きのこのこの雑記帳

どきどき台湾留学2018.9.1~ 沖縄と民俗と言葉と本と

若者にとって地域に参加するメリットとは

 

 いつになく固いタイトルをつけてしまった。しかし雑感です。

 

 沖縄から台湾に戻って約1週間、すっかり日常が帰ってきた。でも、昼寝から目覚めた時とかに感じる微かな寂しさはあって。ほんの少しだけホームシックになっているのかもしれない。何だかんだ言っても私は沖縄と、実家が大事なんです。

 

 さて、タイトルに書いたことは、今回の帰省で感じたことそのものだったりする。

 

 今回の帰省で私は、地域の祭祀に参加していた。それは卒論の為という名目ではあるのだけれども、本当のことを言うと、半分そうで、半分違う。

 今回参加したのは地元の方で、卒論そのものは地元から少し離れたところを調査地もして選んでいるからだ。

 

 だから今回、半分は調査に来た学生として、半分は地元の子供として祭祀に参加させてもらった。公民館が管理しているこうした祭祀ごとは、基本的に地元住民なら誰でも参加できる。

 私は小学校高学年ごろから、地元の子供としてよく顔を出していた。祖父母も、その前の世代も、ずっと地元に住み続けてることもあり、私がちょこまか動いても「ああ、あの子ね」ということで許してもらえている。素晴らしい環境だ。


 今回のある祭祀の参加者は、区長や書記という公民館の構成員と、私、それから地域のおばあちゃん方の合計5名。本筋から外れるから、祭祀の詳しい様子は省くけれど、祭祀の時にこんな話が出た。


 祭祀空間である聖地の管理(草刈りなど)が区長一人の担当になっていることについて、


「区民みんなで管理すべきだ」

という声だ。もっと言うと、若い労働力である若者が、休日に無償で働くべきである、とのこと。


 そういった声を出すのは、地域のおばあちゃん二人。


 区長や書記さんは相づちを打ちながらも、自分の意見を言わなかった。私にも白羽の矢は立ち、「あんた、帰省したら草刈りしなさい」と言われる。その声を私もまた、苦笑いでやり過ごす。

 


 なぜなら、地域の場というのは徹底的な年功序列の場であり、小娘のわたしが口を挟むことは許されないのだから。区長さんや書記さんも似たような立ち位置なのだろう。

 調査者としての私は、その間もフィールドノートにそうした意見が出た、という話を記述していた。こういう時、単なる傍観者になり続けられていたら楽である。


 しかし、地域の子供としての私は、そうとしてはやり過ごせない。


 わたしが感じていたことは、「若者が地域に参加するメリットはどこにあるのか」ということ。


 今回の提案は、「公民館管理の聖地を区民みんなで管理するべき」ということ。

 一見すると、もっともらしいことを言っているが、草刈りなどの肉体労働は若いものたちがやるべきだと主張している。あくまでも、自分たちはやらない、と。別に体力的なことを理由にしているわけでないだろう。補足を入れておくと、私の地元は典型的な農村であり、そういう提案をするおばあちゃん方も、毎日のように農作業をしている。体力的な問題はそこにない。


 次に、現在担当している区長には、区民と税金からの給料が出ている。これは結構な額であり、区長そのものはこの体制に不満はない。


 

 それでも、おばあちゃん方の価値観からすれば、肉体労働などの「嫌な仕事」は、地域の下っ端である「若者」がやるべきなのだろう。


 このことを、実家に持ち帰って弟に言うと、「そういうことなら、自分はさっさとこの地域から出て、都市で一人暮らしするわ」とのことだった。


 そうなることは分かっていた。

 農業を生業としている上の世代からすると、住む場所というのは先祖代々の土地がある「ここ」に限られる。しかし、私たち世代からすると、もはやそんなしばりなどない。

 だから、地域に居るメリット(例えば親戚が近くに住んでいるとか、家を建てる土地があるとか、懐かしい場所であるとか)と、デメリット(地域行事に参加しなければならないこととか、地域の下っ端として扱われることとか)を比較し、選択することができる。上の世代にとっては考えられないことかもしれない。


 このようなことは、私の地域で何度も繰り返されてきた。



 例えば、婦人会について。

 私の母は、地域の婦人会に入ることを頑なに拒んでいた。育児についてワンオペ状態だったし、PTAに入っているだけで色々な役員がまわってくるのだから、精いっぱいという理由だった。


 それに対して、何としてでも婦人会に入って欲しいお姉さま方は

あなたのお父さん、お母さんは高齢よね、死んだら誰が葬式の手伝いすると思っているの?」と言ったという。


 私が幼い頃、私の地元では葬式やお通夜は業者に頼むのではなく、地域の婦人会によって行われるものであった。葬式は自分一人の力でどうこうできるものではない。その為、普段から地域との関係を良好に保つ必要がある。


しかし現在は、葬式は業者に頼んで行う。地域住民が葬式に参列することはあっても、手伝いに駆けつける場面は少なくなった。


 そうした時、婦人会に入るメリットはどこにあるのだろう。


 婦人会には、その昔家庭内で肩身の狭かったお嫁さんの息抜き、という役割もあったという。しかし、それもまた当てはまらない。私の地域で姑と同居している家庭は、数える程である。ましてや、家庭で農業を営みながら、専業主婦を続けている人など、一人もいない。かつて想定されていた形の女性はもう居ない。みんな、共働きでパートなどに忙しいのだ。


 私の地域の婦人会は、そうした社会情勢を受けて、市町村合併に巻き込まれるかたちで消えた。

 


 現在、地域を巡るあれやこれやについて、どうしても損得勘定を働かせてしまう。


 先の話題に戻る。聖地の草刈りも、その昔、みんなが地域の中で生活し、仕事をしていたとすれば、若者が働くのは当たり前なのかもしれない。

 しかし現在はそうでないのだ。


 私の同級生は地域に5名しか居ない。女子は私だけ。だから私の人間関係の中心は地域外にある。高校も地元の高校に行かなかったから、その傾向はさらに強まる。私はたとえ将来沖縄に帰ったとしても、この地域で仕事をしないことを断言できる。


 ここで一応言っておくと、私が例外的なのは、地域の民俗に関心があるということ。その為、地域行事に参加させてもらってきたという感謝がある。地域で生きることの「面倒くささ」さえも、私のテーマになり得る。地域のおばあちゃん方の発言に対してモヤモヤするのは、私がこれまで地域の早起き清掃などにも参加してきた経験があるからだ。だからこそ、こうした問題に直面するし、葛藤を覚えるのだ。


 しかしこれは例外的であり、狭い範囲に住んでいるはずの同級生を見かけることは一切ない。私が葛藤を覚えるのは、これでも地域にコミットしているからである。


 公民館に地域の構成員を聞きに行った時、地域に住む子供に対して「地域の子供」と「そうでない子供」を分けていたことに衝撃を受けた。


 「地域の子供」とは、その地域に親、祖父母の世代から住んでいる子供。多くは一軒家に住んでいる。

 

 「その他の子供」とは、地域に地縁を持たない子供。多くはアパートに住んでいる。


 現在、「地域の子供」はほとんど居ないと聞いた。子供の数が増え続けているはずの沖縄県で、これだ。

 私の地域を取り巻く状況は、深刻だ。地域共同体が継続できるのは、あと何年だろう。


 私はこの地域が好きだ。これは間違えない事実だが、地域に住むことで発生するデメリット(例えば地域行事への強制参加、強制労働、しがらみ)が多ければ、もう少し那覇に近い都市部に住むに違いない。


 しんどいものだ。

 民俗の卒論を書くにあたり、地元をフィールドに選ぶと大変だ、という話を聞いた。確かにその通りであった。しかし一方で、地域はしんどい部分も含めて成り立っている。その部分を身を持って知っていることは、私の強みだ。

 私の地域は、都会からの移住者に人気の土地でもある。カフェも多く、穏やかな時間が流れているとも形容される。でもそれだけのはずがない。都会の人が投影している憧れの裏腹に、しんどさはある。


 だから、言葉にしてみた。解決策は分からないから、雑感でしかない。とても保守的な地域なのだ。


 因みに茨城県守谷市では、地域の空き家をシェアハウスとして住む学生を募集している。家賃は無料である代わりに、条件として

「町内活動及び市事業に参加できる方」を提示している。

 これは、地域共同体を継続していく一つの在り方のように思う。


https://www.city.moriya.ibaraki.jp/smph/shikumi/project/matihitosigoto/mizukino.html

沖縄帰省  沖縄で食べたもの

 

 沖縄に帰省している時もできるだけ日記を書こうと思っていたけれど、結局沖縄では書く時間が取れなかった。

 調査が夜まで詰まっていて描けなかったのは、1日。他の日はなぜ書けなかったかと言うと、我が家は言葉に溢れすぎていることが原因だろう。

 

 私の家族は全員おしゃべり。家が静まる時は無いんじゃないのか、というくらいに。台湾でのこと、弟がいまやっている社会学調査のこと、親戚のお姉さんの結婚式のこと、母の友達の子供の受験結果について。テレビがついていればそのこと。とにかく何でも話した。弟とは本や映画、音楽の趣味が微妙に似通っていて、微妙に違うので、延々とお互いの好きを話す。

 

 文章を書こうと思うには適度な孤独が必要だと思う。何かを書きたいなと思う前に、口に出してしまうような実家では無理だった。

 

 

 さてさて本題、沖縄で食べたものもの。

 


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  • そのいち、ちらし寿司。

沖縄に帰った翌日のお昼に出てきた。

 

 数日遅れのひな祭り、ということらしい。寝ぼけ眼でリビングへ行ったら、母がいそいそと作ってくれていた。


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 祖母も母も得意料理はちらし寿司。ちょっと酢が効いているところが箸をとまらなくさせるんだと思う。酢飯の上にのる薄焼き卵や海苔とのコントラストも最高。

 

 
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 家には雛人形も飾られていた。私に見せてから片付けようと思っていた、とのこと。この雛人形は、幼稚園に上がる前に祖父母が買ってくれたもの。それから毎年飾っている。

 

 母とは今まで色々あったけれども、母が全力で私を愛してるのには違いない。その愛はちゃんと私に伝わっている。むしろ、それが分かっているからこそ、母娘関係は難しい。

 

  •  そのに 三枚肉


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 これはカンカー(地域によってはシマクサラシという)の祭祀で使った供物の豚肉。

 カンカーとは旧暦2月に行う悪疫払いのこと。色々と興味深い行事だけれども、書いていたらキリがないから、今回はその様子は省略する。

 

 私の地元では字を班単位(これは昔のサータヤー、砂糖小屋の単位)に分けて祭祀を行う。今回は私の祖父母宅が班長に当たっていたため、供物の準備から見せてもらった。


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 供物の準備はそう難しくない。地域の商店で豚の三枚肉を購入し、茹でるのみ。

 毎月のようにある地域の祭祀。誰が供物を用意するのか、祭祀ごとに決まっているどころか、調理の方法もまた祭祀ごとに決まっている。 

 私が好きな供物はシンプルに三枚肉を茹でただけのものである。

 


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 ウサンデーといって、祭祀が終わった後に参加者みんなで食べる。茹でた豚肉だけでは物足りないので、これに塩をつける。すると、豚肉の旨味が自然に引き出されて美味しいのだ。豚肉ってこんなに美味しかったっけ?と思うくらい。ビールも泡盛もどんどん進む。

 

 地域一の長老である祖父が、昔の祭祀はこのウサンデーをもらう為にどれだけの地域住民が参加したのか、という話をする。そして、わたしはそれを地域のおじさんと一緒にウンウン言いながら聞く。その話を聞いて思うのは、昔の沖縄が貧しかったということや昔の地域が活き活きとしていた頃の話ではなく、「そのお肉はやっぱり美味しかったんだろうなぁ」ということだった。おじぃちゃんにそれを言ったら「それはそれは美味しかったさぁ」と満面の笑みだった。

 

 


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 生きていくうえで思い出の食事はいくつかあるけど、ビーフシチューは我が家の思い出の食事のひとつ。

 

 ある時のクリスマス、沖縄県最大規模のイルミネーションを見た帰りに寄った喫茶店、そこのビーフシチューがとろけるような美味しさだった。その頃、私はまだ小学生で、お父さんもまだ生きていた。家族四人で食卓を囲んだ、思い出。

 

 自分で車を運転できるようになってから、友達と真っ先に向かったのも、この喫茶店だった。どこかレトロなんだけれど、昭和とアメリカとファンタジーが入り混じったようなお店の雰囲気も大好き。

 今回も本当は別のお店に行くはずだったのに、予約が取れずに困っていたところ、弟が半ば強引に決め、糸満に向かって車を走らせた。私にとっての思い出のお店だけど、弟にとっても思い出のお店なのだ。

 

  • そのよん いろどり定食


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 台湾行き飛行機に乗る直前、食べた和食。那覇市の彦本店にて。こちらも思い出のお店。毎年、初詣のあとに家族全員で行っていた。

 私の父は、沖縄の歴史あるホテルで働いていて、調理師免許の資格も持っていた。そのため、家族思い出のお店は今食べても本当に美味しい。

 小学生の頃から私が頼むのは「いろどり定食」

 天ぷらとざる蕎麦と海鮮丼に茶碗蒸しまでついて、和食のお子様ランチみたいだといつも思う。ざる蕎麦もそばの香りが高く、海老天ぷらの軽やかな衣、美味しくないはずがない。

 たった3泊4日の弾丸帰省だったのに、これを食べている間、急にしんみりしてしまった。

 

 

 弾丸帰省のデメリットは、食べたいものが無限に出てくるのに、食事の機会がそれに全く足りないことだ。3泊4日、食事の機会は10回程度しかなかった。それじゃあ足りない。

 台湾でも日々、「美味しい」を言いながら過ごしているけれど、日本食の何でも口に合ってしまう安心感ところには舌を巻く。日本食(沖縄料理も多いけど)、最高である。

留学日記 沖縄帰省のおわり

 


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 沖縄帰省は楽しかった。卒論調査の成果については考えたくなくて、これは非常にまずい状況であるんだけれども、それでも沖縄に帰って良かったと思う。

 

 沖縄に着いて、入国審査官に「謝謝」と言おうとした。すぐにここは日本だ、と気づいて苦笑いしながら「ありがとうございます」って言ったのだけど、このことがどうも忘れられない。

 お礼を言うときに「ありがとうございます」より「謝謝」の方が先に出てくる驚きもそうだけど、「ありがとうございます」って何だか長くて言いづらいなぁとか、日本語の音って何だかころころしているよなぁとか、思った。

 

 中国語もそんなに出来ないんだけれども、それでも日々を中国語で過ごして、世界を切り取るカテゴリの中に「中国語」が建設されつつある。留学を勧めてくれた先生(医学部の先生だった)が「ぜひ貴方の頭の中に中国語の領域を作ってください、これは財産になります」と言った。その時はその言葉がいまいち分かってなかったけれど、いまは少し分かるかもしれない。そして、そのことによって母語である日本語にも新たな気づきがあるのだから面白い。

 

 昨日の夜、台湾に帰った。

 飛行機はお金がないから、LCCPeachである。倉庫のようなターミナルを抜けて乗り込んだ飛行機、まわりの乗客はみんな台湾人だった。日本語の雑誌を読んでたにも関わらず、日本人のCAさんは私に中国語で話しかける。これがちょっと面白かった。こちらも中国語で返してみる。隣に座った台湾人のお母さんとその赤ちゃんとも中国語で話した。まだ沖縄に居るはずなのに、飛行機に乗り込んだ途端、そこはもう台湾のようでそれもまた面白かった。

 航空会社や周りの乗客によっては、外国に居るのに空港の搭乗口から日本が始まるときがある。搭乗時刻の15分前から日本人が並んでいたベトナムの空港とか、飛行機に乗り込んだ途端、暖かいおしぼり(しかもレモングラスの香り付き)が出てきたモスクワからの帰りとか。「日本」とか「台湾」とか、「沖縄」を規定する国境は目に見えない。実際に赤い線が引かれているわけでないのだから。国境なんてもの、「はい、入国したのでここから日本です」ではなくて、本当はもっとダイナミックなものだと思う。その時々で変化し得る。そして〇〇人というものも同様に。

 

 台湾の桃園空港に着いたら、移民局で手続きしてもらった後、自動化ゲートで入国した。駅の改札を通過するように、居留証をピッとするだけ、たった10秒足らずで入国できる。未来を見た。どんどん国境なんて低くなってしまえば良いのに、と思う。

 

 入国の為、長蛇の列に並んでいる外国人を見ながら、自動化ゲートで抜けた私は何だか台湾人っぽいなと感じた。それと同時に思ったのは、半年近く前の9月ドキドキしながら入国審査の列に並んでいた自分のこと。何だか遠い昔のようだ。

 

 寮に着いて、「ただいま」と呟く。母は「あなたにとって帰る場所は沖縄だけ」と言うけれど、私にとっては沖縄もつくばも台湾も変える場所になっている。台湾に住むのは一年足らずだから、少し傲慢かもしれないけれど、お気に入りのもので作った部屋があって、待ってくれる人が居るのだから、そこはもう帰る場所である。そしてそれは豊かなことだと思うんだ。

 

 沖縄での調査で「大学卒業したら、沖縄の男と結婚して、ここに住んで、ここに貢献してね」と言われた。

祖父母は何度も何度も繰り返し聞く、「今度はいつ帰って来るの?大学の卒業はいつなの?」と。祖父母の中で、わたしが大学卒業後沖縄に帰ることは確定事項なのだろう。祖父母は、私が沖縄県外進学をしたのは沖縄に学びたい大学がなかったから「仕方なく」だと思っている。これは半分正しくて、半分違う。

 

 いつか、私は沖縄に帰るだろう。でも今ではない。あと1年後なのか、10年後なのかもまだ分からない。

 私は沖縄で生まれ育った。でも、今台湾にも、つくばにも育ててもらっている。多分、今回のように帰省して調査の中で発見する「沖縄」も、台湾生活の中で発見する「沖縄」も私の中で等しく価値をもっていることには違いない。どちらも大切にしていきたいものだ。どちらも大切にできると信じている。

 

 

 

留学日記 弾丸帰省 台湾と沖縄の往来の中で


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 私はいま、沖縄行きの飛行機に乗っている。いま飛行機が離陸したから、あと1時間と少しで沖縄に着くだろう。近いものだなぁ、と何度も感じた感慨を噛みしめる。そんなに近い場所でわたしは今、沖縄とは全く違う毎日を過ごしているのだ。

 

 

 台湾に戻ってまだ1ヶ月も経ってないのに、弾丸帰省をする。

 台湾に帰ってからも、弟との台湾一周、沖縄の友達との高雄旅行というように、よく見知った人とばかり会って居たから、沖縄を恋しく思う瞬間は無かった。

 

 

 それでも帰るのは、卒業論文のテーマに選んでいるウマチー(お祭り)が年に一度、明日行われるからだ。

 調査の準備は十分とは言えず、台湾大学での課題のことも考えると、気分が沈む。正直なところ、私が卒業を一年遅らせることができるならばどんなに楽か。でも、やっぱり金銭的な都合ってあるんだよねぇ。

 

 ある先生は、留学と卒論を同時並行に進める必要のある私に対し、こう言ってた。

「卒論を書きながらの留学の方が、目的意識を持って、日々を過ごせるから良いんじゃない?」と。

 

 本当だろうか。

 留学と卒論と、どちらも疎かになるんじゃないかって、わたしは怯えてますよ。

 ただ一方で、台湾と沖縄を往来することには大きな意味があるんじゃないかなと思っている。

 

 台湾でも、つくばでも、沖縄でも、その地に到着して、日常が再開すると、自分が土地に適応していく。例えば沖縄に着いた瞬間、私はかなり訛った日本語を話すけど、つくばでは東京式アクセントで日本語を話す。他にも、満員電車での身のこなしとか、台湾ではMRTで飲食禁止とか、小さな部分で適応している部分は無数にあるだろう。

 

 それだからこそ、わたしはうまく生活をまわしていけるんだ。どれも私であることに違いない。しかしこうした往来の中で、異なる自分が顔を覗かせ、従来適応していたはずの社会に違和感を抱くときもある。

 

 いま、最も感じるのは沖縄と、その他の土地で生きる私の差。わたしは生まれも育ちも沖縄で、アイデンティティの根幹には「沖縄」があったはず。しかし、時々信じられなくなるのだ、私が沖縄の田舎町で育ってきたことが。昔の自分が持っていた価値観が、激動していることある。自分を取り巻く評価も激動している、たぶん。だって、わたしは沖縄に居た頃、本当にトロくて運動もできなくて、音痴だった。笑われていた。

 

 確実に遠くなっていく過去があり、その度に「沖縄」もまた遠くなっていく気がする。皮肉なことだと思う。わたしは「沖縄」を勉強したくて、それが可能な大学に進学したはずで、「沖縄、琉球」を東アジアの視野の中で考えたかったから留学したはずなのだから。また、こうやって「沖縄」を知るために帰って、その「沖縄」との距離を痛感させられるのだから、帰省は痛みを伴う行為でもある。

 

 でも、本当のところで、その「痛み」もまた「沖縄」なのだと思う。私が感じる痛みは、地方出身者にある程度共通する痛みであって、「沖縄」との距離感だって沖縄出身で外に出た多くの先人が書き記している。

 私が明日見させて頂くお祭りも、近代化による生業の変化、若者の流出が問題化している。私だって、流出していく若者の一人だし、それを分かっているからこそ、進路を考えると身を引き裂かれそうな気持ちになる。そう思うと、私の葛藤もまた「沖縄」を構成していく一つの要素なのだ。

 

 だから、沖縄と台湾の往来そのものにもしっかり意味がある。そしてその自分自身の葛藤を見つけて記述しておくことは、沖縄のある側面を記述するすることにもなるのではないかと思う。

 

 と、ここまで書いてウトウトしているうちに、飛行機は着陸の最終体制に入った。窓の外からは那覇の夜景が見える。

 帰ってきたよ、沖縄。沖縄が私にとっての帰る場所であることは、揺るぎない事実だ。たぶん、迎えに来てくれた母と少し話して、夕飯に沖縄そばを食べる頃には、私がいま感じてる憂いみたいなものは、忘れるのだろう。

 また今回の帰省は、中国語の世界から日本語の世界への帰省でもある。日本の航空会社でチケットを取ったこともあり、飛行機に乗り込んだ瞬間から、日本語に取り囲まれる。すごいよ、他人の会話の情報量が多い。気を張らなくてもアナウンスが分かる。そして、それがちょっと変な感じ。

 

 そういうことに気付けるのも、往来の良さだ。飛行機が着陸した。ただいま、沖縄。ただいま、日本🗾