きのこのこの雑記帳

最近大学生になりました。南の島から東路の果てへお引越し

近況報告:博物館実習から帰ってきました

 近況報告:今日、博物館実習から帰ってきました。

 

 博物館実習は、幼いころから通っていた沖縄の博物館。今あるところに移転してからはずっと通っている。小学生の頃、港川人の特別展を家族全員で観に行った。社会科見学で、訪れた時は鉱物のコーナーに90分居たっけな。美術部に入ってからは先生に連れられてアートツアーにも参加したし、参加者4人の小中学生向け歴史講座に参加したこともあった。そういえばその時、学芸員さんに思い切り質問したらその回答が後日郵送されてきて心から感動したことが、学芸員に憧れる根っこにあるかもしれない。高校休んで沖縄の葬墓制のフォーラム聞きに行ったことが専攻につながっていたりもする。

 

 実習先の博物館には本当に思い出がつまっている。わたしの場合、田舎の出身だし、塾にも行かせてもらえなかったし、学校はずっと公立だし、親は本を読まない人だ。そんな生まれで、どうして今みたいに文化に惚れて、こんな遠いところの大学で学ぶことになったのか本当に分からないなと思う。でも、博物館がわたしの興味を育ててくれたのは確かだと思う。だから、今回実習できて本当に良かった。

 

 沖縄の博物館で実習できて良かったな、と思うのは、やっぱり沖縄を貫いている歴史や思想、人びとの生活が私自身の当事者意識・問題意識と密接に絡んでいるからだと思う。政治的にどうこうと言えるほど、確かな考えを持っているわけではないけど、私は沖縄の文化から琉球王国、グスク時代までの連続性や、日本・中国・東南アジアの文化の影響を多分に受けたダイナミックな文化に心底惚れ惚れするんだ。

 

 私の大学での専攻は民俗学のつもりで、(学類の性質上、はっきりしていないところがある)フィールドとしての沖縄だと思っていたけれど、これは順番が逆だったかもしれない。私は沖縄を見たくて、そのためのスコープとしての民俗学を選んでいるんだ。このことは、ずっと前から直感的に気づいていたからこそ、私は民俗学をがっつり取り組める人文学類の民俗学専攻ではなく、比較文化学類のフィールド文化領域に所属しているんだと思うけど、そのへんの感覚を言語化できたのは、はじめてのことでちょっと衝撃を受けた。

 

 博物館実習のことは延々に書ける。

後半は土帝君の展示を作らせてもらったから、自分の研究の穴と強み(主に穴なんだけど)とトコトン向き合ったし、展示解説の日には各地の祭祀について色々聞けた。沖縄の文化って一言で言うのは簡単だけど、やっぱり語れないくらい重い。一つひとつ全然違うし、一人ひとり大切な思いがこもっていて、尊い。もちろん均一的な文化なんて何一つないんだけど、そういう尊さに胸が熱くなるのは、やっぱり沖縄文化だからこそなんだよね。

 

 私以外全員琉大生というアウェーな環境だったけど、それが逆に良かったのかもしれない。実習前は琉大生のこと、正直あんまりちゃんと勉強していないっていうイメージだったけど(失礼)、そんなことは全くなかった。色々事情があって、自分たちが学んでいる意味をそこに見出していて、琉大生のイメージが変わった。土帝君の展示を作る際もかなりマニアックな内容のはずなのに、みんなで協力してくれて、受け入れられている感じがとても嬉しかった。沖縄の中高には良い思い出がなかったからこそ、その思い出地獄から脱却するきっかけにもなった。なんだ、沖縄に帰ってきても大丈夫じゃんって。もちろん、大丈夫になったのは私が沖縄を出て、少しくらい変わったからのことかもしれないんだけれども。

 

 博物館実習のことを書くのは飽きてきた。とにかく、私は思い出がつまった博物館で、たくさん良い経験を抱えて帰ってきた。帰ってきて、私はやっぱり沖縄で仕事をしたいなあって思う。自分の問題意識と結びついているところで。

 

 今いるつくばが嫌いなわけでは決してないんだけども。それどころか、今回出会った民俗の学芸員さんはみんな筑波卒で、沖縄で、民俗を仕事にするには、やっぱり今の大学が王道ルートであるような気もしている。学芸員さんに人生相談乗ってもらっちゃっったりもしたけど、いつだって結論は、今の場所で一生懸命学ぶことに尽きるんだよね。勉強だけでなく、生まれも育ちも、親・親戚も沖縄だからこそ、沖縄以外の土地で過ごした経験って物凄く貴重でかけがえのないものになるだろうなとも思う。

 

 でもね、いつも物音がする実家や、徒歩数分の祖父母宅、実習中で慌ただしい中でも会ってくれた友達と離れるのは寂しいね。5・5畳で、風呂トイレキッチン共用の宿舎にいると寂しくなる。そんな気持ちを紛らわすように書いた近況報告です。今日から来週まで、教職科目のテスト期間。なんとか乗り切りましょう。

近況報告:まだまだ無茶しています

 

 大学三年生になりました。

 最近、何事も順調です。留学申し込みも終わり、無事に一番行きたかった、自分の実力以上の大学に留学できそう。春休みにダメ元で受けた中国語試験も合格した。奨学金ももらえることが確定。一番額が大きい奨学金も一次合格、二次面接を昨日受けてきて、結果待ち。博物館実習も無事に12日間やらせてもらえそう、しかも沖縄の博物館で。博物館実習と被る予定だった教職集中講義も、教職テストも、レポートで代替してもらえることに。サークルだって、ようやく一人で着物を着れるようになって、無事に執行代としての初めてのお茶会が終わった。初めてのお点前に挑戦して、ミスなく亭主ができた。1年生のころ、お茶会なんてお客さんとしても出たことなかった私からは想像できない。

 

 なのに、どうしてだろう。

 私が大学3年生なら、一つ上の先輩が4年生になったことになる。先輩が授業をほとんど取り切っていて、あとは卒論と就活のみ。地元に帰るんだって、話しているのを聞いた時、「いいなあ」と思ってしまった私がいた。

 

 私は頑張り続けるはずなのに、その為に沖縄から出てきたのに、自分の中の「いいなあ」に戸惑ってしまった。そして、一人暮らし三年目にしてはじめてのホームシック。これが1か月前のこと。それなりにつらかった。一番自分がどれだけ参っているかを知ったのは、博物館実習の件で沖縄の博物館から電話を受けた時。電話口から聞こえる訛りに涙が出た。これは不意打ちだった。私はあまり泣かない人だと言われてきたのに。沖縄に帰りたいのだろうか?と思うとそれとは少し違う気がする。

 

 ただ、多分だけれども、私は先学期に頑張りすぎていて、それを春休みに急に緩めてしまったものだからバランスを崩しているのかもしれない。先学期は最終的に37単位の履修をし、4回実習に行った。特別支援学校での介護等体験、社会福祉施設での介護等体験、山口県萩での民俗学実習、埼玉県秩父での宗教学実習。その合間に2回沖縄にも帰り、仕上げにとテスト期間終了翌日から2週間大学の研修でロシア・アルメニアに行ってきた。アルバイトで大学受験生を教えていたし、土日は基本的にないものだった。最後のところはペンを握ると手汗が止まらなくなっていたし、風邪でもないのに微熱が出続けていて、私の体調を崩すのが先かやり遂げるのが先かって感じだった。いや、ところどころ腎盂腎炎になったり、2週間くらいひきこもったり、見てみぬふりをしていることはたくさんあったんだけれど、押し通してやり遂げた。これは自慢しても良いと思うし、頑張ったなあと自分でも思う。でも、がむしゃらに走りながらも自分がどこを走っているのか分からなくなる不安や、自分が今やっていることを好きじゃないなって思う日が来たらどうしたらいいんだろうって思っていた。

 

 だからこそ新学期になって、今回こそはまともな時間割を組もうと思っていたはず。でも留学して、同期が卒業するなか自分だけがもう一年やらないといけないのかあと思うと、不安になった。

 でも留学は取りやめたくなかったし、期間も短くしたくなかった。それにキャリアを考えると今取っている資格である、中高の国語教職、地歴教職、学芸員資格、社会教育主事資格も取り切って卒業したい。だから不安に駆られるまま、自分の欲望を叶えることにした。つまり、留学も1年行くし、資格も取るし、4年で卒業することにした。

 

 可能なのか?って感じだけれども、先生に「ぜひ、そうして下さい」と言ってもらえた。2年生終了段階で125単位を取っていることが大きかった。それに、一番は大学が意外と柔軟に対応してくれること、実習先や先生方が個別対応してくださることに救われた。もちろん必修はまだ結構取りこぼしがあるし、教育実習だけは卒業後に科目等履修生として行わなければならないけれど。それでも5年目するよりは断然安く抑えられる。卒論は留学中に調査を始めつつ、メールで指導を仰ぐことになった。

 1週間くらい、大学本部棟に相談しに行ったり、先生と面談をしたりしているうちに、いきなり卒業年度が変わった。本当に‘‘勢い‘‘だけだ。学費のこととか、その後を考えるとそれで良いんだよね?と思いつつ、先生や先輩が背中を押してくれるのをいいことに決めてしまった。周りに飛び級する友達がいたことも影響していると思う。

 

 おかげさまで、大学三年生になってまで週3で1限スタート、フルコマまである。大学を卒業した時、私はこの4年間を「駆け抜けた4年間」だと思うだろう。忙しくしていたら、気が紛れて気持ちも楽になるだろうという、ホームシックに対する荒療治も兼ねていたつもりだけれども、この決断をしたあとの健康診断でメンタルが引っかかってしまった。心の健康診断再検査ってどういうことだよ?と思いつつ(なんと2回目)、自殺トップ大学のメンタルヘルス対策は伊達じゃないなとも感心した。

 

 まだまだ無茶している。それでもやっぱり動いていた方が楽で、一人で部屋にいると怖く思う。今はそこまで思わないけれど、関東と沖縄の距離を考えて絶望的な気持ちになったり、実家が関東にある人を羨ましく思ったりしていた。(2時間くらいで実家に行けるくせに一人暮らしして、弱音を吐いている人を見ると、何甘えてるんだって思う。この点において余裕がない証拠なんだよね)足のつかないプールで泳いでいるような感覚。頑張らないとって気を張っている感覚。

 そうは言っても、部屋は荒れてて、食生活も大学一年生の頃と比べたら外食にも頼っているんだけれども。

 

 今の状況を一つ一つ書いていくと、やりたいことは概ね順調で、周りも協力してくださるっていう。恵まれているのに、何となくうまくいかない。ホームシックは脱したけれど、何となく寂しいよなあと思っているところもある。でも、この寂しさは沖縄に帰ったら解消されるものでもない。それは痛いほど分かっている。だからこそ、難しいんだ。大学生、孤独と見つめ合う時間も内省の時間も大切だよ、と言われる。そうかもしれないんだけれど、諸々のバランスが難しいよ。どこに行っても、何をしていても、抱えなければならない自分が重い。まだまだ無茶しています。

父の7回目の命日

 

 今日は文章を書かないと眠れない、そんな日だ。

 父親が死んで、7年になる日。

 

 よく歴史はある事件の前と後で時代を分けることがある。戦前と戦後、沖縄復帰前と復帰後、ソ連崩壊前と後、9・11前と9・11後、3・11前と3・11後。それだけある事件を前にして生活が激変するということなのだろう。

 それならば、私の20年の人生とは父が死ぬ前と死んだ後で分けられると思う。

 

 中学二年生の春、父親が死んだ。

 亡くなったとか、逝ったとか、永眠とか、そんな柔らかい言葉なんてそぐわないほど、その死は圧倒的だった。中1の学年末テストの頃だったと思う、父親が末期がん宣告されたのは。それから2か月も持たなかった。今まで普通に生きていた人に、死はこんなにも簡単に忍び寄るものなのか。日に日に父は弱っていった。ホスピスという選択肢もあったのにも関わらず、抗がん剤治療を選んだ父は諦めていなかったんだと思う。だから、私達家族もそれを応援していたはずだった。でも、死は確実に近づいていた。それは誰の目にも明らかだった。

 

 思春期の入り口に立っていた私は、その頃ちょうど反抗期だった。

そんな私にとって、父の死は寂しいとか、悲しいとかいう感情以上のものをもたらした。胸にぽっかり穴が開いたような喪失感、それを寂しいと形容することは簡単だけれども、寂しさだけではないことは、自分自身が一番分かっていて。本当に衝撃的だったのは、自分の周りにふと訪れた死だった。

 

 父が死んだ日、とてもとても悲しかったはずなのにお腹がすいた。その時食べた味噌汁と白米と漬物の味が忘れられない。ちゃんと、美味しかったからだ。肉親が死んだ数時間後に食べることができる自分の図太さがたまらなく嫌だった。気持ち悪かった。

 

 父の葬式は仏式で執り行った。我が家は一般的な沖縄の家庭で、ヒヌカンや東御廻り、土帝君という沖縄独自の信仰、祖先祭祀を基本としていたはずなのに。これがたまらなく嫌だった。普段は寺社仏閣を好んでまわっているにも関わらず、本当に許せなかった。父の死、死そのものを自分の言葉で十分に咀嚼するより前に、仏教という大きな観念に取り込まれるような気がしたからだ。

 母にこの巨大な違和感を伝えても、「これが社会常識だから」としか言わなかった。のちに「葬式を執り行うことで死が整理できた」とも感想を漏らしていたけれど、私の違和感はそういう次元のことではなかった。(葬式などの宗教実践が生者の為になる、というのは宗教機能説という、という話を大学の宗教社会学の話で聞いた。その時、母の思う葬式の意義と私の違和感が決してかみ合わない次元で話していることを知った)

 

 思えば、母と何となくかみ合わなくなったのも、父の死後である。

 

 母は父の死後、私達兄弟に呪いをかけた「天国のお父さんが悲しまないように、貴方たちはちゃんとするのよ」と。「不登校なんてもってのほかだし、成績も落としてはならない」

 

 母は愛する人を失った悲しみと向き合う為に1年間仕事をしなかったのに、そんなの卑怯だと思った。でも、母がずっと泣いていて、親戚も先生も「あなたがしっかりして、お母さんを支えるのよ」と言うから、私は逃げ道を失ったのだ。

 今でも覚えている、私は父が死んだ直後のテストで学年5位以内に入った。母は得意気であったけれど、私は何かを置いてけぼりにしたような気分でいた。その気持ちは成人した今でも同じである。私はもう20歳で、父が死んでから7年も経つのに、13歳のあの頃の自分を胸に潜めている。実家から2000キロも離れた茨城で1人暮らしをしていても、私の一部はまだ沖縄南部の田舎に置いてけぼりである。

 

 こうやって脅迫的に文章を書くのも、父の死の前後からだ。私は調子が良い時より、しんどい時に文章を書く傾向にある。もともと本を読んだり書いたりするのが好きな子供であったとは思う。でもその好きが救いになったのは、確かにあの頃からだ。

 

 父の死についても、何度も文章にした。弁論大会みたいなもので発表したこともあるし、読書感想文の題材にしたこともある。エッセイや手紙でも度々話題に上がった。肉親の死は弁論大会やいわゆる「感動作文」の典型的なテーマであるので、反応はあんまり良くないし、自分自身も自分の咀嚼できていない大切な記憶を切り売りしているのではないか、という不安もあった。でも、それ以上に私はあの時感じた違和感を言葉にすることが大切だったのだ。今、こうやって感情的に文章を書くのも、多分そういう気持ちからである。

 こうやって言葉にしてしまうと、自分自身のけなげさに泣けたりするんだけど、父の死を作文の題材に選ぶのは、それについて誰かに話したくてたまらなかった優等生なりのアピールだったのかもしれない。保健室の如何にも「あなたは大人に保護される存在ですよ」という妙に優しくたるんだ空気がたまらなく嫌だった私は、父の話を誰にもしていなかった。当時の担任の先生からカウンセラーを何度も紹介されていたけれど、その度に断っていた。弱い子に見られたくなかったんだと思う。(美術の先生が言ってくれた「親が死んで大丈夫な人は大丈夫じゃないよ」という言葉は少し私の心を氷解させてくれたけれども、先生はすぐ離任なさった)家でもその話題をすると、母が泣く為、家族間でも父の話はいつの間にかタブーになっていた。

 

 だから作文の題材に父の死を選んで、先生からの添削を通して対話できるのが嬉しかった。文章の上ではいつもの数倍素直に弱みを見せることができたのだと思う。でも、私はあくまで優等生的な自分を捨てられなかったので、何度父のことを題材にした作文を書いても、結末を明るく結んでしまうのだった。困難を糧に成長する像、これが中高生の作文コンクールで求められている型であるのは十分に理解していたからだ。大人の顔色ばかり窺う、典型的なバカ。

 

 その状況が少し変わったのが、高校進学後。私は入学した自称進学校が合わなくて、心身のバランスを崩していた。母の言いつけ通り不登校こそしなかったものの、自称進学校では今まで被っていた「優等生」の皮は容赦なく剥がされ、和を乱してばかりだった。授業を抜け出してトイレに籠っていてばかりいた地獄の3年間のはじまりはじまり。

 でも、高校の時に出会った国語の先生は恩師だと思う。あれだけ父のことを話せたのは、あの先生だけだった。父の死をタブー視せず、私を「保護すべき子」とするのでもなく、等身大に向き合ってくださった。学校の先生なのに、私に休むことの大切さを説いてくれたこと。「あなたの感性が好き」と全肯定し続けてくれたこと。高校に合うとか合わないとか以前に、あのままの生き方をしていたら絶対にどこかで転んだであろう私に、適切な転び方を教えてくれたのだと思う。他の先生から「高校のお母さん」と揶揄されていたくらいに、私の親みたいなこともしてくれた。国語の先生で、担任で、部活動顧問でもあったというのも大きいけれど、学校が閉まる20時まで話して、何度も家まで送ってもらったことを思い出す。今、大学で教職を取っているからだけれども、本当に学べば学ぶほど、先生の懐の大きさが身に染みる。

 

 その時からである、父の命日を自分の為に過ごそうと思うようになったのは。学校は休んでならない、という気持ちにがんじがらめだったけれども、「父の死んだ日くらいは好きなように過ごしてもいいんじゃない」という先生の言葉にはっとした。学年主任にこの日が忌引きにならないか交渉してくれたりして、その気遣いが嬉しかった。母にとってだけではなくて、私にとっても大切な日であって良いのだなと思えた瞬間だった。

 

 そうは言っても、父の命日を自分の為に過ごせたことは少ない。法事がある年は、貴重な女手として働かされた。父の死を仏教を通してみることは今でも違和感がある。だから、本当にその日はしんどい。嫌で嫌でたまらない。近所や親戚からの目や母の為にやっているに過ぎない。法事がなくたって、4月8日は高校・大学の入学式と被っていた。入学式という祝い事と父の死。そのコントラストがきつかったし、その節目を感じる度に絶えず前進しなければならない自分と、13歳のまま取り残されている自分を感じていた。

 

 静かに自分ひとりで父の命日を過ごしたのは7回目にして、今年が初めてだ。だから今日は自分の為に過ごしたいと思っていた。本当は旅をしようと決めていた。山梨くらいで綺麗な桜を観たかった。電車に揺られてぼんやりしたかった。けれども前々日くらいから調子を崩していて、そんなパワーもない。理想とは裏腹にベットで死にたくなっていた。

 

 中学・高校の頃の私は父の死以上に、死のもつ力に圧倒されていた。でも、自分ひとりでゆっくりできる時間を見つけた時、初めて肉親を1人失った悲しさに気づいたのだと思う。今、甘えられる大人がゼロなつくばに居るからなおさら。肉親が一人死んだからって、その安心感が二分の一になるとかそんなものじゃない。7年前のこの日、もっと、無条件に自分のことを愛してくれるんだっていう何かが無くなった。母は存命だけれど、前みたいに全体重でもたれかかることはできない。(実際、高校時代に調子を大きく崩した時に「あんたは手に余るしあんたを見てると私もしんどくなる」と言っていた。そういうことも察した担任が介入してくれたのだと思う)

 

 でもそれ以上に、お父さんは私がつくばで頑張っている姿も知らないんだよなあって思ったことが胸に来た。ほんとうに。私の中のお父さんは永遠に、7年前の4月8日から老けないし、生きて居る私との距離は大きくなるばかりだ。なんなら、お父さんの中の私は中学のセーラー服を着ている、永遠に。私が就職して、初任給で何を買うか。どんな職に就くのか。結婚して家庭を設けるかもしれないし、そうしないかもしれない。これから無数の可能性を持って続く、私の人生をお父さんは見ることができない。見たかっただろうなあと思う。私も見せたかった。

 

 7年の月日は長い。中学2年生だった私も、大学3年生だ。でも7年経っても、父の死について、私はまだまだ言葉にできない。ここは学校の作文の場ではないから、正直に書くと、私は父の死を一生抱えながら生きるんだと思う。乗り越えることなんてないし、乗り越える、という言葉は私の実感から離れている。もはや父の死は、父の死後の私を形つくった土台であるからだ。もう一部なのだ。時間ともに父の死に対して思うことは変わってくる。これは不可逆なことじゃない。決して成長なんて言葉で説明されることでない。このことを成長と捉えるのは、あの頃の自分を幼いものとすることになる。父の死から見えること、感じることをそうやって序列化するのは間違いだ。今の素直な気持ちと、あの頃の気持ち。胸の中に居る13歳の自分を蔑ろにしないということは、どちらにも敬意を払うということだから。

 

 旅に出かけることを諦めた私は今日、ヒトカラに行った。1時間だけだけれど、Coccoをひたすら歌って泣いた。帰りにお酒とつまみ、ケーキを買った。遠出をしなくても、つくばの桜はまだまだ綺麗だった。夜だって、自分の為に丁寧に料理をして、Coccoの武道館ライブDVDを観ながらお酒を飲んだ。自分なりに自分を労わったつもりだ。それでも、今の私はどこか不安定だし、例年父の命日から数日は調子がすぐれない。(もともと調子を崩しがちなので、父の死のせいにするのは間違っているかもしれないけれど)でも、それで良いんだ。いつまでも父の死を引きずる自分を貶めない。認める。自分で自分を労わり続ける。4月8日、自分に甘く過ごしたはずの今年もつらかったけれど、いつもの違和感とは違う。今年は例年以上に自分の足で立っている、という実感が強い。来年の4月8日は、今年とはまた違った環境で過ごすだろう。どんな日になるかは分からないけれども、どんな日でも否定しないでおこうと思う。

 

追記

書いてて思いだしたけれど、父の葬式の時、私は丹念に記録を取っていたんだよね。それが何につながるか分からないまま、葬式の様子、周りの様子、自分の感情を丁寧に書き記していた。肉親の死にそういう対応をする私に対して、周りは戸惑っていたけれど、あの頃の私にとってその行為は絶対にやるべきことのように思われた。今勉強している民俗学文化人類学(それがどこまで真剣にできているかは別として)の原点は、確実に7年前の4月8日にあったのだと思う。

 もちろん、父が生きて居る頃から民間信仰や沖縄の文化が好きだったから、父が死ななかったとしても、今と同じ道にいることも考えられる。今の不安定な自分に対しても、全てを父の死に原因を求めるわけではない。ただ、父の葬式の時の日記帳が実習のフィールドノートにそっくりだったことに思うことがある。

成人式なんて行かなきゃ良かった、でも底に残った救いがあった

 

 1月7日成人式があった。

 私の家には従兄弟の成人式に合わせて購入した振袖が用意されていて、母は私がそれを着るのを楽しみにしていた。沖縄県南部の田舎。成人式に行かないという選択肢はなかった。

 別に成人式に行くこともまんざらでもなかった。でも、それは、私が大学で自分の居心地の良い関係に慣れていただけなんだろう。

 

 朝8時、予約していた美容室の扉を開けると、そこには懐かしい同級生の顔。そして言われた、「はーきのこやっし、うける」の言葉。その瞬間、中学生活の全てが蘇ってきた。何がうけるんだ。人の顔見てうけるとは何事だ。そもそも、「久しぶりー!」とか「あけおめー!」といった挨拶が先じゃないのか。

 あまりの事態に頭が動かなくて、苦笑いでやり過ごす。そう、これが中学生までの私の常套手段だった。何でだろう、何がいけないんだろう。私は地元の同級生が苦手だ。乱暴だとか、下品だとか、ここで書く言葉ではいくらでも攻撃できるけれど、そういうことじゃないと思う。馬鹿にしている、とも少し違う。だって、その場所は私がかつて居た場所であり、彼らが話す「やっし」とか「しに」とかいう方言は私にも馴染んだ言葉なのだから。

 

 中学校、私はそこで馬鹿にされていた。教室の端っこに居る、ダサいやつだったと思う。いつもなんか言っている、と思われていただろうし、卒業と同時に忘れられていたかもしれない。運動神経が悪くて、体育の時間には「うける」とか「かわいい」とか言われていた。いじられキャラと言われながら、私の筆箱でキャッチボールしてた同級生が居た。双子の弟の名前で私を呼び、女子トイレに入れてくれない奴がいた。そして、私はそういう諸々のことに対して、全て苦笑いでやり過ごしていた。

 

 成人式に行った時、全ての感覚が私を襲う。忘れていた感情、猛烈な怒り。美しい振袖で着飾っているはずなのに、自分がとてもみすぼらしく思えた。

 

 中学の自分が諸々の嫌なことを苦笑いで済ませていたこと。これは高校でも変わっていない。疑問を抱くこと、自分の頭で考えて感じることを許さなかったあの偏差値主義高校で、私は苦しんでいた。眠れなかったし、食べられなかった。いつも胃が痛くて、心が重かった。毎朝起きて、朝が来たことに絶望した。でも心の端で、偏差値ゾンビになっていないことを誇りに思っていた。それなのに、時々しんどくなって保健室に逃げ込む自分を「クズ」とか「豆腐メンタル」と自称した。友人もそれに笑って同調していた。というか、友人にそう言われていた気がする。別に自分自身は「クズ」とも「豆腐メンタル」とも思っていないのに。自分で自分を貶めた。これは他者から自分を貶められるよりも痛いことである。

 

 沖縄の田舎に住んでいた頃の私は、みんな皆憎かった。でも、そんなことを苦笑いや自虐で誤魔化して、それが処世術だって、言い聞かせている自分が一番憎かった。死んでしまえっていつも自分に言い聞かせていた。

 

 

 成人式なんて行かなきゃ良かった。あんな激しくて、しんどい感情、成人式に行かなければ思い出すこともなかったのに。

 

 でも、底に残っていた救いもある。

 小学校来の友人が一緒に成人式に参加してくれたこと。彼女は中学校から私立に行っている上、今では引っ越していて、成人式に参加する予定もなかった。それなのに、成人式におびえる私と一緒に式典に参加してくれた。本当に彼女が居なかったら、成人式が終わるまで持たなかったかもしれない。本当にありがとう。

 高校の友人も駆け付けてくれた。彼女は彼女の自治体で成人式に参加した後、私の家で写真を撮った。嬉しかったよ。二人で振袖の写真を撮っている時は、自分が綺麗に思えた。成人式の会場でしゅんとしていた着物と同じものとは思えなかった。

 

 この二人の友人が居ること、それは私の自信になっている。中学校はおろか、高校にも友人がほとんど居ない私だけれども、そういうわずかな友人に支えられてたから、卒業できたんだ。

 それに、もう私は二十歳である。自分の自由は自分で選択できる。彼らの価値観になんて計られてたまるか。自分のために私は生きるし、もう絶対自分で自分を貶めるなんてことしたくない。

 

 ただ、沖縄が私の問題意識の核で、大学でも沖縄のことを勉強しているのに、沖縄(地元)に馴染めないというのは、大変皮肉だなぁと思う。沖縄のことを全部まとめて好きだと言えない気持ちには、多分そこらへんの恨みもある。

 

 そして最後に、こうした気持ちを言語化できるようになったこと。かつての同級生が見るかもしれないブログに書いてしまえること、それは今大学という居場所があるから。今やっていることが楽しいと思えるから、あの時を乗り越えて良かったと思える。今、関わっている人たちが私のことをバカにせず、「変人(笑)」とか「やばい(笑)」と揶揄しないから、私は自分に誇りを持とうって思えるのだろう。そう気づけたことも、底に残った救いだ。