雑記帳

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アンジェラ・アキ『手紙』批評文~国語の授業から~

 

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国語の授業で、アンジェラ・アキの『手紙』についての批評文を書かされた。

 

 

 

 

アンジェラ・アキ『手紙』の批評文

                 3年1組42番

 

 「15の僕」から「未来の僕」へ。また、「未来の僕」から「15の僕」へ。時を越えた「僕」のやり取りを描いた歌、それが『手紙』だ。そこには、余計な部外者もわずわらしい課題も存在しない。あるのは、「今」と「自分」だけだ。だからだろうか?『手紙』には、普段口にする衣恥ずかしいような、真っ直ぐで混じりけのない言葉があふれている。

 

 そんな言葉に私は、とまどいながらも、この歌に惹かれていた。それは、「生きることは苦くて甘い。小さな自分が消えてしまいそうなくらい、世の中は大きく、複雑だ。でも、苦くて甘いから、世の中が複雑だからこそ、強く生きるしかない。どんなに辛くとも、笑顔を見せて生きていこう。」というアンジェラ・アキから、もしくは未来の私からのメッセージが、歌から確かに聴こえてくるからなのかもしれない。

 

 私には、「今」が分からない。「今」はどうしてあるのか。「今」は今後の私にとって、どのような意味をもつのか。「今」は一体何なのか。卒業という別れの足音を聞きながら、私の「今」に対する問いは膨らむばかりだ。

 だから、『手紙』の歌詞にある「苦くて甘い今を生きている」というフレーズが胸にひっかかった。そこフレーズには、私の抱える問いへのヒントが隠されている気がした。この批評文で私は、「苦くて甘い今を生きている」というフレーズに注目し、苦くて甘い今とは何か。また、今を苦くて甘いと認めたうえでの「生きている」ことの強さや意味を考えてみたい。

 

 『手紙』で描かれている「15の僕」は、何かの悩みを抱えているようだ。それは、きっと誰にも話せずに、唯一、未来の自分にだけ打ち明けられるような悩みだ。もしかしたら、「15の僕」にとって、このセカイは悩みだらけの生きにくい、真っ黒な世界にうつっているのかもしれない。

 そのような「15の僕」に対し、「未来の僕」は「今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じて歩けばいいの 大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど 苦くて甘い今を生きている」と返している。このやり取りから私は、「15の僕」が小さく、弱い存在に対し、「未来の僕」は大きく、強い存在だと感じられた。

 

 私が思うに「未来の僕」の強さは、「肯定」の強さだ。「大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど」と、素直に自分の弱さを認め、「苦くて甘い今」と、ありのままの複雑な今を肯定したうえで、「生きている」と言っている。それはとても勇気のある行動だ。

 

 私は、「今」を認めることがこわい。「今」を認めたら、もう少しで中学生でいられなくなる現実も直視しなければならない。また、時がこわく怯えている自分も、何も分からず、ただひたすらに大人に甘えている幼い自分も知らなければならない。それは、ものすごく嫌だ。そのような現実も、情けない自分もみたくない。きっと。「15の僕」も同じだろう。だから、「ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて 苦しい」のだ。

 

 「15の定義」で私は「時が残酷だと感じる年」と書いた。中学校生活は、とにかく流れがはやい。最近、私は中学校の制服に袖を通したばかりだというのに、今はもう、少し制服がきつい。とてもはやい毎日の中で、私は何度も取り残されてしまうような恐怖につつまれた。そのたび私は、「立ち止まりたい」と願ったのだった。でも、いくら願っても時が止まってくれることはありえない。だから、時は残酷なのだ。

 

 また、クラスメイトの「15歳の定義」で「大人か子どもかあいまいな年」という作品があった。15歳は微妙な年頃だ。大人に頼らなければ生きていけない。しかし、全くの子どもというわけでもない。中学生としても責任も背負っている。わけの分からない年頃だと言えるだろう。だから、私はそのようなあいまいさが嫌で、もがくのだ。

 

2つの定義から、私はより一層「今」について考え、心から「今」について感じるものがあった。私たちは、分からないことだらけのなか、生きている。「今」についても分からない。「自分」の存在もあいまいだ。「未来」については想像もできない。現実は、まるで嵐のようだ。

 

 嵐のなかで生きていくには、強さが必要だ。荒れた青春の海でも、明日の岸辺へと夢の舟をこぐことができるような強さがなければ、小さな私は消えてしまうのだから。

 

「未来の僕」はどうやって、そんな強さを手に入れたのだろうか?どんな風に行動したら、どのように毎日を過ごしたら、私は「今」を「苦くて甘い」と認めることが出来るのだろうか?誰か、教えてほしい。

 

そのような強さを求めるうちに気がつくと私は、「今」を見つめていた。以前は向き合うことさえこわかった「今」を見つめることができたことは『手紙』の力だ。

 

 私の生きる「今」は、複雑だ。笑顔の裏には涙が、出会いの裏には別れも隠れている。私が、そのような「今」を肯定できるまでには、まだ時間がかかるだろう。それこそ、「未来の僕」のように「苦くて甘い今を生きている」といえるまでには、まだまだ私は、小さく、弱い子どもだ。

 

 それでも私は、いつかそのような強さを手に入れることが出来るだろうか?この問いの答えは、何となく未来の私が知っている気がした。私は、強くなりたい。たとえ、時間がかかっても何度挫けそうになっても、絶対に「今」から逃げない。

 

 そう心から思うことで、「今」がほんの少しだけ見えてきた。私は、「今」が意味のある「今」であると信じている。「今」はきっと、私が考え、未来につなぐためにあるのだ。悩みぬいた「今」はいつの日は私の「過去」となり、私を支えてくれるだろう。「今」が「過去」になり、「未来」が「今」となる。その間には、たくさんの笑顔や思い出もうまれる。なんだ、時は私が思っているより残酷ではないかもしれない。「今」がある限り、「今」に私が居る限り、きっと大丈夫だ。

 

 『手紙』を授業で考えることで、私は「今」について考えた。そして、この批評文を書くことで、私の問いは光を見た。私はもう、「今」は「未来」につながっていると信じ、「今」という時に対して前向きでいられるだろう。

 

 最後に、「15の今」を石川啄木の有名な歌にのせて終わりたい。

 

 不来方のお城の草に寝ころびて

 空に吸われし

 15の心

 

私は、これからも15歳として生きていく。

 

 

編集後記

 もはや批評文になっていない気がする。

反省する点はたくさんある。

書きたいことはもっとたくさんあったのに、その半分も書けなかった。

もっと、この曲について考えたかった。

作文をうまくまとめるために、ほんの少し「いい子」になった。それは、すごく残念だ。

 

次はもっと、ためらいなく書けるようにしよう。また、批評文を書きたい。