雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』読んだので感想文

 インスタやFacebookでよく見かけた本を手に取った。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』って本。

 

 

 

 

 英国で保育士として働く著者の息子が「元底辺中学」に入学し、様々な問題や出来事に遭遇していく日々が母親の視点から描かれている。これがまた現代的というか、人種差別、貧困、LGBTQ、いじめ、デモ、ニュースで取りざたされているような出来事がたくさん出てくる。そして、聡明な著者の息子は一つひとつ自分のこととして考えていくし、この進学先の中学校が「元底辺中学」というのが肝で周りの大人もたくさん考えながら子供を見守っている(ように見える)。もちろんそう簡単にならない現実も描かれているけれど。

 

 「話題になっていたし」と手に取ったら、ページをめくる手が止まらなくなって、気が付けば一気読みしていた。その後TAやっている授業の準備があったから、本のことを考えながら大学へ向かったんだけれど、今まであった色んなことが頭に浮かんでは消え、泣けてきちゃった。

 

 例えば、7章の「ユニフォーム・ブギ」。制服を買えない生徒のため、制服リサイクルのボランティアの話だ。著者と息子「ぼく」は、貧困家庭で制服が買えなくて困っている友人に、いかに自然に制服を手渡すことができるか苦心するんだけれど、その優しさが自分にも沁みてくる。

 

 あ、そういえば、と思った。私は中学生の頃、双子の弟と同じアルトリコーダーを使っていた。中学校三年しか使わないアルトリコーダーを一人一本買う必要はない、っていう判断だったと思う。でも、思春期の男女の双子がリコーダ―を貸し借りしている様子は、いじめにつながらないか先生たちはやきもきしていたのかもしれない。ある日、先生が音楽準備室に呼び出して「余っているから」とアルトリコーダーをくれた。その時、私たち双子は何を思ったか覚えていない。「別に良いし」という反応だったかもしれない。不意にこのことを思いだしたのだった。あの時アルトリコーダーをそっとくれた先生の優しさに10年近く経って気づいた。

 

 そしてもう一つ頭に浮かんだのは、最近出会った女子高生のことだ。何かの拍子に彼女に「うち、母子家庭なんですよ」と言われたから、「私も母子家庭で育ったよ」と返した。そしたら「母子家庭なのにこの大学に合格したってすごいですね」と言われた。なんかもうびっくりしちゃって、何も言えなくなってしまった。私の中では、母子家庭と「今居る大学に行けてすごい」がどうにも結びつかないのだった。(ちなみに、「沖縄出身なのにいまの大学に行けてすごい」も言われたことある)私の地元は塾に満足に行けないような田舎だし、本屋もなかった。上のエピソードからも分かるように経済的に恵まれているわけではないから、新品の本を買うようになったのは、奨学金を貰うようになった大学生になってから。(それでもブックオフオンラインやメルカリで買うことがほとんどだ)確かに、そういう面でハンデはあったと思う。でもだからと言って、「母子家庭だから○○大に行けない」って思ったことはなかった。

 

 それはそれまでさりげなくサポートしてくれた大人のおかげだと思う。高校合格祝いにkindleをプレゼントしてくれた友達のお父さんのおかげで、青空文庫が大量に読めた。那覇の県立図書館に行くって言ったら、帰り道だからって送ってくれた先生。(結構な遠回りになっていたことを後で知った)とある文学全集が欲しい話をしたら「使い道のない図書カードだから」とくれた大叔母(使い道のない図書カードってある??ないよね?)(しかもぴったり文学全集が買える金額だった)全部ぜんぶありがたかった。

 

 それと同時に、「母子家庭なのに」と考える高校生のことが気になった。どうしてそう考えるのだろう。大学の入試偏差値とは関係していないような気がする。もちろん多少はしているのかもしれないけれど、彼女とわたしの出身高校の入試レベルはそう変わらないし、さらに彼女は特進クラスに居るわけで、高校生の頃の私より成績も良いのだった。たったひととき彼女と関わったわたしが「大丈夫だよ」とか「そんなこと関係ないよ」とは安易に言えない問題がそこにあるような気がした。わたしはもう彼女と会う機会もない。ただ、自分と同じような家庭で育った子に会った時、何を言えるんだろう。

 

 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で「元底辺中学」に入った息子がぶつかる様々な問題は決して英国だから、ではなくて。7章だけではなく(ちなみに言うと、私はそれこそリサイクル制服を着て登校していたし、まわりも当たり前だった)本全体にわたって言えることなのだった。「うんうん、わかるなあ」と思うことも、「この言葉が出てくるのはすごい」と思うこともあったけれど、本を通して素敵なのは、自分の肌で感じたことを自分の頭で考えて、言葉にして、それにまた耳を傾ける人がいるってこと。「私も」と言ってもそう簡単なことではないけれど、自分を熱くさせるものがあった。

 

約1ヵ月、ちゃんと高校に通えた話

 

 教育実習を終えました。

 

 約一か月、関東の高校で日本史を教えていた。大学生活、教職が大きな比重を占めていたから、一つのヤマを越えたんだと思う。新型コロナウイルス流行下、そもそも出来るのかぎりぎりまで分からなかった。それに、毎日の引きこもり生活で体力は落ちていて、1ヵ月の教育実習ができるのか不安でたまらなかった。

 

 ううん、それだけではない。わたしは自分の高校生活が苦しくてたまらなかったから、再び高校に戻ることに不安があった。それなら「何で教職を取ってるんだよ」って話ではあるけど、高校を経て、教育に疑問があったからこそ、教職課程を受けてみたかった。教職課程を履修していくうちに目的は増えたり減ったりしたけど、最初の動機は確実にこれだ。

 高校をクソだと思っていたから、教育で有名な大学の教職課程を「どんなもんか見てやろう」と思って履修していた。そうするうちに、あの頃の自分を救うような言葉に出会ったり、あの頃を思い出してムシャクシャしたり、なんだか面白くなってここまできた。教員になるかは分からない。

 

 自分の高校時代、1ヵ月丸々登校できたのはどのくらいあっただろうか。たぶん、とても少ない。高校1年の1学期を除けばほとんど無いんじゃないかって思うくらい。

 

 でも、立場を違えて向かった高校は案外平気で、案外楽しかった。

 

 もちろん噂に聞いていた通り、実習そのものはハードだった。夏休み期間に手探りで作っていた指導案は全て現場で通用せず、一から書き直したし、SHRの進行も授業も自分がいざやってみると基本的なことすらできなかった。先生ってこんなに視野が広くて、マルチタスクなんだなって知った。

 

 恵まれていたなと思うのは、実習の指導教官と同じ日本史の実習生仲間のことがすごく好きだったこと。自分よりすごい人が目の前に居ること、これはすごく刺激的なことだ。高校生相手の日本史の授業、こんなに作り込まれているものなんだな、と思ったし、それが無性に嬉しかった。(自分にできるかは別)最初の頃はお互いに緊張していたし、自分のだめさ加減にも悩んでたけれど、それでも実習が進むにつれ、どんどん楽しくなっていった。

 

 同じ実習生の小さなミスがやたら面白かった。指導教官の見守るような眼差しがくすぐったかった。生徒が全員帰った放課後、黒板の前で模擬授業をしたこと、指導教官が見ている部活動を覗きにいったらスーツのままでバレーボールしたこと、ずっと笑っていた気がする。

 

 生徒も可愛かった。40人を前にして話し続けるのは正直少し怖さもあった。これは立ってみないと分からなかったことだけど、高校生の感情のパワーはすごいし、高校生は想像以上にこちらを見ている。明るい高校生だったなと思うけど、教室の中には高校生のときのわたしみたいな生徒も居るんだろうなとも思う。教室に居るのがきつい子。

 

 実習生として高校にまた戻ってみると、教室にはたくさんの生徒が居て、わたしもその中の1であったことが思い出される。教室が窮屈でたまらなかった。学校に馴染めないやつは社会に出られないんだという呪いにかかっていた。高校を卒業して、一人暮らしとか留学とかアルバイトとかいろんな経験をして、高校に戻ってみると、やっぱり高校は窮屈である。

 

 でも、教室はあの頃の自分が思ってた以上に広かったなとも思う。いろんな生徒が居て、それぞれにはそれぞれのやりたいこと、考えてること、思ってることがあって。たまたまいま同じ教室に居合わせてるだけの彼らの可能性の広さを感じた。そして、彼らを見守ってる大人の多いことよ。彼らは何にも守られていないみたいな顔して過ごしているけれど、そのすごさよ。でも彼らは数年前のわたしであるし、彼らもあと数年したら働き出すのだと思うとすごい。

 

 教育実習、やって良かった。教職課程の集大成として学びも多かった。それに、そういう経験のひとつひとつが「あの頃のわたし」を救ってくれる。春休み、一番休んでた高1、高2の担任に「教育実習行くんです」って言ったら笑われた。でも「あなたがやりたかったことのフィニッシュなんだから行っておいで」との言われた。いろんな思いがどんどん氷解していく。

 

 最終日には生徒から寄せ書きとビデオをもらった。指導教官たちやHRの先生からありがたい言葉ももらった。わたしは「明るい先生」と言われることが多かった。大学入学以降、そういうことを言われることが多い。それは自己評価とはかけ離れているし、高校の頃そういうこと言われたことはなかった。でも、それだけわたしが楽しそうにしていたってことなんだなと思うと、やっぱり嬉しかった。

 

 自分が高校の先生になるかは分からない。いま自分がやるべきことは大学院生として自分の研究に集中することだと思う。でも、その先に高校の先生になれるかもしれないという可能性、そして自分の研究してることがそこで活かせるということ。そして、(マイナスの理由から)関心をもっていた教育について知れて、そのスコープで社会を少し見れるようになったことは大きいよなあと思う。

見晴らしの良い場所で

 

 沖縄に帰ってきて3か月。

 昼夜逆転しちゃっているし、関東に居る自分よりずっと頑張れていないと思うけれども、沖縄で、学ぶこと、その実感がふいに訪れたことがある。鍵垢のツイッターでバーッと書いて自分の気持ちを発散させて、それで終わりにしたって良いんだけれども、この気持ちをTLに流してしまうのもまた惜しくて、ブログにしました。

 

 私は土地神のことを研究したいと思っている。土地神のことで卒業論文を書いた。修士論文もそのつもりだし、もしものもしもで博士論文を書くことになってもやっぱりそのテーマだと思う。

 

 でも土地に対する信仰、その実感は全然分かってなかったんだと思う。

 沖縄に帰ってきて、祖父母の土地に建てた家に住んで、祖父母の畑が隣にあって。おじいちゃんが炎天下で毎日サトウキビの世話をするのを見ていて。収入には全然ならないのに、うちのおじいちゃんはそんなこと関係ないみたいに畑を大事にしていて。機械化できない農業は時代遅れだと思いながらも、それでもおじいちゃんはまた誰かが畑を続けて欲しいと思っていて。

 

 田舎だから自分にも相続する土地があって、その土地を見に行って。就職とか引っ越しとかそういう大きな決断をする時、「この土地をどうするのか」という問いが生まれるものだなと自分の問題として強く実感して。

 

 そうして、土地というのはそれを継承した祖先とのつながりを感じる場所であり、生活の基盤であり、(農業が主流な時代は特に)経済の基盤でもあったんだなと実感したんだった。言葉にすると簡単だけれども、いつもと変わらない、でも日々背丈が高くなるサトウキビ畑を前にして、「ほう」という実感があったのだった。

 

 そして、昨日は旧暦5月15日で5月ウマチー(地域の拝み事)があった。地元の方にも「地元の子」として参加した。うちの地元は元々山手の方に集落があったが、郡道が整備されたこと、生業変化の結果、現在では海手の平らなところに集落が移っている。でも、拝所は以前集落があった山手の方にあるから、自治会の人と草生い茂る斜面をぐんぐん登った。

 

 そしたら、本当に見晴らしが良い。自分の家が、いつも歩いている道が小さく見えて、緑の向こうにはきれいな海が広がっていた。すっかり上がった息を落ち着けるようにその景色を見つめていたら、やっぱりまた「ほう」という実感がこみあがってきた。「これ、山手に家があった昔は毎日見ていた景色だったんだ」と思った。山手に集落があった時代、平地には田があったという。裕福でない限り主食はイモで、米は大変に美味しかったとおじいちゃんから聞いた。つまり山手に集落があった時代、毎日自分たちの生活、経済基盤であった田を見ていた。一面の緑の絨毯だっただろうその景色はどんなだっただろう。刻一刻と表情を変える海を見て、その水平線の先に何を見ていたんだろう。その海の向こうから来たという土地神さまと、どんな思いで向き合っていたのだろう。

 

 大学の授業がある時だけの仮住まいでは、絶対にこの実感は訪れなかっただろうなと思う。新型コロナウイルスの影響で訪れるはずだった大学院生活は訪れなかったけれども、この土地で学べて良かったこともあるなと思った。学問を修めるうえでは、そういう個人的で感情的な実感をどう生かしていいか分からないけれども、それでもそういう積み重ねがあること。ここで生まれて、育って、ここを学びたいと思っていること。それはやっぱり大事にしたいと強く思う。

最近のこと(2020年6月10日)

 この前の更新からちょうど一か月近くなので、思い出したように日記を書くよ。

 

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 ・沖縄に帰って2か月

  新型コロナウイルス騒ぎで大学院のオンライン化が決まって、慌てて帰ってきて2か月経った。いつも帰省初日は身体が沖縄の暑さにびっくりする。那覇空港に着いた途端言葉も訛りだすけれど、それはまだ可愛い程度で、沖縄に帰って3日も過ぎれば、語彙の中にうちなーぐちが混ざりだす。沖縄に帰って1か月も経たないうちは、実家に残されたたくさんの思い出とか、あの時の閉塞感とかも思い出しては、胸がいっぱいになっていた。私はどうして沖縄を出たんだろう、とか、今回はコロナで仕方なくとは言え、そうでなくとも結局のところ私は沖縄に戻って生きていくんじゃないか、とか。沖縄の友達とオンライン飲み会して、あの頃と変わらないゆるい空気感に癒されたり、だからこそ私は島を出たんだと思ったり。別にこの島に嫌な思い出があるわけじゃない、この島が大切なのは変わらない、でも、胸がいっぱいになる。

 

 祖父母と散歩すれば、祖父は戦争で島を離れた数年を除いて90年この景色を見てきたんだという事実にたじろぐ。ずっと、ここに居ることの尊さ。春から夏にかけての沖縄。一日いちにち、色彩が増していくようだった。目に映る景色の端々から、生命力が感じられるようだった。大学入学後、私がこの季節に沖縄に居ることはなかったから、頭からは抜けていたけれども、私はこの景色や自然がたまらなく大事で、肌がどうしようもなく馴染むのだった。

 

 沖縄で生きること、日々を重ねることの途方もなさは、沖縄に戻って1か月半を超えた頃から感じなくなった。たぶん、慣れたんだと思う。元々住んでいたところだし、そもそも関東に住んでいたのは3年にも満たないのだから、そりゃそうだとも思う。ここに居ることに慣れたら、胸がいっぱいになって、色んなことに怒りを感じたり、悲しくなったりすることもなくなった。

 

 オンラインで授業を受けて、おじいちゃん宅に顔出して、散歩して、たまにケーキを焼く。それから那覇に行って本を借りて、課題して、たまに外食してみる。さとうきびの背丈が高くなって、風が吹くとざわざわと鳴く。波の音のようだと思う。沖縄南部だけど、毎日飛行機の音がする。最初の頃は色々思ったけれど、慣れた。でも、ブルーインパルスのこととか、Twitterやニュースで見る情勢にはモヤっとする。県議員選挙にも行った。祖父からは「僕が生きてる間に結婚か出世かどちらからしてほしい」と言われる。祖父母やいとこはそういう価値観で生きている。私には向かない価値観。「人生、二者択一すぎない?」と思うし、「多分無理だと思う」と答える。そうは言っても、祖父母宅に顔を出すと喜ばれ、私は冷蔵庫からコーラを出して飲む。中学生の頃から祖父母宅ではコーラを貰っている。祖父母はいつも何だかんだ言うけど、いつもコーラを補充してくれている。これがいまの、わたしの日常。新型コロナ以前、関東や台湾に住んでいた頃のように、週末小旅行や東京に行くことはない。でも、つまらないとか、そんなことは一切なくて、ただただ、この日々が続いている。

 

 いつの間にか、私は沖縄で働きたいなと思うようになっている。

 むしろ、沖縄以外ありえないという感じかもしれない。私はわたしが思っていた以上に、このいつまでも続く日々が大切なんだと思う。でも、わたしが沖縄でなにができるのか、まだ分からない。高校の同級生のうち、半分くらいはもう働いている。半分くらいは働いていない、というのがまた沖縄っぽいなと思うところではあるけれど。

 

・大学院生になって二か月

 沖縄に帰って二か月なのと同じように、大学院生となって2か月となった。すごいよ、大学院。すごく楽しい!!という日と、大学院でわたしなんかがやっていける気がしないって日が交互にやってきている。因みに今は後者。大学でも入る前と今とでは、見える世界が変わったと思うのに、大学院に入って二か月でやっぱり私は全然勉強も研究もできてない、してこなかったんだと、思う。大学ではまだまだお客様扱いされていたんだなって。すごい先輩とすごい先生が居て、自分が一番下っ端で、やっていける気がしないと思うし、自分のポンコツさがよく見える。でも、だからこそ、やっぱりいい環境に入ったなと思う。大学院に行ったことは間違いなかった。でも悔しいことに、私の専門性が劣っているのは、日本の大学で専門性を深めるはずだった一年間、私が台湾に行っていて、他言語の中、概論みたいな内容しか学んでなかったからかも、と思うこともある。やっぱりもう一年間、学部生をやるべきだったんじゃないかって。台湾に行ったことそのものに後悔はないけれど、自分で自分のことをそう思うことが悔しい。未来の私にそう思わせる、過去の私にイラつく。

 

 台湾に住んでいたこととか、私の学科の形式上、いろんなことを学際的に学んだんだということとか、そういうことが何につながるかは分からなくて。あの時はあの時で学んだことはあったはずだけど、今は何も見えていない。大学卒業のほんの2か月前は見えていたはずだけど、また見えなくなってしまった。新しい壁が高い。

 

 大学生の時、本を読むことは、単に文字を目で追うことではない、と学んだけれども、大学院生になってもその難しさを痛感している。膨大な文脈と研究史があって、その上で紡がれた言葉に対峙するには、知識も経験も足りてない。頑張らねば、と毎日おもう。そう思える環境は素晴らしいとも思うけれど、自分には無理だと諦めてしまえば楽になるんだな、とも思う。ただ、それでは到達できない場所があることもちゃんと知っている。