雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

10月6日 専門こつこつ

10月6日 専門こつこつ

 台湾にきて1ヶ月が経った。最初の2週間の密度が濃かったのに対して、この頃は一日の早さが7月までのスピードに戻ってきている。この生活にもすっかり慣れたということなのか。留学生活の11分の1が過ぎ去ったことに早くも焦りを感じます。台湾にきて1ヶ月、最近ようやく自分のペースがつかめてきたばかりで、学びたいことやりたいことが無限に膨らむのに対して体が追いついてきません。

 

 

 

 中国語の出来はそこそこです。
上がったクラスの先生の言っていることが分かるようになってきたり、コンビニや寮のフロントでの応対が何とか可能になってきたりしているけれど、まだまだ中身のある会話なんてできない。

 

(これを書いている途中に電話がかかってきて対応したけれど、全く何を言ってるか理解できず、メールで内容を伝えてくれというだけで精一杯だったので、絶望。でも一ヶ月前の私ならそのことすら中国語で伝えられなかっただろうと思うので良しなのかな)

 

 

 でも中国語を学ぶのは楽しいです。スイス・オランダ・アメリカ・タイ・オーストラリア・フランス・ドイツ・日本の母語もバックグランドも全く違う人たちで机を並べて、不器用に新しい言葉を学ぼうとしている。そのことがとっても尊い気がして、嬉しくなってしまう。

 

 授業は中国語で行われるんだけれども、私たちが持っている語彙はお子さまレベル。それで一生懸命伝えてくれる先生がすごい。(先生は苦手らしい英語を使って説明してくれたり、何なら日本語も少しは分かるらしいけれども、やっぱりそれは不器用なコミュニケーション)それに、私が分からないでいると英語でたくさん口出してくれる周りもすごい。授業が始まった当初は、外国語で外国語を習うことなんて可能なのかって思っていたけれども、可能だった。だって、何となく分かるし、私が疑問もなぜだか先生はくみ取ってくれるし、毎日どんどん分かることが増えていく。その理解度は大学の授業で習った時より低いけれど、(日本語で専門の先生から中国語を習える機会をもっと大切にすべきだった)それでも、教職をちょっとでも考えている私がそういう学びの場を体験できているっていうことに大きな価値さえ感じるのだ。中国語の運用能力を高める、という目標とは異なるところで。学ぶことが生活に直結していて、学ぶことがその土地とのつながりを深めていって、学ぶことで人との縁もつながっていって。そういう空間って尊いなって思うんですよ、やっぱり。
 


 言葉を学ぶことは、その国の文化や社会に触れようとしている行為なんだと誰かに言われたことがあるけれど、今それを実感しているところ。それに、中国語を学びながらはっとする瞬間がある。中国語では父系の親族の名称が多いとか、時間を表す単語が日本とは異なる区切り方をしているとか。そういうものを知ると、私が今まで持っていなかった世界の切り取り方をしれたようでとても楽しい。何よりうれしいのは、私が中国語学習しながらそういうことにほれぼれできる感性をもっていることかもしれない。誇らしくさえある。

 

 

 

 授業以外のことも順調。
 嬉しかったのは、台湾原住民族博物館で日本語ガイドとして活動できることになったこと!日本から修学旅行などで博物館を訪れる人に向けたガイドです。

 

つくばの友達からの紹介でトントン拍子にきまっていった。先週末には早速先輩ガイド(台湾大学人類学系の博士課程だとか)の仕事を見に行ったんだけれども、民族を捉えるうえでのポイントは押さえつつ、でも関心を引きつけたり、来館者の反応によって解説を変更したり、その仕事があまりに見事だった。とてもとても憧れつつ、でも私にできるか不安でもある。日本語ガイドということで中国語能力はほぼ問われないけれども、代わりに求められるのは専門性というところ。「中国語専攻ではない」という一点のみでたくさん言い訳を重ねてきた私、こればっかりは言い訳できない。中国語の先生が不器用なコミュニケーションで、わたしたちと台湾社会の橋渡しをしているように、私はガイドとして日本人観光客が原住民族について触れられる機会を提供する。私の仕事も橋渡しだ。私が原住民族について話すとき、私自身の理解度がこわいくらいに反映されるんだろうなあ。デビューの日も決まって、なんなら明日もまた博物館に行くんだけれども、当日まで不安でたまらないだろう。

 

 

 一方で、これこそ自分が台湾でやりたかったことだよなあとも思う。もともと、台湾の中の、中国らしいもの(漢民族の文化といった方が近いかも)に惹かれていた私。それこそ、留学先を決める時も福建省の大学に協定がなかったこととか、フィールド調査がしやすいこととかで台湾を選んだところもある。もちろん、理由はそれだけではなく、黒潮文化とか日本統治時代とか祖母の疎開先だったことにも惹かれたんだけれども、原住民族については詳しくない。でも、台湾にきて一ヶ月、少しづつ勉強していくうちに、触れていくうちに、台湾が決して民主的な中国ではないことがはっきりと感じられるようになって。台湾を台湾としてみることがいつしか目標になっていった。

 だからこそ、その博物館での経験を通して、私の文化をみる視点が、日本文化と沖縄文化と中華文化と原住民の文化というふうに(そうやってくくることも危険だけれども)どんどん増えていくことに期待している自分がいる。

 

 

 それは大学の勉強につながるだけでなくて、これから先のいろんな経験に対して活きることだろう。原住民族の文化は私のもっているものさしでは測れないことも多い。だからこそ、自文化である沖縄や日本じゃ得られなかった驚きも多い。

 私が文化人類学民俗学に関心をもった理由もまたたくさんあるんだけれども、その中でもラオスでの経験が強い。高校一年生の時、偏差値教育になじめなくて惨めでたまらなかった私が行ったラオス。彼らの文化もまた私のものさしでは測れないものが多くて、私の持っているものさしのちっぽけさ、偏差値教育という一つの文化に馴染めなかったくらい大したことないと言い切れるような豊かさを感じた。これは私にとって救いだった。小中高の学校文化に違和感を抱いていた私に、それでもいいよと言ってくれたようだったから。

 原住民族の話を聞いていると、そのときの感動に近いものを感じることがある。もちろん、自分の理想を異文化に投影しているだけではないかと常に気をつける必要もあるけれど、それでも、驚きを大切にしていきたい。あの博物館で活動できることは私にとって、大きな糧になると思った。楽しみだなあ。うまくいけば台湾大学での学修が終わった来年の7月にインターンもさせてもらえるかもしれないので、張り切りたい。可能であれば台東にも足を運びたいし、いろんな祭祀も見に行きたい。

 

 どんなに強がっても、台湾に来て以来、中国語をちゃんと学んでこなかった自分を責めていたところがあった。先月、台湾に来てしまったと書いたように、外国語学部のキラキラした人に囲まれると、英語も中国語もできない私がここに来てしまって良かったのだろうかとずっと思っていたけれども、ここに来て私が今ここにいる意味をちゃんと言える気がする。専門をこつこつと、自分のやりたいことをしっかりやっていれば、ちゃんと自分の行きたいところにたどりつけるような気がする。