雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

最近のこと(2020年6月10日)

 この前の更新からちょうど一か月近くなので、思い出したように日記を書くよ。

 

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 ・沖縄に帰って2か月

  新型コロナウイルス騒ぎで大学院のオンライン化が決まって、慌てて帰ってきて2か月経った。いつも帰省初日は身体が沖縄の暑さにびっくりする。那覇空港に着いた途端言葉も訛りだすけれど、それはまだ可愛い程度で、沖縄に帰って3日も過ぎれば、語彙の中にうちなーぐちが混ざりだす。沖縄に帰って1か月も経たないうちは、実家に残されたたくさんの思い出とか、あの時の閉塞感とかも思い出しては、胸がいっぱいになっていた。私はどうして沖縄を出たんだろう、とか、今回はコロナで仕方なくとは言え、そうでなくとも結局のところ私は沖縄に戻って生きていくんじゃないか、とか。沖縄の友達とオンライン飲み会して、あの頃と変わらないゆるい空気感に癒されたり、だからこそ私は島を出たんだと思ったり。別にこの島に嫌な思い出があるわけじゃない、この島が大切なのは変わらない、でも、胸がいっぱいになる。

 

 祖父母と散歩すれば、祖父は戦争で島を離れた数年を除いて90年この景色を見てきたんだという事実にたじろぐ。ずっと、ここに居ることの尊さ。春から夏にかけての沖縄。一日いちにち、色彩が増していくようだった。目に映る景色の端々から、生命力が感じられるようだった。大学入学後、私がこの季節に沖縄に居ることはなかったから、頭からは抜けていたけれども、私はこの景色や自然がたまらなく大事で、肌がどうしようもなく馴染むのだった。

 

 沖縄で生きること、日々を重ねることの途方もなさは、沖縄に戻って1か月半を超えた頃から感じなくなった。たぶん、慣れたんだと思う。元々住んでいたところだし、そもそも関東に住んでいたのは3年にも満たないのだから、そりゃそうだとも思う。ここに居ることに慣れたら、胸がいっぱいになって、色んなことに怒りを感じたり、悲しくなったりすることもなくなった。

 

 オンラインで授業を受けて、おじいちゃん宅に顔出して、散歩して、たまにケーキを焼く。それから那覇に行って本を借りて、課題して、たまに外食してみる。さとうきびの背丈が高くなって、風が吹くとざわざわと鳴く。波の音のようだと思う。沖縄南部だけど、毎日飛行機の音がする。最初の頃は色々思ったけれど、慣れた。でも、ブルーインパルスのこととか、Twitterやニュースで見る情勢にはモヤっとする。県議員選挙にも行った。祖父からは「僕が生きてる間に結婚か出世かどちらからしてほしい」と言われる。祖父母やいとこはそういう価値観で生きている。私には向かない価値観。「人生、二者択一すぎない?」と思うし、「多分無理だと思う」と答える。そうは言っても、祖父母宅に顔を出すと喜ばれ、私は冷蔵庫からコーラを出して飲む。中学生の頃から祖父母宅ではコーラを貰っている。祖父母はいつも何だかんだ言うけど、いつもコーラを補充してくれている。これがいまの、わたしの日常。新型コロナ以前、関東や台湾に住んでいた頃のように、週末小旅行や東京に行くことはない。でも、つまらないとか、そんなことは一切なくて、ただただ、この日々が続いている。

 

 いつの間にか、私は沖縄で働きたいなと思うようになっている。

 むしろ、沖縄以外ありえないという感じかもしれない。私はわたしが思っていた以上に、このいつまでも続く日々が大切なんだと思う。でも、わたしが沖縄でなにができるのか、まだ分からない。高校の同級生のうち、半分くらいはもう働いている。半分くらいは働いていない、というのがまた沖縄っぽいなと思うところではあるけれど。

 

・大学院生になって二か月

 沖縄に帰って二か月なのと同じように、大学院生となって2か月となった。すごいよ、大学院。すごく楽しい!!という日と、大学院でわたしなんかがやっていける気がしないって日が交互にやってきている。因みに今は後者。大学でも入る前と今とでは、見える世界が変わったと思うのに、大学院に入って二か月でやっぱり私は全然勉強も研究もできてない、してこなかったんだと、思う。大学ではまだまだお客様扱いされていたんだなって。すごい先輩とすごい先生が居て、自分が一番下っ端で、やっていける気がしないと思うし、自分のポンコツさがよく見える。でも、だからこそ、やっぱりいい環境に入ったなと思う。大学院に行ったことは間違いなかった。でも悔しいことに、私の専門性が劣っているのは、日本の大学で専門性を深めるはずだった一年間、私が台湾に行っていて、他言語の中、概論みたいな内容しか学んでなかったからかも、と思うこともある。やっぱりもう一年間、学部生をやるべきだったんじゃないかって。台湾に行ったことそのものに後悔はないけれど、自分で自分のことをそう思うことが悔しい。未来の私にそう思わせる、過去の私にイラつく。

 

 台湾に住んでいたこととか、私の学科の形式上、いろんなことを学際的に学んだんだということとか、そういうことが何につながるかは分からなくて。あの時はあの時で学んだことはあったはずだけど、今は何も見えていない。大学卒業のほんの2か月前は見えていたはずだけど、また見えなくなってしまった。新しい壁が高い。

 

 大学生の時、本を読むことは、単に文字を目で追うことではない、と学んだけれども、大学院生になってもその難しさを痛感している。膨大な文脈と研究史があって、その上で紡がれた言葉に対峙するには、知識も経験も足りてない。頑張らねば、と毎日おもう。そう思える環境は素晴らしいとも思うけれど、自分には無理だと諦めてしまえば楽になるんだな、とも思う。ただ、それでは到達できない場所があることもちゃんと知っている。

 

オンライン授業雑記

 

 コロナ危機の中で過ごしている、でも平穏で何ともない私の日常を記しておきたいと思う。

 私の通う(一度も通ってない)大学院でもオンライン授業がはじまった。今日はその記録を残しておく。

 

 

 目次

 オンライン授業っていっても様々

 今学期取っている授業は10コマ。その全てがオンライン開講になった。ただ、そのオンラインの方法が授業によって様々。

 まず、リアルタイム式かそうでないか。リアルタイム式だとzoomを使うのか、Microsoft Teamsを使うのか。リアルタイム式で授業を行う場合、最も重要視されているのは討論である気がする。使うサービスが異なれど、基本的にはゼミ形式。

 リアルタイム式でないとすると、あらかじめ録画されているものを視聴しレポートを書く形式、もしくは完全にテキストだけでやりとりするメーリングリスト形式に分けられる。

 

 はじめの一週間は、どの授業がどんな形式で行われるのか、その流れを把握するだけで精いっぱいだった。対面授業でも最初の週は多少緊張するものだけれども、オンライン授業には特有の緊張感があった。一人ソワソワする感じ。授業前に教室で友達や先輩たちとお喋りできないのも残念だった。学部の時、私はたくさん授業を履修していたけれど、授業前後のお喋りが楽しみだったりしたんだなあと気づく。とは言え、授業の前後はずーっとLINEをしていたんだけれども。

 TeamsやZoomにも個人チャットの機能があることを発見する。こっちはどちらかというと、授業中に行う手紙まわしの感覚かも。(今の小中学生って手紙まわししない?)ただ、個人チャットは(誤爆されしなければ)絶対にバレることのない完全犯罪だし、手紙まわしの醍醐味って如何に先生にバレずに手紙を回すか、周りの席の人も巻き込んだスリルだったりするから、やっぱり面白くないよなあと思う。

 

 「教員にとっては一つのサービスで授業を行ってても、学生にとってはzoomやTeamsやskypeやらの対応で大変だ」というツイートもたくさん見かけていたけれど、私は様々なオンライン授業が提供されてて良いなと思った。理由、飽きないから。リアルタイム式は独特な緊張感があるからずっとやってられないけれど、馴染み深い声を聞いたり顔を見たりするのは嬉しくもある。メーリングリスト形式の授業はいつでも取り掛かれるし、ネット環境の心配もないけれどずっとやっていたら飽きて仕方ない。どの形式にもメリット・デメリットあるのだから、私の場合はそれらがうまく混合していて楽しいなと思っている。

 

 環境の問題

 沖縄のド田舎で受講する授業、一番心配なのはこれ。よく言うギガ数の不安は大容量の格安SIMに乗り換えたから全くないけれど、問題はただ単にネット回線が遅いってこと。先生方も私がいま沖縄に居るってことを理解してくださってて、授業の度に気遣ってくれるんだけれども、ネット回線が不安定なのか割とどうしようもなく。従兄弟も弟もそれぞれ違う大学だけれども、ネット回線の遅さで右往左往する日々……。

 

 演習の時間で、私以外の人物が固まって時が止まるのは日常茶飯事。これ、演習発表どうするんだ???でも、ほとんどの場合は大丈夫なのできっと大丈夫……。どうしようもなかったら、都会の友人宅でネットを借ります。

 

 もう一つ気がかりなのが、既に蝉が鳴き出しているってこと。オンライン授業に慣れてないからか、色んな音が気になる。最近増えた飛行機の音、生協のトラックから流れる歌、公民館が流す7時半、12時、16時半、18時の放送(多くない?)田舎は結構うるさい。

 それから、私の自室は子ども部屋を弟と半分にして使っている。仕切りは本棚のみ。だからお互いの授業中にはそれなりに気を遣う必要も出てきて、なかなか難儀。環境の問題は早いとこ改善したい。ただ、先生のお子さんの声が聞こえたり、受講生のお母さんが見えたりっていうこともあって。私はそれにほっこりしているし、この非常事態だから多少のハプニングは微笑ましいものとして許してほしい。ゆるゆるでいこうぜ。

 

 あ、それからこれは沖縄特有の問題かもしれないけれども、教科書が届かない!レジュメや論文を印刷しまくってたら、プリンターのトナーが切れたけれども、トナーも届かない!!!現在、沖縄宛ての普通郵便は船便一択になっており。沖縄ではそのことがある程度知られており、こっちから出す分には速達(こっちだと飛行機便になるから2,3日で届く)で済むけれども、業者にそれをなかなかお願いしづらく。何でも早め早めに行動しなければならないっぽい。

 

授業が「溜まる」ってこと

 

 そう!これ!!授業が「溜まる」っていうことに気づいてしまった。

 もちろんリアルタイム式の授業は溜まりようがないんだけれども、録画を後で見てねという形式だと授業が溜まる溜まる。オンライン授業を一週間受けてみて、最適解はシンプル。時間割通りに学ぶのが一番良さそう。そう思って、学校のチャイムを鳴らしてくれるアプリを取った。まあ、「ああ、いま3限がはじまったなあ……」と確認したうえで眠りにつくことも多々……。ここらへんは気を引き締めて頑張っていきたい。

オンラインだからこそのコミュニケーション

 これもよく言われているけれど、オンラインだからこそコミュニケーションがあると思う。敢えてオーバーにうなづいてみせるとか。zoomのスタンプみたいな機能とか。心持ちゆっくり話すとか。慣れの問題かもしれないけれど、オンラインで話すのって難しい。まず、自分の声がうまく聞こえない。こう、周りにちゃんと聞こえているのか不安がある。壁に向かって話してるみたいというか。その為、あんまりうまく話せている気がしない。つらい。

 

 

 ちなみに、zoomではオンライン飲み会をしたけれど(LINEやSkypeでもやった)オンライン飲み会もまた普通の飲み会とは違う作法があるよね。話題はみんなで共有できるやつが良いとか(リアル飲み会なら、自然とグループになるもんじゃん)でも、途中離脱がしやすいところが良かった。途中でシャワー入って、その後も飲み会が続いていたから、また参加するっていう気軽さ。

茨城と沖縄を行き来する日々

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 色々書いたけれど、オンライン講義にも良い点はたくさんある。その一番は沖縄に居ながら、茨城の授業を受けられること。

 

 

 授業の合間に地元を散歩する。18年間見てきた景色がそこにはあって。家族と話す私、近所の人と話す私は思い切り訛ってて、茨城に居る私とは断絶を感じていた。私はこの四年間、この断絶がつらかった。だからこそ、沖縄で、沖縄の感覚と茨城の感覚を行き来できることが嬉しい。歴史的な疫病の蔓延でもたらされたこの日々は、沖縄の私と茨城の私をつなぎとめる。

 

 畑でさとうきびの世話をしているおじいちゃんに「これから大学の授業だわけさ」と声をかけると、「今はいい時代さあ」と話し始めた。太平洋戦争下、軍需工場で働いていたおじいちゃんが初めて使った電話のこと。沖縄の田舎で育ったおじいちゃんは電話の使い方が分からなくて、寮母さんが代わりに取り次いでくれたということ。それが今、沖縄から茨城の授業を受けられるなんてすごい、とのことらしい。こういう話を聞きながら私は学んでいきたかったんだなと思った。

思っていた春とは違った

 

 思っていた春とは違った。今ありとあらゆる人がそう思っているのだろうな。

 思い描いていた春は、大学院生として新生活に胸を弾ませている春だった。でも、私は今子供時代を過ごした実家に毎日籠って日々を過ごしている。

 

 大学の卒業式を終え、父の命日のためにもともと沖縄へ一旦帰るつもりだった。大学の春休みで3月も帰省していたから、ほとんどとんぼ返りだ。大学院の入学式がなくなったこと、それから新学期のスタートが三週間ほど遅れるのは聞いていた。でも、茨城の地へまたすぐ戻れるものだと思っていた。大学の授業が当面の間オンラインで行われることとなったのは、私が沖縄に帰る二日前のことだった。またいつ対面授業ができるのか、誰も分からなかった。

 

 いろいろ考えて、生活の拠点を実家のある沖縄に戻すことにした。

 期限は不明。7月あたりに戻れたら良い方で、9月、10月に戻れることを信じている。3月末の地点で茨城に非常事態宣言は出ていなかったけれど、東京はにわかにパニックになっていて。近所のスーパーで買い占めが起こっていたのが私の不安を煽った。アルバイトだってどうなるのか分からない。(のちに休業となった)家賃は無駄になるとしても、食費や光熱費などをうかせたかった。

 本は茨城にもってきていたけれども、オンライン講義でどんな文献が必要になるか分からないから、手当たり次第段ボールに詰めた。冷蔵庫の中身は周りの人におすそ分けした。茨城にようやく慣れてきた生活を、一つ一つ引き剥がすようにして荷造りをした。

 

 

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 首都圏を避け、茨城空港から沖縄へ。満開の桜を目に焼き付けるようにして空港へ向かった。私はこの桜が風に舞うのも、新緑が混じって賑やかになるのも、全部全部目にするつもりだったのに。

 

 

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 でも、私は良い方なのだ。分かっている。帰れる場所があること、帰っておいでと言ってくれる人がいること。もともと住んでいたのが東京ではなく茨城であったこと。高齢者や持病を持っている人と同居しているわけではないこと。首都圏を通らずに帰れること。もともと父の命日で帰る予定だったこと。色んなラッキーがあって、この判断を取れた。しかもそれが3月末のことだったからできた判断である。あの時の判断が一週間遅れていたら、きっと身動きも取れなかった。(まあ父の命日で帰っているのでそれはないんだけれども)

 

 沖縄に帰って二週間は家族以外とほぼ会わず、ひきこもり生活を送っていた。

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 父の命日も、清明祭も家族だけで行った。私が二週間ひきこもっているうちに沖縄でもぐんぐん感染者が増えて、茨城から沖縄へ移動して2週間が経ったあとでも生活は変わらなかった。

 テレビを付けても、ワイドショーが不安を煽ってばかりくるから、NHKドキュメンタリーばかり観ている。身体を動かしたくて、庭でバレーボールしたりキャッチボールしたりして過ごしている。農道を散歩することもある。私のことを屋号で呼ぶこの地域のお年寄りは、新型コロナウイルスなんて関係なさそうにして、いつものように畑を耕している。

 

 2週間の自主隔離が終わったその日にブックオフへ行った。このあたりで一番大きいブックオフは、小中学生の頃からちょくちょく通っていたけれど、そこへ足を踏み入れるのは久しぶりのことだった。何となく、昔好きだった本を手に取る。『デモナータシリーズ』とか『図書館戦争』とか。昔はお小遣いがなくて買えなかった本を10数冊かったけれど、それでも千円ちょっとだった。帰宅後そうした本を読む。間違いなく今読んでも面白い。あの頃の自分が何に胸を弾ませたのか、切に迫ってくる。

 

 

 オンラインでのおしゃべりもよくやっている。小学校からの友だちとのオンライン飲茶会、高校の同級生とのオンライン飲み会、ドイツの友達とのライン通話。

 毎日、何かをしているけれど、やっぱり日々は静か。世界中を揺るがすような出来事が起こっているのに、静かな日々は不気味で不安になる。

 

 私は自分の子供時代、ひいては沖縄のことをずっと考えてきたような大学生活だった。大学卒業とともに子供時代をある程度清算できたように思っていたのに、ここに来てあの頃に戻っていくような感覚になる。沖縄で就職するかどうするのか、という問題もずっと頭を悩ませていたけれど、沖縄で生活することのリアリティは沖縄に居ないと分からないものだと感じる。

 

  憧れていたもので周りを固めていた大学時代と、それから離れざるを得なくなった現在の生活。18歳までを過ごした子供部屋で、私は何を学ぶのか。ここで静かに生活することが苦しいわけではない。ただ、あまりに緩やかで静かだから混乱している。この不安は新型コロナによって招かれたけれど、やっぱり問題は自分の中にある。

 

 この日々をよりよく過ごそうなんてことはとうに放棄した。健やかに過ごせたらもうそれでいいことにしている。スコーンを焼いた。ずっと気になっていたホラーゲームをクリアした。高校生、中学生の頃のものが積みあがっている部屋を綺麗にした。テイクアウトした伊勢海老で大学卒業を祝ってもらった。

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 それから沖縄から茨城の大学へ事務手続きはわりとあって。書類を書いては郵送して、を繰り返している。でもやりたくないから、亀のスピードで書類を片付けているし、大抵大学から不備の電話を受ける(ごめんなさい)沖縄から県外への普通郵便は船に載せるしかなくなっていて、1週間ほどかかるという。速達を使えば飛行機便ですよ、とは言うけれど、「ああここは島なんだな」と実感した。緩やかな日々の穏やかさがより一層増した。それと同時に息苦しくなってきた。今は書類を郵送する手続きと、大学からオンラインで受ける連絡だけが、私が大学院生なのだと教えてくれる。

 

 大学院の授業はまだはじまらない。そうは言っても、オンラインで新入生オリエンテーションを受けてみたり、履修登録をしてみたり、おっかなびっくり大学院生としての生活ははじまっているらしい。この地で大学院の授業を受ける自分を想像してみたけれど、うまくいかない。でも、心の端で楽しみにしている。もちろん、茨城の地で対面授業を受けたかった。院生室で色んな話をしながら研究を進めたかった。でも、この地で学ぶことで起きる自分の中の化学反応みたいなものが、どこかで楽しみである。

 

 思っていた春とは違った。こんな静かで不安に覆われた春を私は忘れないだろう。この春の意味などまだ分からないし、この先の夏も秋も一体どんなものか分からない。ただ、静かに生き抜いて、その先で色々考えたいと思う。近況報告おわり。

 

大学を卒業しました

  

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大学を卒業しました。

新型コロナウイルスの影響で一般学生の式典参加は禁止、学類ごとの学位記授与式もなくなってしまったけれども、卒業式当日はうららかな陽気で、とても素晴らしかった。大学入学式の時に見上げた桜が満開で、それが心底嬉しかったのを強烈に覚えている。沖縄では咲かない品種の桜。本とか映画とか歌詞とかでしか知らなかった桜だったから、風に舞う桜を見ようって受験の時に言い聞かせていたんだった。自分の知らない環境に身を置いて、期待と不安、どちらが大きいかなんてわからなかった。怖かったけれど、ずっと島に居る自分もまた想像できなくて。故郷を飛び出した4年間は、私にとって本当に大きなものとなった。

 

 卒業式当日は式典が行われるはずだった講堂に集まって写真を撮ったり、サークルの練習場で写真を撮ったり。後輩からも花束をもらって、式典の有無なんて気にならないほどだった。

 

 卒業式の日は色んな人に「おめでとう」と言ってもらった。駅と大学をつなぐ、普段は荒々しい運転をするバスのおじさんも「本日大学を卒業したみなさん、おめでとうございます」とアナウンスするものだから、涙ぐんでしまった。学校を卒業したら、次に「おめでとう」と言ってもらえるのはいつだろう。社会全体に微笑ましく見守ってもらえる、学生と言う立場のありがたさよ。

 

 

 限られた時間ではあったけれど、友達と祝杯。

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 茨城の地酒を飲みながら、四年前の私は「内地」に出てきたつもりであったけれど、それが茨城で良かったなあと思った。「内地」でくくられていた日本にも色んな姿があることを知れたことは、間違いなく豊かさである。茨城の自然とか、食べ物とか、人ととか、沖縄とは全く違う空気感にぽかんと置かれて、それはそれは不安だったけれど、全身で感じていた日々だった。私はサークルでは茶道をやっていたし、専攻は文化に関するものであったけれども、周りの自然環境があってこそ、実感をもって学べていたんだなあと思う。

 

 帰り道、友達が「自己肯定感が上がった四年間だった」と話していて、本当にそうだよなあと思った。私の居た場所は、各々が好きなことをのびのびとやっていて、誰もそれを茶化したり邪魔したりしなかった。心からすごいなあと思える人がたくさん居て、それは私にとって心地よいものだった。本当にありがたかった。この四年間を思ったら絶対に泣いてしまうと思っていたのに、周りの人がみんな笑顔だから大学では一度も泣かなかった。同級生は「働くのが不安」と口々にしながらも、やっぱりどこか期待している目をしていた。寂しそうに「この大学に来るのも最後」と言う姿が、私にはまぶしかった。

 

 私はあと二年、この地に住む。自分で決めた第一志望の進路だけれども、それでも友人が一人また一人と去っていくのはつらくて寂しくて。友人と分かれた帰り道、夜の公園で美しく咲く桜を見ていたら、人の別れが春に集中していて良かったなと思った。これが秋なら耐えられなかった。

 

 

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 その日はどんな気持ちで布団に入ったのか、覚えていない。ただ、翌日の朝目が覚めたら後輩からもらった花が鮮やかで、おめでたい日に花を贈る意味がわかった気もした。贈ってもらった花の鮮やかさは、華々しかった日の名残をしっかりと伝えていた。

 

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