朝、弟が私に言った。
「お前が持っている『完全失踪マニュアル』を貸してくれ」と。
そして、彼は早朝講座と学年集会をすっぽかした。
彼の場合は単なるサボりだ。しかも早朝講座と学年集会、わずか90分足らずのサボり。
でも、私は彼の行動が羨ましかった。
彼は帰り道、私に言った。
「今日失踪した」
ただのサボりでないかと喉まで出かかったが、やめた。彼が失踪と言うならばそうなのだろう。
私が前に購入した『完全失踪マニュアル』によると
失踪とは、自分一人の力で自発的にそれまでの日常の環境を断ち切ること
と定義している。
失踪はとにかく今までの自分をリセットすることができる。人間関係も自分の内面自体もリセットしてしまうのだ。
私が『完全失踪マニュアル』を買った時、その胸にはいたずら心とちょっぴりの「失踪してやりたい」という気持ちがあった。
課題と試験に追われる日々から逃げたい。こんな日常はうんざりだ。そんな感情は今も私の中にある。
しかし、今までの私を全部投げ捨てて「自分をリセットする」という勇気は私にあるのだろうか。
失踪というとどうしてもマイナスなイメージを抱きやすい。しかし、前向きな失踪もあるだろう。失踪マニュアル本を購入するにあたって、昔流行した『完全自殺マニュアル』という本を目にした。確かに死んでしまったらすべてが終わりだ。そうやって考えると「死ぬくらいなら失踪しろ」ということが幾分ましであることが見えてくる。
母はこんな本を読む私を心配しているが、私としては最後の手段として失踪があると思うと日常の息苦しさが楽になる。下手な癒やし本よりもよっぽど気持ちを楽にしてくれるのだ。
本では各章を失踪期間に分けて解説している。
最短期間はなんと1ヶ月。私のような高校生の失踪も少なく無いという事実だ。県立高校に属している私は、たかが1ヶ月失踪したところで、社会復帰にはなんら支障はきたさない。あえて言うならば、授業がものすごいスピードで去り、すさまじい量の課題が溜まっているくらいだろう。
失踪もなかなかお手軽なものである。
失踪の計画も立てようと思ったら、いくらでも立てられる。しかも、実現可能だ。こうしてみると、私が今必死でしがみついている日常はいとも簡単に絶つことができるのだと実感する。私が必死でしがみついている日常はしがみつく価値があるのだろうか。
こんな日常、捨ててしまいたい。せめて一度でもいいから、日常を俯瞰してみたい。
しかし、この本を読んでいたら母が心配していた。私としては冗談半分で教室にも持っていったが、クラスメイトと先生にも心配された。
心配してくれる人がいるのなら、私は失踪できない。私はもう少しだけ日常にしがみつく元気をみんなに貰っているのかもしれない。
それに、かつて憧れだったあの高校。今はその輝きを感じることはできないけれども、あの高校でもまだ見てない風景があるのだと思うのだ。日常にうんざりしているけれど、もう少しだけ頑張ってみる。
編集後記
弟はわずか90分の失踪ライフを「すっきりした」と言っていた。
それから、こんな本を読んでいる子は失踪しないという矛盾。
イヤになったら逃げろ! 誰の手も借りずに、計画の準備から失踪後の生活までを行うための方法や注意点を網羅した。本書のポイントを押さえるだけで、「完全失踪」ができることを堅く約束する。