雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

平成最後の南条あや命日

 

 今日、3月30日はネットアイドル南条あやの命日。

 南条あやは1990年の3月30日に亡くなったから、今年で20年。

 南条あやがもし生きていれば今年で38歳。私の人生の先輩は、みんな「30歳越えたら楽になるよ」と言うし、「40歳越えればもっと楽になった」とガハハと笑う。でも、私たちはアラフォーの南条あやと会うことはできない。彼女は永遠の18歳だ。

 

 私は今、21歳。永遠の18歳になってしまった南条あやから、どんどん遠くなる。南条あやに心酔していた18歳の私からもどんどん遠くなる。

 

 南条あやが生きた平成という時代は、もうすぐ幕を閉じる。今日は平成最後の南条あやの命日である。

 平成最後の○○という文言はもう既に使い果たされてしまっている気がするけれども、南条あやほど「平成」が似合う人も居ないように思う。

 アーバンギャルドだって、「平成死亡遊戯」という曲を作っているくらいだし。


アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI

 

 平成の大革命は、言うまでもなくインターネットの登場だった。南条あやはインターネット上で、自分の病んでいるところをさらけ出しながら日記を綴った。そのポップな日記は人気を博したし、ファンクラブも登場し、いつしか彼女は「ネットアイドル」と呼ばれるようになった。しかし最後は、インターネットで消費されて死んだ。

 

 インターネットによって、南条あやが殺されたと表現するのは、過激である。でも、そう書きたくなる。南条あやの日記を編集して出版された本は、『卒業式まで死にません』。これは彼女の口癖だったという。彼女は女子高生の象徴セーラー服を愛していた。18歳だった彼女にとって、3月31日は女子高生で居られる最後の日である。

 

 もう一つ、彼女は「病んでいる自分」というキャラから降りれなくなっていたのではないか。南条あやは「いつでもどこでもリストカッター」であり、精神科に通院していた。しかし、手首を切らない自分は読者の期待を裏切るのではないか、という意識が時折見え隠れする。

 彼女の日記の特徴は、日常を事細かに、けれども明るく記述していることだ。南条あやは「病んでいるキャラ(今で言うメンヘラにあたる。当時はココロ系と呼んだ)」であるが、その日記は驚くほど明るかったのだ。自分の抱える闇をポップに笑い飛ばしてしまうところが、1990年代のサブカルチャーとして受け入れられた。今よりもっと、精神科への偏見が強かった時代だ。

 

しかし日常を事細かに書いていた南条あやにも、隠していた存在が居た。婚約者の存在だ。南条あやの日記は、日記の体をなしながらも第三者の目を意識して書かれていることが分かる。

 南条あやの本名は鈴木純という。しかし、南条あや鈴木純はイコールの存在ではない。

 

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

 

 

 平成の末である2019年。今なら不特定多数の目を意識して書かれるブログも(このブログがまさにそうである)、メンヘラも、自分の存在をコンテンツ化することもそう珍しくない。

 南条あやのファンは現在でもたくさん居る。インターネットで検索すると、今でも「第二の南条あや」を名乗る人はいる。ある層の中で、南条あやは憧れの存在である。


【初音ミク】 南条あやになれなくて 【鬱曲】

 

 一方で、これほどまでに「コンテンツ」と言われる世の中で南条あやのような存在はもう出てこないのではないか、とも思う。

 「メンヘラ」という言葉がサブカルチャーの範疇を越えて使われ出して、多くの中高生が自分の日常をインスタやツイッターやブログに載せて。南条あやのような存在は、もう珍しくない。

 

 そもそもさ、コンテンツとして生きることってもう古くない?

 炎上芸を繰り返すブロガーは煽るように「大学を辞めろ、会社辞めろ、そしてブログを書け」と言ったりするわけだけど、そういう突飛な生き方(大学を辞めてブロガーになることが突飛なのかは置いといて)を面白がるのにも飽きたなあと思う。

 インターネットには誰かの日常を綴る言葉が溢れているわけだけど、その日常に編集が入っているのも当たり前なわけで。私の周りの女子大生、自分が写った写真を無編集でネットに載せるなんてあり得ないからね。それをSNSで見る私たちも、編集を織り込み済みで受け取る。そもそも、私達の年代ではツイッターのアカウントだって複数持っている子ばかりである。例えば、リア垢(高校大学の同級生とつながる垢)と闇垢、趣味垢というように。外に見せる顔と、病みを華麗に切り替える。

 

 一か月後にやってくる平成の次の時代、南条あやのような求心力を持った存在が現れるようには思わない。

 

 上に南条あやはインターネットで殺されたと書いた。しかし、もちろん南条あやの悲痛な叫びを分かった上で、笑い飛ばしながら寄り添っていた人も居ただろう。私が南条あやと出会った時、彼女はもうこの世に居なかった。でも、制服のブレザーにいつも忍ばせていた彼女の本は、私に勇気を与えてくれた。そのうえで、南条あやの後ろに隠れている鈴木純に寄り添いたいと思っていた。

 

 ただ高校を卒業して、私は今21歳。一人暮らしもはじめたし、今私は外国に住んでいる。高校卒業後に待っていた未来を踏みしめると共に、私が苦しかった高校が如何に狭い世界であったかを実感する。そうして距離ができると、南条あやに対する感情もまたどんどん変化していく。

 

 ねえ、南条あやちゃん。いや、鈴木純ちゃん。

 あなたが女子高生でなくても、あなたが「いつでもどこでもリストカッター」でなくても、誰もあなたの存在を否定することはできないんだよ。居て欲しかった人はたくさん居たはず。

 

 フリーライターとかじゃなくてもいい、ただ私はおばさんになった南条あやが居て欲しかったなと思う。確かに私は高校生の苦しかった頃、南条あやに惹かれていた。でも、彼女がもし生きていればそれは救いになっただろうと思う。そして、彼女の死の直前の日記に『卒業式まで死にません』なんて題名がついちゃっているんだろうと怒りを覚える。どうしてことさら「女子高生」を強調するタイトルなんてつけるのさ。南条あやの時代から現在に至るまで、ある市場において「女子高生」の肩書が付加価値をもつことを嫌と言うほど感じる。

 

 南条あやが大好きだった歌手にCoccoが居る。

 Coccoも深刻な自傷行為を抱えていたし、メンタルの問題を抱えていることは一目瞭然だった。

 

 私も南条あやと同じくらいCoccoが好きだ。完全にこじらせていたので、教室を抜け出すときはトイレでCoccoを聴いていたものだ。もちろん、その時制服のポケットには南条あやが居た。

 

 Coccoが2016年に出したアルバム「アダンバレエ」。この作品は「生存者(サバイバー)による生存者(サバイバー)のためのアルバム」だという。

 2017年には20周年ライブを日本武道館で行った。私は二日間ともCoccoのライブに駆け付けた。その時もCoccoは「サバイバー」という言葉を使っていて。「もう死んでもいいっていうところから、生きててよかったっていうところまで、みんなでよく来たね。だって20年だって」とCoccoは笑っていた。会場の人達はみんな泣いていた。私も泣き通しだった。

 

 私はその時19歳で、Coccoが「案外大丈夫だったね」と言う言葉に「私は今でもそうじゃない」と返したかった。Coccoの昔からのファンが、それぞれ色々あっただろう20年間を振り返っている様子が羨ましかった。一方で私は南条あやのことを思っていた。Coccoのライブ会場に南条あやが居たっておかしくないなって心から思った。

 「Coccoのライブはとっても危うくて、憑依したみたいに神がかって歌うんだ」と、先輩ファンから聞いていたけれど、2017年のCoccoから1990年代後半のような危うさを感じることはなかった。今のCoccoは明るい歌も歌う。グーグルで「Cocco」って検索すれば、息子と二人で微笑む写真だって見つかる。でもだからと言って、Coccoの魅力が失われたわけではない。

 あの頃の危うさが失われたけれど、歌唱力が伸びたCoccoが笑顔で歌う会場は、幸せそのものだった。Coccoが「生きてて良かった」と言い、ファンがその言葉に涙すること。Coccoの「生きてて良かった」に、ファン一人ひとりが重ねたしんどい夜が思われた。南条あやがこの場にいれば、どんなに良かっただろうと思った。

 

 

 私が『卒業式まで死にません』を持ち運ばなくなったのはいつからだろう。大学進学の引っ越しの際には真っ先に段ボールに詰めたのに、台湾の住まいには持ってきていない。

 高校生の頃、私は「惰性で生きたくないんです」って言ったことがある。それは、南条あやと同じ夭折した少女である尾山奈々の言葉でもあった。高校生の頃の私は、この言葉に深く共鳴していた。意味も分からずやる勉強、偏差値で自分の存在が測られているような世界。そこでは自分の存在は勉強ロボットのようだったし、代替可能だと思っていた。意味も分からずに耐えるだけの毎日にうんざりしていた。惰性で生きるくらいだったら死んでも良いと、本気で思っていた。

 

 でも大学進学して、一人暮らしがはじまって。ある時、電車の中で思ったんだった。「惰性でも生きるって案外すごくない?」と。この電車で行き来している名もしらない人達にも日常があって、家に帰ったら洗濯をして、ご飯を作って暮らしているんだって思うと、すごいことだなあと思った。生きることが日常の積み重ねだとするならば、それは途方もない繰り返しだ。惰性でなんて到底生きていけない。現に今の私は昼夜逆転しながらこの文章を書いて居るし、部屋は汚いし、やるべき勉強はできていない。調子が悪くなると、すぐに眠れないし、お風呂も入れなければ、ご飯を食べるのにさえ一苦労する。

 人は惰性でなんて生きていけないんだって思うと、通りすがりの人の生活も尊いものに感じる。そして、「惰性で生きたくない」と言った尾山奈々やあの頃の私が小さく見えるのだ。

 

 『卒業式まで死にません』が手元になくても良いやと思えたのは、そういうことの繰り返しだった。

 高校は耐えるだけの場所であると思っていたから、そこでできた友達とは卒業したら疎遠になるとばかり思っていたけれど、そんなことはなかった。帰省するたびに会って、高校の時より彼女達のことが好きになっている。高校の先生は今でも妹のように私をかわいがってくれるし、大学での出会いにも恵まれている。大学で出来た友達とお寺をまわって、博物館に行って、本について語る時、「ああ、私がずっと望んでいたことだ」って思う。大学で学んでいる教職課程で、あの頃に対する解釈が変わることもある。専攻している民俗学は楽しい。普段使っている焼き物作家に話を聞きに行ったこと、地元の祭祀を見せてもらっていること、民俗学を学べば学ぶほど、人は惰性でなんて生きていないだって思う。そして今、台湾という異国に留学しながらも、私はわたしのペースで生きていけるんだっていう事実が確かに自信となっている。

 

 そういうことを繰り返して、私は南条あやと距離を感じるようになった。

 私はおばさんになるまで生きるし、その時はCoccoのように「生きてて良かった」と言うと思う。

 

 でも、だからといって南条あやの存在が今の私にとって要らないものであるかというとそうではない。私にとって南条あやに心酔していた時期もまた、かけがえのないものである。時々読み返して、その時々によって違うように読める本は、名作だと思う。だからこそ、彼女に対して「南条あや」の部分ではなくても、いわゆるコンテンツ力が低くても生きていて欲しかったなあと思うのだ。

 

 平成最後の南条あやの命日。

 南条あやは永遠に平成に囚われるし、平成の次の時代には南条あやのような生き方が生まれないで欲しいと思う。

 

 でも、もちろん、あやちゃんのことは大好きなんだけれど。

 

追記

ツイッター南条あやを検索したら、色んな人が南条あやのことを思っていて。誰も忘れてなんかないんだなと思った。生きていてほしかったなぁというつぶやきも多くて、私も本当にほんとうにそう思います。

http://kinokonoko.hatenadiary.jp/entry/2016/03/31/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%B4%94%E3%81%AE%E5%91%BD%E6%97%A5%EF%BD%9E%E5%8D%97%E6%9D%A1%E3%81%82%E3%82%84%E3%81%AB

 

http://kinokonoko.hatenadiary.jp/entry/2017/11/26/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E3%81%82%E3%82%84%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

 

http://kinokonoko.hatenadiary.jp/entry/2019/03/06/%E6%97%A5%E8%A8%98_%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%BF%E3%82%87%E3%82%93%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%8C%E6%9F%93%E3%81%BF%E5%85%A5%E3%82%8B%E5%A4%9C

 

http://kinokonoko.hatenadiary.jp/entry/2018/11/12/21%E6%AD%B3%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F

 

http://kinokonoko.hatenadiary.jp/entry/2017/11/26/%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%84

他己分析

 

 日本でも、台湾でも、私はよく声をかけられる。

「どこどこの行き方を教えてほしい」とか、「シャッター押してほしい」とか。私はここでは外国人なのだから、細かな道の名前なんて知らないよ。外国人に道なんて聞く?

 それでもうまく答えられた時は、ちょっと嬉しい。発音や文法を間違えずに話せて、「你是從哪里来的?」(どこから来たの?)と聞かれなかった時は、大変気分が良い。

 

わたしは見た目が台湾人っぽいらしく、言葉を喋られなければ台湾人に思われるのだ。

 

「どこから来たの?」

「半年くらい前に日本から来たの」

「え!日本人に見えないよ!台湾人か、東南アジアの方だと思った」

「うん、よく言われる。わたしは日本の中でも沖縄出身だからね。沖縄って知ってる?沖縄は日本の最南端にある場所」

こんな会話を街なかの台湾人と何度もした。

日本人に見られない、という体験は、私の中の国境を揺るがすようで面白かった。

 

 この「日本人に見られない」ということは、単に私が沖縄出身者に多い濃い顔つきをしているからだけでない。

 思えば、「日本人に見えないよ」と言われるようになったのは、台湾に来て1ヶ月が経過した頃のことだ。最初の頃はちゃんと(?)日本人に見られていた。それがしばらく経つうちに、日本人にさえ「日本語お上手ですね」と言われるようになっている。

 

 人を〇〇人と思うとき、一体何が基準なんだろうか。先日台湾に来た友達は、何度も北京に行っている。彼女は台湾人と中国人を歩き方で見分けていて、大変面白いと思った。曰く、中国人は大股気味に歩くそうだ。私達は民俗学専攻だけれども、文化人類学コースでもあるので、身体化とか、所作に絡めたことを少し話した。

 

 台湾人の友達は、日本人と台湾人をメイクの有無で見分けているそうだ。なるほど、わたしはメイクをしないでほっつき歩いている。

 そうやって、〇〇人らしい見た目を拾い集めていると、私が日本人に見られないことも、また一つの個性のように思える。

 

 

 最近、就活中の友達に他己分析を頼まれることが増えてきた。自己分析ならぬ、他己分析。他人から見える自分は一体どんな存在か、ということ。

 高校の総合の時間で、ジョハリの窓なんてものをやったときは、「ほーん」と思っていただけだったけれど、自分が認識していない自分もまた存在しているのだろう。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジョハリの窓

 

 この「よく道を聞かれる」っていうのも、他己分析になり得るなと思った。「あんまり日本人に思われない」ということも。

 

 無害そうな人間に見えているんだなってこととか、声をかけやすい雰囲気があるのかもなってこととかが考えられる。私は結構ナメられやすくて、「イジられキャラ」でいることも多かった。これには不満なのだけれども、街なかでよく声をかけられることと共通しているかもしれない。

 

 自分の存在は他者がいてはじめて認識できるんだと思うことが度々ある。

 今でも覚えている。大学1年生の夏休み、初めて帰省した私に母が「自信がついた顔をしている。表情が柔らかくなったね」と言ったんだった。これは嬉しかった。

 

 私はずっと自信がなかった。得意だったことや好きだったこと(文章を書くとか、文系科目とか)はあったけれども、どれだけ頑張っても「変人」と揶揄される。笑われる。「変人」という言葉に当てはめられることで、彼らの世界観に私までも囚われる気がしていた。

 

自信がないことの弊害は、正当に評価してくれる人の声も耳に入らなくなることだ。救えない。褒めてくれている人の言葉も、こちらは本当に馬鹿にしているように聞こえるんだから。

 

 大学になって、「変人」と言われなくなった。好きなものを好きと言って、一緒に楽しめる友達ができた。母のいう「自信」はこういうところから湧いている。

 

 そういう気付きは他にもある。

 沖縄を出て始まった県外生活の中で、「あなたって島の子っぽい」とか「おおらかだね」と言われることが多くなった。

 

 沖縄に居るときは、そんなこと決してなかった。島の子といえば、離島出身を指すのだと思っていた。沖縄本島に住む私までも島の子なら、沖縄県民は全員島の子だ。性格だって、おおらかさの真逆をいくと言われていた。確かにガサツな一面はあるけれど、せっかちで、短気で、いつも焦燥感に襲われていた。中学生の頃なんて、「あなたの目、ギラギラしている」と言われたことさえある。

 

 こうした私のイメージについて、はじめは「沖縄出身」に対するステレオタイプだろうと思っていた。正直なところあんまりよく思ってなかった。母に電話で「今、おおらかって言われているんだよ」って言ったら、爆笑されたのを覚えている。

 

 でも、今、台湾で生活しながら「私っておおらかなのかもしれない」と思った。正確に言うと、台湾生活の中で他の日本人と関わりながら思ったことだ。

 台湾人の時間にルーズなところも、道をチンタラ歩くことも、列を作らないことも(自分が乗れなかった時を除いて)大抵許せる。

 というか、私も時間にルーズだ。

 

 他の日本人がカッカしているのが、実は少し面白い。なるほど、そうやって感じるのか、的な。

 

 まわりの就活を意識している友達を見ながらも、どこか心にゆとりがある。沖縄の周りの大人が転職を繰り返していることもあるかもしれない。就活のための留学に対する批判を耳にするけれど、それはそれで凄いと思うのだ。私にはできないことだから。

 

 台湾人の「没問題」という言葉が好き。私自身もわりと「まぁ、いいさ」と言っていることが多くて、これがおおらかさなのかとピンと来た。

 

 少し前なら、自分のそういうところを駄目なところとして捉えていたはずだけれども、今となっては、自分のそういう一面も肯定できる。「ゆるさ」というのは海外生活において、重要なスキルであると思うのだ。

 

 つくばや台湾での生活を通して、私自身が変わった部分も大いにある。でもそれ以上に大きいのは、周りの環境で、私自身がそれに適応していっているのだと思う。留学って、外向きな行動に見えて、実はとっても内向きな行動である。

 随分前に流行った自分探しにも似たところがある気がする。台湾で認識している自分自身のことを「ほんとうのわたし」とは思わないけれども。どの私もわたしだし、そもそも私という存在はダイナミックなはずだ。

 

 ここまで書いて、わたしは留学という形式よりも、「移動」に価値を感じているのかもしれないと思った。

 

 


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 関係ないけど写真は昨日食べた鉄板焼き屋さん。台湾の鉄板焼きは結構手頃な価格(台湾感覚だと少し高い)で、大好きです。

 友達と「日本に帰ったら簡単に鉄板焼きなんて食べられないよ」と言いながら頬張った。

 

 自分自身に対して感じている諸々も、日本に帰ったらまた変化するのだろうなあ

日本の大学の友達と、台北をまわった4日間のこと


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 日本の大学の友達が台湾に来てくれた。今は彼女を空港に送って、その帰り。

 少し寂しくて、どこか手持ち無沙汰だから日記を書きます。

 

 家族、沖縄の友達、大学の友達と変わり代わり台湾に遊びに来てくれるのがとても嬉しい。

 誰かと一緒にまわる「台湾」は、普段生活の中で見る「台湾」と違う表情を見せてくれる。

 

 今回まわったのは、お茶屋さんや夜市、故宮博物院という定番から、国軍歴史文物館ような自分一人では決して行かないだろうなっていう場所まで、4日間でかなり楽しんだ。

ちょっと振り返ってみようと思う。

 
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これは国軍歴史文物館

ありとあらゆる武器が並ぶ様子は、なかなか衝撃的でもあった。戦争博物館でなく、軍事博物館に行ったのは初めて。

 

中華民国が辿ってきた戦いの歴史は、知っていたはずだけれども、博物館で実物を見るのと、本を読むのとでは重みが違う。よく「親日国」と称されるこの国で、日本人を殺した武器が、その証拠がズラリと並ぶ。日本人が中国人を殺したその証拠も。

千人針が日本軍のお守りとして展示されていた。不揃いな縫い目を見ながら、ああこれは確かに色んな人が縫ったんだなと事実を確認する。千人針をお願いしてまわる人の姿、一針を縫った人の姿、そしてこれを戦地に持っていった人の姿を思ったあと、「敵国、日本」のお守りとしてこれを見る台湾人のことを思う。一体、彼らの目にはどう映っているのだろう。「無事に帰って来てほしい」その願いは、美しい。でも、美しいだけでは終われないのが戦争であり、人の殺し合いなんだと思った。

 学校の研修で繰り返し行っている、沖縄県の平和記念資料館に行くと、私は「ひどいねえ」と顔を歪める。顔を歪ませたくなるような事実がたくさんある。沖縄人としての私は、自分の生まれ故郷に流れた血に涙を流す。

 でも、台湾の歴史を振り返る時、日本人としての私は「ひどいねぇ」とだけを言って終えてはならない。台湾で過ごす日々は、近代日本がアジアに対して何をしたのか、を感じる日々でもある。

 

 戦争博物館は今まで、何度も行ったことがある。沖縄の平和祈念資料館、長崎の原爆資料館アルメニアのジェノサイド博物館、ラオスの地雷センター(正式名称忘れた)などなど。でも、国軍歴史文物館で抱いた感情は、これら戦争博物館で抱いていたものと異なる。

 

 現在に至る軍事力を示すような展示が多く、台湾がこれを国内外にアピールしなければならない状況にあるのだと思う。段階的に縮小されているとはいえ、徴兵制がある国だ。

 


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中正記念堂にも行った。


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 たまたま最終の衛兵交代を見ることができた。その日最後の衛兵交代なので、中正記念堂ではためいている国旗を降ろす様子も見られた。

 「どこからともなく国歌が流れるはずね」と話していたら、本当に国歌が突然スピーカーから流れ出したので驚いた。(もしかしたら国旗歌かもしれない)厳かに、丁寧に、国旗が扱われる。国旗はただの旗ではないんだぞ、というメッセージが伝わってきて、ゾクゾクした。

 近代国家はその名の通り、近代の産物だ。これを当たり前のように維持していくのは大変なんだろうなぁと思った。国旗も、国歌も国家の象徴として、ただの旗や歌ではなくなるんだから。

 中正記念堂には、高校の修学旅行でも行ったことがある。そのときにも、中正記念堂がもつ政治メッセージにクラクラきたものだ。巨大な蒋介石の像、それは仏像さながらで、偶像崇拝を連想した。ロシアのスターリン像みたいな。永久保存された社会主義国国家主席みたいな。中正記念堂で、クラクラくる感覚を高校生の時より言葉にできるようになっていて、何をどうとは言えないけれども、大学で学んでいるんだなあと思った。

 

台湾に持ってきているものの、積本となっている『想像の共同体』を読みたくなった。読みます。

 

 
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ちなみに、ジブリのアニメーションレイアウト展も中正記念堂でやっていて、ホイホイされてしまった。

中国語でジブリは吉ト力と書く。音訳である。ジブリのアニメは、映像でみてこそ完成品のように思っていたけれど、絵コンテの段階で一枚一枚とんでもなくキマっていて、かっこいい。

台湾で行われている展覧会ということもあり、ジブリ作品の中国語訳もまた面白かった。絵コンテに書き込まれている文字が読めるのは、日本語話者で良かったと思う瞬間。

千と千尋の神隠し」の予告映像を観ながら、友達と「何故カオナシが玄関からではなく、軒下から入るのか」ということを話していた。私たちは民俗学徒なので色々勝手に解釈したくなる。考察上映会をやろうって約束した。

 


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総督府にも行った。日本人ということで、日本語ガイドがつく。ガイドさんは、88歳のおじいちゃん。私の祖母と同い年だ。日本統治時代に日本語を学んだこと、日本に行ったこと、意気揚々と話してくれた。細かい日本語について、例えば「かりそめってどんな意味ですか?」と聞かれる。いくつになっても日本語を学び続けようという意思を感じた。総督府のガイドは、おじいさんの思想がたくさん込められたガイドであったように思う。

 

 総督府を上空から見た時、「日」の字になること、私からすると帝国主義を感じて複雑な思いになるんだけれども、おじいさんは肯定的に話していた。限られた時間内でのガイドなので、触れる展示物についても日本との関係を前向きに肯定するものばかりであった。このことは当たり前かもしれないけれども、私もいま台湾で博物館ガイドをしている身。歴史や文化を解説する難しさも感じた。

 

 「中国は国家が人民のものでないけど、日本も台湾も国家は人民のもの。良かったね」とのおじいさんの言葉には、ガイドを受けていた日本人は苦笑いだった。今度は中国語、もしくは英語でガイドを聞きたいものだと思う。きっと、全く違う解説になるのだろう。

 

 

 

故宮博物院にも行った。

 

 博物館、ひとりで行くことが多いけれども、友達と見る楽しさもそこにはあって。何度も足を運んでいる故宮博物院で、笑いながら観覧したのは、初めてのことだった。かなり語りながら観たので、4時間弱の滞在時間の中、2階の陶器、しかも一部分しか観られなかった。また来よう。

 


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 お寺(行天宮、保安宮、孔子廟龍山寺、青山宮、福徳正神廟)もまわったし、順益台湾原住民族博物館にも行った。同じテンションで楽しめるってこんなに楽しいんだなと思った。

 

台湾で出会っている日本人も大変良い人たちではあるけど、中国語専攻や国際専攻が多く、私が学んでいること、大切にしていることに対しては「どうして学ぶの?お金になるの?〇〇ちゃんって変人だよね」と言われることが多かった。今のわたしは、そうした言葉に傷つく程ナイーブではないけれども、同じような価値観をもつ人とまわる台湾がまた魅力的であった。台湾で「どうして学ぶの?お金になるの?」と私に聞く人は、無意識かもしれないけれど、いつもどこか見下しているような眼差しを向けている。だからこそ人に対して「変人」と評価を下すことができるのだ。そして、普段の私は中国語や英語に自信がないのもあり(彼らの方が中国語や英語ができる)微妙な表情で、変人としての道化を演じるのだ。これは高校までの処世術であり、台湾での処世術でもあった。

 

 でも、友達とまわっている時には「どうして民俗や信仰、歴史や文学を学ぶのか、それは楽しいからに決まっているじゃない」という気持ちになれた。ちょっと人間関係に疲れている時期だからかもしれない。自分の中から聞こえてきたその答えは、自分に自信を与えた。

 

 私は交換留学を本科留学の下位互換だと思っていた。本科生の方が中国語は上手く、SNS では本科生が猛勉強している姿を見るからかもしれない。本科生に対して、どこか申し訳ない気持ちも抱いていた。

 

でも、最近はそうじゃないと言える。まだ上手く言葉にできないけれども、交換留学には交換留学の大きな価値がある。母語で学んだことを下地にしながら、台湾で暮らすこと。台湾で学ぶこと。私には帰る場所である日本の大学があり、(実際に台湾大学で交換生がもともと属しているの大学のことは、home universityと呼ぶ)そこでの友達や先生がいる。それは私の強みだ。実際、つくばの先生が教えてくれたお祭りに参加したり、参考文献を読んだり。台湾原住民族博物館でのガイドも、つくばの友達経由で知ったことだった。

 本科留学と交換留学、どちらが優れているか、という話ではなくて、私は交換留学生としてのびのびと得られるものがたくさんあるはずだと思う。

 

最後に食べたものの写真を貼る
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またスチームパンクカフェに行った。

日本から誰かが来るたびに行っている気がするけれど、美味しくて可愛くて、最高なので問題ない。いつもは紅茶を頼んでいたけど、コーヒーも美味しかったです。お高い、上品な味がした。


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ぶらぶらした市場。最近、街なかの台湾人との会話がスムーズにできるようになってきているので、よくブラブラして話しかけられ、話しかけちゃう。今期は台湾語も履修しているので、次なる目標として会話の中に台湾語も織り交ぜたい。

 

市場に並ぶ商品の中で、あ、これお供え物に使うやつだ!と思うと買ってしまう、民俗学徒なので。

民俗学徒を自称するわりにお祭り行けてないこと、春休みの調査整理が終わってないことを思い出して絶望している。

 


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わたし私の好きな焼仙草。独特な風味があって、日本で言うところの〇〇!と言えないんだけれども、繰り返し食べてしまう。写真映えしないのが、もったいない。

 


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トマトスープの牛肉麺

友達がせっかく来ているのだから、台湾らしいものを、と思って食べた。牛肉が柔らかくてたまらないことは言うまでもないが、トマトスープがまた絶妙に合うんだよなぁ。牛肉麺の新たなる境地って感じで好き。「新たなる」と言ったけれど、牛肉麺トマトスープのコラボは街でそこそこ見かける王道の組み合わせだったりする。

 

 ああ、毎日たらふく食べて、かわりに足が棒になるくらいまで歩いて。とても楽しい4日間だったなぁ。

 

 私が日本に帰国した2ヶ月後に、彼女が北京に留学する。私たちは入れ違い留学で、しかも予定を詰めまくってしまう習性のせいで、今度はいつ会えるか分からない。それでもなんか大丈夫な気がしている。次は私が中国に飛びます。

 

若者にとって地域に参加するメリットとは

 

 いつになく固いタイトルをつけてしまった。しかし雑感です。

 

 沖縄から台湾に戻って約1週間、すっかり日常が帰ってきた。でも、昼寝から目覚めた時とかに感じる微かな寂しさはあって。ほんの少しだけホームシックになっているのかもしれない。何だかんだ言っても私は沖縄と、実家が大事なんです。

 

 さて、タイトルに書いたことは、今回の帰省で感じたことそのものだったりする。

 

 今回の帰省で私は、地域の祭祀に参加していた。それは卒論の為という名目ではあるのだけれども、本当のことを言うと、半分そうで、半分違う。

 今回参加したのは地元の方で、卒論そのものは地元から少し離れたところを調査地もして選んでいるからだ。

 

 だから今回、半分は調査に来た学生として、半分は地元の子供として祭祀に参加させてもらった。公民館が管理しているこうした祭祀ごとは、基本的に地元住民なら誰でも参加できる。

 私は小学校高学年ごろから、地元の子供としてよく顔を出していた。祖父母も、その前の世代も、ずっと地元に住み続けてることもあり、私がちょこまか動いても「ああ、あの子ね」ということで許してもらえている。素晴らしい環境だ。


 今回のある祭祀の参加者は、区長や書記という公民館の構成員と、私、それから地域のおばあちゃん方の合計5名。本筋から外れるから、祭祀の詳しい様子は省くけれど、祭祀の時にこんな話が出た。


 祭祀空間である聖地の管理(草刈りなど)が区長一人の担当になっていることについて、


「区民みんなで管理すべきだ」

という声だ。もっと言うと、若い労働力である若者が、休日に無償で働くべきである、とのこと。


 そういった声を出すのは、地域のおばあちゃん二人。


 区長や書記さんは相づちを打ちながらも、自分の意見を言わなかった。私にも白羽の矢は立ち、「あんた、帰省したら草刈りしなさい」と言われる。その声を私もまた、苦笑いでやり過ごす。

 


 なぜなら、地域の場というのは徹底的な年功序列の場であり、小娘のわたしが口を挟むことは許されないのだから。区長さんや書記さんも似たような立ち位置なのだろう。

 調査者としての私は、その間もフィールドノートにそうした意見が出た、という話を記述していた。こういう時、単なる傍観者になり続けられていたら楽である。


 しかし、地域の子供としての私は、そうとしてはやり過ごせない。


 わたしが感じていたことは、「若者が地域に参加するメリットはどこにあるのか」ということ。


 今回の提案は、「公民館管理の聖地を区民みんなで管理するべき」ということ。

 一見すると、もっともらしいことを言っているが、草刈りなどの肉体労働は若いものたちがやるべきだと主張している。あくまでも、自分たちはやらない、と。別に体力的なことを理由にしているわけでないだろう。補足を入れておくと、私の地元は典型的な農村であり、そういう提案をするおばあちゃん方も、毎日のように農作業をしている。体力的な問題はそこにない。


 次に、現在担当している区長には、区民と税金からの給料が出ている。これは結構な額であり、区長そのものはこの体制に不満はない。


 

 それでも、おばあちゃん方の価値観からすれば、肉体労働などの「嫌な仕事」は、地域の下っ端である「若者」がやるべきなのだろう。


 このことを、実家に持ち帰って弟に言うと、「そういうことなら、自分はさっさとこの地域から出て、都市で一人暮らしするわ」とのことだった。


 そうなることは分かっていた。

 農業を生業としている上の世代からすると、住む場所というのは先祖代々の土地がある「ここ」に限られる。しかし、私たち世代からすると、もはやそんなしばりなどない。

 だから、地域に居るメリット(例えば親戚が近くに住んでいるとか、家を建てる土地があるとか、懐かしい場所であるとか)と、デメリット(地域行事に参加しなければならないこととか、地域の下っ端として扱われることとか)を比較し、選択することができる。上の世代にとっては考えられないことかもしれない。


 このようなことは、私の地域で何度も繰り返されてきた。



 例えば、婦人会について。

 私の母は、地域の婦人会に入ることを頑なに拒んでいた。育児についてワンオペ状態だったし、PTAに入っているだけで色々な役員がまわってくるのだから、精いっぱいという理由だった。


 それに対して、何としてでも婦人会に入って欲しいお姉さま方は

あなたのお父さん、お母さんは高齢よね、死んだら誰が葬式の手伝いすると思っているの?」と言ったという。


 私が幼い頃、私の地元では葬式やお通夜は業者に頼むのではなく、地域の婦人会によって行われるものであった。葬式は自分一人の力でどうこうできるものではない。その為、普段から地域との関係を良好に保つ必要がある。


しかし現在は、葬式は業者に頼んで行う。地域住民が葬式に参列することはあっても、手伝いに駆けつける場面は少なくなった。


 そうした時、婦人会に入るメリットはどこにあるのだろう。


 婦人会には、その昔家庭内で肩身の狭かったお嫁さんの息抜き、という役割もあったという。しかし、それもまた当てはまらない。私の地域で姑と同居している家庭は、数える程である。ましてや、家庭で農業を営みながら、専業主婦を続けている人など、一人もいない。かつて想定されていた形の女性はもう居ない。みんな、共働きでパートなどに忙しいのだ。


 私の地域の婦人会は、そうした社会情勢を受けて、市町村合併に巻き込まれるかたちで消えた。

 


 現在、地域を巡るあれやこれやについて、どうしても損得勘定を働かせてしまう。


 先の話題に戻る。聖地の草刈りも、その昔、みんなが地域の中で生活し、仕事をしていたとすれば、若者が働くのは当たり前なのかもしれない。

 しかし現在はそうでないのだ。


 私の同級生は地域に5名しか居ない。女子は私だけ。だから私の人間関係の中心は地域外にある。高校も地元の高校に行かなかったから、その傾向はさらに強まる。私はたとえ将来沖縄に帰ったとしても、この地域で仕事をしないことを断言できる。


 ここで一応言っておくと、私が例外的なのは、地域の民俗に関心があるということ。その為、地域行事に参加させてもらってきたという感謝がある。地域で生きることの「面倒くささ」さえも、私のテーマになり得る。地域のおばあちゃん方の発言に対してモヤモヤするのは、私がこれまで地域の早起き清掃などにも参加してきた経験があるからだ。だからこそ、こうした問題に直面するし、葛藤を覚えるのだ。


 しかしこれは例外的であり、狭い範囲に住んでいるはずの同級生を見かけることは一切ない。私が葛藤を覚えるのは、これでも地域にコミットしているからである。


 公民館に地域の構成員を聞きに行った時、地域に住む子供に対して「地域の子供」と「そうでない子供」を分けていたことに衝撃を受けた。


 「地域の子供」とは、その地域に親、祖父母の世代から住んでいる子供。多くは一軒家に住んでいる。

 

 「その他の子供」とは、地域に地縁を持たない子供。多くはアパートに住んでいる。


 現在、「地域の子供」はほとんど居ないと聞いた。子供の数が増え続けているはずの沖縄県で、これだ。

 私の地域を取り巻く状況は、深刻だ。地域共同体が継続できるのは、あと何年だろう。


 私はこの地域が好きだ。これは間違えない事実だが、地域に住むことで発生するデメリット(例えば地域行事への強制参加、強制労働、しがらみ)が多ければ、もう少し那覇に近い都市部に住むに違いない。


 しんどいものだ。

 民俗の卒論を書くにあたり、地元をフィールドに選ぶと大変だ、という話を聞いた。確かにその通りであった。しかし一方で、地域はしんどい部分も含めて成り立っている。その部分を身を持って知っていることは、私の強みだ。

 私の地域は、都会からの移住者に人気の土地でもある。カフェも多く、穏やかな時間が流れているとも形容される。でもそれだけのはずがない。都会の人が投影している憧れの裏腹に、しんどさはある。


 だから、言葉にしてみた。解決策は分からないから、雑感でしかない。とても保守的な地域なのだ。


 因みに茨城県守谷市では、地域の空き家をシェアハウスとして住む学生を募集している。家賃は無料である代わりに、条件として

「町内活動及び市事業に参加できる方」を提示している。

 これは、地域共同体を継続していく一つの在り方のように思う。


https://www.city.moriya.ibaraki.jp/smph/shikumi/project/matihitosigoto/mizukino.html