雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

5月17日 二けた回目の故宮博物院

 

 台北は雨。梅雨入りしたそうだ。そうそう、5月は雨の季節だよね。沖縄で生まれ育ったわたしには、関東より台湾の季節感の方が肌に合う。

 

 8時から10時までの中国語の授業を終えて、バスに飛び乗る。向かうは台湾原住民博物館、それから故宮博物院

 ボランティアガイドをしている台湾原住民博物館で先月分の交通費をいただき、そのお金を故宮博物院の音声ガイドに使う計画だ。故宮博物院は学生証提示で参観無料になるにも関わらず、音声ガイドはすごく高い。だから、今まで10回以上故宮を訪れていても、なかなか音声ガイドを借りることはなかった。

 

 じっくりと作品と向き合うことは体力勝負だったりするから、一回につきワンフロアだけ観る、これが私の贅沢な故宮博物院の巡り方だ。これは台北に住んでいる特権だ。本当に幸福な時間。中国文明というとてつもなく長い時間の中で培われた宝物を思う存分観ることができるのだから。しかし、時は満ちた。ついに先日、全フロアを観終わったのだ。だから今度は時間がたっぷりある時に音声ガイドを借りて、解説を聞きながらじっくり観ようと計画した。それが今日だ。

 

 故宮博物院の音声ガイドはかなり作り込まれているので、色んな順路で博物院を巡れるようになっている。同じ文物でも、その前後関係についてだいぶ違った見方ができるだろう。

 この前、茶道の先生に故宮を案内した。その先生は偉大な方で、先生がどう故宮の文物を観るのか、興味があったし、実際勉強にもなった。私は故宮のものを観て、関心をもつのは中国が辿った歴史だったり、西洋の物をどう受容しているのか、ということだったりする。一方で先生とまわった際には、「この茶碗を、花入をどう使うのか」といったことが常に問題になっていた。「きのこさん、この花入には何を活けますか」なんて言われた際には、緊張したものだ。茶道の先生の柔軟な思考、経験を積まれているからこその発想には驚かされてばかりだった。

 

 先生はだいぶお年を召されているのだけれども、すごいなあと思ったのは、博物院の巡り方だ。疲れを感じる前に休息を取る。何度も再入場したりしながら集中力を保つ、博物院の空調管理を頭に入れた服装等々、かなり考えておられたからだ。プ、プロだ……。今回はわたしも先生を見習って、ストール、カーディガンを持参。完璧である。

 余談だけれども、「読書術」や「メモ術・ノート術」は巷に溢れているけれど、「参観術」はあまり聞かない。「参拝術」も。この手のことにもコツは要りそうなんだけれども。

 

 

 

 

 

 結果として、あれほどにも気合いを入れたにも関わらず、私は故宮の1階部分を観るだけでダウン。音声ガイドを聞きながらの参観が思っていた以上に大変だったのだ。

 

 故宮の音声ガイド、どうも情報量が多すぎやしませんか。あと、書き言葉をそのまま読み上げたような文章。次から次へと出て来る固有名詞(作品の手法とか、皇帝の名前とか)これらは目で見た時には、なんともなしに処理できる情報なんだけれども、耳で聞くとつらい。「ん?」と思いながら聞き返していると、中国人観光客に押される。(発音が明らかに違うので、台湾人との見分けがつくのだ)そうだった、故宮で体力を奪うのは、その広さや作品の質、さらには空調だけではなかった。人ごみ……。

 

 そうは言っても音声ガイドがあると、故宮博物院の新たな気づきが得られるもので。ただ「綺麗だな」と思っていた文物の、どこに価値があるのか。その精巧さとは如何ほどなのか。また、その文物は誰がどのようにして使っていたのか。これらのコンテクストを知っているのと、知らないのでは、見え方が全く違う。

 もちろん、ぶらぶらしながら「あ、これが好きだなあ」と参観するのも、楽しい。だから、やはり博物館は何度も足を運ぶだけの魅力があるのだ。特に故宮博物院のように、大きくて、価値ある文物を揃えた博物館なんて、観きれる気がしない。きっと、そういうものだと思う。

 

 故宮博物院にもまた行かなければ。故宮の南院にも行きたい。台東の史前文化博物館にも行きたければ、台湾各地のお寺も観たい。時間がいくらあっても足りない。

 

 ちなみに、故宮博物院そばの順益台湾原住民博物館では台湾原住民族文学にフォーカスした企画展を行っていた。

 

  こちらの博物館、色んな切り口で「台湾原住民」にアプローチしていて、かなり面白い。

 昔使われていた道具や「伝統的な」衣装だけではなく、こうした現代文学や原住民族の文化を下地にした現代アートの展示もあり、今、台湾に生きている人達の、博物館なんだということを感じさせる。

 日本語に翻訳された台湾原住民族文学も。

 ああ、日本語で読める本さえも私は読んでいない。これらを読み切ることは果たしてできるのだろうか。たくさん、たくさん勉強しなければ。最近、本当に読みたい本も行きたいところも多いうえ、中国語もものにして帰りたいなあという気持ちも出てきたものだから、時間が足りない。

 このことについて、「読み切れる気がしません……」と学芸員さんにこぼしたら、「いやあ、読み切れないよ。それだけたくさんあるのだもの」と笑われた。ちょっと焦っていた気持ちが慰められたのだった。

 

 留学の終わりが見えてきたことで、焦る気持ちはある。だからこそ、一日いちにちを大切に過ごさなければ、と思う。ちょっと自分への決意みたいなものも込めて、この日記を公開します。