雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

2024年11月のこと

 

 色んな友人と会って喋った11月!

 多忙のピークは過ぎ去ったとはいえ、毎日のように人と会う約束があったので割と忙しかった気がする。誕生月でもあるので、たくさん祝ってもらって、嬉しありがたき月でした。

食べたもの

 

 首里の「語い処 みるく世果報」にて、スンシーイリチ―のセットを食べた。スンシーとは筍のこと。わたしはこのスンシーが好物なんだけど、沖縄以上に食べる機会があったのが台湾だった。ちなみに台湾でよく話されている台湾華語でも「筍絲」と書き、スンシーに近い発音をする。このセットはほかにもイナムドゥチやミヌダルなどがついてきた。どれもかつお出汁で丁寧に味付けされており、家庭料理とはまた違った沖縄料理が味わえるので、沖縄の人にも沖縄ファンの人にもおすすめ。

 

お店の人が好意で出してくれた、ハンチュミ(肉でんぷ、豚うで肉の佃煮)。琉球宮廷料理の一つで、幻の琉球料理ともいわれる。沖縄料理(琉球料理)は何でも食べるよう、色んな情報を得られるようにと心がけている私も初めて知った料理だった。噛めば噛むほど旨味が出てくるタイプの美味しさで、泡盛と合いそう。

 

 毎年恒例のハリーポッターコラボラテ。わたしはパンプキンパスティラテを頼んでみた。ただ甘いだけでなく、シナモンの風味もあったのが良かった。

 小学校からの友人家族に誕生日パーティーをしてもらいました!!ありがとう、ほんとうにありがとう!!生誕を祝福されるの、存在を大きく肯定してもらえており、いくつになっても嬉しい。ちなみに今年で27歳になりました。自分の体感年齢は25歳なので、全然27歳って感じがしない。コロナで失われた2年の記憶がすっぽり抜けており、その分の歳もどこかでどこかで追いつくのだろうか。

 

 誕生日当日は母と一緒にフグとすっぽんのコースを食べました。念願のフグ。フグって毒があって免許制にすらなっているのに、それでも食べようという情熱がすごい。この話を職場でしていたら、みんなに「それほど美味しいってことだよ」と言われた。そしてそれほど美味しかった。でもすっぽんはフグ以上に出汁に深みがあって美味しかった。

 那覇東町の「福飯」というお店なんだけど、わたしと母以外は中国(台湾)人ばかりで、やっぱり外国人からしたらフグって珍しいよねって思った。ふぐを捌く場面なども見せてくれるし、ふぐ免許などについても教えてくれるし、知識としても楽しいお店でした。

大学の友達が10日間ほど沖縄に泊まりに来てくれた。到着したその日に北谷に行って「CHICKEN&PAPA」のブリトーを食べた。英語メニューしかないようなお店で、ちょっとドキドキした。今まで食べたブリトーのなかで一番美味しかった。

 

母とやんばる遠足へ。本部町伊豆味の森の食堂 smile spoonでコースを食べた。名前のとおり森のなかにあるレストランで、沖縄の古民家を洋風に改装してるんだけど、これがまた素敵!なんとなく『西の魔女が死んだ』のような空気感を思わせるレストラン。

 

友達が沖縄に遊びに来てくれてるのに、仕事が忙しくてなかなか一緒に食卓を囲めなかった。そのぶん、朝の時間が大変貴重で、朝ごはんの開拓に努めた。友人には沖縄の色んな顔を知ってほしくて張り切った。

 写真は栄町市場の出汁ダシの朝ごはん!友人はかちゅー湯を頼んだ。沖縄といえばかつおだしだと思うので!

こっちは沖縄第一ホテルの朝食!ずっと前から知ってて、『いつかティファニーで朝食を』にも出てたのでさらに気になっていた。器やテーブルメイクなどにも気を配っており、沖縄の島野菜をいっぺんに食べることができる。最初は食べきれるかなと心配してたけど、意外と量が足りなかった。

こちらも大学の友人と行ったジミーのバイキング。沖縄らしさとしてジミーを紹介しながらなんだけど、実はわたしもジミーのバイキングは初でした。しょっぱめのチキンとブイヤベースとケーキを繰り返し食べて、全種類制覇した。しかもそのうえでジャーマンケーキも持ち帰ったのでお腹はち切れるかと思った。

ジャーマンケーキ、沖縄にしかないらしいね。

 

誕生日パーティー第3弾!こっちは高校の友人と!もうほんと、大感謝!那覇市久茂地のラス トレス ラマスにて。わたしの要望でスペイン料理に行ったよ。スペイン料理屋さんは実ははじめて。ワインが非常に合う料理ばっかりだった!写真はマッシュルームのハム詰め。フランスパスを無限におかわりさせてもらえるので、オリーブオイルをたっぷり堪能した。

誕生日プレゼントもたくさんもらって、本当にありがとうね。わたしが極度の寒がりなので大体があったかグッズで笑った。おかげさまでぬくぬくしてます。

大学の先生方が来てくれ、ごちそうしてくれた。イラブチャーマース煮おもろまち駅近くの「新」というお店は、泡盛飲み放題の種類は豊富だし、マース煮を出してくれるので、結構行く機会が多い!

いやあ、それにしたって、自分の仕事を先生方が観に来てくれるってむず痒く、幸せなことだなあと思う。先生方に恥じない仕事をしなくちゃ。

 

 

大学の友人たちが2泊3日で来てくれた!10年ぶりの沖縄らしいので、王道に美ら海水族館に行き、恩納村のリゾートホテルに泊まったよ。

今回も自分の仕事が忙しくって旅程を変更させてしまって申し訳なかった……。王道ルートもまわりつつ、わたしの研究対象が見たい!とも言ってくれたので、卒論修論を書いた聖地へも一緒に行った。神様に手を合わせて「わたしの大好きな友人たちです、沖縄まで来てくれました」って報告できてよかった。

 

月末は長野・大阪出張へ。たまたまだけど、8時ちょうどに新宿駅を出る特急あずさに乗ったので、名曲を思いながら食べた駅弁。わたしも上京(つくばだけど)し、地元に帰ったので、狩人の「あずさ2号」は大変染みるのであった。都心から東京郊外、そして山を抜けて松本へ走るあずさ、かなりいい路線でした。

長野で食べたそば!間違い無しの美味しさ。

こっちはホテル併設の定食屋さん。

映ってないけど、山賊焼きもあるよ。味噌や野菜が美味しかったからか、「和食」を食べてるなあ〜って思った。というか、普段食べてる「和食」ってだいぶ沖縄ナイズされてるよなって思う食材の使い方だった。沖縄でなす田楽とか出す定食屋さんとかないし。

 

長野から大阪へ向かうなかで乗り継ぎのあった名古屋駅で駆け込んだきしめん名古屋駅ホームで食べるきしめんが一番おいしい。

 

伊丹空港で食べたうどん!蕎麦文化圏からきしめんを通ってうどん文化圏に来たなって思った。

 

1ヶ月の食の記録を見返して思うけど、わたしは食文化が大好きなんだよね。食べることそのものも好きだけど、土地のものを土地の背景と共に楽しくいただくのがまたたまらん。

 

観た展示(プライベートのみ)

博物館や美術館の展示をいろいろ観る機会があったけど、ここではあえて休みの日やら昼休みに観に行ったものだけ挙げる。

 

海洋博公園内おきなわ郷土村

見てよ!!この茅葺きの綺麗さ!次の密かなる関心のひとつに茅葺きがあり、郷土村へ脚を運んだ。海洋博公園って美ら海水族館以外もかなりすごい。沖縄といえば赤瓦のイメージかもしれないけど、庶民の家屋に赤瓦が敷かれた歴史はそう長くなく。茅葺きの民家が観られる施設はかなり貴重だと思う。

 

松本民藝館 常設展

こちらは昼休みに自転車を必死に漕いで行った。いつか全国の民藝館を制覇するのが目標。

沖縄のものもたくさん展示されてました。紅葉の松本で出会うと、色彩の鮮やかさにハッとさせられる。

 

国立民族学博物館

企画展「客家と日本展」

台湾客家が中心の展示。中国大陸の客家については土楼について紹介があった。

 

特別展「吟遊詩人の世界」

世界中をフィールドとしている研究者がたくさん居るみんぱくらしい展示だなと思った。以前言語をテーマにした展示を観たときも思ったけど、モノ以外の文化を展示する手法も勉強になるなって思う。

 

読んだ本とか

民藝の教科書シリーズ、読みやすいうえにしっかりと取材されており、気に入っている。

 

みんぱくの「さわる展示」のおもしろさに感化されて読んだ本。触ることで得る情報にわたしは疎いなあと思う。本当に勉強になった。
 
 Twitterで話題になっていたので、26歳のうちに読んでみた。年齢がタイトルになっている本って賞味期限を感じさせる。内容は頷けることもあれば、頷けないこともあったので、まあ親戚のおじさんが言うことくらいに思っておこうと思った。

いま一番の熱量で追っている漫画かもしれない。描くことの怖さ、わかるよ、わかる。わたしの場合は書くことだけど。大学生の頃、エスノグラフィーのもつ暴力性にビビっていた。勝手に何を言えるんだ?という思いは今もある。でも、でも、それでも書くんだという思いもある。

 

あとはワラザンについての文章を読んでいた。プライベートでお願いされた原稿があり、藁算についてちょっと勉強した。

そのほか

整骨院に通うようになった

超多忙な時期を過ごしたあと、身体をあまりに疎外してたのではないか?と思ったり、友人たちに色々心配されたこともあり、整骨院に通うことになった。かなり姿勢が悪いので毎年「猫背を治す」を目標に掲げているが、ようやくどうにかしたいと本気で思った。

思い切って3ヶ月のフリーパスを買った。ネットではフリーパス制の整骨院についていい評判がないけど、結果としてはフリーパス制じゃないとわたしは通えなかっただろうなと思う。身体に対しての感覚がどこか鈍いのかもしれなくて、「痛いですか?」「変わりましたか?」に対してあんまりピンと来ないんだよね。ただ、疲れてる。身体について意識を持ってこなかったので、語彙が足りてない感じがする。

1ヶ月8回通うのを目標にしている。1ヶ月目の感想としては、冷えがマシになっている気がする。今年は今までより寒さに強くなっている。指圧で結構が良くなってるから?偏頭痛もしなくなった。

姿勢についてはよくわからないけど、通うことで意識している分、多少は良いかな。 

 

スマホを置いて久高島に行った

スマホを忘れたのはほんの偶然だったけど、スマホがなくても困らなかった。

 

まとめみたいなもの

仕事に追われてた夏を超えて、実りの秋であった。たくさん褒めてもらえて、たくさんいい思いして。ありがたい。たくさんの人が沖縄に来てくれて、わたしが沖縄の外に行く機会ももらえて。全部ありがたい。でもそれってわたしが健康に居るからこそ成立するものであるということをしっかりと知っておく必要がある。

そういう意味では自分の恒常性みたいなものの凄さを感じた1ヶ月でもあった。夏の頃の限界状態(すぐに泣いてしまう、気分の浮き沈みがかなりある)から、ようやく本来の自分に戻れたなっていう感覚がある。

 

10月のこと

 

 嵐のような忙しさが去ったあとの10月。のんびりするはずだったけど、なぜか原稿を抱えて、いろんな調査にも行き、やっぱり忙しかった。

 とはいえ、それは自分のキャパシティの範囲内のことで。なんか、やっと正気の自分に戻れた気がする。かなり仕事が追い詰められていたとき、3食職場で食べることもあった。もちろん3食コンビニ飯。それが過重労働を乗り切るコツだと思っていたけれど、やっぱり自分の口にするものを自分で作って、自分の家で食べるのが1番だなと思う。わたしには必要な時間だ。

 

行ったところ・食べたもの

大仕事を終えた週末、石垣島に飛び、そのまま西表島と黒島へ!

 西表島ではサップとトレッキングを楽しみ、黒島では原付を借りて島をのんびり一周した。

 島民より牛の数が多いことで有名な黒島。牧場が島の中央にあり、牛がのんびりしている姿を横目に走るのは最高だった。

 沖縄の島々は、地質的な特色から高い島と低い島に分けられるのだけれども、黒島は典型的な低い島。展望台から島を一望すると、一面に平地が広がっている。水不足に苦しめられた歴史から、貯水タンクや水道の碑があったりして、勉強になった。やっぱり足を運んでみないと何にも分からないよなあって思う。

 出張ではなく、ただ島をまわってのんびりするだけの時間にも発見はあると思うから、こういう時間を大事にしていきたい。

 

 港で飲んだビールと猫。かなり美味しかった。思い出に残る味。

 

ちなみに、次の週末にも急遽石垣島西表島に行きました。こっちは出張。

 石垣島で呑んだうどん(多楽製麺)。石垣って意外と移住者が多い場所でもあるので、色んな料理が美味しい。個人的には沖縄中のうどんを制覇しようと思っていて、グーグルマップ調べでは7割くらい行っている気がする。

 

 西表島からの帰りに行った喫茶店、海坊主。石垣から西表島も、西表島から石垣も第一便で行ったのだけれども、どっちもほぼ満席で、かなり賑わっていた。港から近い喫茶店も満席だったけれど、なんとかタイミングよく入れた。ふかふかのピザトーストにこだわりのコーヒー、外はうだるような暑さだったけれどその対比も含めてすべてが旅情たっぷりで思い出の味。

 

 友人にエスコートしてもらって入った米軍基地でのタコベル。アメリカで一般的だからこそあえてのタコベル!フェンスの向こうのアメリカ。沖縄県民は、みんな一度はフェンスの向こうの広大な芝生に憧れたことがあるんじゃないかって思う。米軍基地は小学生の頃の交流授業ぶりで、当時とは少し見え方も違っている。憧れる部分はあるけれど、やっぱり複雑で。

 とはいえ、率直に刺激的ですごく楽しかった!「これも沖縄」って思うし、全部ぜんぶ引っくるめた沖縄をしっかり見てやるぞって思いをさらに重ねた。

 

 那覇桜坂劇場で「倭文」の映画を観た。

 古代布を追い求める民俗ドキュメンタリー映画なんだけれど、一方で日本の神話とリンクして、一方でそのルーツとしてオセアニアまで広がっていく構成にゾクゾクきた。

 「衣食住」のいちばん最初に来る「衣」について、わたしはもっと考えないといけないなと思う。古代布や自然布について考えて、たくさん鑑賞した濃密な機会が立て続けにあった。わたしの身に付けるものはほとんどファストファッションで、1年半前まで自分が繊維へ文化的な関心を抱くことがなかったのに、すっかり見え方が変わっている。

 

 昼食は「香港0410」でチャンポンとタンスユク。香港って名前のつくお店だけれど、韓国発祥で、韓国の中華料理を提供している。

 美味しい以上に面白いお店。世界に広がる中国料理を意識的に食べている節がある。沖縄で食べられるレパートリーでいうと、日本の天津飯、ネパールのモモ、アメリカのオレンジチキン、それから韓国のジャージャー麺とチャンポン、タンスユク。

 

 そのほか。綺麗な写真は撮ってないけれど、友達との誕生日パーティーで炉端居酒屋行ったり、祖父母を展覧会案内したついでに海鮮丼も食べた。その合間に自分の研究を進めたり、原稿書いたり、大学院のゼミに出たりしていたから、のんびりからは程遠かったけれど、いつもの自分をだいぶ取り戻せた気がする。

 

読んだ本・漫画

  

 kindleで買い続けている漫画の第4巻が出た。わたしが女子高生だったら星先生のファンだったと思う。1話完結型で妙な面白さがあるので飛行機でよく読む。でも初読の時ははゲラゲラ笑っちゃうので家で読む。

 
 文化系の部活や芸事に打ち込むタイプのスポ根漫画が好き。読後感が良いのよね。自分の研究に仕事に頑張ろうと思える。ずっと文化系部活スポコンみたいなことしてるなと思う。『かげきしょうじょ』も『絢爛たるグランドセーヌ』も文化系部活といっては失礼な世界の話だけども。かげきしょうじょを読んで宝塚観劇デビューし、とても良かったので、今度はバレエを観に行きたい。
 
 
これ結構おすすめ。布について考えた春夏だったけれど、少しだけ落ち着いたので、布からファッションや身体論的なところの本が読みたくなって手に取った。
 
 
 なぜ働いていると本が読めなくなるんですか?映画『花束みたいな恋をした』の麦くんは労働してパズドラばかりするようになったが、わたしは無料漫画ばかり読んでいる。労働時間長すぎる問題があるとは思う。日記を書いたり、小説読んだりしたい。あれだけ文学少女だったのに、今じゃすっかり小説から遠ざかっている。かろうじて読書量はあるにはあるけど、職業的には全然足りないと思う。
 漫画か、ほどよく読みやすくて自分の関心の周辺にあるものを選びがち……。

死ぬかと思うくらい働いた

  夏の記憶がない。

  就職して2年目の上半期、丸々とにかく働いた。9月までがかなり忙しくて、休みもなく、毎日残業オンパレードだったから、人間ってこんなに働けるもんなんだって思った。

 今は少しだけ落ち着いてきたタイミングで、渦中にいた時毎日考えていた色んな記憶も感情も薄れてきている。まだまだ咀嚼できていない直近のできごとだけど、記録しておこうと思う。

 多忙だったのは4月、5月、6月、7月、8月、9月で、とくに7月から9月にかけては家には寝に帰っているようなもんだったし、友達との約束も反護にしちゃったりして、人生が仕事に食われている様な気がしてきた。特に5月から6月にかけては人間関係のトラブルもあり、解決していないので実際の負担以上に「負担感」は大きかった。特に7月をコロナでつぶしてからは身体もきつくて、訳が分からない状態で、自分のリズムが崩れっぱなしだったんだと思う。

 

 たぶん、私は実際の仕事の重さより、もっと重さを感じていたと思う。かなり大きいプレッシャーだった。新人で訳も分からないなかやっていたこともそうだし、人間関係のトラブルもそう。ドツボにハマって休めなくなったところで、8月から9月にかけては何とか出勤しているけれど、自分の席で固まっている時間の相当長かった。自分の席で硬直している時間、何もできないし、時間の無駄だなと思うんだけれど身体が動かなくて、一点だけをぼんやり見つめることしかできなかった。本当につらかった。

 

 あれは適度に休養を取ったほうが絶対に効率も上がったとは思う。実際に「病院に行った方が良い」と言われていた。でも休んだらもう戻れない気がしていたし、1日休んだくらいで回復しないのに1日分の仕事がたまるのが恐怖だった。病院だってこんな忙しい時に予約戦争に飛び込んで、無理くり予定をこじ開けて通う気力もなかった。そもそも7月に新型コロナウイルスで休んだ分の仕事が溜まっていたので、ますます休める気がしなかった。そうなってくると、うまくやれない自分に死にたくなるし、「無能でごめんなさい」って思ってた。自分が死ねばわたしの先輩が主担当者になるので、そのほうが良いんじゃないかって思った。例えるなら、暗闇の中を歩かされているのに突然殴られるような日々だった。反省点も不満もかなりある。実際の「負担」より、私が感じていた「負担感」がどうして重かったのか。自分なりの結論は出ているのだけれども、ここで書くことが自分の為になるとは思えないので、全部割愛する。

 

 一つ言えることには休職を本気で検討しながらも、私はなんとか生き残ったということ。それから、自分が精神的に参ってくると自分のメンタルにばかり気を取られてしまうけれど、実際にはたくさん助けてくれた人がいたってこと。なにより、私はいま、ずっとやりたかったことを仕事にできていて、その輝きは最後の踏ん張りになったって言うと

 8月・9月と基本給を上回るレベルで残業代をもらったけれど、給与明細を見て嬉しく思うより、やっぱりやりがいの方が自分の原動力になってしまったなと思った。だからいわゆる「やりがい搾取」って問題は成立してしまうんだと思う。

 

 さらに言うと長時間労働自体がきついというよりも、いろいろとコントロールできない状況がきつかった。残業80時間が過労死ラインなのは理にかなっているなと思った。長時間労働だけでは死なないけれど、長時間労働で自分のリズムを整えられなくなると、様々なストレスに耐えられる状態ではなかった。正直、今年の上半期に起きた様々な出来事は職場の見え方、仕事への姿勢が変わるだけの強烈な体験だったし、今でも全然咀嚼できていない。

 

 とにかく限界生活だったけれど、7時間睡眠を死守したことが何とか生き延びられたポイントだったと思う。長時間労働しているとき、一番気を遣っていたのは睡眠だった。24時まで働いて、24時半に帰宅し、25時半には寝ていた。朝は8時10分まで寝て、8時20分に家を出て、8時30分の始業に駆け込んでいた。

 コツは夕食を家で摂ろうと思わないことと、持ち帰り仕事を一切しないこと。この論文は家で読もうかなとよぎったこともあったけれど、家を完全に休息の場として認識することを死守した。気分転換にカフェで関連の本を読んだりはした。

 今年度の上半期が忙しくなるのは就職した瞬間から分かっていたことだったから、睡眠時間が確保できるように、職場近くに引っ越していたことも良かったし、ありがたいことに一人暮らしのアパートに母が家事をしに来てくれたり、友達と1時間だけでもランチしたりした。それから大好きな先輩がだいぶ支えてくれたことは何より大きかった。

 深夜にしか帰宅できないから洗濯機をまわす時間がどうしても作れなくて、週に1度洗濯機をまわすためだけに1時間の有休をとっていた。自分ではギリギリの生活だったけれど、霞が関の人は「200時間越えの残業時間で家に帰る時間がないからコンビニで買った下着だけが増えていく」という話を聞いて、これが200の世界線かってぼんやり思っていた。

 

 でも、こういう生活を毎日、数か月続けていると、今度は寝ても寝ても徹夜みたいな身体のだるさがついてまわるようになった。私はよく忘れがちだけど、身体は脳を運ぶためだけにあるってわけでない。デスクワークが中心だと、過重労働が容易に成立してしまうが、実際には身体への負担も大きいのだろう。1年前と比べて健康診断の結果が全て悪化していた。7月からずっと微熱が下がらず(いまも測ったら37.4℃ある)ずっとふらふらしていた。長時間労働について考えたくて、出張の移動時間には身体論の本とか手に取っていたけれど、慢性疲労に負けて5分で睡魔におちていた。

 

 20代も後半に差し掛かっているけれど、キャパシティーって今からでも大きくなると思いますか?っていうのも、激務の中考えていたことだった。

 キャパオーバーしていると余裕がない分自分の性格が悪くなっていって、わたしとしてはめいいっぱい頑張っているのに、在りたい自分から遠ざかっていくっていうのも、きついことだった。

 実際、乗り切った手段はない。今回だってぎりぎりで何とかなったから良いものの、何かが少し違ってたら全然違う現在だったかもしれない。正直、こわい。

 この約半年の経験、もちろん自分のプラスになったことはたくさんある。出張にたくさん行けたことも良かったし、すごい経験ができたと思う。でも、それだって健康であることが大前提である。現在進行形のことだし、どこまで書けるかというと書いて(公開して)自分の利になるようなことはないと認識しているから、これ以上のことは書かない。ただ私にとっては強烈な経験だったとともに、前に進むためにもこの経験をどっかでちゃんと腑に落としたいんだった。

14年目の4月8日

 

 本当はこれより前に書きたいことがあったし、書かないといけない論文もあるんだけれども、今日、この日記をどうしても書きたくなったので書く。

 今日は4月8日、14年目の父の命日だった。もっと自分に正直な表現をすると、父が死んで13年が経った。

 父は私が13歳の時に死んだ。私はいま26歳だから、明日からは父を失った以後の「わたし」で生きた年数が長くなる。細胞が入れ替わるように、父と過ごした時間で構成されたきた自分が薄くなる気がする。

 実際のところ、私は父が生きていたらいまの進路を取らなかったと思う。父が死んだ時、世の中の生き物は全ていつかは死ぬんだからどうやって向き合っていたのかを知りたかった。父の葬式を仏式で執り行ったことに強い違和感を抱いて、沖縄の外来信仰に目を向けるようになった。今の指導教官に指導を仰いだのも、指導教官の専門が葬送儀礼であるからだった。(結局わたしは葬送を研究テーマにしていないし、それは自分にとって良かったことだと思う)

 知ることで自分を救ってきた日々があった。その先に今の自分がある。

 父を早めに失ったことで、私は結構苦労してきたと思う。うちの経済状況のくせして、大学院博士課程まで進みたかったから、結構綱渡りな日々であった。でも、一方でわたしは強運の持ち主でもある。まずひととの出会いには恵まれてきたし、給付奨学金とか、授業料免除ももらえて、学術振興会の特別研究員にもなれたので、学ぶことに経済的な負担は発生しなかった。そして何よりいろんな人にその時々で背中を押してもらって、ずっと第一志望の進路を歩んでいる。この業界ではスーパーラッキーガールだ。

 

 父が死んでからは経済的にも精神的にもずっと綱渡りの日々だったけど、最近綱を渡り切った気がする。父が死ぬまでの13年間がピュアな子ども時代だとしたら、そこからの13年間は怒涛の年月だった。これからは一体どうなっていくのだろう。

 明日もきっと残業しないといけないし、締切破りの論文も本当にどうにかしないとやばい。13年間そうだったように、父の居ない日常はそうやって続いていく。そうやって、父が居た頃の自分とはずいぶん遠くに行くんだ。