雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

ほおずき市に行ってきました

 

 7月9日・10日に浅草寺で行われていたほおずき市に行ってきた。

 

 私が行ったのは最終日である9日の夕方だったこともあり、浅草駅を降りた瞬間から凄まじい流れの人・人・人。正直引き返そうかと思うくらい。でも、すれ違う人の中には浴衣姿の方もチラホラ居て、しかも一様にほおずきの鉢を手にしているものだから、その輝きたるや素晴らしい。額に光る汗が一層夏を感じさせるから、私も意を決して人込みの中に飛び込む。

 

 

 

 日本の伝統文化は都市化により忘れられつつある、なんていうのが通説だけども、人込みの中にもまれていると、そうじゃないんじゃないかなと思いたくなる。近所のフラワーショップでも買えるような花を買いにここまで出かけるなんて、よっぽどの物好きだ。

 

 

 

 そうは言えども、私も物好きの一人。人込みにもまれながらも、ハッとするくらい鮮やかなほおずきの花を目にすると嬉しくなる。

 紺地の浴衣に朱の花はすごく映えてて、美しい。緑の葉はどこか涼し気だ。大勢の人がほおずきを求めて賑わうなんて、実は豊かなことなのかもしれない。夏日だったのにも関わらず、ほおずき市に来る人はいい顔してた。

 

 

 フラワーショップでほおずきを買わずに、わざわざ浅草まで足を運ぶのは、どこかでこの熱気を楽しみにしているからではないか。「人ごみは嫌ね」なんて言いながら、ほおずきを選んで、自宅に飾らないと夏がやって来ないからではないか。

 

 そもそもほおずき市は、観音信仰との関わりが大きい。ほおずき市の開催日である7月10日は四万六千日 と呼ばれ、この日に参拝すると4万6千日参拝したのと同じだけのご利益が受けられるという伝承がある。そして、その伝承をもとに大勢の人が寺に押し掛けるから、商魂たくましい市が形成される。これがほおずき市のはじまりだ。ほおずきが仏花として扱われるのも関係が深いだろう。

 

 

 たった一度のお参りでご利益を受けようとする精神は厚かましいし、そもそも仏教と現世利益の結びつきってどうなってるんだと思わないわけではない。でも、そういう言い伝えや行事って、微笑ましい。

 現在のほおずき市は、チョコバナナやりんご飴といった出店も充実している。いつ頃から現在の形が定着したかは定かではないけれども、昔から人は信仰を建前にしたお祭りを楽しんでたんだろうな、と思った。日本の観光の原点にあたる、お伊勢まわりも、そういう側面をもつことだし。

 

 

 もちろん私も参拝しましたとも。因みに閏年である今年は、お遍路のご利益も3倍。川越と二子玉川で簡単お遍路を二回もまわった私には、そろそろ宝くじくらい当たってもいいんじゃないかな。

 

 そして、ほおずきも買った。かなりの貧乏学生で、友達とのスタバもパンケーキも我慢しているのに、ほおずきの鮮やかさを前にすると我慢できなかった。小さな木籠に三つだけだけれども、形の良いほおずきを選定するのは楽しく、自室は一気に華やいだ。

 

 

 そんな豊かさを噛みしめられる人になりたい。季節の行事に参加して、四季の移ろいに気を配れるのも、受け継がれてきた歴史や民衆の声に耳を傾けれる豊かさ。激狭で何にもない部屋だけれども、花の美しさを楽しめる豊かさ。

 普段は課題やらテストに追われて季節の変化に気づかないかもしれない。貧乏生活でスイーツをあまり食べられてないかもしれない。でも、ほおずき市のような行事があって、そこで楽しめるんだったら、私は十分豊かな生活を送っている。