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きのこのこのこのこ

思春期が終わらない

袋田の滝へ行ってきました

日記 旅行 茨城

 

 ちょうど1か月前、18きっぷを使って茨城県久慈郡大子町になる袋田の滝へ行ってきた。

 

 

 袋田の滝は、栃木県日光市にある華厳滝和歌山県にある那智滝と並んで日本三大名瀑として数えらることで有名だ。沖縄じゃ見れない景色が見たくて、ここへ来た。私が沖縄を出て1週間。18きっぷの期限を理由に飛び出した小旅行だが、求めていたのはただの絶景でなかったように思う。

 

 ここまで大きな滝を見たのは生まれて初めてのことで、「凄い」以外の言葉がでない。自然っていうのは不思議なものだ。ずっとそこに留まってしまうようなパワーを持ちつつ、そこにいる人を元気にさせる。その力には古くから注目されていたのだろう。袋田の滝の周辺には神社や寺がいっぱい。

 

 社務所などは発見できず、神社の詳しい由来を尋ねることはできなかった。ただ分かることは、袋田の滝を訪れる観光客の多くが手を合わせていたということ。特に下二つの神社・仏閣は袋田トンネル内にある。トンネル内は入場料が発生するため、地元の人が気軽に参拝できるとは考えにくい。それでも、丁寧に手入れされているのだから凄い。

 

  見られるのは信仰だけではない。袋田の滝は長年、句・歌の題材としても選ばれてきた。

 

 平安時代から明治まで名だたる方々の文学碑。西行はこの滝を見て言ったという、「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の趣風は味わえない。」どの時期にこの言葉を発したのか定かでないけど、西行って、京都を中心に生活していた人だよ?同じ茨城県内からでも、バスと電車を乗り継いで4時間はかかったというのに、徒歩が移動手段の平安時代に、4度も訪れたいと思わせただけの滝。それだけでも凄さが伝わってくる。

 私が訪れたのは春である。一年で一番人気のない時期だと言っていたけれど、人気がないのがまた良い。圧倒的な自然を前に行列なんてできていたら興ざめだ。西行の言葉に従って、真の趣風を味わうためにはあと3度、夏・秋・冬に行くことになる。夏には新緑、秋には紅葉、そして冬には氷瀑。次に来る時には、これほど閑散としているわけでもないかもしれない。じっくり見れないかもしれない。それでもまた来たい、異なる表情を見たい、そう思わせる何かがこの袋田の滝にはある。

 西行の気持ちになっていると発見する俳句ポスト。袋田トンネルの入り口付近と袋田駅に設置されていた。詠むのは慣れていないけれども、こういうのって発見すると思わずやりたくなる。旅情がぐっと増す。 

 

 

 

 袋田トンネルを抜けても絶景は続く。まさに私の知らない日本だ。

 近くには日帰り温泉もできるホテルもあって、なんとなく二時間サスペンスの香りを感じてしまう。

 吊り橋なんて特にそう。誰かが歩くと橋全体が揺れて、もしもの時のことを思わず考えてしまう。2時間サスペンスなら、女と男がお互いを橋から突き落とそうと暴れあうのかもしれない。

 壁一面の苔、

 思わず見上げちゃう林、袋田の魅力は滝だけにとどまらない。

 

 絶景を前に飲んだ瓶コーラ。買った店の夫婦が茨城弁だったから、思わず頬がゆるむ。

 袋田名物のがっぺこんにゃく。ショウガが効いてこれまた美味しいんだ。

 ここらは定番、鮎の塩焼き。袋田の滝を上流とし、町全体を流れている川から捕れるものなのだとか。骨も噛み切れるため、尻尾からかぶりといける。風情があるねぇ。

 ししゃもテール。その名の通り、ししゃもの尻尾の肉らしい。なかなか聞きなれない食べ物だけれども、私はこれが一番好き。油が乗っていて、美味しいんだ。魚というより、鶏肉に近いのかもしれない。

 

 

 それから、沖縄の観光地では見かけることのなかった怪しい土産物もどっさり。この炭は、袋田の職人しか出来ない製法で焼き上げているらしい。炭の表面が菊のようになっていて、手に取ってしまう。炭は脱臭効果のほか、除湿もしてくれる。そこまでプッシュされてしまっては買ってしまう。

 お面!

 天狗!怪しすぎるでしょ。

 さすがに購入には至らなかったけれども、見てるだけで楽しい土産店。 夜中に山奥でこんなんのに遭遇したら泣くよね。と、いうのも、ここらには天狗伝説があるらしい。

 看板ではムササビのはばたきなんて説明されているけれど、科学の力ですべてを説明できるとは思わない。ただの見間違えなんかではなくて、山深い袋田に大きな滝があって、もう天狗が出てもおかしくないんじゃないかって思わせるだけの雰囲気がある。普段は山奥に住んでいる天狗だって、夜には滝を見に来ちゃうくらい滝には力がある。この天狗伝説はただの笑い話ではない。袋田の良さを伝える秀逸な宣伝文句である。

 

 袋田を散策して数時間。

 非日常を思い切り吸い込んで、私はまた慣れない家へ帰っていった。

 この線路がずっと東北まで続いているとは信じられない。

 私にとっては初めての鉄道旅だった袋田旅行。18きっぷの使用期限が迫った週末だったこともあり、電車の中は18きっぷの利用者であふれていた。私自身、一人旅だと決め込んでいたけれど、電車で出会ったおじさまと一緒にまわった。旅は道連れ、ってね。初めて見る日本の姿に、偶然の出会い。18きっぷで帰宅するためにはまた長い道のりが待っていたけれど、ガタンゴトンという一定な音は私の興奮を冷ますためにはぴったりだった。

 

大学生になりました

 

大学生になった。

沖縄を出て、北関東の地で一人暮らしを初めて1か月。

 

ずっとずっと遠いところへ来てしまった、それが今の私の正直な気持ちだ。田舎の中学生だった私が高校生になって、いろんな経験をさせてもらって、大学へ行く。このブログを始めた中学生の頃の私は、自分が沖縄を出る日が来るなんて信じてなかった。

 

 

 私はただ文化が好きで、もっともっと色んなものが見たかった。そして、いつの間にか自分が生まれ育った沖縄のことを狭すぎる、なんて思うようになった。だから、私は沖縄を出て、見知らぬ土地での大学生活を選んだんだ。

 

 この1か月、本当にいろんなことを見た。自分が興味を持っていた民俗学文化人類学、宗教、文学について学ぶ授業は楽しいし、本について熱く語れる友達もできた。神社を巡ったり、古本屋を探したり。一人暮らしは大変だけれども、大学生活は楽しいことだらけだ。

 でも、この1か月はただの旅行とどう違うのだろうか。ただの見物とどう違うのだろうか。刺激的なだけの毎日は、旅行でも代用できる。

 

 生まれてこの方、沖縄南部の田舎にしか住んでいなかった私。沖縄の大学に進学してさえいれば、あたたかいご飯が出てくる実家から通学できた。友達だって沖縄にたくさん居て、慣れ親しんでいる環境で過ごせたらどんなにいいだろうか。

 受験生の頃は、志望校のレベルの高さを魅力的に感じていた。「民俗学をやりたいならこの大学だよ」なんて進路指導の先生は言っていたし、自分の適性とぴったりの入試があったことも決め手の一つだった。都心まで一時間かからないアクセスも、また私の心を掴んで離さなかった。

 でも、それって別に沖縄でなんとかなったことだ。授業である先生は言った「大きな図書館さえあれば、別に大学なんて要らないんですよ。図書館の周りに研究したい人がテント張って、寝泊りすればいい。」かっこいいなぁ、なんて思って聞き流していたけれど、確かにその通りだ。片田舎の自称進学校で私は、一人研究していた。趣味だったり、入試の為だったりしたけど時には国会図書館に出向いたり、市町村にアンケート調査を依頼したり、結構頑張っていた。高校生の道楽のレベルを超えたことはできてなかったとは思うけれども、その経験は環境がいかなるものであっても何とかなるんだっていうことを示している。

 立地だってそうだ。一人暮らしを始めてからというもの、お金は飛んでいくばかり。日々の家事にパワーを削がれ、アルバイトを始められるのはまだ先だろう。純粋に都心へ行きたいだけならば、実家暮らしでお金を貯めたほうがきっと早い。だったら、私は何を望んでここへ来たのか。

 

 

 大学に入学して、新入生が一番初めに頭を悩ますのが履修登録だと思う。私にとって、一番の肝は「教職を取るか取らないか」にあった。教職を取るのなら、なりたいのは高校の国語教師だ。でもそれは国語の先生になってもいいかな、というくらいの覚悟であって、専門に学びたいと思っていた民俗学の方が疎かになるなんて本末転倒である。かと言って、教職を取らなかったら私は将来どこへ行くのか。事務作業に適性がなく、OLなんて絶対にしたくない。でも自分のやりたいこと、例えば文章を書くとか、大好きな文化を相手にした研究職に就くとか、そんなことで食っていく自信もない。

 また、教員以外の職が沖縄にあるだろうか。一つ、譲れないことがある。どんなに遠い関わり方でも、文章に関わっていきたい、文化に関わっていきたい。そう思った時、沖縄ではあまりに職がなさすぎる。沖縄にもう住まない、そんな選択肢だって見えている。けれども、私にはまだその決断をする強さがない。

 

 私と同じように地方から出てきた友達は口を揃えて言った。「別に教師になるんだったら地元の大学を出た」と。そうなんだよ、教員免許はどの大学でも取れる。免許取得を目的とするなら、何もこんな遠くまでくる必要はなかった。

 

 私は何を望んでここへ来たのだろうか。

 悩んだ挙句、私は教職を取った。自分が本当にしたいことに対する覚悟がなかったとも言えるし、本当にしたいことをするために教職を選んだともいえる。もしもの保険があったほうが頑張れると踏んだのだ。甘い。ただ、絶対に決めているのが自分の専門と教職が被ったときは教職を切るということだ。そこだけは妥協できなかった。

 

 この一か月、考えてみれば悩んでばかりだった。新しい環境に翻弄され、文章を書く余裕もないくらいに悩んでいた。教職にはじまり、サークル、家事、人間関係。親元を離れ、もう私はすべてを自分で選択していく。そのことは想像以上に難しくて、予想外に楽しい。悩みまくるのは思春期をこじらせた私の得意芸である。

 

 私は何を望んでここへ来たのだろうか。

その問いは私のものである。もっともっと自分にぶつけよう。

 

 GWも終盤だ。先輩から聞かせれている「GW明けから教室に学生が減っていく」という言葉。周りの友達もいう、「大学に期待していたこととはなんか違う。」大学生になって手にした自由の代償は、多分そういうことなんだと思う。自分で問いをぶつけていかないとどうにもならない。この一か月生活に慣れるだけで必死だったけれども、もう次に進もう。

 

 なんて、ふと一人になった時に思う

ネットアイドルだった鈴木純の命日~南条あやによせて~

日記 雑記

 

 どうしても書きたくなったから勢いで書く。

 

 3月30日は南条あやの命日。

 南条あやはネット黎明期に現れたネットアイドルである。自らを「いつでもどこでもリストカッター」とし、日常を明るくインターネットサイトに綴った日記は人気を博した。そんな彼女は口癖が「卒業式まで死にません」だったという。実際、彼女は卒業式の数週間後、カラオケボックスで自殺を図った。しかしこの自殺は直前に行ったODによるものではなく、日常的に繰り返してきた自傷行為により、心臓の弁に穴が空いていたことが死因につながった。

 彼女の死後、インターネット上に発表された日記をまとめた本『卒業式まで死にません』が出版された。

 

南条あや - Wikipedia

 

 私は南条あやの日記をずっと持ち歩いていた。精神科への通院はしなかったけど、ただひたすらに南条あやに心酔した高校時代だったと思う。初めて存在を知ったのはちょうど3年前、中学と高校の境にある春休みだった。アーカイブサイトを見つけてからは、一日で日記の全てを読んだ。思えば、今や大好きなCoccoの存在を知ったのも南条あや経由だった。南条あやが生きていた90年代の世紀末感にはどこか憧れるし、私は彼女を入り口に夭折した少年少女の日記を日記を集めてる。

 

 南条あやの何がそんなに私を惹きつけたのか。それは南条あやの後ろに居続けていた鈴木純の存在なんだと思う。

 南条あや、という名前はネットアイドルとして売り出すためのペンネームに過ぎない。彼女の本名は鈴木純という。鈴木純は南条あやの明るい日記の底にいつでも存在していた。

 

 いや、そもそも南条あやの日記はポップに見えるだけで決して明るくない。文字色を変化させたり、自らにツッコミを入れたり、彼女の日記のテンポがあまりに良いから勘違いしてしまうだけだ。自分が自傷行為を止められないこと、精神科でのやりとり、父親との軋轢。その全てを笑い飛ばすように文章を書いていたけれど、そこには自分自身のことさえも笑い飛ばすしかない鈴木純の苦悩があったようにも思える。そして、そんな自分のことをまたどこかで嘲笑してたのではないか。

 

 だって、彼女が死ぬ直前に彼氏に送った詩にはこうある。

誰も私の名前を呼ばなくなることが

私の最後の望み 

  

 日常を細かく記していた南条あや。ネット上に発表された日記には、彼氏のことなんて書かれていない。ただ「Aちゃん」としてボカしているだけだ。しかも、Aちゃんは美女と描写している。それだけでも分かる。南条あやと鈴木純は決してイコールではない。インターネット上にファンクラブがあり、卒業式にはテレビ取材も受けていた南条あや。病んでいること、そして女子高生であることこそに価値があると思っていた鈴木純にとって、南条あやの名前はあまりに重かったのかもしれない。

 

 一読しただけでは明るい文体につい見逃してしまいそうになる、鈴木純の存在。しかし、たまにこぼしてしまっている弱音や溜息に気付いた時、私はもうこの日記の虜になっていた。傲慢なことだと思うけど私はその時から、彼女の無理な明るさも溜息も知りたいと思った。そしてその上で、南条あやと鈴木純に寄り添いたいと思ったのだ。

 

 でも、実際は私が南条あや・鈴木純に寄り添われていた。手首を切らなちゃやってられないくらいの感性をもった鈴木純が書いた南条あやの文章は、それだけのパワーがあったからだ。そのパワーにはいい意味だけではなく、悪い意味でも大きく影響を受けた。『卒業式まで死にません』なんて題名の文庫本を持ち歩いている高校生なんて、多分すごく痛かったと思う。しかも、授業中抜けだしてCoccoを聴きながら南条あやを読んでいた。

 

 自分に嘲笑を向けるなんて日常茶飯事だ。この世の全てが大嫌いだったこともあるけど、何より一番自分のことが憎かった。多分、自分のことをもう傷つけられないと思うくらいに傷つけた。

 だからこそ、鈴木純に本当の意味でシンパシーを感じていた。逆説的だけど勝手にシンパシーを抱いて、南条あやの姿から自分の弱さを笑う術を教えてもらった。南条あやが大好きだった。さらにいうなら、それだけで南条あやにも愛されているような気がしていた。それに南条あやが大好きで、その底に鈴木純を見ている自分が何より好きだった。

 

 でも、南条あやはもう居ない。そして鈴木純も。どんなに南条あやを神聖化しても、彼女が故人であることは間違いない。南条あやと鈴木純は決してイコールでないけれど、南条あやの命日は同時に鈴木純の命日だ。

 

 私は先日高校を卒業した。鈴木純が迎えることのなかった18歳の3月31日を迎えた。希望の大学に進学も決まり、この春は希望の春だ。彼女の命日だった昨日一日、死にたいなんて一瞬たりとも思わなかったし、私はこれからも生き続けるだろう。いつの日か30までには死にたいなんて会話を友達としてたけど、多分30を過ぎてものうのうと生きてると思う。そしてオバサンになって「ああ今自殺しても決して美しくない年になったなぁ」って思うだろう。思いやがれ。

 でも、同時に私は南条あやのことも、その底にいた鈴木純のことも、彼女に心酔した高校時代のことも、忘れたくない。

 鈴木純は、南条あやとして、ネットアイドルとして、生きてしまったばっかりに死を選ぶことになった。自傷行為を止めようと思う度、「私の病状が悪化したほうが読者の皆様が喜ぶ」なんていう計算があったのは間違いない。そのようなツッコミも多く見られたし。セーラー服を好み、女子校生であることに一番固執していたのは彼女自身だ。彼女が迎えることのなかった3月31日は彼女が女子高生で居られる最後の日だった。

 しかし、そのネットアイドル南条あやは今もきっと生き続けているのだと思う。「忘れたくない」なんて私一人が言うよりずっと大きな形で。

 


【初音ミク】 南条あやになれなくて 【鬱曲】

 


アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI

 南条あやのことをモデルにした曲は今も出続けている。彼女の全てを分かるなんて誰にもできないことだけど、みんな彼女の無理した笑いもそこにあるどうしようもない悲しさも全部分かっていたんだと思う。そして、そのうえで彼女を愛している。そんな人が今も大勢いるからこうした曲が出るんだ。

 

 南条あや、やっぱり今でもどっかで惹かれる。

卒業式答辞

日記

 

 私、卒業式の答辞を読んだんです。

大の学校嫌いだった私が、卒業生代表として答辞を読むなんて何かのギャグかのように思えるけれど、実は自分自身が立候補したこと。苦しんだ3年間だったから、ちゃんと言葉にして良いフィニッシュを飾りたいと思った。

 

 折角だから、ここに全文を載せる。

 

 

 暖かな春の日差しに包まれ、私達は今日旅立ちの時を迎えます。制服という名の戦闘服を脱ぐ時、この3年間の日々はまさに戦いの名にふさわしいものだったのだと実感します。私達は、日々自分の存在に悩み、人間関係に悩み、思うように伸びない成績に悩みました。もがきながら歩んだ3年間は、決して楽な道のりではなかったはずです。息苦しくてたまらない日もありました。学校に上手く馴染めず、そんな学校を嫌い、何より上手く適応できない自分を憎んだ日がありました。しかし、苦しさのなかにも輝きがあったこともまた確かです。あまりに複雑な感情が交差していたその日々は、卒業の二文字を前に、より一層の重さをもって輝いているように感じるのです。

 

 3年前の春、履き慣れない革靴とたくさんの教科書をつめたリュックと共に私はこの高校へ入学しました。足元がおぼつかない私は、しっかりと前を見据え歩く先輩達の姿を見ながら、「私は一体どこへ行くのだろう」そう不安に思った日々を昨日のことのように覚えています。そんな、中学生気分の抜けない私達を待っていたのは体育館に机を運んで行う我が高校らしい勉強会でした。そこで先生方が語られた学校のこと、受験のこと、未来のこと。緊張の張り詰める体育館で、私達は一体どのような高校生活を描き、そこでみた未来とは一体どのようなものだったのでしょうか。

 

 私達の日常は、学校の机と家の机の往復でできていました。中学までの幼馴染に囲まれた居心地の良い空間はもうそこにはなく、1年生の頃ははじめて出会う人達、はじめての環境に戸惑ってばかりでした。自分の輪郭があまりにぼやけていたから、何故自分が机に向かっているか分からず、いつか憧れた進学校の制服が苦しかった。自分の感情が思い通りにならず、周りの人を傷つけて、傷つけられないと自分の存在が分からなかった。自らの未熟さを学校のせいにして、高校を辞めたい。そう思ったこともありました。しかし私は、この学校で学び続けることを選んだ。それは、どうしようもない閉塞感の中にも、きっとここでしか得られない何かがあると思ったからです。この学校で感じるもの全てを私の糧にしてやる。その思いは、私の高校生活を本当の意味で始めされてくれました。

 

 高校での日々は、忙しさに揉まれながらも刺激にあふれていました。1年生の頃に体験したインターンシップでは、働く意義を考えさせられました。将来を考えるときに避けては通れない「働く」ということ。自分は社会とどう関わっていきたいのか、真剣に考える機会を与えてもらいました。2年生になり、高校生活最大のイベントである海外研修がありました。台風の影響を受け、那覇空港での10時間もの待機などハプニングはありましたが、だからこそ、級友と訪れた海外での風景がより際立って鮮やかなものとなったと思います。自分達だけの力でまわったシンガポールの街、美味しいカレーをごちそうになったホームステイ。そして、夜通し語った友人の笑顔。4泊5日の海外研修は、それぞれの心に多くのものを残したことでしょう。ハプニングをものともしない私達20期のパワーは目をみはるものがあります。学園祭や遠足、社会科巡検、いくもの行事を共に過ごしていった私達は、不安で仕方なかった入学当初の日々を越え、気が付くと、大切な戦友となっていました。時にはぶつかりながら、時には受け止められながら。お互いに傷だらけになろうとも、大切な友人と過ごした日々は私の一生ものの宝物です。

 

 部活動では、学年、学校の枠をこえた多くの人に支えられました。日々の勉強との両立に心が折れそうになったことも、自分の実力不足を突きつけられた日もありました。しかし、「全国の舞台で私はやってやるんだ」という気概、「もっと、もっともっと上手くなりたい。全身で全てを感じ、全力を注いで表現してやるんだ」という思いは、常に私を突き動かしました。それも全て、前例がないコンクールへの挑戦も笑って応援してくれた顧問の先生、生意気な私を優しく見守ってくれた先輩方、そして頼りない私達についてきてくれた後輩の存在があったからこそのことです。等身大の自分を出せる場所、部活動での時間は教室とは違った安心感を私に与えてくれました。放送ブースで必死になってラジオドキュメントを作ったこと。文芸部室で、一生懸命にペンを走らせたこと。それらは、血肉となって今の私を形作っています。

 

 苦しかったはずの学校も、こうして日々を過ごしているうちに、少しずつ苦手ではなくなりました。それは、勉強一色に思えていた高校の多くの顔を知ったからです。相変わらずこの制服を着る自分に違和感を抱くこともありましたが、それでも1年生の時に感じていた「それ」とは種類が違っていました。勉強も、部活動も、人付き合いも、自分が真摯に向き合っていれば、結果はちゃんとついてくる。ちゃんと分かってくれる人がいる。そう知れたことは、私の高校生活で最も大きな学びでした。いつの日か、高校に期待した何かはちゃんとあったのだと思います。

 

 永遠に続くかのように思えた高校生活も、3年生になると同時に少しずつ終わりが見えてくるようになりました。笑顔で胸を張って、この学校を卒業したい。そう強く思うようになったのも、ちょうどその時です。しかし、卒業を目指してずっと過ごしてきたはずなのに、卒業の二文字が迫ってくるにつれて、なにか大切なものを落としてきたような感覚に襲われる自分もいました。静かな図書館も、海が見えるベランダも、全てこの手に納めていられたらどんなにいいか。しかし、そう思っている時にも時は一秒一秒と過ぎていき、私達は卒業という人生の岐路に立たされています。    

 

私達はこれから一人ひとり自分の道を歩んでいきます。しかし、その根っこが高校時代にあるのは紛れも無い事実。私達は、自分の道をみつめ、自分で歩むだけの強さをこの学校で育みました。

 

 いつも真摯に私達生徒と向き合ってくれた先生方。「全力で好きなことをやってごらん、全力で応援するから」と言ってくださったあの日、多くの疑問に次々とぶつかる私に対して嫌な顔ひとつせず、優しく根気強く教えてくださったあの時、決して忘れません。「あなたらしく頑張ればいい」そんな先生方の応援が、どれだけ心強いものだったか。土日も私達の為に学校へ来てくださった先生の情熱が、いつも声をかけてくださった先生の優しさが、私達を支えてきました。本当にありがとうございました。

 そして、朝早くからの送迎や毎日の弁当作りなどいつも一番の応援団でいてくれた両親。今、私はちゃんと大きくなれましたか。お母さんの笑顔も、お父さんの背中も、ずっと私のことを思ってくれていると知っていたからこそ、私はここまで来ることができました。例え春からの新生活で親元を離れても、帰省した時は何度だっていつもの笑顔で「おかえり」と言ってください。そこが私の拠り所です。これからも見守ってください。 

 

 そして在校生の皆さん。皆さんとは同じ〇〇校生として多くの時を過ごしてきました。聡明な皆さんは、これからも我が高校の伝統を引き継いでいくことでしょう。だからこそ、後輩の皆さんは立ち止まることを恐れないでください。自分の感情を信じて、もっと外に飛び出していってください。誰の手にもある高校三年間の時は有限です。高校にいると忙殺されることもあるでしょう。しかしそんな時は、自分は一体何がしたいのか、と問いかけてみてください。その問いが皆さんの高校生活をより豊かなものにすることでしょう。わずか3年しかない高校生活。自分が本当にやりたくないことをやっている時間はありません。ゴールは同じでも道は無数にあります。思い切り悩んで、思い切り笑って、高校生活を謳歌してください。そして、そんな皆さんのことを受け入れてくれる高校であって欲しいと思います。

 

 今日、私達は卒業します。この卒業は、一人ひとりの胸の内でそれぞれの意味をもっていることでしょう。しかし、これだけは断言できます。この卒業は決して一人だけのものでない、と。親、先生方、別の道を選択し高校を去った友人、私達の高校生活は、たくさんの人の一瞬一瞬が積み重なっています。あの時の笑顔も、苦しみも、切なさも、全てが今日の卒業につながっているのです。思い返してみると、あの不安定な足取りで歩んでいた私達は、多くのことを吸収していきながら、多くの友と支えあいながら、前を向いて歩んできたのだと思います。これから先、私達の未来はどうなっていることでしょう。挫けそうになることがあっても、高校での毎日を乗り越えた自分に自信をもって、一歩ずつ確かな足取りで歩んでいける、そんな強さが私達にはあると信じています。今、この学校を胸を張って笑顔で卒業できる。そのことが誇らしくてたまりません。

 

 最後になりますが、ご来賓の皆様、地域の皆様、保護者の皆様、そして高校で出会ったすべての方々に感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。わが母校、〇〇高校の限りない発展と後輩の皆さんの活躍を願って、20期生の答辞と致します。

 

 平成28年 3月1日