雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

通信制大学で教員免許(国語)を目指した話③ テストと免許申請

 

 更新がまた開いてしまったけれど、一度始めたシリーズなのでしっかり書き切ってしまもうと思う。

  教員免許(国語)の取りこぼし単位を通信制大学佛教大学)の科目等履修生になって取った話。2020年のことなので、今からちょうど2年前。大学院修士課程の1年生だった。

  

kinokonoko.hatenadiary.jp

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   9月の月末にレポートの合否がわかり、そのまま10月第一土日で試験だった。

 もう科目等履修生期間が終わったので、はっきり書いちゃうのだけれども、私は佛教大学で科目等履修をした。そもそも国語教職に対応している通信制大学が少なく、選択肢も少ないのだけれど、私がそのなかでも佛教大を選んだのにはテスト方式が魅力的だったことが挙げられる。

 

 佛教大のテストは、定められた2日のうちに定められた回答をつくり、提出するというもの。なんだ、全然レポートと変わらないじゃんって思った。さらに私は暗記形式のテストよりレポートの方が得意だったので、こっちの方が都合良かった。

 

 私が受講していたのは、国語教育法に関わる2科目8単位。よって、テストも2科目だった。

 私は特にテスト対策はしなかった。理由として、忙しくてそれどころではなかったことと教育実習を終えたばかりだったので一定の自信があったことが挙げられる。また通信制大学の場合、試験は期間内(大学によって異なるけれど、1年の科目等履修生なら2月末までなど)なら複数回受験できるため、「今回の試験がダメだったらその時対策を考えよう」と思ったのだった。

 

 試験当日は普段より早めに起床し、佛教大学のサイトで試験問題を確認。その上でパソコンを持って、自分が在籍している大学図書館に向かった。佛教大のテストがレポート方式であるため、当然ながら書籍を参照することは許されるし、寧ろ何かを参考にすることが前提とされていると考えたためである。もちろん、テストの回答では参考文献リストも書いた。

 大学図書館でなくとも、近くの図書館等が利用できるのであれば、この方法はとてもおススメ。そして、できれば大学図書館に行けたらそれがベストだと思う。何故なら、大学図書館には教育系雑誌が置いてあるし、特に国語教育の実践がたくさん掲載されている雑誌は大変参考になるから。あと教育学部の学生が利用できるようにと多くの教科書が置いてあると思うので、レポートの構成は組み立てやすくなると思う。レポート提出時で「指導案を書く」課題が出ているから、該当科目の教科書を手に入れる必要があるのだけれども、自分に合った教科書を見比べるのも楽しいし、良い機会になった。*1

 

 今は新型コロナウイルスの流行に伴って、多くの大学が学外者立ち入り禁止になっているけれど、通常時であれば大学図書館は地域に開放しているので、通信制大学生も地元の大学をうまく活用できたら良いと思った。もちろん、佛教大の通信課程であるということは佛教大の図書館も利用可能なので、自分が関西在住であったら利用したかもしれない。

 

 2年も前の出題であることと資料参照可の論述系の試験なので、試験問題を書いてしまうと、1科目目の出題は以下の通り。

 1平成29、30年度版、中学校・高等学校学習指導要領の内容に基づいた中等教育における「読書」の指導について。

 2)中学校・高等学校の目標や内容の共通点・相違点

 3)「読書」の指導にあたって大切なこと、留意すべきこと

 

 読書教育は国語教職のなかでも最も関心を持っている箇所でもあるので、嬉々として書いた。試験の出題傾向としては、指定教科書で取り上げられているトピックがベースとなっていて、そこからさらにレポートでは触れられてなかった部分であった。満遍なく理解できていますか?って問われているようだった。ここに回答を載せることはしないけれど、私も突飛なことは書かず、教科書と学習指導要領解説を丁寧に読み込んで回答を作成した。レポートと異なり字数制限がなかったのもやりやすく、3200字書いた。95点。

 

 

 そして2科目目は以下の通り。

 平成29年度版中学校学習指導要領に基づいた授業について、自分であればどの様に展開するのか説明する。

 1)生徒のどのような力の育成を目指すのか

 2)具体的な展開案

 こちらは端的に言えば指導案が求められている。中学校学習指導要領ということで、中学校の教科書をベースに授業展開を考える必要があるので、やはり中学・高校両方の教科書が手元にある必要があると思う。

 

 私は中学3年生を対象として、魯迅の『故郷』を取り上げた。定番教材なので、自分自身が教育を受けた経験があること、雑誌等に掲載されている実践も豊富であることがその理由。また同時に思い入れがある作品だったというのも大きい。

 あくまでもテストとしての指導案なので、勢いで展開が思いつくものの方が書きやすいと思う。こちらも字数制限がないので、思いっきり書いて5000字。95点だった。

 

 後日結果が出て、2科目とも95点だったので無事に単位取得。

 科目等履修生としての身分は3月末まであったけれど、取るべき単位は取ったので、その後は何もせず。2021年3月に「身分が切れましたよ」的な通知が実家に届いた。

 

 すごくあっけなかったのだけれども、一度諦めかけた国語の教員免許が取得できたことに変わりはなく。通信制大学が教育の機会を広げてくれていることに違いはないだろう。

 

 なお、免許申請はとても面倒くさかった。

 大学卒業と同時に免許を得る場合は、大学が一括申請してくれるものだけれども、科目等履修生の場合はそうはいかない。自分の住んでいる都道府県の教育委員会が求めるフォーマットで、様々な書類を揃えて(戸籍とかも必要)、さらに手数料として収入印紙を購入する必要がある。私の場合は、中学国語・高校国語・高校地理歴史の3枚分の教員免許状が必要だったため、1万円くらいの出費となった。

 

 本学籍の大学とは別に科目等履修生をしている場合、ややこしくなるのが大学の卒業証明書を取ったうえで、複数の学校にまたがって「学力に関する証明書」を発行する必要があることである。この発行方法も必要時間も、またフォーマットも学校によって異なるので色々と早めに動く必要がある。

 

 私は進路が大学院博士後期課程への進学と決まっていたこともあって、腰が重く、ようやく申請したのは2021年の年度終わりだった。でも免許の更新制も廃止されるとの話だし、早めに申請しておいて損はないと思う。

 

 ここまで書いておきながら、私はやっぱり国語の先生になる可能性は低いと思う。大学入学時点ではそれなりに高い可能性をもって教職を取っていたけれども、学んでいく過程で国語よりも地理・歴史に、さらにやっぱりできれば、沖縄の民俗という専門性をもって仕事ができれば、という思いが強くなっている。

 それでも教員免許を取って良かったと思う。教員免許自体もそうだけれども、国語の教員免許を取るぞと決めたからこそ、日本文学、中国文学、日本語学と幅広く学ぶことができた。沖縄で生まれ育ち、そもそも自分にとっての「国語」とは一体何か分からないところがあるのだけれども、大学での学びはそこで考えるだけの余地を与えてくれたと思う。

 

 それに、教員免許という目標をもって通信制大学に入学したことで、科目等履修生という方法を知れたことも大きい。新型コロナウイルスと家庭の都合で2021年は沖縄に戻って修士論文を書くことになったのだけれども、その際図書館利用という面でも、その他の面でも、沖縄の大学で科目等履修生をやれたことが大きかった。その方法を知っていたのはやはり佛教大での経験によるものだった。

*1:学類時代に取った国語教育法の授業ではそれこそ国語の教科書を作る取り組みなどがあって、すごく大変だったけれど、その分楽しかった思い出。教科書に載せる作品の選定、編集方針決め等々を経験すると、教科書って思った以上に作成者の思惑が反映されていることにも驚いたのだった。

車を買った

 

 車を買った。とても嬉しいから日記を書いてから寝ようと思う。

 何をしている時が一番「大人になった」と感じるか。

 わたしの場合は、酒を飲むときでもクラブに入場したときでも、ひとりで海外旅行に行った時でもなく、運転している時だった。遠くに行きたいと願っている子どもだったこと、それに対してほとんど移動の自由がないような田舎で育ったからだと思う。

 

 沖縄の大学生の多くは大学入学のタイミングで車を購入する。沖縄の大学の多くは不便なところにあって、車がなければ通学に不便するからである。しかしわたしは沖縄県外の大学に行ったから、車を買うタイミングを逃していた。帰省の時だけだったら母や弟の車を借りれば用が足りた。新型コロナウイルスが流行して、関東の下宿を引き払ったのとほぼ同時期に母が病気療養に入り、母がほとんど外出しないこともあって、自分専用の車を買わなくても済む状況が一応あった。でも、車を使う時には「いつ、どこに行くのか」を母に言わなければならないし、母の通院などの事情にも左右されるから面倒だった。

 

 沖縄に帰ってきて、この1年くらいずっと車が欲しいと思ってきた。車を買うために、ひそかにアルバイトをした。朝7時から9時まで、週5日の中学校でのアルバイト。そしてそのバイト代をコツコツと貯めて、ようやく、キャッシュの一括払いで買ったのだった。アルバイトの話もいつか書きたい。かなり地味なアルバイトだったけれど、だからこそ、自分の行為の積み重ねがモノとなったのだという感動がある。

 

 納得のいく車と出会えるまで粘っていただけあって、わたしの車は結構な掘り出し物だと思う。走行距離は5万キロ、車検2年残り、2年保障付きの27万円のダイハツタント。前の所有者は丁寧に乗っていたと思われ、12年も経つのに全然くたびれていなかった。古さにちょっと躊躇ったけれど、周りのおじさんたちに「日本の車はまだまだ走る」と言われた。東南アジアでかなり古い日本車が走っていたのを思い出し、確かになと思って買った。2年保障だから、24ヵ月で割ったら月1万円くらいだし。決して高価な車ではない。だからこそいまの自分にぴったりな車だと思う。

 

 自分の車があるということにまだ慣れない。土曜日、スマホをいじっている時にこの車を見つけ、そのまま見に行って、試乗して、その日のうちに購入を決めた。そして月曜日に入金して、水曜日に納車であるから、1週間足らずのうちに車が手に入った。人生で最も大きな買い物である。大きな決断は勢いでやっちゃうもんだと思った。

 

 自分の車があるということは、自由に図書館に行ける。母と喧嘩しても家を飛び出せる。夜、帰宅時間を考えずに大学に残れる。調査に行くときの移動手段の心配が要らない。どうして今まで車を買わなかったのだろうと思えるくらいに自由だ。この自由さに「大人になったな」と思う。車はガソリンを入れなきゃ走らないし、ガソリンの為には稼ぐ必要があること、運転には体力も要ることも含めて、「大人になったな」という実感。本当に心から嬉しい。

 

 そして、この車を買ったということは、おそらく長く沖縄に住むのだということを指す。せめて博士が終わるまでは沖縄に住みながら研究を続けたい。覚悟みたいなものをそっと持つ。

 

 

博士後期の入学式に行った

 入学式には行こうと決めていた。

 大学院修士課程の入学式は新型コロナウイルスの流行によって中止となってしまったけれども、博士課程の入学式は行われるとのことだった。修士課程が不完全燃焼に終わったことと、入学式が行われなかったこととの間に関係性は存在しないはずだが、それでも、うまくいかない日々を断ち切るため、心機一転、入学式には行こうと決めた。

 

 4月のはじめの関東はすっかり春めいていた。北関東の大学も、入学式に合わせたように桜が満開だった。6年前の春を思い出す。18歳の私は沖縄から関東に出てきて、沖縄では咲かないソメイヨシノに心をときめかしていた。今回も沖縄から北関東へと移動したことに違いはないけれども、1週間たらずで沖縄に戻ることが前提とされていたから、気持ちは全然違っていた。安定した気持ちで、修士論文提出依頼の関東を歩く。沖縄を飛び出した18歳の野望みたいなもの、ギラギラしていた気持ちはどこに行ったんだろう。博士課程への進学を選んだくらいだから、ギラギラした気持ちはまだある。でも、形はけっこう変わったと感じる。これまで色んな困難があったし、県外進学や留学と自分の生活が一転するようなことも経験したけれど、変わらなかった自分自身が居て、これからもきっと大丈夫だろうという安定感。もうヤワな心ではないのだ。

 

 入学式の前日に大学に戻り、受け取り損ねていた学位記と修士論文に付随するいくつかの賞状を貰った。卒業式には自分の意思で参加しなかったから、事務的に渡されると思っていたら、指導教官を呼んで授与式を行ってくれた。受け取る際「よく頑張りましたね」と言ってもらえた。「いや、全然頑張れなかった2年間なんです、先生も私の修士論文を読んだから分かるでしょう」と言おうかと思ったが、時代のことも家のことも色々うまくいかなかったことも全部ひっくるめて「頑張りましたね」と言ってくれているのかもしれないと思ったので、ただ「ありがとうございます」とだけ返した。なんかそれだけで、はるばる2000キロ移動してきて良かったなと思った。

 

 入学式自体は新型コロナウイルス対策のため30分で終わった。30分中15分は学長が話していた。この大学に入るのは3回目(学部、修士、博士)なので感慨も特になかった。入学式とその翌日に行われたオリエンテーションの時間以外は誰かと会っていた。先生に会って博士論文へのスケジュールが思ってる数倍タイトであることを知った。久しぶりに研究の話を気軽にした。研究会以外の場で軽く研究の話をするのがとても楽しい。コロナがなければ当たり前のことだったのだろうけれど、いまはその機会があまりなくて残念だ。いや、残念がってばっかりいないで外に出ていくぞ、と心を決める。

 

 博士課程に進学を決めて良かったと思う。そもそも、博士課程に進学できることが大変ありがたいことである。わたしは「なれたら最高だよな」とぼんやり思っていた某振興会の特別研究員として大学院博士後期に進学する。研究費のほか、生活費ももらえるので経済的な負担はほとんどない。修士でも給付奨学金を貰っていたし、思えば義務教育終了後からずっと給付奨学金をもらってきた。田舎に生まれて、しかも母子家庭で、経済的支援がなければここまで来られなかった。新型コロナウイルスの流行と母の大病で一度は自分のキャリアを再計画しなおしたけれど、特別研究員の内定が出たことで博士後期まで来られた。

 博士後期課程でうまくやれるかは未知数である。博士論文を出すまでのハードルが高いように感じる。でも、もう経済状況のせいには出来んぞと思う。これが嬉しい。環境のせいではもうないのだ。昨年の状況のなかで進学をあきらめざるを得なかったら、きっと環境を恨んだだろう。「だったかもしれない」可能性ばかりを恋しく語るようになってしまっていただろうなと思うから、そうならないことが嬉しい。

 「博士学生」という響きにはまだ慣れない。院生としての立場に戸惑ってばかりの修士だったし、修士号をもらったことすらまだ実感がわいていない。でもこういうのは、そう振る舞っていることで実感はあとからついてくるものなのだろう。今後のハードルを考えると、こわいという気持ちが先にある。でもそのあとでやっぱりじわじわと嬉しいのだった。

 

 

 人と会うってことは何かを食べると密接につながっていて、関東では珍しいものをたくさん食べた。以下、食の記録と行動記録。

 例えばモンゴル料理。北京に留学していた友達と!結構中国北方の料理に似ていた。コースでたらふく食べたのだけれども、喋るのと食べるのに夢中で写真は凉菜のみ。羊肉をこれほどかっていうくらい食べた。テーブルの上に岩塩がおいてあって、お好みで岩塩を削って味を調節する。コースには飲み放題のミルクティーも付いてきて、ミルクティーにも岩塩を削り入れると美味しいと教わる。何食べても大変美味だった。

 

  翌日は台湾留学での友達とウイグル料理。日本で唯一らしい。モンゴル料理と系統が似ているかなと簡単に考えていたら、決してそんなことはなかった。もっと西の味がした。プロフは学部の時に行ったロシアやアルメニアで食べた味で、懐かしかった。ユーラシア、渡ってみたいな。陸路で食べて飲んで、現地の人と喋って、気に入った服を買いながら旅行がしたい。

 

 馴染みの喫茶店でM1に入学してきた後輩と先輩とのランチ。大学周辺の学生街、思い出のお店がたくさんある。「ただいま」と思える場所があることは素敵なことだなと思う。後輩たち、大学院に向けてキラキラしていた。わたしは新型コロナウイルスの流行と同時に大学院に入って、諦めることが癖になりそうだったから反省した。今年こそ、切り開く。余談だけれどこの入学式参加のためにはPCR検査を事前に受けてから渡航した。沖縄に戻った時も同様にPCR検査を受けた。この時代でも動ける方法を模索しながら歩きたい。

 

 

 最終日には東京国立博物館空也上人の特別展を観た。

 今回の特別展は空也上人を360度から見られることが最大の魅力だったと思う。空也上人像は口から出ている仏のイメージが強い。しかし実際に見ると、そうしたデザインの突飛さ以上に、二本足で立っていることそのものに目が釘付けだった。後ろからみた空也上人は思った以上に小さくて細かった。だからこそ、緊張感と静謐さが保たれているようだった。

 信仰対象を「博物館展示物」にすることに戸惑いはある。ただ、わたしの前で鑑賞していた老婦人が思わず仏に手を合わせていて、ハッとする思いだった。東京国立博物館空也上人像と出会うことは信仰と切り離すことではない。それにしたって、「思わず手を合わせる」ってすごいことである。わたしの複数ある関心の中核には「祈り」がある。祈る人はなにをみているのだろう、と改めて思った。

 

 入学式の影響で大学近くのホテルが高騰し、浅草に泊まった。折角なのでお参りしておみくじも引いた。書いてあることが今の自分の気持ちと近くて、とても背中を押してもらった。

寝ぼけ眼で走った半年

 

 修士課程を修了した。

 無事に修士論文を提出できた。口頭試問も乗り切った。

 去年の7月、感情を吐き出すようにブログを書いた時のことを思い返すと、何とか走り切れたことにホッとする。記憶が薄れてきちゃう前にちゃんと書いておきたいと思って日記を書く。

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  ほんの半年前まで、毎日どうしていいのか本当に見えてなかった。進路も当然のように決まっていなかったし、12月のはじめが締め切りの修士論文に関しては目次や題目、なんならテーマすら決まっていなかった。修士課程の入学とほぼ同時期に新型コロナウイルスの流行が広がったうえ、母ががんとなり、本当にどうしていいか分からなかった。とりあえず、地元の沖縄で大学院生活を過ごすことに決めたものの、大学所在地を離れての大学院生活は容易ではなかった。

 

 母が大病している以上、新型コロナウイルスを家庭内に持ち込むわけにはいかず、図書館の利用すらためらわれた。母の治療が大変だった時期には自分が大学院生であるということすら忘れてしまいそうだった。

 結局、大学院修士課程の2年間、24ヵ月のうち、北関東で過ごせたのは4か月だった。

 

  半年近く前に書いたブログを見直すと、こんなことを書いている。

 母と弟と私、家族3人のうち、毎日誰かが泣いてるし毎日怒鳴ってた。大学生になってから誰かが怒鳴る場面に遭遇することはほとんどなかったから、とってもストレスだったし、わたしもイライラすると怒鳴るようになってしまった。恥ずかしいけど、いくら説明したって伝わらないし、怒鳴られたら怒鳴りたくもなる。そのあとに怒鳴った自分がとっても嫌になる。

 

 渦中に居た時、「助かり方が分からない」と思ったことを覚えている。声をかけてくれる優しい方々は居た。けれども、どのように助けを求めたら良いのかは分からなかった。自分の意思で進んだ大学院で、なおかつ大学院に進むための経済的な都合に関しては苦労してきた。だからこそ、大学院では思う存分好きなことをするぞと意気込んでいたけれども、実際には「好きなことをさせてもらっている」ことがうしろめたさになっていた。授業や課題をこなすことはできる。けれども、中長期的な目標である修士論文となると途端に向き合う余裕を失っていた。これが修士1年目の冬から修士2年目の春のことである。

 

私はさ、体力こそないけれど、今まで結構気合いでなんとかしてきたタイプだった。経済的に困窮はしていたけれど、奨学金の申請書を書くのがまあまあ上手かったり、制度を利用するのが上手かったので、自分のやりたいことを曲げたことなんかなかった。だから、今回もなんとかなるだろうと思っていたのだ。

 

 でも今回のことで分かった。「気合い」とか「頑張り」とか「努力」とかいうものも、出る時出せる時とそうじゃない時とがある。たったアレだけで?って感じだけど、私はいま「気合い」で何とかできないくらいには疲れ切っている。しかも数ヶ月単位で。

 色んな事が落ち着いてきた時には、修士2年の夏になっていた。事態は落ち着いたけれど、その頃には気持ちが全くついていかなくなっていた。疲れきっていて、やりたいことも全然思い浮かばなかった。

 

 結果として、修士論文も提出して、博士課程にも進学することになったけれど、どうやってここまで一旦辿り着いたかはよく分からない。ただ言えるのは手を動かしていたこと。決して納得のいく修士論文にはならなかったけれど、地域の祭祀には全て参加させてもらって、その事例をたくさん書いた。そこで見たことを書いて、書いて書いていったら修士論文が完成していた。ほとんどが事例で構成されている修士論文で、地域に書かせてもらった修士論文だった。あと偶然閲覧と撮影を許可していただいた資料に助けられた。

 

 進路は5月初旬に出していた某振に採択されたことで半自動的に決定した。これもありがたいことである。修士課程で苦しんでいるので、進学には迷いもあった。そのタイミングで公務員試験の一次も通っていた。けれども、未練が捨てきれなかった。これで終わっちゃったら、時代と家庭環境のせいにしてしまうだろうなと思った。だから進学を決めた。この際には色んな人に相談して、たくさん背中を押してもらった。

 

 修論を提出すると、色んな発表の機会をもらうようになった。ああダメだと思いながら出した修論だったけれど、終わってみれば優秀論文賞と発表賞を貰った。許された気がした。一方で口頭試問ではたくさんの指摘も受けた。同期はみなどこかしら褒めていただいていたけれど、わたしには「伸びしろのある論文」との言葉だった。できていなことを「伸びしろ」って言ってもらえるうちが華だなと思った。色んな機会で発表していると、これまた少しずつ「研究って楽しいな」という気持ちも戻って来た。このことには本当に心からほっとした。

 

 結果として、何とかなったと言えるんだと思う。何かがどうなって一気にやる気がみなぎったわけではない。一つずつ少しずつ、問題は片付いていった。修士課程で学んだことは、「頑張れるかどうかも環境に規定される」ことである。「気合い」なんてまるで出なかった日々だった。それでも手を動かしながら、今手を伸ばせる最善を選べたことから「何とかなった」のだと思う。修論を書いている間、身体が全然ついてこずに毎日寝てばかりいたのだけれども、それも結果として自分の心身を守ってくれたのだと解釈しておきたい。

 困難に打ち勝つ方法などは分からない。無力感は大きい。すごく楽しくて充実していて、「ああ私は自分で人生を切り開くのだ」と思った学部4年間の後だったからこそ余計に落差があった。でも、あの学部4年間があったからこそ、大事なところで腐らずに手を動かし続けられたのかもしれない。この2年間で得られたものもまだ分からないけれど、この2年間があったからこそ、次につながったことは事実である。その「次」で未練を晴らそうじゃないかと思った。

 

 修士論文を書いた半年は寝ぼけ眼で走った半年だったけれど、何とか走り切れて良かった。

 写真は修士論文の口頭試問を終えたあと、ぼんやり眺めに行った海。