雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

他己分析

 

 日本でも、台湾でも、私はよく声をかけられる。

「どこどこの行き方を教えてほしい」とか、「シャッター押してほしい」とか。私はここでは外国人なのだから、細かな道の名前なんて知らないよ。外国人に道なんて聞く?

 それでもうまく答えられた時は、ちょっと嬉しい。発音や文法を間違えずに話せて、「你是從哪里来的?」(どこから来たの?)と聞かれなかった時は、大変気分が良い。

 

わたしは見た目が台湾人っぽいらしく、言葉を喋られなければ台湾人に思われるのだ。

 

「どこから来たの?」

「半年くらい前に日本から来たの」

「え!日本人に見えないよ!台湾人か、東南アジアの方だと思った」

「うん、よく言われる。わたしは日本の中でも沖縄出身だからね。沖縄って知ってる?沖縄は日本の最南端にある場所」

こんな会話を街なかの台湾人と何度もした。

日本人に見られない、という体験は、私の中の国境を揺るがすようで面白かった。

 

 この「日本人に見られない」ということは、単に私が沖縄出身者に多い濃い顔つきをしているからだけでない。

 思えば、「日本人に見えないよ」と言われるようになったのは、台湾に来て1ヶ月が経過した頃のことだ。最初の頃はちゃんと(?)日本人に見られていた。それがしばらく経つうちに、日本人にさえ「日本語お上手ですね」と言われるようになっている。

 

 人を〇〇人と思うとき、一体何が基準なんだろうか。先日台湾に来た友達は、何度も北京に行っている。彼女は台湾人と中国人を歩き方で見分けていて、大変面白いと思った。曰く、中国人は大股気味に歩くそうだ。私達は民俗学専攻だけれども、文化人類学コースでもあるので、身体化とか、所作に絡めたことを少し話した。

 

 台湾人の友達は、日本人と台湾人をメイクの有無で見分けているそうだ。なるほど、わたしはメイクをしないでほっつき歩いている。

 そうやって、〇〇人らしい見た目を拾い集めていると、私が日本人に見られないことも、また一つの個性のように思える。

 

 

 最近、就活中の友達に他己分析を頼まれることが増えてきた。自己分析ならぬ、他己分析。他人から見える自分は一体どんな存在か、ということ。

 高校の総合の時間で、ジョハリの窓なんてものをやったときは、「ほーん」と思っていただけだったけれど、自分が認識していない自分もまた存在しているのだろう。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジョハリの窓

 

 この「よく道を聞かれる」っていうのも、他己分析になり得るなと思った。「あんまり日本人に思われない」ということも。

 

 無害そうな人間に見えているんだなってこととか、声をかけやすい雰囲気があるのかもなってこととかが考えられる。私は結構ナメられやすくて、「イジられキャラ」でいることも多かった。これには不満なのだけれども、街なかでよく声をかけられることと共通しているかもしれない。

 

 自分の存在は他者がいてはじめて認識できるんだと思うことが度々ある。

 今でも覚えている。大学1年生の夏休み、初めて帰省した私に母が「自信がついた顔をしている。表情が柔らかくなったね」と言ったんだった。これは嬉しかった。

 

 私はずっと自信がなかった。得意だったことや好きだったこと(文章を書くとか、文系科目とか)はあったけれども、どれだけ頑張っても「変人」と揶揄される。笑われる。「変人」という言葉に当てはめられることで、彼らの世界観に私までも囚われる気がしていた。

 

自信がないことの弊害は、正当に評価してくれる人の声も耳に入らなくなることだ。救えない。褒めてくれている人の言葉も、こちらは本当に馬鹿にしているように聞こえるんだから。

 

 大学になって、「変人」と言われなくなった。好きなものを好きと言って、一緒に楽しめる友達ができた。母のいう「自信」はこういうところから湧いている。

 

 そういう気付きは他にもある。

 沖縄を出て始まった県外生活の中で、「あなたって島の子っぽい」とか「おおらかだね」と言われることが多くなった。

 

 沖縄に居るときは、そんなこと決してなかった。島の子といえば、離島出身を指すのだと思っていた。沖縄本島に住む私までも島の子なら、沖縄県民は全員島の子だ。性格だって、おおらかさの真逆をいくと言われていた。確かにガサツな一面はあるけれど、せっかちで、短気で、いつも焦燥感に襲われていた。中学生の頃なんて、「あなたの目、ギラギラしている」と言われたことさえある。

 

 こうした私のイメージについて、はじめは「沖縄出身」に対するステレオタイプだろうと思っていた。正直なところあんまりよく思ってなかった。母に電話で「今、おおらかって言われているんだよ」って言ったら、爆笑されたのを覚えている。

 

 でも、今、台湾で生活しながら「私っておおらかなのかもしれない」と思った。正確に言うと、台湾生活の中で他の日本人と関わりながら思ったことだ。

 台湾人の時間にルーズなところも、道をチンタラ歩くことも、列を作らないことも(自分が乗れなかった時を除いて)大抵許せる。

 というか、私も時間にルーズだ。

 

 他の日本人がカッカしているのが、実は少し面白い。なるほど、そうやって感じるのか、的な。

 

 まわりの就活を意識している友達を見ながらも、どこか心にゆとりがある。沖縄の周りの大人が転職を繰り返していることもあるかもしれない。就活のための留学に対する批判を耳にするけれど、それはそれで凄いと思うのだ。私にはできないことだから。

 

 台湾人の「没問題」という言葉が好き。私自身もわりと「まぁ、いいさ」と言っていることが多くて、これがおおらかさなのかとピンと来た。

 

 少し前なら、自分のそういうところを駄目なところとして捉えていたはずだけれども、今となっては、自分のそういう一面も肯定できる。「ゆるさ」というのは海外生活において、重要なスキルであると思うのだ。

 

 つくばや台湾での生活を通して、私自身が変わった部分も大いにある。でもそれ以上に大きいのは、周りの環境で、私自身がそれに適応していっているのだと思う。留学って、外向きな行動に見えて、実はとっても内向きな行動である。

 随分前に流行った自分探しにも似たところがある気がする。台湾で認識している自分自身のことを「ほんとうのわたし」とは思わないけれども。どの私もわたしだし、そもそも私という存在はダイナミックなはずだ。

 

 ここまで書いて、わたしは留学という形式よりも、「移動」に価値を感じているのかもしれないと思った。

 

 


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 関係ないけど写真は昨日食べた鉄板焼き屋さん。台湾の鉄板焼きは結構手頃な価格(台湾感覚だと少し高い)で、大好きです。

 友達と「日本に帰ったら簡単に鉄板焼きなんて食べられないよ」と言いながら頬張った。

 

 自分自身に対して感じている諸々も、日本に帰ったらまた変化するのだろうなあ