雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

寝ぼけ眼で走った半年

 

 修士課程を修了した。

 無事に修士論文を提出できた。口頭試問も乗り切った。

 去年の7月、感情を吐き出すようにブログを書いた時のことを思い返すと、何とか走り切れたことにホッとする。記憶が薄れてきちゃう前にちゃんと書いておきたいと思って日記を書く。

kinokonoko.hatenadiary.jp

  ほんの半年前まで、毎日どうしていいのか本当に見えてなかった。進路も当然のように決まっていなかったし、12月のはじめが締め切りの修士論文に関しては目次や題目、なんならテーマすら決まっていなかった。修士課程の入学とほぼ同時期に新型コロナウイルスの流行が広がったうえ、母ががんとなり、本当にどうしていいか分からなかった。とりあえず、地元の沖縄で大学院生活を過ごすことに決めたものの、大学所在地を離れての大学院生活は容易ではなかった。

 

 母が大病している以上、新型コロナウイルスを家庭内に持ち込むわけにはいかず、図書館の利用すらためらわれた。母の治療が大変だった時期には自分が大学院生であるということすら忘れてしまいそうだった。

 結局、大学院修士課程の2年間、24ヵ月のうち、北関東で過ごせたのは4か月だった。

 

  半年近く前に書いたブログを見直すと、こんなことを書いている。

 母と弟と私、家族3人のうち、毎日誰かが泣いてるし毎日怒鳴ってた。大学生になってから誰かが怒鳴る場面に遭遇することはほとんどなかったから、とってもストレスだったし、わたしもイライラすると怒鳴るようになってしまった。恥ずかしいけど、いくら説明したって伝わらないし、怒鳴られたら怒鳴りたくもなる。そのあとに怒鳴った自分がとっても嫌になる。

 

 渦中に居た時、「助かり方が分からない」と思ったことを覚えている。声をかけてくれる優しい方々は居た。けれども、どのように助けを求めたら良いのかは分からなかった。自分の意思で進んだ大学院で、なおかつ大学院に進むための経済的な都合に関しては苦労してきた。だからこそ、大学院では思う存分好きなことをするぞと意気込んでいたけれども、実際には「好きなことをさせてもらっている」ことがうしろめたさになっていた。授業や課題をこなすことはできる。けれども、中長期的な目標である修士論文となると途端に向き合う余裕を失っていた。これが修士1年目の冬から修士2年目の春のことである。

 

私はさ、体力こそないけれど、今まで結構気合いでなんとかしてきたタイプだった。経済的に困窮はしていたけれど、奨学金の申請書を書くのがまあまあ上手かったり、制度を利用するのが上手かったので、自分のやりたいことを曲げたことなんかなかった。だから、今回もなんとかなるだろうと思っていたのだ。

 

 でも今回のことで分かった。「気合い」とか「頑張り」とか「努力」とかいうものも、出る時出せる時とそうじゃない時とがある。たったアレだけで?って感じだけど、私はいま「気合い」で何とかできないくらいには疲れ切っている。しかも数ヶ月単位で。

 色んな事が落ち着いてきた時には、修士2年の夏になっていた。事態は落ち着いたけれど、その頃には気持ちが全くついていかなくなっていた。疲れきっていて、やりたいことも全然思い浮かばなかった。

 

 結果として、修士論文も提出して、博士課程にも進学することになったけれど、どうやってここまで一旦辿り着いたかはよく分からない。ただ言えるのは手を動かしていたこと。決して納得のいく修士論文にはならなかったけれど、地域の祭祀には全て参加させてもらって、その事例をたくさん書いた。そこで見たことを書いて、書いて書いていったら修士論文が完成していた。ほとんどが事例で構成されている修士論文で、地域に書かせてもらった修士論文だった。あと偶然閲覧と撮影を許可していただいた資料に助けられた。

 

 進路は5月初旬に出していた某振に採択されたことで半自動的に決定した。これもありがたいことである。修士課程で苦しんでいるので、進学には迷いもあった。そのタイミングで公務員試験の一次も通っていた。けれども、未練が捨てきれなかった。これで終わっちゃったら、時代と家庭環境のせいにしてしまうだろうなと思った。だから進学を決めた。この際には色んな人に相談して、たくさん背中を押してもらった。

 

 修論を提出すると、色んな発表の機会をもらうようになった。ああダメだと思いながら出した修論だったけれど、終わってみれば優秀論文賞と発表賞を貰った。許された気がした。一方で口頭試問ではたくさんの指摘も受けた。同期はみなどこかしら褒めていただいていたけれど、わたしには「伸びしろのある論文」との言葉だった。できていなことを「伸びしろ」って言ってもらえるうちが華だなと思った。色んな機会で発表していると、これまた少しずつ「研究って楽しいな」という気持ちも戻って来た。このことには本当に心からほっとした。

 

 結果として、何とかなったと言えるんだと思う。何かがどうなって一気にやる気がみなぎったわけではない。一つずつ少しずつ、問題は片付いていった。修士課程で学んだことは、「頑張れるかどうかも環境に規定される」ことである。「気合い」なんてまるで出なかった日々だった。それでも手を動かしながら、今手を伸ばせる最善を選べたことから「何とかなった」のだと思う。修論を書いている間、身体が全然ついてこずに毎日寝てばかりいたのだけれども、それも結果として自分の心身を守ってくれたのだと解釈しておきたい。

 困難に打ち勝つ方法などは分からない。無力感は大きい。すごく楽しくて充実していて、「ああ私は自分で人生を切り開くのだ」と思った学部4年間の後だったからこそ余計に落差があった。でも、あの学部4年間があったからこそ、大事なところで腐らずに手を動かし続けられたのかもしれない。この2年間で得られたものもまだ分からないけれど、この2年間があったからこそ、次につながったことは事実である。その「次」で未練を晴らそうじゃないかと思った。

 

 修士論文を書いた半年は寝ぼけ眼で走った半年だったけれど、何とか走り切れて良かった。

 写真は修士論文の口頭試問を終えたあと、ぼんやり眺めに行った海。