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きのこのこのこのこ

最近大学生になりました。南の島から東路の果てへお引越し

帰省と知名のヌーバレー

沖縄 日記

 

 帰省した。

 旧盆に合わせて沖縄に帰って来た。

 去年の今頃は入試準備に追われていて大変だったし、高校の頃はそもそも夏休みが2週間程度しかなかった。だから、私は沖縄の夏を随分久しぶりに満喫している。

 

 茨城での大学生活はとても楽しい。沖縄に帰りたいなんて思ったことは一度もない。でも、ずっと沖縄が恋しかった。

 

 あり得ない程青い空の下でさとうきび畑の隙間を縫うように散歩をするのも、コーラを片手に沖縄てんぷらを頬張りながら水平線を眺めるのも、大好きだった。帰省して1週間、うだるような暑さの中で、「ああ愛しいな」って思える瞬間にばかり出会っている。

 

 

 旧盆最終日であるウークイの日に行われた、知名のヌーバレーに行って来た。ヌーバレーは沖縄県南部で旧盆明け行われる祭りのことで、お盆が終わってもグソー(あの世)に帰れない魂を追い返す祓いの儀式。そうは言っても、決して厳かでもしめやかでもない。エイサーあり、日舞あり、手話ダンスありの楽しい行事だ。

 中でも、沖縄県南城市知念村の知名地区で行われるヌーバレーが有名で、何度も色んな人から「とりあえず見ていた方がいい」との助言を受けていた。今年はたまたま日程の都合があったこともあって、行って来た。

 

 

 ヌーバレーが好きそうな友達も居なければ、母にも伯母にもフラれたので、一人で行って来た。せめて場所だけは知りたい、と役場勤めの伯母に連絡をしても「知名のバス停で降りて、音が鳴ってる方に歩けばいいさーね」とのアバウトすぎる回答。一時間に一本程度しかないバスも、まさかの20分遅れ。

 「沖縄ってこんなんだったな」と笑えてくる。炎天下の中で待たされるのは嫌だけど、ヌーバレーが行われるのはすっかり日差しも和らいだ夕方。伯母の言うとおり知名のバス停で降りたら、耳馴染みのあるエイサーが聞こえてきた。会場は山近くの広場で、舞台は幕も背景も全部手作りだ。

 

 小さな地域の行事なのに、観客はたくさん。「内地から孫から来たから、一緒に見てるわけよー」と語るおじいに、「一度来てみたいと思ってた」と笑うおばさん。広場のまわりにはレンタカーも停まっていて、若い子が一人で参加するのは浮くかなとの心配も杞憂だった。お盆で余ったレモンケーキとさんぴん茶をお供にして、早速腰掛けてみる。(ベテランの方は座布団持参で観覧するみたいで、次回からの参考にしよう)

 

 

 ヌーバレーの何が凄いかって、演目が何でもアリなところだと思う。そしてその一つ一つのレベルが高くて、観客も一緒に盛り上がれる。演者は地元の人ばかり何だけれども、忙しい中しっかり稽古も積んでおられて、知名のヌーバレーにかける思いやプライドが伝わってくる。

 

 私が到着した頃にやっていたのはPTAの子供エイサー。その次は日本舞踊だった。しかも演目は『細雪』。季節感も地域性もまる無視じゃん!って思うけど、舞台に上がったオバサマ方は優雅に踊って、合いの手にはおじい達の指笛。なんじゃそりゃって、笑っちゃう。でも観客も演者もすごく楽しそうだから、私もすごく楽しくなる。

 区長の挨拶の時には「おじいちゃん~!」という孫からのラブコールが聞こえたり、「浮気節」のダンスでは「あい、〇〇さん太ったんじゃないの~もう年だね」なんていう勝手な批評が聞こえてくる。私にとって知名は決して地元ではないし、演者も他人に過ぎない。でも、そんなことなんてどうでも良くなるくらい、十六夜のヌーバレーではみんな距離が近かった。

 

 ヌーバレーも佳境に入ってきたころに披露される組踊は、琉球語で演じられる。学校や国立劇場おきなわで上演される時は、共通語の字幕がつけられるものだけれど、もちろん手製の舞台には、そんなものはない。

 私は琉球語が理解できない。自分の祖父母の会話ですら、本質的なことは何も分かっていない。ここでも、周りの大人が舞台を観て笑っているのに対して、どこか置いてけぼりをくらった気持ちになったのは事実だ。

 ジェネレーションギャップは確かに存在するし、このギャップは沖縄において深い溝を生み出す。そのことをきっちり受け止めたうえで、それでも私はこのイマイチ理解できない組踊から目を離せなかった。いつだったか、高校にやってきた字幕付き・解説付きの『執心鐘入』より面白かったかもしれない。

 どうしてだろう、と思う。劇場で披露される組踊は高クオリティーだ。でも、問題はそういうことじゃない。私は多分、知名のヌーバレー会場で、他のおじぃ・おばぁ達と時間を共有していること自体が面白かった。訳の分からない言葉の海で漂っていることが気持ちよかったのだ。

 

 昔の田舎の行事って全部こんな雰囲気だったのかもしれない。飛び入りで鑑賞していた私が楽しめたのは、演者も観客も本気で楽しんでいるからだと思う。言い換えれば、知名のヌーバレーは確かに生きているのだ。

 

 伝統として受け継がれてきているから、自分の代で止めるのは嫌だから、なんていう理由でダラダラ続いている行事が沖縄にはたくさんある。日本化が進み、琉球語も理解できなければ、行事の意味も分からない人が増えているのだから、当たり前である。

 私こそ、何となく民俗や宗教が好きだから地域の祭祀に参加しているけれど、それももっと幼い頃から触れてきた人とは、持ちあわせているものが違うんだろうなぁと思う。行為一つ一つに対して、頭で考え理解して解説することはできても、それを本当にやり続けてきた人と世界観を共有するのはとても難しい。

 

 

 習慣にならってただやっているだけの行事にはないパワーが、ヌーバレーにはあった。そのパワーはそこに飛び入り参加した他人までもを楽しませてしまうパワーである。

 もちろん、文化は変化していくのが自然な形だ。知名のヌーバレーを支えている地謡。高いレベルで、本当にこの地謡があるからこそのヌーバレーであると思う。今年はそのお弟子さんという二人の留学生が来ていた。

 聞くと日系アメリカ人で、先祖に沖縄県人をもつらしい。演奏後英語でコメントしていて、観客はあまり理解できていない様子だったけれども、拍手は一際大きかった。

 あまり口にしたくないけれど、文化が変化していくように世代交代も当たり前のことだ。次の世代がどう関わっていくかに伝統文化の継承はかかっている。知名のヌーバレーに関して言えば、未来は明るいんじゃないかな。

 

 担い手が外国人であっても、演者と観客の言葉が通じてなくても、一つの行事を作りあげることはできる。日舞や手話ダンスの類は、昔からある演目ではないだろう。でも、それでいいのだ。(寂しいけれど)例え、ヌーバレーの演目から組踊や琉舞、エイサーといった沖縄文化のアイコン的存在が消えても、担い手が変化しても、演者と観客が一体となって楽しんでいる舞台があれば、それだけでヌーバレーは生きているといえると思う。

 

 私が文化を愛するのは、そういう力強さに惚れているからなのだ。時間の関係で、最後の演目まで観ることができなかったのが非常に残念。来年こそはリベンジしたいし、いっそ念仏踊りの影響がみられる国場エイサーも手登根エイサーも観たい。本音を言えば石垣のアンガマも観に行きたい。目取真の綱引きも外せない。まだもうちょっと帰省は続くけれど、もう既に来年の帰省が楽しみだ。

 

 それにしても、盆行事って面白い。県立図書館で調べてみたけれど、ヌーバレーの起源はよく分からないし、エイサーと本土の盆踊りは密接に関わっている。大学に戻ったら調べてみたいことがまた増えた。

ほおずき市に行ってきました

 

 7月9日・10日に浅草寺で行われていたほおずき市に行ってきた。

 

 私が行ったのは最終日である9日の夕方だったこともあり、浅草駅を降りた瞬間から凄まじい流れの人・人・人。正直引き返そうかと思うくらい。でも、すれ違う人の中には浴衣姿の方もチラホラ居て、しかも一様にほおずきの鉢を手にしているものだから、その輝きたるや素晴らしい。額に光る汗が一層夏を感じさせるから、私も意を決して人込みの中に飛び込む。

 

 

 

 日本の伝統文化は都市化により忘れられつつある、なんていうのが通説だけども、人込みの中にもまれていると、そうじゃないんじゃないかなと思いたくなる。近所のフラワーショップでも買えるような花を買いにここまで出かけるなんて、よっぽどの物好きだ。

 

 

 

 そうは言えども、私も物好きの一人。人込みにもまれながらも、ハッとするくらい鮮やかなほおずきの花を目にすると嬉しくなる。

 紺地の浴衣に朱の花はすごく映えてて、美しい。緑の葉はどこか涼し気だ。大勢の人がほおずきを求めて賑わうなんて、実は豊かなことなのかもしれない。夏日だったのにも関わらず、ほおずき市に来る人はいい顔してた。

 

 

 フラワーショップでほおずきを買わずに、わざわざ浅草まで足を運ぶのは、どこかでこの熱気を楽しみにしているからではないか。「人ごみは嫌ね」なんて言いながら、ほおずきを選んで、自宅に飾らないと夏がやって来ないからではないか。

 

 そもそもほおずき市は、観音信仰との関わりが大きい。ほおずき市の開催日である7月10日は四万六千日 と呼ばれ、この日に参拝すると4万6千日参拝したのと同じだけのご利益が受けられるという伝承がある。そして、その伝承をもとに大勢の人が寺に押し掛けるから、商魂たくましい市が形成される。これがほおずき市のはじまりだ。ほおずきが仏花として扱われるのも関係が深いだろう。

 

 

 たった一度のお参りでご利益を受けようとする精神は厚かましいし、そもそも仏教と現世利益の結びつきってどうなってるんだと思わないわけではない。でも、そういう言い伝えや行事って、微笑ましい。

 現在のほおずき市は、チョコバナナやりんご飴といった出店も充実している。いつ頃から現在の形が定着したかは定かではないけれども、昔から人は信仰を建前にしたお祭りを楽しんでたんだろうな、と思った。日本の観光の原点にあたる、お伊勢まわりも、そういう側面をもつことだし。

 

 

 もちろん私も参拝しましたとも。因みに閏年である今年は、お遍路のご利益も3倍。川越と二子玉川で簡単お遍路を二回もまわった私には、そろそろ宝くじくらい当たってもいいんじゃないかな。

 

 そして、ほおずきも買った。かなりの貧乏学生で、友達とのスタバもパンケーキも我慢しているのに、ほおずきの鮮やかさを前にすると我慢できなかった。小さな木籠に三つだけだけれども、形の良いほおずきを選定するのは楽しく、自室は一気に華やいだ。

 

 

 そんな豊かさを噛みしめられる人になりたい。季節の行事に参加して、四季の移ろいに気を配れるのも、受け継がれてきた歴史や民衆の声に耳を傾けれる豊かさ。激狭で何にもない部屋だけれども、花の美しさを楽しめる豊かさ。

 普段は課題やらテストに追われて季節の変化に気づかないかもしれない。貧乏生活でスイーツをあまり食べられてないかもしれない。でも、ほおずき市のような行事があって、そこで楽しめるんだったら、私は十分豊かな生活を送っている。

袋田の滝へ行ってきました

日記 旅行 茨城

 

 ちょうど1か月前、18きっぷを使って茨城県久慈郡大子町になる袋田の滝へ行ってきた。

 

 

 袋田の滝は、栃木県日光市にある華厳滝和歌山県にある那智滝と並んで日本三大名瀑として数えらることで有名だ。沖縄じゃ見れない景色が見たくて、ここへ来た。私が沖縄を出て1週間。18きっぷの期限を理由に飛び出した小旅行だが、求めていたのはただの絶景でなかったように思う。

 

 ここまで大きな滝を見たのは生まれて初めてのことで、「凄い」以外の言葉がでない。自然っていうのは不思議なものだ。ずっとそこに留まってしまうようなパワーを持ちつつ、そこにいる人を元気にさせる。その力には古くから注目されていたのだろう。袋田の滝の周辺には神社や寺がいっぱい。

 

 社務所などは発見できず、神社の詳しい由来を尋ねることはできなかった。ただ分かることは、袋田の滝を訪れる観光客の多くが手を合わせていたということ。特に下二つの神社・仏閣は袋田トンネル内にある。トンネル内は入場料が発生するため、地元の人が気軽に参拝できるとは考えにくい。それでも、丁寧に手入れされているのだから凄い。

 

  見られるのは信仰だけではない。袋田の滝は長年、句・歌の題材としても選ばれてきた。

 

 平安時代から明治まで名だたる方々の文学碑。西行はこの滝を見て言ったという、「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の趣風は味わえない。」どの時期にこの言葉を発したのか定かでないけど、西行って、京都を中心に生活していた人だよ?同じ茨城県内からでも、バスと電車を乗り継いで4時間はかかったというのに、徒歩が移動手段の平安時代に、4度も訪れたいと思わせただけの滝。それだけでも凄さが伝わってくる。

 私が訪れたのは春である。一年で一番人気のない時期だと言っていたけれど、人気がないのがまた良い。圧倒的な自然を前に行列なんてできていたら興ざめだ。西行の言葉に従って、真の趣風を味わうためにはあと3度、夏・秋・冬に行くことになる。夏には新緑、秋には紅葉、そして冬には氷瀑。次に来る時には、これほど閑散としているわけでもないかもしれない。じっくり見れないかもしれない。それでもまた来たい、異なる表情を見たい、そう思わせる何かがこの袋田の滝にはある。

 西行の気持ちになっていると発見する俳句ポスト。袋田トンネルの入り口付近と袋田駅に設置されていた。詠むのは慣れていないけれども、こういうのって発見すると思わずやりたくなる。旅情がぐっと増す。 

 

 

 

 袋田トンネルを抜けても絶景は続く。まさに私の知らない日本だ。

 近くには日帰り温泉もできるホテルもあって、なんとなく二時間サスペンスの香りを感じてしまう。

 吊り橋なんて特にそう。誰かが歩くと橋全体が揺れて、もしもの時のことを思わず考えてしまう。2時間サスペンスなら、女と男がお互いを橋から突き落とそうと暴れあうのかもしれない。

 壁一面の苔、

 思わず見上げちゃう林、袋田の魅力は滝だけにとどまらない。

 

 絶景を前に飲んだ瓶コーラ。買った店の夫婦が茨城弁だったから、思わず頬がゆるむ。

 袋田名物のがっぺこんにゃく。ショウガが効いてこれまた美味しいんだ。

 ここらは定番、鮎の塩焼き。袋田の滝を上流とし、町全体を流れている川から捕れるものなのだとか。骨も噛み切れるため、尻尾からかぶりといける。風情があるねぇ。

 ししゃもテール。その名の通り、ししゃもの尻尾の肉らしい。なかなか聞きなれない食べ物だけれども、私はこれが一番好き。油が乗っていて、美味しいんだ。魚というより、鶏肉に近いのかもしれない。

 

 

 それから、沖縄の観光地では見かけることのなかった怪しい土産物もどっさり。この炭は、袋田の職人しか出来ない製法で焼き上げているらしい。炭の表面が菊のようになっていて、手に取ってしまう。炭は脱臭効果のほか、除湿もしてくれる。そこまでプッシュされてしまっては買ってしまう。

 お面!

 天狗!怪しすぎるでしょ。

 さすがに購入には至らなかったけれども、見てるだけで楽しい土産店。 夜中に山奥でこんなんのに遭遇したら泣くよね。と、いうのも、ここらには天狗伝説があるらしい。

 看板ではムササビのはばたきなんて説明されているけれど、科学の力ですべてを説明できるとは思わない。ただの見間違えなんかではなくて、山深い袋田に大きな滝があって、もう天狗が出てもおかしくないんじゃないかって思わせるだけの雰囲気がある。普段は山奥に住んでいる天狗だって、夜には滝を見に来ちゃうくらい滝には力がある。この天狗伝説はただの笑い話ではない。袋田の良さを伝える秀逸な宣伝文句である。

 

 袋田を散策して数時間。

 非日常を思い切り吸い込んで、私はまた慣れない家へ帰っていった。

 この線路がずっと東北まで続いているとは信じられない。

 私にとっては初めての鉄道旅だった袋田旅行。18きっぷの使用期限が迫った週末だったこともあり、電車の中は18きっぷの利用者であふれていた。私自身、一人旅だと決め込んでいたけれど、電車で出会ったおじさまと一緒にまわった。旅は道連れ、ってね。初めて見る日本の姿に、偶然の出会い。18きっぷで帰宅するためにはまた長い道のりが待っていたけれど、ガタンゴトンという一定な音は私の興奮を冷ますためにはぴったりだった。

 

大学生になりました

 

大学生になった。

沖縄を出て、北関東の地で一人暮らしを初めて1か月。

 

ずっとずっと遠いところへ来てしまった、それが今の私の正直な気持ちだ。田舎の中学生だった私が高校生になって、いろんな経験をさせてもらって、大学へ行く。このブログを始めた中学生の頃の私は、自分が沖縄を出る日が来るなんて信じてなかった。

 

 

 私はただ文化が好きで、もっともっと色んなものが見たかった。そして、いつの間にか自分が生まれ育った沖縄のことを狭すぎる、なんて思うようになった。だから、私は沖縄を出て、見知らぬ土地での大学生活を選んだんだ。

 

 この1か月、本当にいろんなことを見た。自分が興味を持っていた民俗学文化人類学、宗教、文学について学ぶ授業は楽しいし、本について熱く語れる友達もできた。神社を巡ったり、古本屋を探したり。一人暮らしは大変だけれども、大学生活は楽しいことだらけだ。

 でも、この1か月はただの旅行とどう違うのだろうか。ただの見物とどう違うのだろうか。刺激的なだけの毎日は、旅行でも代用できる。

 

 生まれてこの方、沖縄南部の田舎にしか住んでいなかった私。沖縄の大学に進学してさえいれば、あたたかいご飯が出てくる実家から通学できた。友達だって沖縄にたくさん居て、慣れ親しんでいる環境で過ごせたらどんなにいいだろうか。

 受験生の頃は、志望校のレベルの高さを魅力的に感じていた。「民俗学をやりたいならこの大学だよ」なんて進路指導の先生は言っていたし、自分の適性とぴったりの入試があったことも決め手の一つだった。都心まで一時間かからないアクセスも、また私の心を掴んで離さなかった。

 でも、それって別に沖縄でなんとかなったことだ。授業である先生は言った「大きな図書館さえあれば、別に大学なんて要らないんですよ。図書館の周りに研究したい人がテント張って、寝泊りすればいい。」かっこいいなぁ、なんて思って聞き流していたけれど、確かにその通りだ。片田舎の自称進学校で私は、一人研究していた。趣味だったり、入試の為だったりしたけど時には国会図書館に出向いたり、市町村にアンケート調査を依頼したり、結構頑張っていた。高校生の道楽のレベルを超えたことはできてなかったとは思うけれども、その経験は環境がいかなるものであっても何とかなるんだっていうことを示している。

 立地だってそうだ。一人暮らしを始めてからというもの、お金は飛んでいくばかり。日々の家事にパワーを削がれ、アルバイトを始められるのはまだ先だろう。純粋に都心へ行きたいだけならば、実家暮らしでお金を貯めたほうがきっと早い。だったら、私は何を望んでここへ来たのか。

 

 

 大学に入学して、新入生が一番初めに頭を悩ますのが履修登録だと思う。私にとって、一番の肝は「教職を取るか取らないか」にあった。教職を取るのなら、なりたいのは高校の国語教師だ。でもそれは国語の先生になってもいいかな、というくらいの覚悟であって、専門に学びたいと思っていた民俗学の方が疎かになるなんて本末転倒である。かと言って、教職を取らなかったら私は将来どこへ行くのか。事務作業に適性がなく、OLなんて絶対にしたくない。でも自分のやりたいこと、例えば文章を書くとか、大好きな文化を相手にした研究職に就くとか、そんなことで食っていく自信もない。

 また、教員以外の職が沖縄にあるだろうか。一つ、譲れないことがある。どんなに遠い関わり方でも、文章に関わっていきたい、文化に関わっていきたい。そう思った時、沖縄ではあまりに職がなさすぎる。沖縄にもう住まない、そんな選択肢だって見えている。けれども、私にはまだその決断をする強さがない。

 

 私と同じように地方から出てきた友達は口を揃えて言った。「別に教師になるんだったら地元の大学を出た」と。そうなんだよ、教員免許はどの大学でも取れる。免許取得を目的とするなら、何もこんな遠くまでくる必要はなかった。

 

 私は何を望んでここへ来たのだろうか。

 悩んだ挙句、私は教職を取った。自分が本当にしたいことに対する覚悟がなかったとも言えるし、本当にしたいことをするために教職を選んだともいえる。もしもの保険があったほうが頑張れると踏んだのだ。甘い。ただ、絶対に決めているのが自分の専門と教職が被ったときは教職を切るということだ。そこだけは妥協できなかった。

 

 この一か月、考えてみれば悩んでばかりだった。新しい環境に翻弄され、文章を書く余裕もないくらいに悩んでいた。教職にはじまり、サークル、家事、人間関係。親元を離れ、もう私はすべてを自分で選択していく。そのことは想像以上に難しくて、予想外に楽しい。悩みまくるのは思春期をこじらせた私の得意芸である。

 

 私は何を望んでここへ来たのだろうか。

その問いは私のものである。もっともっと自分にぶつけよう。

 

 GWも終盤だ。先輩から聞かせれている「GW明けから教室に学生が減っていく」という言葉。周りの友達もいう、「大学に期待していたこととはなんか違う。」大学生になって手にした自由の代償は、多分そういうことなんだと思う。自分で問いをぶつけていかないとどうにもならない。この一か月生活に慣れるだけで必死だったけれども、もう次に進もう。

 

 なんて、ふと一人になった時に思う