雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

昨日の続き

 

 

 昨日書いた、

黙想タイム~目を瞑りたくなかったのに~ - きのこのこののこのこ

 には後日談がある。

 

 実はあの話、私が授業中に書いたメモだ。

一度、黙想タイム中に目を瞑らず、注意を受けた私はふてくされた。

かと言って、先生に文句を言うわけにもいかず、その感情の持って行き場を完全に失った私は、小さなメモ用紙に「どうして?」や「おかしい」を書いてた。

 

 でも、それをやっているのは授業中。周りが静かに説明を受けているというのに、メモ用紙に一心不乱で何かを書いている私は目立つ。授業妨害こそしていないが、思い切り悪目立ちだ。

 そして、先生は私のもとへやってきて言う。

「おい、何をしているか」と。

 きっと先生は、手紙交換のものでも書いていると思ったのだろう。

 

 私としては、「よっしゃ!これを待っていた!」という気分。

なぜなら、先生が私のもとに来てくれさえすれば、私は先生に意見を言える。また、授業中に書いていたメモも取り上げてくれると、目を通すだろうからそれでも意見を主張できる。もし、クラスの前で読み上げてくれればこっちのもんだ。

 

 授業を止めてまで、先生に歯向かうのは正直面倒臭いうえに、私の言葉に耳を貸してくれにくい。でも、この方法ならきっと私の言葉は先生に届くだろうし、大きく授業を止めることにもならない。まさに、チキンな私にとっては作戦大成功だったのだ。

 

 

 

そして、私のメモを取り上げ、読んだ先生ははっとした顔になり、辞書を探し始めた。

引いた言葉はもちろん「黙想」

 

 

 

 あぁ、言葉が先生に届いたのだととても嬉しくなった。

私の話を信じてくれて、「黙想」という言葉に、我が中学校のやっている「黙想タイム」に、先生が私を注意したことに、疑問を抱いてくれた。

それだけで、先生のことが好きになった。

 

 

 

私の言う「黙想」が正しく、私が受けた注意は間違っていることに気付いた先生は私に言った。

 「ごめんな。知らなかった」

 

 

 

 それからは、黙想タイム中、目を開けていても注意を受けないようになった。

 

 端から見たら、「たかが黙想」そんなことにここまでする私は呆れられるだろう。(実際に呆れられた)でも、私にとっては「されど黙想」わずか数分間のことだが、引っかかって仕方がなかったのだ。

 

 疑問を持つことがいかに無駄なことでなく、意見をいうことがいかに大切なことで、理解してもらうことがいかに嬉しいことなのかを全身で感じるきっかけになり、馬鹿らしいことでも、思い切ってぶつけてみるものだと学んだ。

 

 まずは、先生が私のメモを「バカらしい」と捉えずに向き合ってくれたことに、しっかりと辞書を引いて間違いを認めてくれたことに感謝だ。

 

 それにしても、

 どうしてクラス全員、否、全校生徒が何の疑問を持たずここまで間違った「黙想」の捉え方をしていたのだろうか?

 そういえば、「黙想タイム」が取り入れられた当初、誰も目をつぶれとは言わなかった。でも、皆目をつぶるものだと勘違いした。それはどうしてだろう?

 これが集団心理なのか?

 皆が目をつぶるからといって、私は今まで何も考えずに目をつぶっていたのか?

  

 こわい。

 

編集後記

 こうやって、生徒の方まで降りてきてくれる先生はすごいと思う。

また、こうやって何歳も下の生徒に対して、素直に間違いを認められる先生はカッコイイ。

 私はそういう大人になりたい。