雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

オンライン授業雑記

 

 コロナ危機の中で過ごしている、でも平穏で何ともない私の日常を記しておきたいと思う。

 私の通う(一度も通ってない)大学院でもオンライン授業がはじまった。今日はその記録を残しておく。

 

 

 目次

 オンライン授業っていっても様々

 今学期取っている授業は10コマ。その全てがオンライン開講になった。ただ、そのオンラインの方法が授業によって様々。

 まず、リアルタイム式かそうでないか。リアルタイム式だとzoomを使うのか、Microsoft Teamsを使うのか。リアルタイム式で授業を行う場合、最も重要視されているのは討論である気がする。使うサービスが異なれど、基本的にはゼミ形式。

 リアルタイム式でないとすると、あらかじめ録画されているものを視聴しレポートを書く形式、もしくは完全にテキストだけでやりとりするメーリングリスト形式に分けられる。

 

 はじめの一週間は、どの授業がどんな形式で行われるのか、その流れを把握するだけで精いっぱいだった。対面授業でも最初の週は多少緊張するものだけれども、オンライン授業には特有の緊張感があった。一人ソワソワする感じ。授業前に教室で友達や先輩たちとお喋りできないのも残念だった。学部の時、私はたくさん授業を履修していたけれど、授業前後のお喋りが楽しみだったりしたんだなあと気づく。とは言え、授業の前後はずーっとLINEをしていたんだけれども。

 TeamsやZoomにも個人チャットの機能があることを発見する。こっちはどちらかというと、授業中に行う手紙まわしの感覚かも。(今の小中学生って手紙まわししない?)ただ、個人チャットは(誤爆されしなければ)絶対にバレることのない完全犯罪だし、手紙まわしの醍醐味って如何に先生にバレずに手紙を回すか、周りの席の人も巻き込んだスリルだったりするから、やっぱり面白くないよなあと思う。

 

 「教員にとっては一つのサービスで授業を行ってても、学生にとってはzoomやTeamsやskypeやらの対応で大変だ」というツイートもたくさん見かけていたけれど、私は様々なオンライン授業が提供されてて良いなと思った。理由、飽きないから。リアルタイム式は独特な緊張感があるからずっとやってられないけれど、馴染み深い声を聞いたり顔を見たりするのは嬉しくもある。メーリングリスト形式の授業はいつでも取り掛かれるし、ネット環境の心配もないけれどずっとやっていたら飽きて仕方ない。どの形式にもメリット・デメリットあるのだから、私の場合はそれらがうまく混合していて楽しいなと思っている。

 

 環境の問題

 沖縄のド田舎で受講する授業、一番心配なのはこれ。よく言うギガ数の不安は大容量の格安SIMに乗り換えたから全くないけれど、問題はただ単にネット回線が遅いってこと。先生方も私がいま沖縄に居るってことを理解してくださってて、授業の度に気遣ってくれるんだけれども、ネット回線が不安定なのか割とどうしようもなく。従兄弟も弟もそれぞれ違う大学だけれども、ネット回線の遅さで右往左往する日々……。

 

 演習の時間で、私以外の人物が固まって時が止まるのは日常茶飯事。これ、演習発表どうするんだ???でも、ほとんどの場合は大丈夫なのできっと大丈夫……。どうしようもなかったら、都会の友人宅でネットを借ります。

 

 もう一つ気がかりなのが、既に蝉が鳴き出しているってこと。オンライン授業に慣れてないからか、色んな音が気になる。最近増えた飛行機の音、生協のトラックから流れる歌、公民館が流す7時半、12時、16時半、18時の放送(多くない?)田舎は結構うるさい。

 それから、私の自室は子ども部屋を弟と半分にして使っている。仕切りは本棚のみ。だからお互いの授業中にはそれなりに気を遣う必要も出てきて、なかなか難儀。環境の問題は早いとこ改善したい。ただ、先生のお子さんの声が聞こえたり、受講生のお母さんが見えたりっていうこともあって。私はそれにほっこりしているし、この非常事態だから多少のハプニングは微笑ましいものとして許してほしい。ゆるゆるでいこうぜ。

 

 あ、それからこれは沖縄特有の問題かもしれないけれども、教科書が届かない!レジュメや論文を印刷しまくってたら、プリンターのトナーが切れたけれども、トナーも届かない!!!現在、沖縄宛ての普通郵便は船便一択になっており。沖縄ではそのことがある程度知られており、こっちから出す分には速達(こっちだと飛行機便になるから2,3日で届く)で済むけれども、業者にそれをなかなかお願いしづらく。何でも早め早めに行動しなければならないっぽい。

 

授業が「溜まる」ってこと

 

 そう!これ!!授業が「溜まる」っていうことに気づいてしまった。

 もちろんリアルタイム式の授業は溜まりようがないんだけれども、録画を後で見てねという形式だと授業が溜まる溜まる。オンライン授業を一週間受けてみて、最適解はシンプル。時間割通りに学ぶのが一番良さそう。そう思って、学校のチャイムを鳴らしてくれるアプリを取った。まあ、「ああ、いま3限がはじまったなあ……」と確認したうえで眠りにつくことも多々……。ここらへんは気を引き締めて頑張っていきたい。

オンラインだからこそのコミュニケーション

 これもよく言われているけれど、オンラインだからこそコミュニケーションがあると思う。敢えてオーバーにうなづいてみせるとか。zoomのスタンプみたいな機能とか。心持ちゆっくり話すとか。慣れの問題かもしれないけれど、オンラインで話すのって難しい。まず、自分の声がうまく聞こえない。こう、周りにちゃんと聞こえているのか不安がある。壁に向かって話してるみたいというか。その為、あんまりうまく話せている気がしない。つらい。

 

 

 ちなみに、zoomではオンライン飲み会をしたけれど(LINEやSkypeでもやった)オンライン飲み会もまた普通の飲み会とは違う作法があるよね。話題はみんなで共有できるやつが良いとか(リアル飲み会なら、自然とグループになるもんじゃん)でも、途中離脱がしやすいところが良かった。途中でシャワー入って、その後も飲み会が続いていたから、また参加するっていう気軽さ。

茨城と沖縄を行き来する日々

f:id:kinokonoko11:20200506164739j:plain



 

 色々書いたけれど、オンライン講義にも良い点はたくさんある。その一番は沖縄に居ながら、茨城の授業を受けられること。

 

 

 授業の合間に地元を散歩する。18年間見てきた景色がそこにはあって。家族と話す私、近所の人と話す私は思い切り訛ってて、茨城に居る私とは断絶を感じていた。私はこの四年間、この断絶がつらかった。だからこそ、沖縄で、沖縄の感覚と茨城の感覚を行き来できることが嬉しい。歴史的な疫病の蔓延でもたらされたこの日々は、沖縄の私と茨城の私をつなぎとめる。

 

 畑でさとうきびの世話をしているおじいちゃんに「これから大学の授業だわけさ」と声をかけると、「今はいい時代さあ」と話し始めた。太平洋戦争下、軍需工場で働いていたおじいちゃんが初めて使った電話のこと。沖縄の田舎で育ったおじいちゃんは電話の使い方が分からなくて、寮母さんが代わりに取り次いでくれたということ。それが今、沖縄から茨城の授業を受けられるなんてすごい、とのことらしい。こういう話を聞きながら私は学んでいきたかったんだなと思った。

思っていた春とは違った

 

 思っていた春とは違った。今ありとあらゆる人がそう思っているのだろうな。

 思い描いていた春は、大学院生として新生活に胸を弾ませている春だった。でも、私は今子供時代を過ごした実家に毎日籠って日々を過ごしている。

 

 大学の卒業式を終え、父の命日のためにもともと沖縄へ一旦帰るつもりだった。大学の春休みで3月も帰省していたから、ほとんどとんぼ返りだ。大学院の入学式がなくなったこと、それから新学期のスタートが三週間ほど遅れるのは聞いていた。でも、茨城の地へまたすぐ戻れるものだと思っていた。大学の授業が当面の間オンラインで行われることとなったのは、私が沖縄に帰る二日前のことだった。またいつ対面授業ができるのか、誰も分からなかった。

 

 いろいろ考えて、生活の拠点を実家のある沖縄に戻すことにした。

 期限は不明。7月あたりに戻れたら良い方で、9月、10月に戻れることを信じている。3月末の地点で茨城に非常事態宣言は出ていなかったけれど、東京はにわかにパニックになっていて。近所のスーパーで買い占めが起こっていたのが私の不安を煽った。アルバイトだってどうなるのか分からない。(のちに休業となった)家賃は無駄になるとしても、食費や光熱費などをうかせたかった。

 本は茨城にもってきていたけれども、オンライン講義でどんな文献が必要になるか分からないから、手当たり次第段ボールに詰めた。冷蔵庫の中身は周りの人におすそ分けした。茨城にようやく慣れてきた生活を、一つ一つ引き剥がすようにして荷造りをした。

 

 

f:id:kinokonoko11:20200402170408j:plain

 

 首都圏を避け、茨城空港から沖縄へ。満開の桜を目に焼き付けるようにして空港へ向かった。私はこの桜が風に舞うのも、新緑が混じって賑やかになるのも、全部全部目にするつもりだったのに。

 

 

f:id:kinokonoko11:20200403111654j:plain

 

 でも、私は良い方なのだ。分かっている。帰れる場所があること、帰っておいでと言ってくれる人がいること。もともと住んでいたのが東京ではなく茨城であったこと。高齢者や持病を持っている人と同居しているわけではないこと。首都圏を通らずに帰れること。もともと父の命日で帰る予定だったこと。色んなラッキーがあって、この判断を取れた。しかもそれが3月末のことだったからできた判断である。あの時の判断が一週間遅れていたら、きっと身動きも取れなかった。(まあ父の命日で帰っているのでそれはないんだけれども)

 

 沖縄に帰って二週間は家族以外とほぼ会わず、ひきこもり生活を送っていた。

f:id:kinokonoko11:20200408124155j:plain

 父の命日も、清明祭も家族だけで行った。私が二週間ひきこもっているうちに沖縄でもぐんぐん感染者が増えて、茨城から沖縄へ移動して2週間が経ったあとでも生活は変わらなかった。

 テレビを付けても、ワイドショーが不安を煽ってばかりくるから、NHKドキュメンタリーばかり観ている。身体を動かしたくて、庭でバレーボールしたりキャッチボールしたりして過ごしている。農道を散歩することもある。私のことを屋号で呼ぶこの地域のお年寄りは、新型コロナウイルスなんて関係なさそうにして、いつものように畑を耕している。

 

 2週間の自主隔離が終わったその日にブックオフへ行った。このあたりで一番大きいブックオフは、小中学生の頃からちょくちょく通っていたけれど、そこへ足を踏み入れるのは久しぶりのことだった。何となく、昔好きだった本を手に取る。『デモナータシリーズ』とか『図書館戦争』とか。昔はお小遣いがなくて買えなかった本を10数冊かったけれど、それでも千円ちょっとだった。帰宅後そうした本を読む。間違いなく今読んでも面白い。あの頃の自分が何に胸を弾ませたのか、切に迫ってくる。

 

 

 オンラインでのおしゃべりもよくやっている。小学校からの友だちとのオンライン飲茶会、高校の同級生とのオンライン飲み会、ドイツの友達とのライン通話。

 毎日、何かをしているけれど、やっぱり日々は静か。世界中を揺るがすような出来事が起こっているのに、静かな日々は不気味で不安になる。

 

 私は自分の子供時代、ひいては沖縄のことをずっと考えてきたような大学生活だった。大学卒業とともに子供時代をある程度清算できたように思っていたのに、ここに来てあの頃に戻っていくような感覚になる。沖縄で就職するかどうするのか、という問題もずっと頭を悩ませていたけれど、沖縄で生活することのリアリティは沖縄に居ないと分からないものだと感じる。

 

  憧れていたもので周りを固めていた大学時代と、それから離れざるを得なくなった現在の生活。18歳までを過ごした子供部屋で、私は何を学ぶのか。ここで静かに生活することが苦しいわけではない。ただ、あまりに緩やかで静かだから混乱している。この不安は新型コロナによって招かれたけれど、やっぱり問題は自分の中にある。

 

 この日々をよりよく過ごそうなんてことはとうに放棄した。健やかに過ごせたらもうそれでいいことにしている。スコーンを焼いた。ずっと気になっていたホラーゲームをクリアした。高校生、中学生の頃のものが積みあがっている部屋を綺麗にした。テイクアウトした伊勢海老で大学卒業を祝ってもらった。

f:id:kinokonoko11:20200404173328j:plain


 それから沖縄から茨城の大学へ事務手続きはわりとあって。書類を書いては郵送して、を繰り返している。でもやりたくないから、亀のスピードで書類を片付けているし、大抵大学から不備の電話を受ける(ごめんなさい)沖縄から県外への普通郵便は船に載せるしかなくなっていて、1週間ほどかかるという。速達を使えば飛行機便ですよ、とは言うけれど、「ああここは島なんだな」と実感した。緩やかな日々の穏やかさがより一層増した。それと同時に息苦しくなってきた。今は書類を郵送する手続きと、大学からオンラインで受ける連絡だけが、私が大学院生なのだと教えてくれる。

 

 大学院の授業はまだはじまらない。そうは言っても、オンラインで新入生オリエンテーションを受けてみたり、履修登録をしてみたり、おっかなびっくり大学院生としての生活ははじまっているらしい。この地で大学院の授業を受ける自分を想像してみたけれど、うまくいかない。でも、心の端で楽しみにしている。もちろん、茨城の地で対面授業を受けたかった。院生室で色んな話をしながら研究を進めたかった。でも、この地で学ぶことで起きる自分の中の化学反応みたいなものが、どこかで楽しみである。

 

 思っていた春とは違った。こんな静かで不安に覆われた春を私は忘れないだろう。この春の意味などまだ分からないし、この先の夏も秋も一体どんなものか分からない。ただ、静かに生き抜いて、その先で色々考えたいと思う。近況報告おわり。

 

大学を卒業しました

  

f:id:kinokonoko11:20200325161203j:plain

 

大学を卒業しました。

新型コロナウイルスの影響で一般学生の式典参加は禁止、学類ごとの学位記授与式もなくなってしまったけれども、卒業式当日はうららかな陽気で、とても素晴らしかった。大学入学式の時に見上げた桜が満開で、それが心底嬉しかったのを強烈に覚えている。沖縄では咲かない品種の桜。本とか映画とか歌詞とかでしか知らなかった桜だったから、風に舞う桜を見ようって受験の時に言い聞かせていたんだった。自分の知らない環境に身を置いて、期待と不安、どちらが大きいかなんてわからなかった。怖かったけれど、ずっと島に居る自分もまた想像できなくて。故郷を飛び出した4年間は、私にとって本当に大きなものとなった。

 

 卒業式当日は式典が行われるはずだった講堂に集まって写真を撮ったり、サークルの練習場で写真を撮ったり。後輩からも花束をもらって、式典の有無なんて気にならないほどだった。

 

 卒業式の日は色んな人に「おめでとう」と言ってもらった。駅と大学をつなぐ、普段は荒々しい運転をするバスのおじさんも「本日大学を卒業したみなさん、おめでとうございます」とアナウンスするものだから、涙ぐんでしまった。学校を卒業したら、次に「おめでとう」と言ってもらえるのはいつだろう。社会全体に微笑ましく見守ってもらえる、学生と言う立場のありがたさよ。

 

 

 限られた時間ではあったけれど、友達と祝杯。

f:id:kinokonoko11:20200325191158j:plain

 茨城の地酒を飲みながら、四年前の私は「内地」に出てきたつもりであったけれど、それが茨城で良かったなあと思った。「内地」でくくられていた日本にも色んな姿があることを知れたことは、間違いなく豊かさである。茨城の自然とか、食べ物とか、人ととか、沖縄とは全く違う空気感にぽかんと置かれて、それはそれは不安だったけれど、全身で感じていた日々だった。私はサークルでは茶道をやっていたし、専攻は文化に関するものであったけれども、周りの自然環境があってこそ、実感をもって学べていたんだなあと思う。

 

 帰り道、友達が「自己肯定感が上がった四年間だった」と話していて、本当にそうだよなあと思った。私の居た場所は、各々が好きなことをのびのびとやっていて、誰もそれを茶化したり邪魔したりしなかった。心からすごいなあと思える人がたくさん居て、それは私にとって心地よいものだった。本当にありがたかった。この四年間を思ったら絶対に泣いてしまうと思っていたのに、周りの人がみんな笑顔だから大学では一度も泣かなかった。同級生は「働くのが不安」と口々にしながらも、やっぱりどこか期待している目をしていた。寂しそうに「この大学に来るのも最後」と言う姿が、私にはまぶしかった。

 

 私はあと二年、この地に住む。自分で決めた第一志望の進路だけれども、それでも友人が一人また一人と去っていくのはつらくて寂しくて。友人と分かれた帰り道、夜の公園で美しく咲く桜を見ていたら、人の別れが春に集中していて良かったなと思った。これが秋なら耐えられなかった。

 

 

f:id:kinokonoko11:20200327112616j:plain

 その日はどんな気持ちで布団に入ったのか、覚えていない。ただ、翌日の朝目が覚めたら後輩からもらった花が鮮やかで、おめでたい日に花を贈る意味がわかった気もした。贈ってもらった花の鮮やかさは、華々しかった日の名残をしっかりと伝えていた。

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

明日、大学を卒業します

 

 私は明日、大学を卒業する。

 

 新型コロナウイルスの関係で、一般の学生の卒業式参加は禁止となってしまったけれども、3月25日が卒業の日であることは違いない。袴を着てサークルの友達とも、学類の友達とも写真を撮る予定だし、学位記だって学類長から頂けるし。

 春休みの帰省で2週間と少し沖縄に帰っていたわたしも、この卒業に合わせて北関東に戻ってきた。

 

 いつも、沖縄から北関東に戻るのは少しだけきつい。羽田空港を降り立った瞬間から、私の言葉から訛りが抜ける。旅行や一時滞在っぽいうちなーんちゅを横目で見ながら、私は北関東行の高速バスチケットを買う。エスカレーターではちゃんと左側に立つし、歩くスピードだって心持早くなる。少しづつ、私が関東向けの私になっていく。18年間、いや、おそらくそれ以上に身体に染み付いてきた色々なものが離れていく。関東の私も私だ。でも、この瞬間が少し寂しくて、覚悟が必要となる。沖縄は私の故郷である。私はいつか沖縄に帰るだろう。

 

 大学卒業を前にしたこの春休み、今回の帰省のテーマは子ども時代に対してしっかりと別れを告げることだったようにも思う。特に永遠に続くかと思った高校時代について。高校三年の時の先生とも会って母校を久しぶりに訪れて、高校一、二年の頃の先生とも会った。

 久しぶりに会った人たちの言葉やその温かなまなざしから、高校時代の私が危うかったことを感じる。急に思い出してしまった。教室に居られなくて、トイレでCoccoを聴いていた日々を、学校に馴染めない自分は一生社会に馴染めないまま死んでいくのだと信じてたことを。どうしようもなくしんどい時は保健室で寝ていたし、保健室の先生は顔パスで寝かしてくれた。でも、保健室の優しい空気が嫌で嫌でたまらなくて、そこに居るしかない自分も憎くてたまらなかった。学校に馴染めないくらいで弱者にされてたまるか、と思っていた。

 

 自分では目立たない地味な生徒だったと思っていたのに、先生方が今でも気にかけてくれている、そのことがありがたかった。私は高校を憎んでいたし、沖縄を大事に思っている一方で沖縄のことも憎んでいた。高校の頃の先生に「今度教育実習に行くんです」って言ったら、「あなたが万が一先生になったら、どの口で『学校に来いとか言うの』って言ってあげるね」と笑われた。そういえば先生は一度も私に「学校に来い」とか言わなかったな、と思った。私は故郷の島にたくさん踏まれてきたと思ったけれど、そうでない人だってたくさんたくさん居た。でも今回の帰省で、高校時代の私が自分の内側ばかり見つめていて、気付けてなかったたくさんのやさしさに気づいたら、やっぱり涙が止まらなくなってしまった。

 

 それでも、毎回の帰省の終わりには思うのだった。「今の私が頑張るべき場所は関東なのだ」と。そして私は北関東で過ごした四年間に救われてきた。

 

 遠くなってしまったあの時間。そしてあの時間を遠くさせてくれたのは大学生活だ。大学四年間は高校三年間より長いけれど、今でも高校を引きずっている自分がいる。大学での時間は、あの頃の自分を救うための時間でもあった。

 

 大学四年間は憧れがつまった四年間だったと思う。保健室の先生に「一人暮らししたらちゃんと自分の生活を成り立たせられるか心配」だと言われていた私だったけれども、家を出て、一人でちゃんと生活できていることが嬉しい。自転車を漕いでスーパーに買い出しに行くこと、アルバイトしてお金を稼ぐこと、ご飯を作って洗濯すること、そうしたこと一つひとつが頭の中だけでいっぱいいっぱいになっていた私の足を地につけてくれた。一年間の留学生活は、大して言葉もできないくせに勢いだけで渡航しちゃって大変だった。それでも台湾の人達は、私の拙い言葉に耳を傾けてくれたし(傾けてくれない人も居た)言語交換していた友達やインターンシップで一緒だった香港人、日本人留学生等々しっかり関係を築けていて嬉しかった。言葉ができることで世界が鮮明になることを知った。場所に関わらず、自分が自分のペースのまま生きていけることが自信となった。

 

 そして、何より北関東の大学で過ごした日々。好きなことを思う存分やらせてもらったなあと思う。高校の先生にふと「今友達と一緒に住んでいるんですよ」って言ったら、「あなたの口から『友達』という言葉が聞けるなんて」と言われた。私は「いやいや、高校時代だって友達いましたよ」と返したけれど、やっぱり高校生の頃の私からすると友達と一緒に住むなんて考えられなかったよな、とも思う。大学の卒業旅行では、大阪の神社で巫女体験をした。巫女体験を一緒にできる友達が居るなんて、さいっこうだよ。自分の好きをはっきり出しても「変人」と揶揄しない人達と一緒に居られたことを嬉しく思う。また、挑戦したいことに挑戦させてくれる大学で本当に良かった。あれこれ手を出して、私は200単位近く取得して大学を卒業する。(台湾大学で取得した単位を含めたら200単位を超える)真剣に受けた授業もそうでない授業もあったけれど、一つひとつ何かしら心に留まるものはあって。その時々で惹かれたり、頭を悩ませたりした時間はやっぱり尊かった。私は専攻の民俗学のほかに、言語学も、教育学も、博物館学も、心理学も、文学も、文化人類学も、宗教学も、考古学も、日本史も、東洋史も、西洋史も取っていたし、必修で外国語があったり、情報や体育もあった。書の授業もあれば、憲法も取った。私は大学院に進むけど、これほどまで興味の赴くままに触手を伸ばせた時期はもうないだろう。ほんっとに楽しかったなあ。

 

 こうした日々の全てが私に「ちゃんと生きていけるんだ」っていう自信をくれた。私はきっと大丈夫。危うかったあの頃をちゃんと過去にしてくれた。憧れがつまった、私の大事な大事な大学生活である。高校の頃の私より、いまの私は伸びやかであると自分で思う。

 今回の沖縄帰省、親戚に嫌なことを言われたりして(中国ヘイトとか、容姿のこととか、それはそれはもうね色々と)私が憎んでいた社会は社会でやっぱりそう簡単に消えてはくれないんだけど、私は私の好きな自分で居たいし、好きな自分で居られる場所に居ようと決めた。

 

 明日友達と会うのも、満開の桜の下で写真を撮ることも楽しみだなあ!