雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

今年4度の台湾渡航と雑感

 先日、3泊4日で台湾に行ってきた。

 溜まっていた振休を全部使っての台湾。今年になって4回目の台湾だ。

 

 今年は激動の一年だった。2月から台湾の成功大学に調査目的で留学する予定だった。だけれども、博物館の採用試験が突然発表された。迷ったけれども、どっちも諦められず。留学準備と試験対策を併行させることにして、渡航したのは博物館の試験の翌日だった。これが今年1回目台湾。

 

 その後、1次試験を突破したとの連絡をもらったので、慌てて帰国して、2次試験を受け、さらに合格通知が出たので、今度は大学寮の荷物を引き上げたり、留学中断に関わる書類を揃えるために渡航した。これが今年2回目の台湾。すべての書類がそろったのは3月31日で、精神的にも体力的にも大変苦しかったが、同時に嬉しい悲鳴でもあった。

 

 台湾に居られたのはわずかな期間だったけれど、その間に土地公の生誕祭の調査に行ったり、書籍のコピーを取ったり、博物館を巡ったり、金門島にも行ったりと結構充実した時間を過ごせたと思う。とはいえ、博物館の試験結果が気になりすぎて、色々と手がつかずに全力で気を紛らわすようにどこかにでかけていたところもある。

 

 ちなみにこのころまではコロナ防疫も厳しかったので、台湾入国直後は防疫寮に住むことになったし、これがまた大変な生活だった。

 

 

 3回目は夏季休暇を使って飛んだ。留学中に引き受けていた共同研究の件が気になっていたので、ひたすら作業するために飛んだ。このころまでは那覇と台湾を結ぶ飛行機の減便中だったので、宿泊日数ほど台湾滞在時間は長くなかった。それでも、「ああ仕事をしていてもまた台湾に来られるし、研究活動もできるのだ」っていう実感は大きな成果だった。

 

 

 そして今回、4回目。

 今回は直球に博士論文の為の調査で飛んだ。見たい寺廟をある程度特定して、レンタカーでまわった。初のレンタカー旅。自分じゃちょっと運転に心もとない&台湾とはいえ、異国の山奥をひとりで歩くのはちょっとこわかったので、研究協力者に運転してもらっていた。大感謝。

 3泊4日で20か所以上の寺廟をまわって写真を撮った。これから整理して論文にしてみないとどのくらいのデータになったかは分からないけれど、私なりには進歩があった。やっぱり、仕事をしても、亀の一歩かもしれないけれど、研究を続けられているってことがとても嬉しい。

 

 

 

 そして、今回の旅ではノンストレスで台湾の街を歩いていた。こんなに楽に台湾を歩けるなんて、と思った。これまでの台湾渡航は基本的に留学だったからずっと気を張っていたのだなと気づいた。

 

 一方で、私はあんなに中国語をコンプレックスに思っていたのに、今回の旅でほとんど中国語に困らなかったことが寂しくもあった。なぜなら、私は今回高度な中国語が求められる場にいなかったから。3泊4日、業務の隙を見て飛んだ調査なので、制限も多く、できることしかできなかった。聞き取り調査とかに入っていったら聞き取れない場面は多く存在したと思う。学会発表なんかはきっと歯が立たない。

 前回の留学で目標にしていたHSK6級までは取ったけれど、取ってみたらその地点はまだまだスタートラインでしかなかった。だからもっと自分で中国語の世界を切り開きたいものだと思っていた。

 

 ただ、今回の台湾調査で、わたしは中級中国語で生きていける世界に腰を落ち着けたんだなと思った。もちろん、今の場でも中国語や英語や語学のスキルがあれば、どこにでも手を伸ばしていける。実際、通訳をお願いされることもあった。とても可能性のある環境で、わたしはこれが大変気に入っている。

 

 でも、わたしは怠け者で気が散りやすいから、もっと困って恥をかかないと上達しないだろうなって思う。恥なんてかきたくない。でももっとストレスをくれってどこかで思っている。

 

 一度目の留学は、生活実感を持ちながら民俗調査をすることが目的だったし、実際それは叶った。当時の自分は生意気にも、研究者のように「祭祀の日だけ地域に現れ、祭祀の記録だけをとって去っていく」ことを嫌がっていた。

 自分が沖縄出身で沖縄研究を志していたことが深く影響していたのだと思う。どこの地域であっても、その地域を取り巻く社会的な問題や政治にも目を向けて、当事者意識をもってこそ、民俗にアプローチできるのだと思っていた。

 しかも、一回目の留学は20歳だったから、将来自分がどこに住みたいのかも分かっていなくて、水が合えば海外就職するのもアリだなくらいの感覚で渡航した。いろんなことをかなり自分ごととして考えていた。

 

 しかし、本帰国後息つく間もなく、新型コロナウイルスが蔓延して、ようやく渡航できたのは今年である。25歳となっていたし、沖縄に腰を落ち着けた。

 仕事をすると、どうしても単発的にしか台湾にいけない。どうしても効率的にまわる方法を取らざるを得ない。それが今回だった。

 今回の台湾調査だってとても実があるものだった。働いてても海外調査に行ける、これはすごいことだ。今後もわたしはそうやって調査に細々と行き続けたいと思っている。

 

 でも、やっぱり少しだけ寂しい。20歳の頃の自分が「生活感覚を持ちながら民俗調査をしたい」と言ったときに、「こうはなりたくない」と思った調査の仕方をしていないか?と思う。

 修士の大学院入試の面接で、先生に「あなたの沖縄研究において台湾というのが有効であるということは分かりましたが、それは台湾にとってメリットのある研究になるのですか?」と聞かれた。自分が何と答えたのかは覚えていないけど、苦しい質問だったし、ずっと考え続けている。

 

 でも、仕方ないじゃん。わたしは沖縄に生まれて沖縄に育って、沖縄に住み続けることをを選んだ。ここでやりたいことがある。そしてもう20歳じゃないのだから、給付奨学金以外で自分で稼げる方法を探す必要があった。新型コロナウイルスも母の大病も経験して、安定志向になっていた。沖縄で仕事をしながら、それでも研究を続ける。台湾での「生活感覚」とやらからは離れているかもしれないけれど、それがいまできる精一杯で、それにもそれなりのリアリティというものがついているはずだと開き直るしかない。

 

 そして、だからこそ、20歳のときに台湾にえいやと飛び出して、空白の時間を過ごせて本当に良かったと思うのだ。

 

 また近いうちに台湾に行くと思う。本当に博論が出せるかはまだ分からない。時間を作らないといけない苦しさはあるけど、博論が出せるかわからないと言ってしまえる気楽さもある。それが今の自分で、いまの自分なりの視点で見る台湾もきっとあるだろう。 

 

 これは台湾のことだけに限らないことなんだけれども、憧れだけで走ってきた10代と違って、ここ数年は学会発表したり本にのせてもらったり、着実に憧れが叶ってきた。この身に余る幸福なことだと思う。

 夢が叶ったあとの日常をどう過ごすかを最近は考えている。そんなの、いまの仕事をがむしゃらに頑張って、仕事を覚えて、大学院もちゃんと修了するしかないじゃんと分かっているのだけど、憧れが叶ったことに対する尻込みや体力がついていかない苦しさもあって、色々と迷うこともある。

 

 台湾もそのひとつで、わたしと台湾との距離感は今が一番望んでいたものだと思う。沖縄に軸足をおいて、お隣の台湾にアプローチしていく。これからは、どれだけ長く関わっていけるかが大事な気もする。