今日、暇があったので寺田寅彦の『コーヒー哲学序説』を読んだ。この作品は私がkindolleでよく一番初めの作品だ。
- 作者: 寺田寅彦
- 発売日: 2012/09/13
- メディア: Kindle版
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内容を説明すると、幼き日の思い出からコーヒーに惹かれている作者が、その思いを語るエッセイだ。もちろん、ただのエッセイではない。そこにはかすかな渋味がある。渋味は読者を見事に、夢中にさせる。私もその一人だ。
青空文庫で簡単に入手できるうえ、気軽に読める量と文体だから、私もさらっと読むことができた。
感想
私はコーヒーが苦手だ。苦いからである。カフェオレはうまいが、コーヒーの苦さだけはごめんだ。だから、コーヒーの魅力を語っている前半部分にはどうも共感できない。
しかし、「自分がコーヒーを飲むのはどうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる」の一文で、私は「おっ?」と思った。そして、気がついた頃には一気に引きこまれていた。
作者はただのコーヒーが好きなわけではない。「人造でもマーブルか、入色硝子のテーブルの上に銀器が光っていて、一輪のカーネーションでもにおっていて、そうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のようにきらめき、夏なら電扇がずじょうにうなり、冬ならストーヴがほのかにほてって」いる中で飲むコーヒーの味が好きなのだ。幼き日の思い出がうっすらと思い出されて、どんなに固まったアタマもほぐしてくれるとも言っている。
それなら分かる。私は買い食いのお菓子が好きだ。放課後、地元図書館裏の干潟を向いて座り、買い食いしたげんこつ棒やアイスを舐める。そこは完全なる私だけの世界。しばらくすると夕日が落ちて「OO町の皆さん、6時になりました。よい子は~」という放送も流れだす。実に寂しい瞬間なのだ。その瞬間を私は一人で味わう。すると、買い食いのお菓子の甘さが一層引き立つ。
私も「お菓子を買い食いするのは、どうもお菓子を買い食いするために買い食いする」のではないように思われる。あの駄菓子の味は、かすかな潮の香りとどこまでも続く汚い海、それに「ひとり」だから生まれるのだ。
私はお菓子が好きだ。しかも、買い食いはわくわくするし、干潟はもっと好きだ。お菓子は、健康に悪い。食べ過ぎると太ってしまう。買い食いや干潟へ行くことも校則で禁止されている。
でも、私は絶対にあの瞬間を辞めることはできない。
干潟で見る光景は世界をも美しくする。帰り道に干潟によった夜は、いつもと世界が違って見える。星が綺麗だなと思う余裕ができる。一杯のココアを楽しむ気持ちになれる。翌日の学校さえも、少しは楽しみに思える。それは、どうしても捨てられないのだ。
あの瞬間がなければ、私が毎日感じている「教室の騒々しさ」や「集団生活」をどこで流せばいいのだろうか?一日の終り、げんこつ棒とともに干潟で涼む時間があるからいいのだ。
そこまで干潟での買い食いに依存する私は、「買い食い依存症干潟併発型」だろう。
「禁欲主義者自身の中でさえその禁欲哲学に陶酔の結果年の若いのに自殺したローマ詩人哲学者もあるくらいである」
これは、作中で気に入っている一文だ。
これを読んで、誰もがそうなのだと思った。友人は細かいことしたい病によくかかる。友人曰く、「細かいことをしていないとイライラする」だそうで、突然点描を始めたり、とんでもなく複雑な花を描いたりする。
私は、彼女のそんな様子を半ばあきれながら、半ば感心しながら見る。でも、彼女と私には何の違いはないのだ、きっと。もちろん、ローマの禁欲主義者や作者とも。
「芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思う」と作者は語る。
そして、「自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない」と言う。
私にあの時間は、どんなに美しい芸術や宗教よりも大切なものだ。たった10円のげんこつ棒は干潟で食べることによって、クラシック音楽以上の価値が生まれる。人間は所詮、そんなものなのかもしれない。
少々食い意地をはっていようと、それは私にとっての哲学であり、宗教であり、コーヒーなのだ。
とめどなく何の考えもなしにここまで来てしまった。読書感想文のつもりで書いたこの文章はエッセイとも感想文とも似つかないものとなってしまった。でも、それでもいいやと思えるのは、今日も干潟で涼むことができたからかもしれない。
編集後記
読書感想文の類は、授業でよく書く。その時の「2,000字以内」というルールに慣れてしまったので、ブログのように自由なものでも2,000字くらいにまとめてしまう。