雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

あの頃を思い出す ひな祭り

 

 

今週のお題「ひな祭り」 

 

 3月3日は桃の節句、ひなまつり。我が家でも雛人形が床の間を飾り、ひなあられを食べました。

 

 でも、不思議とわくわくはしなかったです。

 節分の時と同じように、いつの間にか過ぎ去っていく「いつもの日」という感覚が抜けませんでした。

 

 どうしてでしょう?

 私は幼い頃、ひな祭りが大好きでした。幼い私にとってひなまつりは、誕生日と同じくらいの一大イベントで、その日が来るのを指折り数えて待っていました。

 しかし、時が経つのにつれてあのわくわくはどこかへ行ってしまったのです。

 

 それは、きっと私が自分の世界を開拓していったから、なのではないかと思います。

 私は男女の双子です。保育園にもいかず、双子の片割れとはずっと一緒でした。もっというと、家は私の世界の全てであり、そこにいる子どもは彼だけでした。だから、二人だけの世界で常に二人はセット。誕生日ケーキは彼と同じもの、どこへ行くのも何のお祝いでも彼と同じものの中、唯一ひな祭りのみが私一人の時間でした。

 

 二人の世界しか知らない私にとって、それはどんなに嬉しかったことでしょう。誕生日にも決して味わうことのできない喜びを3月3日に感じていました。

 

 幼稚園生になって、私ははじめて二人だけの世界を抜けました。そして、小学生になって、自分の時間というものを確かに持ちました。本を読んでいる時間、絵を描いている時間、音楽を聴いている時間、それは誰にも邪魔されることはありません。そして今、そんな時間を大切に思う度、幼き日に感じた3月3日の輝きを思い出すのです。

 

 私だけのお祝いの日。私だけが主役の日。母と父はその「私だけ」をよく大切にしてくれたと思います。その御蔭で、あの時は私が女の子であることがとても誇らしかったです。

 

 そこまで考えると、ひな祭りを楽しめないことは悲観すべきことでないのかもしれません。確固たる自分を私は持ち、母にお膳立てして貰わなくとも、私は自分の時間を作ることができるようになった証拠でもあるのですから。

 

 これからは、ひな祭りを「女の子のお祝いの日」という、捉え方でなく「日本行事」として見れたら、また私の感想も変わるのだろうかと思います。

 

編集後記

 行事で噛み締める感情が、年々変わっていくのを感じる。これもやっぱり思春期の証拠なのだろうか?