雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

5月21日 読書の日々

 

 眠る前に日記を書くことにする。日記を書くよりやりたいことがあったりして、時間が取れなかった習慣を復活させる。留学の終わりが見えてきたことによって、一日いちにちが惜しくなったのだ。ただし、平日はやりたいこともやるべきことも山積みなので、日記にかける所要時間は30分。

 余談だけど、日常の改善についてアレコレ考えるのが好き。スケジュール管理とか、家計簿をつけるとか。居るでしょ?やたら勉強計画を立てるのが好きなやつ。そして計画を立てた達成感で満足できてしまう人。それ、わたしでーす。

 

 

 

 

 最近、日本語の本を読むのがおもしろくて仕方ない。

 8時から10時までの中国語が終わった後、帰宅せずに台大図書館に向かう習慣ができている。そして、あるソファーに陣取って本をむさぼり読む。台湾大学のソファーでは横になって仮眠を取っている人も居る。つまり、多少お行儀悪くても大丈夫(だと思っている)それが私にはありがたくて、色んな姿勢でひたすら本を読んでいる。

(そうは言っても、ソファーでイチャコラされるのはちょっと気まずいからやめて欲しいんだけど)

 

 今日も10時に図書館へ向かったのち、15時半の授業まで図書館一角のソファーを離れなかった。その間、お昼を食べるのを忘れてしまうくらい夢中だった。なんせ、台湾大学には日本語の本が大量にあるのだ。文字通り、大量にある。例えば、民俗学の日本語の本だけでも、私は全然読み切れていない。

 留学に来た当初、いや、今でも台湾で日本語の情報に触れることに罪悪感がある。だから、私はこれまで日本語の本を夢中になって読むことはあまりなかった。早く中国語で色んな情報を得られるようになりたいと思っていた。まあ、だからと言って中国語学習を頑張っていたかというと、「ぼちぼち」なんですけれど。

 

 きっかけはどの本だったのだろう。一時帰国で大学の先生の研究室を訪れた時、紹介された本があった。中国語と日本語、それぞれ二冊ずつ。そのうち一冊が、『「民俗臺灣」と日本人』だった。これは日本統治時代の台湾で発行された民俗学の雑誌『民俗臺灣』が如何に制作され、読まれ、またその内容が一体どのようなものだったのかを解説した本である。筆者は台湾人で、台湾の出版社により発行されている。でも、使用言語は日本語である。これは、『民俗臺灣』が日本語で書かれた雑誌だったためだろうか。私はこの本を読んで、日本語で行われた台湾研究の層の厚さに気づいた。今となっては、もっと早く気づけていればと思う。日本語で台湾民俗、道教について調べれば出て来る、出て来る情報の山。台湾原住民族についての研究もある。しかも、そうした本を書いた先生の中には、自分の大学の先生も居て。灯台下暗しとはまさにこの気分である。

 

 言い訳しておけば、私の日本での専攻は台湾民俗でもなければ、台湾原住民族でもない。さらに言うと、中国語でもない。沖縄の民俗についての関心がまずあって、その延長線上で出会ったのが台湾だった。だから、日本語で積み上げられた台湾民俗の知など盲点だったのだ。

 

 なにはともあれ、その事実に気づいてからは日本語の本を読むのが楽しくて仕方ない。台湾民俗や道教の本はもちろん、「日本民俗」の本もむさぼり読んでいる。台湾に来て日本民俗の本を読むの、と自分でも思うけれど、これがまた面白いのだ。文化をみようとする枠組みみたいなのは、大きく変わらないこともあるかもしれない。日本民俗について学んで、見える台湾が面白い。読書は静かに机に座って行われる行為ゆえ、「静的」な行為のように思われがちだけれども、とても「動的」な行為だと思う。同じ本でも、どこで読むか、いつ読むかによって受ける印象が全く違う。

 

 いったん読書に火が付くと、すぐに痛感するのが読書量の少なさである。あれも読んでなければ、これも読んでいない。あれも読みたいし、これも読みたい。日本で過ごしている友達に対して、専門性みたいなものが劣っているように思っているからかもしれない。私が台湾で過ごしている間、彼等が受けている授業、読んでいる本を思うと、焦る気持ちは正直ある。私だって、台湾で勉強していないわけではない。でも、背伸びして取っている授業でさえ、内容そのもののレベルは高くない。中国語で、やるからそれでも大変なのだ。本科生向けの授業も取っていた。ただ、例え単位が来たとしてもその理解度はいかほどか。

 

 もちろん、外国語で世界を掴もうとする経験は尊い。中国語が上達していくことで開けた世界はあった。

 

 ただ、母語である日本語をなめてはならない。私の母語が日本語であることは、揺るぎようのない事実である。

 そしてこれからのことは分からないけれど、日本人が積み上げてきた実績の多さを侮ってはならないのだと思った。なぜ、台湾大学に日本語の本がたくさんあるのか?ということ。別に台湾大学の日本語の本は、日本から来る留学生の為にあるのではなく、台湾人学生にとっても有益な本だからである。

 

 同じ分野でも中国語で得る情報は、日本語では得られないものかもしれない。だからこそ語学学習も大切なんだけれど、そこはやっぱり両方大切で、両輪なんだよなあと実感している。日本語で本が読めるということ、それは中国語からの逃げではなく、一つの武器なのだと認識を改めた。

 

 そうなってくると、本当に時間が足りない。ただ、本を読むのはとても楽しい。本当に時間が足りないだけなのだ。今日も授業の合間に本を読み、放課後お寺に行く道中にも本を読み、帰宅後も本を読んでいた。とても楽しくて、満ち足りている。読書と台湾を歩くことと、書くことがある生活が私にとってこんなに穏やかなんだと感じている。ただ、ここで一つ問題があって。怖いくらいに一人が楽しいということだ。本当に怖いくらい。どんどんどんどん一人遊びが上手になっていく。でも、本を読むことも、お寺に行くのも博物館に行くのも、全部ひとりの方が都合が良いのだから仕方ない。日本に居る時から、ひとり○○において最強だったけれど、今では無敵だ。一人で行けないところってどこだろ……?

 

 台湾でできた友達も大切。でも、やりたいことに思い切り集中する時だって貴重だ。だから今は自分の欲望のまま、自分の熱いところに従って動いてみようと思うのだ。