雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

留学日記9月26日 空白の時間も良いよねって微笑みたい

 

 どうも、こんにちは。高校に入学した瞬間から、何かに急かされてきた私です。

その何かは受験戦争だったり、青春をまっとうしなくちゃという意識だったり、就活への焦りだったり、資格取得、インスタ映えみたいなもので、その時々によって全然違う。

 私は、自分の好きなことをちゃんと分かっていて、それを表現する術をちゃんと持っているのに、社会が求める「正しさ」みたいなのに弱いんです。沖縄だったら、琉大に一般入試で入って、県庁に勤めて、週末にはジムで汗を流す、彼氏が途絶えたとしても3か月程度、友達からのバースデーサプライズをSNSで載せるタイプになりたかったなあって思うことが多い。親・親戚との仲も良好そうだし。

 

 それは私がわたしなりに努力したところで、絶対になれないものであるのだけれども。そして私の周りのひとは、絶対に私にそれを求めないんだけれども、社会に対して劣等感を抱えてしまうのね。ここでいう「社会」ってなんだ。

 

 

 劣等感をごまかすように大学でも土日には必ず予定を入れ、平日は授業やバイトを隙間なく入れていたから、留学してはじめて、こんなに時間ができた。もし、語学を本気でやりたいと思ったら時間はない。留学にまつわるイメージのように、毎日パーティーしていても、そんな時間はない。

 でも私の中で、この留学には「時間が欲しい」という思いもあったから、無理に授業も入れなかったし、日本人留学生の大多数が入る一つを除き、サークルも入らないことにした。いつもの私なら、週末には小旅行にでも行っちゃうんだけども、それもする気になれず。この3連休ものんびりして過ごした。午前中は思い切り寝て、午後は友達と電話したり、文章書いたり、散歩したり、手紙を書いたり。良くも悪くも日本語の本も手に入る台湾だから、読書だってできる。いつぶりだろう、こんな生活。さいっこうじゃん。

 

 それでも自分の中の意識高いわたしが批判してくる。そんな生活、別に日本に居てもできるじゃないの、もったいないじゃないのって。そうこの声だ。つくばに居た2年半をガムシャラに走らせたのは。でも良いんだ。何かを選ぶ、やるってことは何かを選ばないことであって、私はその選択において零れ落ちる何かにおびえて生きてきたけれど、その不安から、余裕みたいなものはずっとなかったんだから。

 

 時間があるっていうだけで、気づけることが多い。一昨日、本屋に寄った時につい買ってしまった色鉛筆。そう、私って絵を描くことが好きだったんだ。余裕ができて思い出した、中学ぶりのこの気持ち。私の中で「じぶんはこんな人間だ」と思っていたくくりが、どんどんほぐれてきて、懐かしい顔がのぞかせたりする。外に出なくても、出会いは自分の中にもある。

 

 

 ここまで来て、友達に指摘されたんだけども、私が留学で求めているのは語学力じゃないのかもなって。社会的には1年台湾に留学してきたといえば、「中国語話せるでしょ」と思われるんだろうけれども、それは私にどれだけの価値があるのだろうか。もちろん、土地公や石敢當の話を聞けるようになりたいよ。中国語文献を読めるようになりたいよ。でも、それって私の中の優先順位はどの程度のものなんだろう。異文化の中に身を置いているからこそ書けるものを書く、日本語の本を読んで考える、卒業論文には反映できないかもしれない各地の神様に会いに行くことと比べてどっちが大切なんだろう。もちろん、全ての基本には心身の健康があるのだから、睡眠時間だって確保しなければならない。中国語のスキル、という分かりやすいものに、留学の成果を担保させようとしているのではないか。留学には成長が求められているように感じていて、その物差しに語学を持ってきているだけではないのか。でもそれって、私の中でどれだけの価値があることなのだろう。

 

 もちろん、中国語をはじめとする授業は真剣に受ける。復習と宿題もやる。でも、余暇に勉強できていない現状を責めなくても良いのかもしれない。私の身体が台湾にあるっていうことだけでも、価値があると思いたい。そしてそれこそが豊かさだって思える人になりたい。単に中国語のスキルが上がる留学より、中国語ができなくたって自分の留学は良いものだったと言えることの方が難しそう。空白の時間も良いよねって微笑める人、それは私の憧れる姿だ。

 

 この数日時間がたくさんあったので、ツイッターにもたくさん居ました