雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

6月1日 台湾で沖縄県人会に参加する

 

 

 今日から6月。

 

 午前中は日記を書いたり、本を読んだりして過ごしたのち、午後から県人会へ行ってきた。

 私はよく沖縄のことを口に出すし、自分の軸に沖縄があることは確かなことだ。外的な評価も「沖縄の子」で一貫していて、多くの留学仲間は私が沖縄の大学から来ていると思っているらしい。実は違うんですが。

 

(ちなみに、私が沖縄のことをよく話すのは、他の日本人留学生が外国人に向けて話す「日本文化」が、関東または関西を中心とした「文化」でしかなく、その差異も「西か東か」に収斂されてしまうことに違和感があるからだ。彼らが大学で文化や歴史について学んでないことを考えると、仕方ないのかもしれない。でも、「台湾は旧暦で正月を祝うけど、日本は祝わない」「旧暦と新暦を織り交ぜながら生きているのは中国と台湾だけだ」「日本の正月といえば、おもちとおせちである」「日本は単一民族である」とか言われると、ちょ、ちょ、ちょっとまったー!となるのだった。少々ウザがられている気もするけれど、外に志向している留学生に対して自らの足元にある日本だって、とても多様なんだよと伝えたくなる。ちなみに、自戒をこめて書くと沖縄だってそれこそとても多様であることに注意しないといけない)

 

 自分でも少し意外なんだけれども、今回がはじめての台湾の沖縄県人会への参加であった。日本の大学の方でも、県人会の活動はとても盛んにも関わらず、私は何となく参加していない。県人会、とても面白いコミュニティだなあと思った。気づきもたくさんある。

 

 まず驚いたのは、八重山出身者の多さ。参加人数の半数は八重山出身者であった。しかも目立つのは、学生。私のような交換留学生も一定数居るんだけれども、それより目立つのは本科留学の方。現在語学学校に通っていて、これから台湾の大学を受験します、という声もたくさん聞いた。これだけ高校卒業後の進路選択に「台湾への進学」という選択肢が出てくるのはすごいなあと思った。

 私の母校も国際科がある関係で、海外の大学への進学は常に選択肢の一つであった。実際に、今回の沖縄県人会でも高校の先輩や後輩と会ったし、母校の思い出話に花を咲かせた。ただ、八重山出身者との割合が全然違う。

 

 うえに「沖縄の中の多様性」と書いたけれど、そこに対して私は本当に謙虚になる必要がある。私は沖縄で生まれ育った。でも私が体験して、見聞きして知っているのは、沖縄本島の南部のごく一部のことでしかないということを深く自覚しなければならない。

 台湾のような外国に住んでいると、お互い日本人であるだけで親近感を抱くものだし、相手が沖縄県出身者であれば感動さえ覚える。ただ、沖縄本島南部で育った私と、八重山で育った人、沖縄本島中部で育った人、渡嘉敷島で育った人、それぞれ見ている「沖縄」は全く違う。

 

 以前、米軍基地のフェンスの中で育った子と出会った時、「私の知らない沖縄があった」と思ったものだけれども、私の知っている「沖縄」はごくごくごくごく小さな範囲での「沖縄」である。離島から見た「沖縄」も、沖縄本島南部から見た「沖縄」も、米軍基地のフェンスの中から見た「沖縄」も、間違いなく「沖縄」である。

 

 さらに言うならば、沖縄から世界中に行った移民の方々がいる。「世界のウチナーンチュ」として、外国で捉えた「沖縄」だって「沖縄」ではないか。私は高校の頃、ロサンゼルスで行われた沖縄県人会に行ったことがある。コミュニケーションの半分が英語であっても空手の演武に沸いたこと、アメリカで手に入る材料で作られた沖縄料理は忘れられないものである。ああ、沖縄から遠く離れた異国にも「沖縄」はあった、と思った。そこでは日系3世や4世の人たちとも出会うことがあった。彼らが「自分のルーツの味」と思って口にしている沖縄料理が、沖縄で食べるものと異なっていたからといって、誰がこれは「沖縄料理ではない」と否定できよう。(ただ、ここでいう「沖縄」は上でいうところの「沖縄」とは定義やレベルがちょっと変わりそうだなと書きながら思った。弱腰なのは私の勉強不足)

 

 それから、「沖縄県人会」という「沖縄文化」があると知った。二次会で、三線を弾きながら歌う方、それに合わせてパーランクーを打ち鳴らす方、時折混ざる指笛の音、そして手拍子を打つ私たちという場面があって、私は胸いっぱいの「沖縄ノスタルジー」を感じたものだった。その時の感情は本当に「沖縄ノスタルジー」としか言いようがない。懐かしい音楽に身をのせながら、お酒を飲む時間は気持ちよかった。ただ一方で、あまりに分かりやすい「沖縄」でもあって、びっくりする気持ちもあった。私が沖縄で、このような場に遭遇したことがなかったからだ。少なくとも私の知っている範囲で言えば、母世代まで考えてもそのような飲み会は初めてであった。

 

 

台湾に来て、大学OBの集いは二度参加している。しかし、一度も校歌を歌うなんてことはなく(正確に言えば、うちの大学に校歌はない。しかし校歌に準するものはある)雰囲気が全然違った。だからこそ、面白いと思ったのだった。

 

 

 さらにさらに、自己紹介をする場面があった。学生の多くが「台湾と沖縄をつなぐ仕事をしたい」「沖縄に貢献したい」と言っていたのが印象に残った。沖縄県人会という場での挨拶であるし、私自身も「沖縄に貢献したい」と思っている。ただ、他の地域の学生は「地元に貢献する」と大きく発言することを、沖縄ほど求められてない気がするのだ。(私は関東しか知らないので、地方の地元へ貢献する事への圧はすごいのかもしれないが)

 「沖縄に貢献したい」という言葉、考えてみれば高校生の頃からずっと、聞いている気がする。わたしはずっと広い意味で沖縄文化が好きだったけれど、それについて夢中になっていると、周りの大人は観光業や教育職へ結びつけて「沖縄に貢献する人になってね」と言っていた。そしてそれを私も受け入れていた。

 

 卒論では調査地に還元できるような研究をしたい、と思う。一方で、「沖縄への貢献」にまとめられることには違和感がある。というか、沖縄へ貢献することって、なんだ?

 今回の場でないんだけれど、私が県外の大学に行っているというと、「ああ、そういう子は帰ってこないから」といわれる。沖縄で就職するか否かで、私の心はこんなにも張り裂けそうなのに、勝手なこと言わないでほしい。そもそも、「沖縄に貢献する」ことは沖縄に住まないとできないことなのか?今回の留学を支えてくれている某奨学金の集まりでも、琉球大学の子に「沖縄を離れて沖縄を志向するのはずるい」と言われたことがある。彼女はもう覚えてないかもしれないけど、私は何度も反芻している。私がずるいかどうかは置いておいても、「ずるい」と思ってしまう感情については分かってしまう部分はある。沖縄県民(主語が大きい)が抱く「内地」という地域に対する憧れ。そこに滲む劣等感みたいなもの。それって何だろうね。「内地」も住んでみると、東京大阪以外は結構田舎だし、なあんだ大したことないなとも思ったけれどね。弟にも言われた「沖縄からイチ抜けしやがって」と。

 

 私がK高校を卒業して、北関東の森の大学に行き、台湾大学へ交換留学しているというと、「ディキヤー」だねえと言われる。学生にも「すごい」と言われていた。私は、中国語も英語もできないまま台湾に来てしまったから、こんなにも劣等感の塊なのに。あの県人会のメンバーの中では、私の中国語力は下っ端だろうなあと思う。私からすると、本科で台湾の大学に進学する方がよっぽど「すごい」のになあと思っていた。因みに「ディキヤー」と言われて、「そんな中国語もできない私がディキヤーなんて」と思うわたしよ。人からの褒め言葉を素直に受け止められない時、自分の劣等感に気づいてしまう。

 

 そのぼんやりとした思いをこうやって文字にしてみると、大学名とか中国語能力とか一周まわって大したことないなって思う。一周まわってしまった。よく言われることだけれども、大学名よりは「そこで何をしているか」が問われるし、語学能力を生かして何をしているかの方が大切である。自分が驕らないようにも、変な劣等感にがんじがらめにならないようにも、しっかりここに書いておこう。

 

 お酒を飲みながらだから、大変とりとめもない感じになってしまった。もう少し深く考えるべきことはあるだろう。「県人会」というコミュニティについての研究については、今検索したところ日本の大学の図書館で多くの本がヒットした。帰ったら読みたい。

 

 ちなみに、私がやっていることを話したら色んな情報を教えていただいて、ありがたかった。キャリアについても、少し考える機会にもなった。そういう意味では行けて良かった。