがたまらない。

 

 自分でも驚きなのは、語学も音楽も、自分が大の苦手として避けてきたことであるからだ。あんなに、音楽も語学も大嫌いで義務教育の終わりと共に「音楽」の教科から解放されることを喜び、第二外国語の必修を取り終わったことに胸を撫で下ろしたのに。

 今のわたしは、台湾語もオカリナも自分から選択して、やりに行っているよ。そして、ちゃんと楽しかった。

 

 オカリナがうまくいかなくて、私が指がうまく動かない時、脳裏によぎっていたのは、「合唱コンクールで黙っておいて欲しい」と言われたこと。自分で笑い飛ばすしかないくらいの音痴で、本当に仲の良い人としでしかカラオケに行けないこと。さとうきび畑の香りが混ざったような、遠い記憶の中の劣等感がそこにあった。

 

 台湾語だってそうだ。私の発音が下手すぎて、覚えられなすぎて、ペアに迷惑かかってないか?と思う。

 思い出すのは、あの英語の授業。高校の英語の授業は、発音に厳しい先生が担当だった。わたしはいつまで経っても合格できなかった。母語である日本語ですら、通級指導教室に通っていたのだから、構音の問題もあるのかもしれない。(いや、あると言われた)しかも、リズムに乗って、英語を言わなくちゃならなかった。口の動きに集中しすぎて、手足の動きは、音楽から離れてどんどんバラバラになっていく。クラスメイトはそれを見て笑っている。私はそれで英語が、語学学習が大嫌いになった。

 

 でも、ここでは大丈夫。

 誰も私の発音を笑わないし、わたしの音楽センスの無さを馬鹿にしない。私だけが劣等感を募らせている。

 

 客観的に見ても、オカリナも台湾語もうまい部類ではない。でも、ここでは自分のペースでやりたいようにやれば良いのだと分かる。私は、音楽や語学学習が嫌いなんじゃなくて、笑われることが嫌だったのかもしれない。この気付きが妙に嬉しかった。

 

 あの頃、わたしを笑った人はここには居ない。そういえば、つくばにも居なかったなと思い返して、自分の大学生活がとても良いものであるように思った。嬉しかったから、忘れないようにここに書いておく。

台湾留学 サークルに入ってみた感想〜三重苦ヨガ〜

3月4日

 
f:id:kinokonoko11:20190304122110j:image

 

 私が留学している台湾大学では、今が新学期。まだまだ学校の雰囲気は浮かれていて、特に今学期から留学をはじめた子たちから、

 

 留学先でサークルに入るべきか?

 サークルに入ったほうが語学は伸びるんじゃないの?

 

 という声が聞こえてくる。

 

 その度にわたしは先学期、やっていたヨガのことを思い出す。

 結論として、わたしはやって良かったと思っている。

 

 私がやっていたヨガとは、寮のヨガクラスであった。毎週火曜の1時間だけ、寮のラウンジでヨガをした。過去形なのは、このヨガクラスが期間限定であり、今はもう行っていないからだ。冒頭に貼ったのは、今学期の募集要項。そういう意味で、サークルとは少し違うかもしれない。けれども、授業とは切り離されたかたちで、他学年多国籍他学科の人と一緒に活動できる、という意味ではそう大差ないんじゃないかと思っている。

 

 私はヨガに前から興味があった。お世話になっている先生からもヨガの話を時折聞いていたし、友達もヨガを習っているし、台湾にせっかく来たのだから東洋的なことをしたいなと思っていた。(日本も東洋なのに)

 本当は太極拳を習いたかったけれども、朝早く起きられないことから諦めた。公園でやっている爺さん婆さんに混ぜてもらいたい気持ちもあったけれども、台湾語(北京語とは異なる)が分かる自信はない。

 

 そういう訳で選んだヨガ。

 このヨガ、かなり苦しかった。

 私にとっては、まさに三重苦ヨガ

 

 まず、聞けない。ヨガはインストラクターが来て教えてくれる。その時使われる言語はもちろん、中国語。聞けない。最初の頃は、「立ち上がって〜」とか「右脚を伸ばして〜」とかそういう指示さえも分からなくてパニックだった。

 

 しばらくして耳が慣れてくると、そうした指示は大体分かるようになるのだけれども、それでもどうしても分からない言葉がある。突然「台北101」がどうたらとか、天がどうたらとか言っている。挙げ句には「ナマステ」と。私以外の学生も同時に「ナマステ」とか言うから、この時間はちょっと怖かった。

 どれだけ聞いても分からないので、最終的に先生は宇宙の話でもしているのだと思うことにした。だってヨガだし。多分、ありがたいお話をしているのだろう。

 

 2つ目が「見えない」こと。

 申し込み当初は全く考えもよらなかったけれど、想像以上にハードなヨガの時間、眼鏡なんてかけられなかった。逆さまになったり、大きく動いたりでどうしても眼鏡がずり落ちるのだ。

 仕方がないので眼鏡を外して受けていると、今度は見えない。当たり前である。私の視力は両目で0.3〜0.5程度。日常生活は何とかなる程度ではあるけど、インストラクターの大まかな動きしか見えない。中国語が聞けない以上、目からの情報が頼りにも関わらず。

 

 3つ目が「できない」こと。

 次第に耳が慣れて先生の指示が聞き取れたり、教室の前に陣取って先生の動きが見えたりしても、これがいちばんの問題だったりする。ま、できないのだ。

 ヨガって穏やかなイメージだった。綺麗な女性が、朝焼け照らす公園でスムージーを飲みながらやっているような。スポーツというより、瞑想術に近いような。日本でヨガを習ったことがないから何とも言えないけれども、少なくとも私が習っていたヨガは全くそんなことなかったね。

 よく知っている「りんごの木のポーズ」や呼吸法をやっていたのは、最初の方だけ。どんどんハードになっていくヨガクラス、突然ブリッチしたり、そこから立ち上がってみたり。なんだここは、体操教室か???

 

 先生は私ができてないのは、言葉がうまく通じてないからだと思って英語で教えてくれることもあった。しかし、言ってることがわかっても、できないものはできないのだから、ほっといて欲しかった……。(先生、ごめんなさい)

 

 最後の方は、もう誰もできないポーズばかり。できなすぎて笑いが止まらない。見渡せば他のメンバーや、先生までも笑っている。ニヤニヤしながら、柔らかく、筋肉のついた身体を見せつける先生。なんなん、この場は……。 

 

 しかし、それでも最終的にやって良かったと思えるのは、ある中国人のおかげだと思う。

 いつも一緒にペアを組んでいた彼女は、四川省からの留学生。

 わたしの拙い中国語にも耳を傾けてくれて、「大丈夫、あなたの中国語は先週よりうまくなっている」と言い続けてくれた。

 わたしは言ったとおり、聞けない、見えない、できないで、大変トロいのに「一緒にやろう」とか、「前の方でやろう!」とか、世話を見てくれたのも彼女だ。

 

 私より、2つ年上の彼女はお姉さんみたいだった。わたしは日本に居たとき、外国人にこんなに優しく出来ただろうか?と思った。

 

 また、ヨガそのものもハードでこそあれど、そんなに嫌いではなかった。人より歩みが遅くとも、以前出来なかったことが出来るようになっていくのは楽しい。

 ゆっくりと身体を動かしているはずなのに、普段使わない筋肉を使っているからか、必ず翌日は筋肉痛になった。瞑想の時間も嫌いじゃなかった。日常生活のなかでは何か暇ができると、すぐにスマホをいじってしまうから、目を閉じて、心を無にする時間なんてない。

 

 身体を動かして、そして休めて、身体の声を聞こうとする時間もまた、豊かなものだと思っていた。

 

 留学に限らず、新生活の良いところは、新しいことを始められることだ。

 ヨガとは言えども、運動が大嫌いで、体育の時間が苦痛でしかなかった自分が、まさか自ら運動することを選ぶなんて。新しい発見だった。しかも、それが大変ながらも悪くなかったのだから、自分で自分のキャラを決めずに挑戦はするものだ、と思う。

 

 だから、中国語能力云々関係無しに、せっかくの留学生活、何かに飛び込んでみたら?と思う。

 それは自分自身にも言い聞かせている言葉であって、実際に私は今日の授業後には教育大学の方のオカリナサークルを見学してきます。音楽もずっとやりたいなと思いつつ、やるタイミングを逃し続けてきたものだから。

【台湾】留学日記 3月3日 MINIATURE LIFE 展2in台北 感想

 

 今日は、華山1914文創園区というところでやっている展覧会を観に行った。

 文創園区とは、日本統治時代の施設をリノベーションしてできたアートスペースや文化施設のこと。華山1914も日本統治時代の酒工場をリノベーションしている。台北の中でもお気に入りの施設のひとつ。

 

f:id:kinokonoko11:20190303194127j:image



 

 お目当てはこちら、ミニチュア写真家の田中達也さんの作品。田中達也さんは、朝の連続テレビ小説ひよっこ」などで一躍有名になった方。日常にあるもので作られた、見立ての世界観が面白い。

 

続きを読む