きのこのこのこのこ

最近大学生になりました。南の島から東路の果てへお引越し

文学碑巡り 第一弾~那覇の文学碑編~

文学碑巡り第1弾~那覇の文学碑~

 

 ある冬の日。私は友人とある計画を企てた。それは「文学碑巡り」。那覇市を中心に沖縄県に点在する文学碑を巡る、という単純なものだった。地図を頼りに歩いて文学碑を探す。そこにはちょっとしたハプニングやそれに伴う感動があった。文学碑の紹介とともにその道中を回想したい。

 

 

目次

貧しさの中でうまれた詩 山之口貘詩碑

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 私と友人がはじめに訪れた文学碑は、那覇市与儀公園内にある山之口貘詩碑だった。与儀公園に隣接している県立図書館が友人と私の待ち合わせ場所だったこともあり、すぐに見つけることができた。しかし、年月が経っているせいか、肝心の文字が読めない。文学碑に歴史があることは素晴らしいが、文字が読めなくては意味が無い。私は少し臍を曲げた。これでは先々が思いやられる。結局、目を凝らして何とか文字を解読することができたが、写真ではこの文学碑の魅力は伝わらないだろう。なんとも残念である。ここで文学碑に刻まれている詩を引用したいと思う。

  

座布団 

  土の上には床がある

  床の上には畳がある

  畳の上にあるのが座布団で

  その上にあるのが楽といふ

  楽の上には

  なんにもないのであろうか

  どうぞおしきなさい

  とすゝめられて

  楽に坐ったさびしさよ

  土の世界をはるかに

  みおろしているやうに

  住み馴れぬ世界が

  さびしいよ

 

 作者である山之口貘は一九〇三年に那覇市東町で生を受けた。県立第一高校(現首里高校)に入学すると共に絵をはじめ、のちには詩を作るようになった。学校では標準語を使うように指導されたが、反発してわざと琉球語を使った。その後、一中を中退し上京。日本美術学校に通いながら、静物画や自画像を描いて美術団体に出品した。

 上京した翌年、関東大震災にあい帰郷、翌一九二四年、再び上京するが職もなく、間もなく帰郷。沖縄各地を転々とした。一九二七年、三度目の上京をするが定職はなく、本格的な放浪生活に入った。様々な職業に就きながら貧乏生活の中、詩を書き続け一九七篇の詩を残した。

 

 

 碑面の『座布団』は作者が最も愛した作品だ。文字は母校の首里高校に保存されている自筆お拡大して刻んだ。詩碑自体は作者の一三回忌にあたる一九六三年七月一九日に建立された。建立費用は県内外の二万人以上の人々の募金で賄われたそうだ。

 

 

 与儀公園は人気の高い公園だ。私自身、幼いころから何度も利用した記憶がある。その公園の片隅に立っている文学碑。古ぼけていて、地味の一言に尽きる。文学碑巡りをするまでは存在すら知らなかった。でも、そこには深い想いがあった。私はこの『座布団』の詩が好きだ。貧乏だと嘆きながらも、ユーモアさを決して失わないその余裕と世界観に魅了された。二万人以上のファンによって建てられ、ずっと公園の片隅で沖縄を見つけてきた文学碑。私には貧乏を笑う余裕は無い。そもそも貧乏ですらなく、強いて言うのならテストと赤点を恐れている小娘だ。そんな私は日々何かを恐れてせっせと机に向かう。余裕などそこには存在しない。作者はそんな私をどう思うだろうか。ふと、切なくなった。足を止めて、目を凝らして文学碑を味わう。その楽しさを全身に感じた瞬間でもあった。文学碑巡りを終え、この紀行文を書いている今もなお、山之口貘について知れば知るほどその魅力に取りつかれる。また、文学碑の静けさをもっと味わいたいと思うのだ。だからこそ文字が消えかけ、写真では到底その魅力を伝えられないことが大変勿体無い。すぐに見つけることができるので可能ならば、是非足を運んで欲しいと思うスポットだ。

 

 

 

人妻の悲しき唄 瓦屋節の碑

 

 

 与儀公園をあとにして二つ目に巡った文学碑、これがまた厄介なものだった。頼りにしている地図が古く、「山形屋裏」としか書かれていないのだ。お気づきの人もいるだろうが、山形屋はもう存在しない。私が産まれてもない頃にあった古いデパートなのだ。しかも、そこは那覇の中心地。当然、地図とは異なる点がたくさん出てくる。

 

 とりあえず地図の通りに文学碑を探したが、全然見つからない。私は那覇から遠く離れた南部の田舎民。「都会=怖い」の方程式が頭にはこべりついているので、そもそも那覇をよく知らない。さて、困った。勇気を出して、観光案内所に道を訊いたが怪訝な顔をされた後「多分、見つけられませんよ」と言われる。悔しい。田舎もんだからって、見た目は中学生にしか見えないからって、馬鹿にしやがって。ここからの道のりはいろいろなことがあった。何度も諦めかけた。何度も那覇の路地裏をウロウロして、その分何度も休憩した。その度に「瓦屋節の碑」について人に訊いていたので、文学碑周辺の地区では私と友人のことが話題になっていた。文学碑を巡る高校生そのものが珍しいのだろうか。

 

 

 一度ばかりは、もう無理だと決めつけて逆方向に向かったこともあった。文学碑のことは頭の外に追い出してカフェに入り、買い物も楽しんだ。福州園という観光地にも行ってみた。(大変素晴らしい所だったが、主題とずれるので割愛)でも、結局は「瓦屋節の碑」を諦めることが出来なかった。まぁ、それはひとえに友人の「諦めない心」のおかげなのだが、何だかスポ根マンガのようなことを学んだ気がする。

 

 

 ここで文学碑の説明をしたい。「瓦屋節の碑」は、朝鮮人陶工に強引に添わされた悲しい人妻の物語が隠されている。その朝鮮人の陶工とは張献功と言われている。豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵に参加した諸大名が競って陶工を連れ帰り、藩内の陶業を盛んにしたことが有名だ。張献功もその一人であった。彼は一六一七年、尚寧王に招かれ薩摩から沖縄にやってきた。那覇港の近くの港に住み、王府の命令により御用品を制作する傍ら、若者たちにツボの焼き方などの指導を続けていた。

 

 ある日、首里郊外を散歩していた張献功は、美女を発見。ぜひ我が妻にと王府に願い出た。しかしその美女は人妻でしかも子供までいた。それで諦めるように説得をしたのだが、張献功は頑として聞き入れず、「あの女を妻に出来ないのなら国に帰る」という始末。王府は彼がどうしても必要だったので、国のためとして女を夫や子供から引き離し、張献功の妻とした。

 女は国賓扱いの彼のもとで不自由ない生活を送ったが、別れた夫や子供への想いは日に日に募るばかり。陶工の目を盗んでは丘に登り、故郷の夫を恋い慕ってうたったのがこの「瓦屋節」なのである。

 

 

 なんとも悲しい話である。この張献功の墓は緑ヶ丘公園にあり、すぐに見つけることができた。しかし、歌碑はなかなか見つからない。そのことが余計に悲しさを募らせる。この名前も知られてない女はどうなってしまったのだろうか。朝から始まった文学碑巡りだが、この時は既に夕方となっていた。

 

 最終的に私達を救ったのはタクシーの運ちゃんだった。私達の存在は噂により知っていたようですぐに事情を把握、なんと文学碑まで案内してくれたのだ。その知識の深さと優しさには感動した。

 

 

 瓦屋節の碑は「発掘調査中」と札がかかっている山の中にあった。道理で見つからないはずだ。でも、その山がすごかった。古い墓が多く残っている関係で手が付けられず、都会の中に山がひとつポツンとたっている状態なのだ。そしてその頂上に探していた文学碑があった。長い道のりを経て見つけることができた瓦屋節の碑。私達は大興奮していた。しかし、タクシーの運ちゃんは言う。「この山から遠く離れた家族を想い、うたったのかねぇ。那覇の街はすっかり変わってしまった。今は立派な観光地だ。でもねぇ、そんな歴史があったことも忘れてはならんよ。表面だけの沖縄ではなく、そこで生きた人の想いも含めた沖縄をいっぱい勉強しなさいよ」と。

 

 

 実際は方言たっぷりだったうえ、訛り全開の言葉で言われたのだが、不思議と私の心に響いた。私は毎日学校へ行って勉強しているが、まだ何も知らないと思うのはこんな時だ。瓦屋節の碑はあくまで伝説で、今私がどう生きようと何にも関係無い。でも、昔の沖縄の人の気持ちを一つ一つ汲んでいきたいと思った。私はやはり沖縄と文学が好きだ。

 

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 瓦屋つぢのぼて

  真南向かて見りば

 島ぬらる見ゆる

  里やみらん

 *1

 

 

誇り高き泉崎人の故里賛歌 石川精通歌碑

 この日最後に巡った文学碑は、石川精通歌碑だ。瓦屋節の碑を探すのに時間がかかりすぎたため辺りはもう薄暗い。親が迎えに来た友人と別れ、この歌碑は一人で探した。那覇市泉崎のバスターミナル構内にあり、簡単に見つけることができた。

 石川精通は、一八九七年九月、那覇市泉崎で生まれた。県立第一中学を経て東京の麻布中学へ進み、東北帝国大学を一九二八年に卒業、その後は教育界で活躍した。

 彼は常に出身地の泉崎人を自負し、この歌もまさに誇り高き「泉崎人」をうたいあげた内容となっている。

 

 

 正道の専門は英語だったが、話術に長け毒舌家でもあった。直感力が鋭く、警句や風刺、ユーモアも抜群で琉球方言をよく使い、ラジオで放送された「正道放談」は人気だった。また彼は東京にいながら、こよなく故里の沖縄を愛し、「資源の乏しい沖縄を救うのは人材の育成しか無い」と、学生のため自ら奨学基金「石川正道英語教育振興基金」を設けている。

 常に機知とユーモアに富んだ話術で多くの人に慕われた石川正道だったが、一九八二年十二月二日、脳軟化症のため帰らぬ人となった。歌碑は一九八四年十月に完成している。

 

橋内の

誇りも高き

泉崎

昔も今も

人美しく

 

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 他の二つと比べて特別古いわけでもなく、文字もはっきり読める。しかも、目立つ所に建っている。だからだろうか。そこに感動はなかった。しかも私は、泉崎人ではない。それどころか南部の田舎に住んでいる。泉崎人の誇りなど分かるはずがなかった。むしろ、この妙な誇りは何だと鼻で笑いたいくらいだ。でも、唯一歌碑の力強さには虜になった。バスの時間は迫っているにも関わらず、何故か私の目は歌碑から離れることができなくなっていた。

 

 何が私を夢中にさせたのだろう。考えてみると、それは私を嘲笑させた「泉崎人の誇り」だった。石川正道に限らず、高齢の方に言えることだが、皆故里を大切にしている。私も沖縄の良さは知っている。でも、お年寄りの故里パワーには敵わない。石川正道に至っては、東京にいながらして沖縄LOVEを叫んでいたのだから、すさまじいパワーだ。しかも、東京でも琉球方言をよく使ったという。そもそも相手に通じていたかさえ怪しいうえに、当時は標準語運動が盛んなはずだ。

 

 今の私にはそんな強さは無い。だからこそ、石川正道の一本筋の通った郷土愛には魅了された。羨ましいとさえ思う。私もそんな強さを持てるだろうか。

 

 

 

 

 またわずか一日の行程だったが、私が得たものは大きかった。まず、沖縄人の心に触れることができた。普段はあまり意識しないその心。しかし、沖縄の地には深く根付いていた。私達若者は、それを継承していかなければならないのだと感じる瞬間でもあった。また、私達はタクシーの運ちゃんを始めとする「他人」にたくさん助けてもらった。たくさんの昔話を聞かせて貰った。仕事中にも関わらず、嫌な顔一つしなかった。私は優しさに触れることができた。 

 

 合計三つの文学碑を巡ったところで、私は帰路についた。この文学碑も原稿用紙換算で一〇枚を超え、そろそろ筆をおきたいところだ。今回の文学碑巡りは理屈抜きに楽しかった。古い地図を片手にたくさん歩いてくれた友人よ、振り回してごめんね。中学までは文学というマニアックな趣味に付き合ってくれる友達がいなかった分、今回一緒に巡ってくれた友人には感謝したい。

 

 

 沖縄県には文学碑が多く存在する。私が今回まわることができたのは、ほんの一部だ。私の文学碑巡りはまだ終わらない。友人よ~、また付き合ってね。*2

 

 

 

 参考図書

 『沖縄 文学碑めぐり』 

垣花武信 東江八十郎 著

*1:

 

 「瓦屋節の碑」は琉歌である。琉歌とは、「沖縄の歌曲で、八・八・八・六を基本とした短歌。様々な節をつけるので節歌ともいう。」以上広辞苑第六版より引用。

 方言に慣れていないと解釈に戸惑うかもしれないが、意味自体は簡単だ。人妻の伝説を元にしているので、高校生でも分かる内容となっている。野暮だが、ここに訳を載せたい。「瓦屋の小高い丘の上に登り、南の方を見渡しても島の浦は見えるけれど、恋しいあなたは見えない」だそうだ。私自身、聞いたものであるから偉そうなことは言えない。

 

*2:2013年高校文芸部部誌冬号に掲載したもの