レポート書きたくないので、日記を更新します。前回の日記から約1か月たっていて、ほんとうにびびる。
この一か月は色んなことがたくさんあった。博物館でのガイドでのテスト、ガイドの本番、女性のための映画祭、パイナップルケーキ作り、言語交換、音楽祭、弟との二人旅、淡水への小旅行。その間に日本の友達とも電話して、手紙を書いて、本も読んだ。図書館戦争のDVDを一気見したりもした。1か月が経つのは早いけど、その密度にはクラクラする。毎日中国語の授業があって、その他にも台湾映画の授業や台湾史なんかも学んでいて、毎日色んなことが起こりすぎている。この一か月の中には、衝撃的で悲しい出来事もあった。今の自分はまだそれを語る言葉を持たないし、まだ語る時期じゃないと思っている。でも、いろんなことが起こっているなかで、私はそれをちゃんと自分のものにできているのだろうか。ちゃんと自分の気持ちを置いてけぼりにしていないだろうか、と思う。
だから書こうっていうのはいつもの結論。書きながら思ったけれど、台湾留学2か月目、そろそろ慣れてきて活動的になったことから、自分の中のバランスがまた崩れてきてる。駆け出しすぎない、自分のリズムをとる。
話変わって、昨日SHISHAMOのライブに行ってきた。
ライブの様子とか、セトリとかはこのブログが詳しく書いてくれてる。
楽しかった。SHISHAMO好きの友達に感化されて行ったライブだったけど、行って本当に良かった。オールスタンディングで、客層も若めで、リズムに乗りまくるライブっていうのもはじめてだったし、SHISHAMOはもともと好きだったけど普段どっぷり聴いているわけじゃないっていうのもあった。だから、何もかも新鮮でそれがまた良かったんだ。
SHISHAMOにとっても初めての台湾ライブで、それ故ものすごく贅沢なファンサービスをしてもらったと思う。今、SHISHAMOをこんなに近くで見られるのか???っていうくらいのキャパのライブ会場で、目の前で演奏を聴いて、ライブの最後にはハイタッチ会もあって。(ベースの松岡ちゃんの手が小さくて、びっくりした。あの小さな手で音楽を奏でてるんだな。すごいなあ)
SHISHAMOの3人がMCを初々しく中国語でやっている姿もすっごく良かった。みんなで「好~~~~!」って返したり、ボーカルの朝子ちゃんに「台灣很熱!!」を教えたり。私も下手な中国語で反応して、中国語学習者で良かったなって思った。ライブの参加者の中にも日本人はたくさん居て、さらに日本語を理解できる台湾人も多そうではあるけれど、やっぱり、自分の国の言葉を覚えてきてくれるって嬉しいよね。私も台湾人じゃないけど、嬉しかったもん。
音楽聴きながらとか、帰りの電車で色々考えたけど、昨日の思ったことは「今の自分に響くものをたくさん摂取していきたい」ってことに尽きる。それこそSHISHAMOのライブとかね。
最近、中学生相手の日本語ガイドをやったり、図らずとも子どもだった頃を思い出してしまう出来事が重なってること、それから台湾での生活が軌道に乗っていて、自分はどこでもちゃんと自分のペースで生きていけるんだという自信があるからか、自分が思春期から大分離れていっていることを感じる。
あの頃より、痛みをやり過ごすことを覚えたし、自分を保つことも大分上手くなったけれど、あの頃響いた音楽や言葉が今はもう響かないっていうことに焦る。もちろん、中高生の頃だったらそんなに響かなかっただろうと思う作品もあるし、感じ方が変わることそのものを楽しめる作品もある。それでも、自分の中で大分こじらせていた思春期の終焉に、寂しさを隠すことはできない。
中高生の頃は「多感な時期」と形容されることが本当に嫌だった。今の自分にはその出来事が悲しかったり、嬉しかったり、とにかく本気なのに、それは時期的なものであって、「多感な時期」を乗り越えたら何でもないのよと言われているようだったから。でも、今は本当に中高生の頃って多感だったなと思うわけですよ。もちろん、今だってその延長線に居て、世間的には二十歳も大分多感な時期なのかもしれませんが!
私には成長過程、その時々に心酔した作品がある。その作品を今の自分の感性で楽しめるかって言ったら、そうじゃないものもたくさんあるんだけども、その作品が今でも自分を支えてくれているのは確か。どれも自分の血肉となっている。その作品を読み返すときには、ふっとあの頃の自分に出会えるような気もして、それが自分をたくさんたくさん豊かなものにしてくれている自信がある。
だから、今の自分に響くものをたくさん摂取したい。(そういいながら、iTunesでSHISHAMOの音楽を購入してしまった。Coccoと椎名林檎以外に音楽を買うのは久しぶり)
そうそう、ライブで「受験生ですー!」って言っていた日本人の女の子がいた。MCでは「(受験生なのにわざわざ来て)大丈夫なの???」って返していたけれども、受験を差し置いてでも来たかったライブがあるって素敵だなあと思いました。1日くらい勉強しなかったことが合否に関わるわけではないと思うし、それ以上のものを彼女に残したんじゃないかな。(これは一緒にライブに行った友達、全員一致で「あの子はライブに行けて良かったね」という意見だった)
ここからは完全に蛇足だけど、SHISHAMの中で私の好きな曲を貼っていきます。完全にニワカだけど、怒らないで聞いてね。
「大人になって酸いも甘いも知った時
今日のお昼と同じように笑いあえるかな
大人になって大事なものが見えた時
またこの中庭に集まって笑いあえるかな
なんて、私だけなのかなぁ。」
っていうサビが可愛くって、でもその切なさ分かるよ、うんうんっていう感じ。ポップさと相まって瑞々しい音楽。
私もね、中学校の美術室のベランダが特等席で、おんなじことを思っていたな。成人パーティー行かなかったけれど、その頃ずーっと一緒にいた子とは音信不通なんだけれど。逆に、卒業したらそれっきりだろうと思っていた人と今でもつながり続けていて、色々分からないものなんだよね。成人パーティーに行かなかったことも、連絡の取れない友達がいることも、悲しいとか寂しいとか全然違う次元に感じるというか、縁があればまた会えるさと思えるくらいの気楽さがあるというか。ほーんと中高生の頃の自分なら考えられないことだ。そういう思いをひっくるめて好きな曲。かわいいの。
「だからもう少しだけで良い
私まだ大人になるのが怖いから
この水色の日々が色褪せるのが怖いの
だからいつでも思い出せるように
焼き付けたいの
今日だけは泣いたって良いでしょう?
焼き付ける 最後の水色」
「中庭の少女たち」と同じ感じで好きな曲。
ここでいう「大人になるのが怖い」っていうフレーズ、大人になって責任が課されるのが怖いわけではないんだよね。「今」が過ぎていくこと、色鮮やかな「今」を忘れていくことが怖い。
私、高校のことがだいっきらいだった。卒業の日を指折り数えていた。強烈に覚えているのは、卒業アルバムに載せるコメントのことだ。卒業アルバムの個人写真のわきの部分に各々一言掲載することになったんだけども、周りが「楽しい3年間でした」と書く中、絶対に私はこの3年間を「楽しかった」とか単純な言葉で表象しないぞって思った。
時間は思い出を美化してくれるものだし、現に私は自分の高校時代をそんなに悪いものじゃなかったように思う日もあるんだけど、一方で自分の強烈な拒否反応みたいなものを絶対に忘れてやらないぞって思っている。それを「楽しかった高校生活」みたいなものに収束させてしまうのは、あの時の自分を蔑ろにするようだから。
あ、SHISHAMOが歌っている水色の記憶は、もっとかわいいものです。私のいつまでも置いてけぼりの憎悪とは全く違う。私には変顔の写メも無ければ、授業中こっそり交換したメモ書きもないです。
上2曲は昔の自分を思い出して、ふふふとなる感じの好きなんだけれど、「熱帯夜」は大学生の自分が好きな曲。暑くて眠れない深夜にこの曲聞きながら、文章を書きたい。本を読みたい。勉強したい。
大学生になって、中高生の頃響いていたものが響かなくなった分、逆に響くようになったのが恋愛もの。経験ってすごい。「好き」って最強だよね。彼氏とか彼女とか、恋愛関係にならなくても、好きってすごい。そういう意味では、私は大学生になって色んな意味で良い出会いに恵まれているんだなあと思います。あ、「熱帯夜」みたいな恋をしたことはないです。
好きな曲って言ってこれを挙げないわけにはいかないでしょ!という曲。昨日一緒に言った子たちは、SHISHAMOっぽくないって言っていて、横で私は小さくなるしかできなかったんだけど、それでも好き。
SHISHAMOの中で一番有名だと思うし、私も去年の紅白でこの曲を知った。
「良いことばかりじゃないからさ
痛くて泣きたい時もある
そんな時にいつも
誰よりも早く立ち上がるヒーローに会いたくて
痛いけど走った 苦しいけど走った
報われるかなんて 分からないけど
とりあえずまだ 僕は折れない」
私の留学の応援ソング。楽しいだけの留学なんてあり得なくて(その反対にはもちろん苦しいだけの留学もないんだけど)だからこそ、この歌が響くんだよね。「とりあえずまだ」っていうところも良い。人間らしいっていうか、アップテンポな曲調のように刹那的な感じがするというか。でもこの勢いって大事だから。ここでいう「ヒーロー」が誰なのか明確にされていないところも好き。ヒーローって、それこそ好きな人でもそうだけど、好きなバンドとか、何なら人じゃない可能性もある。人それぞれヒーローが居て、だからこそ駆け抜けられる。
ここまで昨日のライブの余韻に浸りながら書いて、(なんと5000字!)SHISHAMOってかわいいなあってやっぱり思うわけですよ。
何を言い出すんだって感じだけれど、わたし、SHISHAMOが好きな女の子にずっと憧れていた。(同じ系統で行くと、チャットモンチーが好きな女の子も)(私もSHISHAMO好きだけど、それでも友達がライブに行くから一緒に行く程度であって、やっぱりCoccoとかとは比べ物にならない)だって、SHISHAMOそのものもかわいいけれど、SHISHAMOが好きな女の子も同じようにかわいくて、明るいから。SHISHAMOの歌に出て来る女の子も悩んでいることはあるけれど、それでも何か明るい。健全的に悩んでいるというか。拗らせていない。そういうところに何か、敵わないなあって思うんだよね。
昨日のライブでも、ずっと思っていた。それは○○のファンとかそういう次元のことじゃなくてね、「SHISHAMOが好きな女の子」っていうラベルも実は大したものじゃないと思うんだけれど。逆にWANIMAが好きな女の子(勝手なイメージだと、スクールカーストの上位に居て女バスに入っているような女の子。卒業式の寄せ書きに「感謝」と大きく書いていたような女の子)は遠い世界すぎて憧れることはないんだよね。
仮にCoccoの好きな曲を並べて書くなら、こんな軽い感じに5000字書けない。絶対に涙しながら書くことになる、世界と自分への憎悪と沖縄の呪いと、でもそれでも手放せない思いみたいなものを。それは痛いものであって、こうして気軽にブログに載せるものではない気もする。(そのわりにこのブログは赤裸々なんだけど)
この「SHISHAMOが好きな女の子」に憧れる思い、みたいなのも今の自分の素直なものであることに違いはない。それは僻みでも、今の自分を卑下するものでもない。それに私の中にも「SHISHAMOが好きな女の子」な部分はある。そういう発見や、素直な思いもまた、自分を形作るような大切なものだと思うんだよね。
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