雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

新しい元号が決まった日

 

 今日はもう遅いんだけれども、この日のことは記しておきたいから、日記をかく。

 

 平成の次の元号が決まったんだってね。改元までの歴史的な日々を日本で過ごせないことが悔やまれる。改元に関わる一連のことは、天皇制という近代国家「日本」を日本たらしめる制度を肌で感じられる(気がする)。何に配慮し、そこには一体どのようなメッセージが込められているのか。かなり興味をもつ点である。

 

 それなら、どうしてオリンピックには興味がないのさ、と言ったらそれまでだけれども。

 

 正直、年越しのようなお祭り感に浮かされているところも……ある……。歴史は変わっていくものだな、という実感。後の時代の高校生が「2019年に天皇上皇になりました」っていう歴史を勉強するのだろう。私達もそうやって勉強してきた。事実を歴史の教科書で学ぶときは、「へえ」と思ったり、にやりとしたりするだけだけれども、実際に歴史が動く瞬間には膨大なコンテクストがそこにはあるんだなと思った。「慶応4年、一世一元の詔」センター入試の為ならその一行で終わる。それでも、私が生まれる前に本当に起こったことなんだという実感。

 

 

 元号の発表は、台湾時間の10時半。朝の授業が終わるのは10時20分。そこからスマホでLIVE中継を観ようとしたら、敢え無く失敗。スマホで観る方法はいくらでもあるんだけれども、その瞬間はパニックだった。

 

 

 だって、元号発表を見たいと思っている以上、リアルタイムで観られないと、ずっとモヤモヤしてしまう。平成を掲げる小渕恵三の映像が何度も繰り返し流されるように、きっとこれから新元号を掲げる菅義偉の映像は何度も何度も流される。その度に一抹の悲しさを抱くのは嫌だ。

 

 

 そこで思い立ったのは、大学図書館のマルチメディア室に駆け込むことだった。あそこなら、NHKワールドが観られると聞いたことがある。

 

 ということで、図書館に向けて猛ダッシュ。だって、この地点で元号発表まであと10分しかない。

 マルチメディア室のおばちゃんと私は親しい。でも、いつもジブリのDVDばっかり借りている日本人が息を切らして「NHKってここで観られますか?」なんて聞くからびっくりしただろう。おばちゃんは慌てて、テレビの使い方を教えてくれた。

 

 

 

 NHKワールドって、てっきり外国に住む日本人向けのチャンネルだと思っていた。だから元号発表の番組もまた日本語だと。しかし、実際は英語の特別番組であった。

 

 

 そして元号発表の瞬間も同時通訳で見た。これはこれで貴重な経験だったと思う。元号万葉集、漢字についての説明も同時に英語でなされていたのだけれど、解説の人が欧米系であったことが印象的だった。解説者の詳しい情報は分からなかったけれども、不思議な気持ちになった。もちろん、ドナルド・キーンのような、偉大な日本研究者の存在も知っているから、日本研究者は日本人でなければならないとは思っているのだけれども。

 

 また、英語での放送ということは全世界へ向けた発信を意味していて。外国人がこれを見たとき、西暦とは異なる暦区分を、ここまで重々しく扱うのかと衝撃を受けるのではないかなと思った。

 

 新しい元号が「令和」と聞いた瞬間、え?と思った。色んな人が既に言っていることだけれども、Rで始まる音は原則して和語には存在しない。私は勝手に新たな元号のイニシャルはKあたりがくるのだと思っていた。

 Rの音で始まる元号に驚いたのは、元号発表が近代国家「日本」を感じるイベントだからだ。でも、私達が話す現代日本語も時代の中で外からの影響を多分に受けて成り立っているように、いまや日本全体、世界全体が外からの影響を受けまくっている。だからこそ、Rで始まる音の、どこか遠いところの空気を感じる言葉が元号となることに対し、ああ、新たな時代が始まるのだなあという気持ちがじわじわとわいた。

 

 ツイッターを見ていると、大学の友達や先輩が思い思いに元号について語っていた。リツイートでまわってくるものも含めて、「令和」という元号から膨大なコンテクストを読み取っているものが多い。

 

 

 

 

 こうしたツイートを見ているのは楽しく、ほらねぇ人文学って大切でしょ?という気持ちになったり。

 

 

 

 私がRではじまる音は、和語じゃないのだとすぐさまピンときた。それは大学二年生の頃に取っていた日本語音韻論のおかげである。大伴旅人は『文選』を読んでいた、と聞いて胸が踊るのは、私も中国文学の授業で『文選』を読んでいたからだ。こうした授業は、国語教職のために取っているものが多かった。単位の危機かもなぁと思いながら、テスト勉強している時は、どうしてこんなもの取ったのだろう、と思っていたけれども、そこで学んだ知識がどこで生きるかは未知数であり、色んなことを知っていれば知っているほど、世界は鮮やかに見える。

 

 一方で、元号なんてどうでも良いと言っている人も多かった。スマホであとで確認すればいいさ、みたいな。留学生仲間は留学しようと思っただけあって、外へ志向している人が多い。それもまたこの傾向に拍車をかけている。

 

 それから、考えされられたツイートがあった。

 

 

 日本人留学生の中にも、「元号なんて使ったことないよ。西暦で良くない?」と言っている人が居た。縦書きのレポートも書いたりする身からすると、使ったことないというのは、それはそれで文化圏の違いを感じるのだけれども。(彼はインターナショナルスクール出身とのこと)

 

 実際、今回の改元によって情報系に与えるダメージも予想されている。外務省が西暦の一本化を検討しているとかで、今後西暦への移行はさらに進むだろう。私だって、太平洋戦争の終戦は昭和20年です、と言われるより、1945年終戦と言われた方がピンとくる。あれ?沖縄県の本土復帰は1972年だけど、それって昭和何年だっけ……。

 この感覚の差というのは、世代によって大きく異なるのだと感じる場面が多い。例えばお年寄りに話を聞いていると、元号で話すことが多い。それを聞いている私は、一度西暦に変換して「ああ、あの時代ね」と掴む。タイムラグというほどのものじゃないけど、時代を感じる物差しが異なっているのは事実だ。

 

 西暦一本化は大変便利だけれども、それってどうなの?と思ってしまうのは、西暦もフラットな表現でないからだ。だって、西暦はイエス・キリストの生まれた年の翌年を元年としている。世界中で西暦が使われているのだって、キリスト教文化圏のヨーロッパ各国の世界進出、植民地の拡大によって広がっただけじゃないか。

 これは英語に対するちょっとした反発心、みたいなのと近い。

 

 暦はいつだって、治世者の思惑が大きく反映される。いま、私が住んでいる台湾は民國107年。民國は中華民国が成立した1912年を紀元としている。

 

 改元にまつわる情報系の大変さ、元号反対派の意見がよく分からないから、センシティブな発言はしたくないけれど、元号って面白い。その一つの国が生きる時が表されている。今後日常生活でどの程度元号が用いられるかは未知数だけれども、元号もまた一つの多様性として、ずっと大事にしていけたら、と思う。

 

 私は今21歳なので、おそらく次の改元はまだ生きているはず……。台湾での元号発表も楽しかったけど、次こそは日本でどきどきしながらその時を過ごしたい。

 

 元号発表を受け、少し新鮮な気持ちで図書館を出た。日本の元号なんて台湾にとっては何にも影響しないことであり、図書館の外ではいつもと変わらない時間が流れていた。

 

 

追記、その後食べた沖縄タコライス。全く予想と違うものが出てきて、笑った


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