雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

文学碑巡り 第2弾~波の上宮編~  

文学碑巡り 第2弾~波の上宮編~  

 

 

 三学期修了の日。この日は授業が午前中のみだった。しかし、一年間過ごした教室をあとにするのは何となく名残惜しかった。翌日から春休みが始まるのだと思うと、そのまま帰宅するのが寂しい気がした。かと言って、立地条件の悪い我が校から遊びに行けるところはそうない。だから、思い切って私は友人にこう言った。

「これから文学碑巡りに行かない?」

と。友人の返事はイエス。こうして私の文学碑巡りの第二弾が始まった。

文学碑巡りとは、那覇市を中心に沖縄県に点在する文学碑を巡るという単純なもの。前回は文学碑の本を参考にしながら歩いたが、今回は思いつきで始まったものなので、それもない。本当に行き当たりばったりのものだ。それに同行してくれた友人は文学に興味なし。因みに前回同行してくれた友人とは別の人だ。(みんなよく私のマニアックな趣味に付き合ってくれる。感謝。)それもあって、折角付き合ってくれた友人に文学碑の魅力を伝えるというのも今回の目標だったりする。

 

 

目次

哀愁ただよう 那覇の海風

 那覇市若狭の波の上宮にある文学碑。波上宮とは琉球王国の総鎮守として信仰され、現在もなお沖縄の総鎮守として信仰されている神社である。新年には初詣を目的とした沖縄県民で賑わう。

 

 その歴史は古く、そのため文学碑も多く点在しているだろうと見越したのだ。そして私の推理は見事に当たり、こうして紀行文を書いている。行き当たりばったりの旅にしては、何ともつまらないくらい順調だ。ここで歌を引用したい。

那覇の江に

はらめきすぐる夕立は

さびしき舟を

まねく濡しぬ

 

 

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 この歌の作者は折口信夫。明治20年2月11日生まれ。前回の文学碑の作者は皆沖縄人であったが、この人は違う。それだというのに、どうして沖縄に文学碑が残っているのか?私は疑問に思った。折口信夫は優れた民俗学者である。彼は三度沖縄に訪れた。その際、糸満市摩文仁から沖縄島最北端の地である辺戸岬までほとんど歩いたという。その道中、彼は各地の行事や祭り事の聞き取り調査を行った。このことについて、折口信夫は「私は、島の伝承に、実感を催されて、古代日本の姿を見出した喜びを、幾度か論文に書き綴った」と述べている。彼は沖縄に訪れることで、古代日本の文化論や民俗学においての礎を発見したのだ。日本の民俗学者として最も有名であろう柳田國男もそうである。

 

 

 また彼は沖縄学の父として有名な伊波普猷とも友人であった。沖縄学の構築にも示唆を与えただろう。このように折口信夫にとって沖縄は馴染み深い地だった。だから、沖縄出身でもない彼の碑が沖縄に建っているのだ。

 さらに彼は「釈迢空」という号をもつ歌人でもあった。歌人としての人生もすごい。折口信夫は有名な正岡子規の短歌会に参加していたという。その後これまた有名な北原白秋らと『日光』を創刊。沖縄に関する作品を多く遺しているという。

 沖縄に深い愛情を注いだ折口信夫は、昭和二八年、胃がんの為に死去した。彼の遺体は沖縄の芭蕉布に包まれて棺に収められていたという。

 

 こんなにもすごい人の文学碑が沖縄に建っていると思うと何となく誇らしくなるものだ。しかも、彼は沖縄を愛していた。こうなると沖縄がとてつもなくすごい地のようにも感じる。すごいぞ、沖縄!

 

 

 文学碑自体の説明をすると、「那覇の江」とは那覇港のことである。今もなお那覇港は沖縄の海の玄関として賑わっているが、折口信夫が訪れた大正時代はもっとすごかったらしい。でも、なぜ栄えているハズの那覇港が哀愁ただよう表現になるのか?その答えは、前回の文学碑巡りで頼りにした『沖縄文学碑めぐり』という本にあった。この本によると、那覇港近くには昔風月楼という高級料亭が建っており、夜は明るいランプの下それはそれは賑わっていたという。

 この風月楼の下方の街では小さな舟がランプを灯し、哀愁に満ちた島唄を三味線にのせて佇んでいた。風月楼のきらびやかさと対照的に、その舟はまさに「さびしき舟」であったということ。

 これでこの文学碑に関する謎はすべて解けた。文学碑を巡る道中には思わぬ歴史が隠されていた。これだから文学碑巡りはやめられない。折口信夫の凄さも当然だが、那覇港の賑いにも興味がわく。今でこそ沖縄と本土をつなぐのは飛行機が主流だが、あの時代は違う。那覇港もきっと今よりもっと趣深いものだったのだろう。今回の文学碑巡りは波の上宮をターゲットとしたが、次回は港をターゲットとしても良いかもと思った。

 

古き良き時代 那覇の風景

この文学碑はまたしても波の上宮にあった。しかし、これを見つけるのは少々困難であった。なぜなら、文学碑が道の正面を向いていないのだ。どの方向からも見られないところを向いていた。自力で探すのは無理がある。そこで私は「他力本願」を発揮した。どうでもいいが、この他力本願は私の得意技だ。人は皆支えあって生きているというし、まぁいいさ。

 

 私がそこで頼ったのは、なんと神主さん。やはり神主はかっこいい。なんと言ってもあの服装。まるでアニメの世界から出てきたみたいだ。私達のために生け垣を登って何とか碑面を写真に収めてくれた。必死すぎる神主を見ているとたまらなく申し訳ない気持ちになったのはなぜだろう。

 

 朱の瓦 屋根のかげろう

 春の日に

 ものみなよろし

 わが住める那覇

 

 

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 春の日の美しい那覇を歌った歌。文学碑めぐり第一弾でも紹介した「石川正通歌碑」とも似たような印象を受ける。どんだけ那覇の街は素晴らしいのだ!ということ。文学碑を探す上でもよく感じることだが、昔の人はとにかく沖縄を愛している。特に那覇のことを誇りに思っている。現在に生きる私にはそこまで沖縄の魅力が分からない。(だからこそ、この文学碑めぐりの魅力に取り憑かれているとも言えるのだが。)

 作者である山城正忠は、沖縄の近代短歌史上に大きな足跡をのこした代表的な歌人である。

 明治一七年那覇に生を受けた正忠は、中学時代から文学に優れた才をみせていた。その後明治三八年に近衛師団に入隊し、その頃短歌を志すようになったという。除隊後、歯科医をめざして再び上京し、専門学校で学びながらも短歌の世界でも頭角をあらわしていた。国語の教科書に乗るくらい有名な歌人である、与謝野晶子らとも交流を深めていた。石川啄木とも友人であったという。

 帰郷後、正忠は那覇市で歯科医として働く傍ら、歌人としても活躍を続けた。特に対象五年から数年間続けた『沖縄朝日新聞』の歌壇の選者としての活躍は、沖縄歌壇に大きな影響を与えた。「新しがりやで、負けず嫌い」と文人仲間が評した正忠は、その持ち前のパワーで短歌の他にも小説や戯曲なども書いた。沖縄の文芸にも大きな貢献をしていると言えるだろう。

 

 

 前回に引き続き、勝手にシリーズ化している『文学碑巡り 第二弾』もそろそろ終わろうとしている。今回の文学碑巡りで感じたのは、沖縄文芸の力だ。知られていないだけでこの沖縄にもたくさんのドラマがあり、正忠のように沖縄を愛した人がいる。それだけでない。折口信夫に至っては、沖縄人ではないのに沖縄の魅力に夢中になっている。そう考えると、私はもっともっと沖縄を知りたくなってくる。たくさんの人を夢中にした沖縄。たくさんの魅力が詰まっている沖縄。その欠片を文学碑からみることはできると思う。人の心と歴史がたくさん込められた文学碑。確かに地味だ。書いている文字も読みにくい。そもそも私の趣味はマニアックだ。でも、そんな思いを簡単に塗り替えてしまうくらいの魅力が文学碑にはある。自分の足で沖縄を歩き、歴史に思いを馳せる。私は文学巡りがとても楽しくてたまらない。

 

 

 いつまで続くかは分からないが、私の興味が尽きるまではこの文学碑巡りシリーズは続く。本当にとっても楽しかった。*1

*1:2014年高校文芸部誌 新入生歓迎号 掲載