雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

文学碑巡り第4弾~東京・子規庵編~

 

 

 9月19日。この日は明治時代を代表する文学者の一人である正岡子規の命日、通称糸瓜忌だ。私は正岡子規のことが好きだった。高校の教科書にある「いちはつの 花咲きいでて 我が目には 今年ばかりの春 行かんとす」この短歌に私の心は奪われたのだ。晩年詠まれたとするこの歌には特殊な静けさがあるように私は思う。「今年ばかりの春」この表現は自分の死期と悟り、受け入れたゆえのものだろう。17歳、死ぬことなんて出来ることなら考えたくもない私は、この心境が理解できない。だからこそ、私は彼の歌に惹かれたのかもしれない。私はもっと彼の人生を知りたい、ことある度にそう思っていた。

 

 

 そして平成26年9月一19日、私は東京にいた。もちろん、その目的は糸瓜忌にあわせて現存する正岡子規の住まい、子規庵に訪れることだった。

 

 

 本音をいうと、子規庵は私一人でゆっくりと訪れたかった。しかし、私は沖縄の片田舎に住む高校生。一人で東京に行くなど親が許可するはずもなく、あくまでも家族旅行の一環としてこの子規庵訪問は許されたのだった。共に行動した母も弟も文学に対する興味はまるでなし。この文学碑めぐりにも暗雲が早くも立ち込めてきた。

 

 

 更に都合の悪いことに子規庵は、JR鶯谷駅から徒歩10分の距離に位置していた。この鶯谷駅周辺は大都会東京きってのラブホ街なのだ。子規庵周辺も例外ではなく、私達はラブホ街を突っ切る以外に道を知らなかった。これまでの文学碑巡りは、那覇の山や名護の街など辺鄙なところへ訪れることも多かった。しかし、今回ほど文学碑へたどり着く道のりが困難だと思ったことはない。私も弟も思春期である。ラブホ街を家族揃って歩くことがいかに気まずいものか、想像に難くないだろう。

 

 

 まさか子規は意図してラブホ街の中心に家を建てたのだろうか。子規がそんな変態なら子規ファンの私も興ざめだ。そんなはずはない。そんなことがあったら、私の中の正岡子規像はこわれてしまう。きっと、正岡子規が生きた明治時代、ここ鶯谷は閑静な住宅街であったのだろう。そして時と共に開発の波に飲まれ、混沌とした街になってしまった。私の中の正岡子規を守る意味でもそう信じたい。

 

 

 実際、鶯谷駅の近くには多くの文人が住んだとされる根岸がある。(子規庵の住所も正確には根岸2丁目である)またこの地名の由来としても、ある文化人が鶯を放ち、鶯の名所となったからだそうだ。「ホーホケキョ」と美しい声が鳴く小ぶりの鳥、鶯。正岡子規が生きていた時代、春の訪れは彼らが教えてくれたのだろうか。今はラブホにまみれてしまったが、鶯谷はきっと素敵な街だったに違いない。とにかく私はそう信じたい。

 

 

 やっとのことで辿り着いた子規庵。それは小さいながら、情緒あふれる建物だった。まず、周りの混沌とした建物とは纏っている空気が違う。それもそのはず、子規庵は木造の建物だ。明治時代からその風貌を変えていないのだという。現在の子規庵は正岡子規の作品と彼を慕ったアララギ派の作品を中心とした文学館的な役割を果たしているのだが、ただの文学館とはやはりひと味もふた味も違っているのだ。

 

 

 

 靴を脱いで少し高めの玄関を上がると、畳の良い香りと蚊取り線香の香りが私を包む。「ついに、私は子規庵に来たのだ」私は胸の高鳴りが抑えられなかった。私は展示されている作品をひと通り鑑賞したあと、子規庵の空気を思い切り吸い、正岡子規に思いを馳せる。

 正岡子規は時に「悲劇の歌人」と呼ばれることもある。それは彼の過ごした晩年に起因しているのだろう。子規は7年間も肺結核を患っていた。結核といえば今では治る病だが、当時は違う。明確な治療法は無く、死に至る病だった。

子規も幾度もの手術を受けたが病状は一向に好転せず、死ぬ直前の3年間は寝たきりだったという。しかし、それでも子規は文学者でありつづけた。寝返りも打てないほどの苦痛を薬で和らげながら、短歌や俳句、随筆を書き続けた。例え筆が持てなくなったとしても、子規は書くことを決して諦めない。看病に来ている妹に口頭で伝えながら言葉を紡いでいったという。

 

 子規は病床での様子を随筆『病牀六尺』に書いている。私はその本を過去に読んだことがある。寝たきりの小さな世界で、子規は草花や果物の写生にハマり、夏目漱石をはじめとする多くの友人との談笑を楽しむ。死ぬ間際まで書かれていたとは思えない程の力がそこにはあった。

 

 子規庵という場所は、正岡子規の晩年の全てが起きた場所なのだ。正岡子規は、あの小さな家で苦しみ、もがきながら生き続けた。何があっても文学者であり続けた。

 寝たきりの彼にとって全ての世界だったあろう場所に、私は長い月日を越えて立っている。私の胸には感動と興奮が入り交じっていた。子規がみた風景を私も目に焼き付けたい。一人の文学者が命の限りを尽くした場所で、私は感じたい。考えたい。私にはまだ俳句の良さなんて分からないかもしれない。子規の文学なんてそう簡単に理解できるものでもないだろう。しかし、それでも良かった。私は正岡子規を尊敬している。そして、彼と同じ場所に居るというだけでも涙がでるほど嬉しかったのだ。

 

 

 子規庵は私にとってとてもやさしい場所だった。私がどれだけ長い時間そこに居座っても、誰も咎める者は居なかった。思えば文学碑巡りを繰り返す度に言われていた「文学碑に興味をもつなんて、変わっているね」という言葉。今までは笑って聞き流していたが、本当は寂しかった。私は変わっているのだろうか。単純に言葉が好きなだけなのに。思えば、私の周りに同じ趣味をもつ友達は居ない。いや、今までに文学碑巡りが趣味だという人に出会ったことさえ無かった。ずっと気づかないふりをしていたが、私は求めていたのだと思う、私と共感できる誰かのことを。

 

 

 それが子規庵を訪れてみると、そこにはたくさんの文学愛好家がいた。しかし誰一人として騒ぐ者はおらず、一人ひとりが心の中の子規と対話しているようだった。その場所が私にとって、どれだけ心地よかったことか。

 子規庵を出る直前、今回の文学碑と私は出会った。

 

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 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

 

 痰一斗糸瓜の水も間に合わず

 

 をとヽひのへちまの水も取らざりき

 

 それは正岡子規の辞世の句だった。どの句も彼の壮絶な日々を物語っているように思える。それでもユーモアに溢れながら、どこか余裕をみせているのは、正岡子規本人の性格であり、強さなのだろう。

 

 文学碑の文字は、正岡子規本人の直筆をもとに作られていた。子規は亡くなる直前、自ら筆をとり、この句を書いたのだ。文学碑越しに伝わってくるその字は、とても細かった。消えてしまいそうなくらい、細かった。しかし、迷いなく運ばれたその筆使いは、強かった。

 

 

 私はその文学碑を指でなぞる。子規のような強さに私は憧れ、同時に死の世界へ向かう彼に少しでも寄り添いたかった。どれくらいの時間、私はその文学碑の前に居ただろうか。ふと顔をあげると、私の目に飛び込んできたのはある1つの糸瓜棚だった。

 

 糸瓜なんて特に珍しくもない野菜だ。沖縄にも自生しており、私も日頃から親しんでいた。しかし、私の目は糸瓜棚をとらえた瞬間。そこから動かなくなってしまった。それは、あまりにも糸瓜の花が見事であったからだ。明るく黄色いその花は、夕日を浴びて輝いていた。9月19日はまだ糸瓜の時期である。思えば、子規の辞世の句も糸瓜が題材にとられている。子規も亡くなる直前、この糸瓜をみたのだ。

 

 子規にとって、糸瓜とは一体何だったのだろう。糸瓜の水は絡んだ痰を切るのに最適だとされ、正岡家では積極的に栽培されていたという。また、私が目にした糸瓜棚は子規の書斎の窓際に作られており、子規がよく糸瓜の花を楽しんだとの記録もある。正岡子規にとって糸瓜は関わりの深い植物なのだ。糸瓜の花は大きい。その大きさと明るい色から、存在感もある。そこに咲いているだけで場が華やかになる、まるで太陽みたいな花だ。正岡子規にとって、この花は心の支えだったのではないか。私はふと思った。糸瓜の花言葉は「ひょうきん」。おしゃべりで好奇心旺盛、いつも誰かが周りに居たという正岡子規自身にぴったりな言葉である。

 

 

 今、正岡子規はどこに居るのだろうか。彼の友人とは再会できたのだろうか。やはりそこでも彼は、句をつくり、文字を紡いでいるのだろうか。正岡子規が今どこにいようとも、彼の周りには太陽みたいな糸瓜の花が咲き誇っていて欲しい、私はそう切実に願う。

 

 子規庵を出ると日はすっかり落ちて、私の頬を冷たい風が撫でる。9月ももう中旬だ。寒く、暗い冬が近づいていることを意識させられた。しかし、そんな周りの環境とは対照的に、私の胸は熱くなっていた。

私は正岡子規の強い生き方に敬意を払う。彼の文学に対する強い興味に脱帽する。私はもっと強くなりたい。文学についてもっと知りたい。日本の近代文学になくてはならない存在である正岡子規。彼の人生の詰まった子規庵は、私をそう奮い立たせるのに十分だった。

 

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