雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

日記:8月17日 先生と会った

 

 

 久しぶりに日記が書きたい。大したことを書きたいわけではなく、ただ何かを書きたい、だから日記。

 7月の朝茶事とか、つくばの宿舎を退去した話とかを書く前に書こうって思うのは、今日のこと。今日のことを書きたくなったのは、高校の先生に会ったからだ。

 

 先生は国語の担当で、文芸部の顧問で、私の副担任だった。綺麗だし、知識も豊富で、高校の頃からずっと憧れている。私が帰省するたびに「沖縄でも自由に生きられるんだ」って思わせてくれる大人の一人だ。

 尊敬できる大人が居るって強い。私にはそれがたくさん居る。これは自慢できることである。

 

 高校の先生に会って、あの頃の色んなことを思い出してしまった。そのほとんどがつらかった話なんだけれども、自分でもびっくりすることに高校生を羨ましく思う瞬間もあった。何でだろうな。高校生の、守られてて、未来がいくらでも描ける、無限かのように思えたあの時間が恋しい。私の中では相当ボロボロになりながら、何とか卒業したつもりだったけれども、この時間が今となっては濃密な貴重な時間のように思える。まずい、記憶の美化が始まっている。

 

 これに関連してだけど私が高校時代のことを語ると、特に私がクラスメイトに「馬鹿にされてたよ」って言うと、大人は結構「そんなことないよ」って言う。客観的に見たらそうかもしれない。でも、あの時のしんどさは馬鹿にされてたという言葉が一番しっくりくる。私は学外での活動も熱心で、実績もあったし、結果的に「良い大学(笑)」に進学したことになるんだろうけれども、そしてそれは私の希望通りだったけれども、それでも圧倒的な劣等感を今も感じる。友達も居たどころか、通信簿には「誰とでも仲良くなれる」と書かれたくらいだったのに。

 私の一番近くに居た双子の弟や、クラスの友達、部活の友達は、私が馬鹿にされてることを気づいてた。そして、大概その子も馬鹿にされてるカテゴリーに居たから、一緒に人を見下したり、順列をつけたりするクラスメイトや校風を憎んでた。強烈な憎しみだった。別に誰かが率先してそういう空気を作っているわけではないから、社会が憎かったし、そうやって社会に馴染めない自分が憎かった。死ねば良いって毎日思ってた。そう、この感じだ。

 

 何だろうな、あの感覚。因みに、その言いようもないしんどさは豊島ミホがかなりうまく書いている。もう、本当にこれ!!という感じ。最終章の「あれ、大丈夫だ」という感覚まで共感が止まらない。軽いタッチで書かれている面白いエッセイなんだけれど、私はこれで数えきれないくらい泣いた。

 

底辺女子高生 (幻冬舎文庫)

底辺女子高生 (幻冬舎文庫)

 

 

 それでも、私には数少ないながらも友達がいたし、応援してくれる先生がいたし、自分の好きなものが明確だったから、卒業できた。当時から大人は「それならいいじゃん」って言ってた。卒業したら、大嫌いだった「みんな」(みんなの個人名がうまく上がらないところもポイントね)と会わなければいいしね、と。それはそうだ。でも、当時の自分にはこの言葉、絶対に響かなかったなって思う。

 

 高校の、あの息苦しさ。レールを外れることのこわさ。大学になったら、それはそれは色んな人がいるし、レールを外れることなんてこわくなくなった。でも、大人がいくらそういう話をしてくれたところで、高校生の私には「今」しか見えなかった。大人になったら気にならなくなることでも、あの時の私にはそれが生きるか死ぬかっていうくらい大切だった。あの高校は、私の存在を大きく揺さぶった、いい意味でも悪い意味でも。思春期のしんどさも、私自身の色んな問題も含めて、サバイブっていう言葉が身に染みるような三年間。今でも高校の友達とは、「苦しかったね、三年間」という話で盛り上がる。無理やり卒業しても、あの時の劣等感は今も私を蝕んでいる。身体的な意味でも、その三年間の代償は今も払わなくちゃならない部分もある。(その部分に関しても、後悔しないようにって声かけてくれてた先生もいて、また感謝なんだけれど)

 

 今日、今の母校の話を聞いたら、やっぱり苦しんでいる生徒が居るようだった。今の私が、あの頃の私に何を言っても響かなかっただろうなって思うけれど(ただ、先生からの言葉が大きく響いたことはなくても、胸のうちにたくさん積もって今ふいに気づけることはある)、ただ真っ只中の子には頑張って欲しいなって思う。

 

 でも、母校には素敵な先生も居るし、母校図書館の蔵書は最高だし(なんと『日本文学大系』がある)母校の裏の海は何でも受け止めてくれる。海の近くには美味しくて、たくさんサービスしてくれるてんぷら屋さん。しんどかった高校だけれども、その分豊かなものもたくさんあって。たくさん成長させてもらえたから、たくさん感謝もしている。

 

 先生は私が高校を卒業してからも、沖縄の素敵なところをたくさん教えてくれる。沖縄の美味しいお店、先生は何であんなに知っているのだろう。私のかなーりマニアックであろう場所に付き合ってくれる。

  これは宜野湾大名のターンム畑。きれい。

 宜野湾にこんな場所があったんだ!という感じ。沖縄の風景をたくさん目に焼き付けておくこと、肌感覚を知ること、これは私が民俗を専攻するうえでの強みになると思っている。

 

 

さらに宜野湾大謝名の土帝君、喜友名泉。

これらは、私の興味ド直球。こういうものを見て、その後ろにある沖縄の暮らしに耳を傾ける為には、やっぱりたくさん学ぶ必要があるんだよなって今日もまた思った。また思わせてもらった。それに文化を学んで、その先どうするかみたいな話もたくさんした。結論はいつだって見えないんだけれども、沖縄でこういう話ができる大人がいて良かった。

 

 先生は先生自身、書き手であって、発信者である(これは教師っていう職業もそうだけれども、それ以外の面でも)ということがまた刺激を受ける。沖縄文学の話もした。沖縄を語る。沖縄を悲壮感たっぷりに描かない。沖縄には文学が生まれる土壌がある。先生と話していると、私が沖縄でできることの多さ、可能性の豊かさみたいなものを感じる。凄い人なのに、おしゃべりな私がベラベラ喋っちゃって、あんまり話聞けなかったなあってあとで後悔することもいつものことなんだけれども。

 

 いつも私の中での結論は、自分の専門性にたどり着く。今の私は、民俗を専攻しているって言いながらも、そこに対する自信がない。今の私が沖縄に対して、何かできるように思えない。だから頑張るしかないんだ。頑張ろう。

 先生には、榕樹書林にも連れて行ってもらった。地震がきたら今すぐに圧死しそうなほど煩雑に積み上げられた本、喉がむずむずするくらいのホコリ。でもそんなのが気にならないくらいに楽しかった。

 買った本

・比嘉朝進(1991)『沖縄の信仰用語』風土記

・比嘉政夫(1982)『沖縄民俗学の方法 民間の祭りと村落構造』新泉社

窪徳忠(昭和56)『中国文化と南島』第一書房

・渡邊欣雄(昭和62)『沖縄の祭礼―東村民俗誌』第一書房

・渡邊直樹編(2016)『宗教と現代がわかる本2016』平凡社(聖地・沖縄・戦争特集)

多田治(2008)『沖縄イメージを旅する 柳田國男から移住ブームまで』中央公論社

 

 この夏で全部読み切れるかは分からないけれども、全部ぜんぶ自分のものにしたいところです。

 

 台湾に留学するまで、あと2週間くらい。あっという間なんだけれども、その中で自分の地元の民俗誌を書くという目標もある。夜先生と分かれてからは、祖父母宅で聞き取り。知らなかったことも含めていろんな発見もあったけれども、こちらに関していえば、やっぱり事前準備ができていなかったという反省。

『民俗調査ハンドブック』を参考に質問事項を作成していたけれども、やっぱりこちらは沖縄向けに読み替える必要があるな、という印象。それから、地図とか年表とか話を引き出せるようなモノも準備する必要があった。あまりにポンコツだったけれども、辛抱強く祖父母は付き合ってくれて、明後日には実際に地域を歩きながら話してくれることになった。楽しみ。

 

 明日は朝から動くぞ。留学までに日がないのに、やることが多すぎる。

近況報告:7月のこと

 

 博物館実習から帰ってきてもうすぐ1か月かと思うと、まだ一か月なのかとびっくりする。それ程この1か月の出来事が大きすぎるのだと思う。

 博物館実習直後からはじまった春ABのテストは無事に乗り切った。思うような成績じゃない科目もあったけれど(何なら、取る必要のなかった科目だったと後で気づいた科目もあったけれど)とりあえず単位は全部取った。

 

 近所で咲いたショクダイオオコンニャクも見に行った。10年に一度しか咲かないはずのショクダイオオコンニャク、つくば生活3年目にして目にするのは二度目。かなりの技術力らしい。なお、強烈な臭いは嗅ぐことができなかった。無念。

 

 沖縄から遊びに来た伯母と紫陽花も見に行った。本当にキレイだったし、参道で食べたあんみつも美味しかった。

 

 今月は友達としこたま食べて、飲んで、喋った。

 留学までカウントダウンが始まっている。留学したら、私がつくばに戻るのは大学4年生の秋になる。私の友達には飛び級卒業する子なんても居て。彼女とは長らく会えなくなる。永遠に続くかと思ってた大学生活にも終わりが近づいていることを少しづつ、意識させられている。

 

 この写真は、池袋のメイド喫茶ワンダーパーラーに行った時のもの。池袋の名門女子高出身の友達のおススメで、一緒に行った。その地域に精通した人に案内してもらう街歩きって本当に楽しい。

 このメイド喫茶、「お帰りなさい、ご主人様」となんて言われない。ロングスカートのメイドさんがひたすら給仕してくれる。その品の良さに緊張しながらも、楽しい時間だった。給仕してくれる前に、メイドさんがちょこんと礼してくれる、その瞬間が本当にかわいい。短いスカートなんて履かなくても、可愛さってそういう所作のところどころから感じられるものだと思う。客層も女の子が多くて、これはちょっと意外だった。

 紅茶の種類も豊富で、ご飯もちゃんと美味しい。喜んでくれそうな顔が何人か浮かぶから、沖縄の友達にも紹介したくなった。

 

 その帰り、池袋のジュンク堂民俗学事典を買った。これはちょっとした決意でもある。4月先生と面談した時、大学院入試の勉強法として「民俗学の事典を覚える」と言われた。まだ進学すると決めたわけではないし、実際全然勉強できてない。先生からそう言われた時は、あまり本気にしてなかったけれど、ついに買っちゃった。まだ分からないことだらけだけど、とりあえず伴侶にします。台湾にも持っていくつもり。

 

 これは、七夕の夜の日。お酒を呑みながら『夜は短し歩けよ乙女』DVDを観ようという話だったけれど、結局14時間くらいぶっ続けに話して夜を明かしてしまった。わたしたちには語ることが多すぎて、映画を観る時間がない。(後日、再集合して映画もちゃんと観ました。友達と観るからこそ楽しい映画ってあると思います。『夜は短し歩けよ乙女』もその一つで、黒髪の乙女がお酒をのむたびに私達も飲むっているバカげた遊びをやっていました。すぐに断念したけど)

 

 茶道おわりのご飯。大学1年生の頃は、お稽古が終わった22時からサイゼリアにばっかり向かったね。時にはサイゼリヤが閉まったあともファミレスのハシゴをしたりして。物凄くたのしかったです。最近はお互い忙しくて、難しくなっちゃったから、(遊んでも24時健全解散になることが多くて、大学3年生を感じている。わかる、お酒飲んで昼夜逆転させると後がつらい)だからこそ、こうやってたまにご飯に行けるのが嬉しかった。

 

 こちらも茶道の同期との飲み。朝茶事でわたしたち3年生が懐石料理を作るので、その試食会のはずだったんだけど、いつの間にかお酒買ってきて飲んでた。私の作ったスクガラス豆腐があまりにお酒に合っていた。

 

 

 これはアルバイトでやっているキャンパスアテンド。高校生に大学内を案内するアルバイトなんだけど、自分自身普段足を踏み入れない研究施設に詳しくなれるのが楽しい。写真はスパコンのもの。近くに行くと、すごい熱を感じる。そしてその熱を冷ますために、下からものすごい勢いで冷気が出ている。高校生はいつもそれを楽しんでくれます。

 実はこのスパコンの隣には筑波山神社の神棚がある。この日、一緒に担当していた先輩は仏教美術を勉強している院生だったこともあって、私たちはこの神棚にくぎ付け。スパコンのような、自然科学の圧倒的な力を感じる場所で、それでも神棚があるって凄いねえ。(だって、そのスパコンで膨大な計算をして、地球の天気を計算しているなんて、神頼みの雨ごいの世界からは程遠いように思うのに!)私は科学と宗教は対立しているものでもなければ、遠い存在でもないと思います。

 

 7月に入って時間割にも余裕が出てきたから、アルバイトにもちゃんと入れるようになって嬉しい。(実は私が代表だったりするから、入れないことの罪悪感たるや)違う日は、VRを体験できる施設に行ったりして、高校生に交じって私も楽しんでます。

 

 思えば7月は楽しいこと尽くしだった。去年の12月に劇団四季を初めて観た時から、ずっと生きたかった『ノートルダムの鐘』! 

 直前にとったのに奇跡的に手が届くC席のチケットが取れた。横浜中華街で美味しいランチを食べて、ノートルダムの鐘を観るという何という最高の日。

 

 

 

 そのあと休んで、ちゃんと縄文展にも行った。一言で感想を言うと、縄文人を舐めていた。そのくらい、縄文土器の表現は豊かである。教科書に載っているような、茶色(土色)で縄目模様の土器だけが縄文土器って思っているわけないよね??縄文土器の中には漆塗りのものもあるし、縄目の種類だって100種類以上あるんだから!

 

 

 

 そろそろ力尽きた感があるから終わるけれど、7月楽しんでいます。博物館実習後、ちょっと寂しい気持ちでつくばに帰ってきたのが遠い昔のよう。授業の合間に、会いたい人にはちゃんと会いに行って、美味しいごはんを食べ、さらに留学準備もあるのだから、毎日忙しいけれど充実しています。もっと会って、話したい人ばかりで時間が足りない。

 本当は7月の一大イベント、茶道の朝茶事と(実質)引退もあったんだけど、これはまた別の時に書こうと思う。

 

近況報告:まだまだ無茶しています

 

 大学三年生になりました。

 最近、何事も順調です。留学申し込みも終わり、無事に一番行きたかった、自分の実力以上の大学に留学できそう。春休みにダメ元で受けた中国語試験も合格した。奨学金ももらえることが確定。一番額が大きい奨学金も一次合格、二次面接を昨日受けてきて、結果待ち。博物館実習も無事に12日間やらせてもらえそう、しかも沖縄の博物館で。博物館実習と被る予定だった教職集中講義も、教職テストも、レポートで代替してもらえることに。サークルだって、ようやく一人で着物を着れるようになって、無事に執行代としての初めてのお茶会が終わった。初めてのお点前に挑戦して、ミスなく亭主ができた。1年生のころ、お茶会なんてお客さんとしても出たことなかった私からは想像できない。

 

 なのに、どうしてだろう。

 私が大学3年生なら、一つ上の先輩が4年生になったことになる。先輩が授業をほとんど取り切っていて、あとは卒論と就活のみ。地元に帰るんだって、話しているのを聞いた時、「いいなあ」と思ってしまった私がいた。

 

 私は頑張り続けるはずなのに、その為に沖縄から出てきたのに、自分の中の「いいなあ」に戸惑ってしまった。そして、一人暮らし三年目にしてはじめてのホームシック。これが1か月前のこと。それなりにつらかった。一番自分がどれだけ参っているかを知ったのは、博物館実習の件で沖縄の博物館から電話を受けた時。電話口から聞こえる訛りに涙が出た。これは不意打ちだった。私はあまり泣かない人だと言われてきたのに。沖縄に帰りたいのだろうか?と思うとそれとは少し違う気がする。

 

 ただ、多分だけれども、私は先学期に頑張りすぎていて、それを春休みに急に緩めてしまったものだからバランスを崩しているのかもしれない。先学期は最終的に37単位の履修をし、4回実習に行った。特別支援学校での介護等体験、社会福祉施設での介護等体験、山口県萩での民俗学実習、埼玉県秩父での宗教学実習。その合間に2回沖縄にも帰り、仕上げにとテスト期間終了翌日から2週間大学の研修でロシア・アルメニアに行ってきた。アルバイトで大学受験生を教えていたし、土日は基本的にないものだった。最後のところはペンを握ると手汗が止まらなくなっていたし、風邪でもないのに微熱が出続けていて、私の体調を崩すのが先かやり遂げるのが先かって感じだった。いや、ところどころ腎盂腎炎になったり、2週間くらいひきこもったり、見てみぬふりをしていることはたくさんあったんだけれど、押し通してやり遂げた。これは自慢しても良いと思うし、頑張ったなあと自分でも思う。でも、がむしゃらに走りながらも自分がどこを走っているのか分からなくなる不安や、自分が今やっていることを好きじゃないなって思う日が来たらどうしたらいいんだろうって思っていた。

 

 だからこそ新学期になって、今回こそはまともな時間割を組もうと思っていたはず。でも留学して、同期が卒業するなか自分だけがもう一年やらないといけないのかあと思うと、不安になった。

 でも留学は取りやめたくなかったし、期間も短くしたくなかった。それにキャリアを考えると今取っている資格である、中高の国語教職、地歴教職、学芸員資格、社会教育主事資格も取り切って卒業したい。だから不安に駆られるまま、自分の欲望を叶えることにした。つまり、留学も1年行くし、資格も取るし、4年で卒業することにした。

 

 可能なのか?って感じだけれども、先生に「ぜひ、そうして下さい」と言ってもらえた。2年生終了段階で125単位を取っていることが大きかった。それに、一番は大学が意外と柔軟に対応してくれること、実習先や先生方が個別対応してくださることに救われた。もちろん必修はまだ結構取りこぼしがあるし、教育実習だけは卒業後に科目等履修生として行わなければならないけれど。それでも5年目するよりは断然安く抑えられる。卒論は留学中に調査を始めつつ、メールで指導を仰ぐことになった。

 1週間くらい、大学本部棟に相談しに行ったり、先生と面談をしたりしているうちに、いきなり卒業年度が変わった。本当に‘‘勢い‘‘だけだ。学費のこととか、その後を考えるとそれで良いんだよね?と思いつつ、先生や先輩が背中を押してくれるのをいいことに決めてしまった。周りに飛び級する友達がいたことも影響していると思う。

 

 おかげさまで、大学三年生になってまで週3で1限スタート、フルコマまである。大学を卒業した時、私はこの4年間を「駆け抜けた4年間」だと思うだろう。忙しくしていたら、気が紛れて気持ちも楽になるだろうという、ホームシックに対する荒療治も兼ねていたつもりだけれども、この決断をしたあとの健康診断でメンタルが引っかかってしまった。心の健康診断再検査ってどういうことだよ?と思いつつ(なんと2回目)、自殺トップ大学のメンタルヘルス対策は伊達じゃないなとも感心した。

 

 まだまだ無茶している。それでもやっぱり動いていた方が楽で、一人で部屋にいると怖く思う。今はそこまで思わないけれど、関東と沖縄の距離を考えて絶望的な気持ちになったり、実家が関東にある人を羨ましく思ったりしていた。(2時間くらいで実家に行けるくせに一人暮らしして、弱音を吐いている人を見ると、何甘えてるんだって思う。この点において余裕がない証拠なんだよね)足のつかないプールで泳いでいるような感覚。頑張らないとって気を張っている感覚。

 そうは言っても、部屋は荒れてて、食生活も大学一年生の頃と比べたら外食にも頼っているんだけれども。

 

 今の状況を一つ一つ書いていくと、やりたいことは概ね順調で、周りも協力してくださるっていう。恵まれているのに、何となくうまくいかない。ホームシックは脱したけれど、何となく寂しいよなあと思っているところもある。でも、この寂しさは沖縄に帰ったら解消されるものでもない。それは痛いほど分かっている。だからこそ、難しいんだ。大学生、孤独と見つめ合う時間も内省の時間も大切だよ、と言われる。そうかもしれないんだけれど、諸々のバランスが難しいよ。どこに行っても、何をしていても、抱えなければならない自分が重い。まだまだ無茶しています。

父の7回目の命日

 

 今日は文章を書かないと眠れない、そんな日だ。

 父親が死んで、7年になる日。

 

 よく歴史はある事件の前と後で時代を分けることがある。戦前と戦後、沖縄復帰前と復帰後、ソ連崩壊前と後、9・11前と9・11後、3・11前と3・11後。それだけある事件を前にして生活が激変するということなのだろう。

 それならば、私の20年の人生とは父が死ぬ前と死んだ後で分けられると思う。

 

 中学二年生の春、父親が死んだ。

 亡くなったとか、逝ったとか、永眠とか、そんな柔らかい言葉なんてそぐわないほど、その死は圧倒的だった。中1の学年末テストの頃だったと思う、父親が末期がん宣告されたのは。それから2か月も持たなかった。今まで普通に生きていた人に、死はこんなにも簡単に忍び寄るものなのか。日に日に父は弱っていった。ホスピスという選択肢もあったのにも関わらず、抗がん剤治療を選んだ父は諦めていなかったんだと思う。だから、私達家族もそれを応援していたはずだった。でも、死は確実に近づいていた。それは誰の目にも明らかだった。

 

 思春期の入り口に立っていた私は、その頃ちょうど反抗期だった。

そんな私にとって、父の死は寂しいとか、悲しいとかいう感情以上のものをもたらした。胸にぽっかり穴が開いたような喪失感、それを寂しいと形容することは簡単だけれども、寂しさだけではないことは、自分自身が一番分かっていて。本当に衝撃的だったのは、自分の周りにふと訪れた死だった。

 

 父が死んだ日、とてもとても悲しかったはずなのにお腹がすいた。その時食べた味噌汁と白米と漬物の味が忘れられない。ちゃんと、美味しかったからだ。肉親が死んだ数時間後に食べることができる自分の図太さがたまらなく嫌だった。気持ち悪かった。

 

 父の葬式は仏式で執り行った。我が家は一般的な沖縄の家庭で、ヒヌカンや東御廻り、土帝君という沖縄独自の信仰、祖先祭祀を基本としていたはずなのに。これがたまらなく嫌だった。普段は寺社仏閣を好んでまわっているにも関わらず、本当に許せなかった。父の死、死そのものを自分の言葉で十分に咀嚼するより前に、仏教という大きな観念に取り込まれるような気がしたからだ。

 母にこの巨大な違和感を伝えても、「これが社会常識だから」としか言わなかった。のちに「葬式を執り行うことで死が整理できた」とも感想を漏らしていたけれど、私の違和感はそういう次元のことではなかった。(葬式などの宗教実践が生者の為になる、というのは宗教機能説という、という話を大学の宗教社会学の話で聞いた。その時、母の思う葬式の意義と私の違和感が決してかみ合わない次元で話していることを知った)

 

 思えば、母と何となくかみ合わなくなったのも、父の死後である。

 

 母は父の死後、私達兄弟に呪いをかけた「天国のお父さんが悲しまないように、貴方たちはちゃんとするのよ」と。「不登校なんてもってのほかだし、成績も落としてはならない」

 

 母は愛する人を失った悲しみと向き合う為に1年間仕事をしなかったのに、そんなの卑怯だと思った。でも、母がずっと泣いていて、親戚も先生も「あなたがしっかりして、お母さんを支えるのよ」と言うから、私は逃げ道を失ったのだ。

 今でも覚えている、私は父が死んだ直後のテストで学年5位以内に入った。母は得意気であったけれど、私は何かを置いてけぼりにしたような気分でいた。その気持ちは成人した今でも同じである。私はもう20歳で、父が死んでから7年も経つのに、13歳のあの頃の自分を胸に潜めている。実家から2000キロも離れた茨城で1人暮らしをしていても、私の一部はまだ沖縄南部の田舎に置いてけぼりである。

 

 こうやって脅迫的に文章を書くのも、父の死の前後からだ。私は調子が良い時より、しんどい時に文章を書く傾向にある。もともと本を読んだり書いたりするのが好きな子供であったとは思う。でもその好きが救いになったのは、確かにあの頃からだ。

 

 父の死についても、何度も文章にした。弁論大会みたいなもので発表したこともあるし、読書感想文の題材にしたこともある。エッセイや手紙でも度々話題に上がった。肉親の死は弁論大会やいわゆる「感動作文」の典型的なテーマであるので、反応はあんまり良くないし、自分自身も自分の咀嚼できていない大切な記憶を切り売りしているのではないか、という不安もあった。でも、それ以上に私はあの時感じた違和感を言葉にすることが大切だったのだ。今、こうやって感情的に文章を書くのも、多分そういう気持ちからである。

 こうやって言葉にしてしまうと、自分自身のけなげさに泣けたりするんだけど、父の死を作文の題材に選ぶのは、それについて誰かに話したくてたまらなかった優等生なりのアピールだったのかもしれない。保健室の如何にも「あなたは大人に保護される存在ですよ」という妙に優しくたるんだ空気がたまらなく嫌だった私は、父の話を誰にもしていなかった。当時の担任の先生からカウンセラーを何度も紹介されていたけれど、その度に断っていた。弱い子に見られたくなかったんだと思う。(美術の先生が言ってくれた「親が死んで大丈夫な人は大丈夫じゃないよ」という言葉は少し私の心を氷解させてくれたけれども、先生はすぐ離任なさった)家でもその話題をすると、母が泣く為、家族間でも父の話はいつの間にかタブーになっていた。

 

 だから作文の題材に父の死を選んで、先生からの添削を通して対話できるのが嬉しかった。文章の上ではいつもの数倍素直に弱みを見せることができたのだと思う。でも、私はあくまで優等生的な自分を捨てられなかったので、何度父のことを題材にした作文を書いても、結末を明るく結んでしまうのだった。困難を糧に成長する像、これが中高生の作文コンクールで求められている型であるのは十分に理解していたからだ。大人の顔色ばかり窺う、典型的なバカ。

 

 その状況が少し変わったのが、高校進学後。私は入学した自称進学校が合わなくて、心身のバランスを崩していた。母の言いつけ通り不登校こそしなかったものの、自称進学校では今まで被っていた「優等生」の皮は容赦なく剥がされ、和を乱してばかりだった。授業を抜け出してトイレに籠っていてばかりいた地獄の3年間のはじまりはじまり。

 でも、高校の時に出会った国語の先生は恩師だと思う。あれだけ父のことを話せたのは、あの先生だけだった。父の死をタブー視せず、私を「保護すべき子」とするのでもなく、等身大に向き合ってくださった。学校の先生なのに、私に休むことの大切さを説いてくれたこと。「あなたの感性が好き」と全肯定し続けてくれたこと。高校に合うとか合わないとか以前に、あのままの生き方をしていたら絶対にどこかで転んだであろう私に、適切な転び方を教えてくれたのだと思う。他の先生から「高校のお母さん」と揶揄されていたくらいに、私の親みたいなこともしてくれた。国語の先生で、担任で、部活動顧問でもあったというのも大きいけれど、学校が閉まる20時まで話して、何度も家まで送ってもらったことを思い出す。今、大学で教職を取っているからだけれども、本当に学べば学ぶほど、先生の懐の大きさが身に染みる。

 

 その時からである、父の命日を自分の為に過ごそうと思うようになったのは。学校は休んでならない、という気持ちにがんじがらめだったけれども、「父の死んだ日くらいは好きなように過ごしてもいいんじゃない」という先生の言葉にはっとした。学年主任にこの日が忌引きにならないか交渉してくれたりして、その気遣いが嬉しかった。母にとってだけではなくて、私にとっても大切な日であって良いのだなと思えた瞬間だった。

 

 そうは言っても、父の命日を自分の為に過ごせたことは少ない。法事がある年は、貴重な女手として働かされた。父の死を仏教を通してみることは今でも違和感がある。だから、本当にその日はしんどい。嫌で嫌でたまらない。近所や親戚からの目や母の為にやっているに過ぎない。法事がなくたって、4月8日は高校・大学の入学式と被っていた。入学式という祝い事と父の死。そのコントラストがきつかったし、その節目を感じる度に絶えず前進しなければならない自分と、13歳のまま取り残されている自分を感じていた。

 

 静かに自分ひとりで父の命日を過ごしたのは7回目にして、今年が初めてだ。だから今日は自分の為に過ごしたいと思っていた。本当は旅をしようと決めていた。山梨くらいで綺麗な桜を観たかった。電車に揺られてぼんやりしたかった。けれども前々日くらいから調子を崩していて、そんなパワーもない。理想とは裏腹にベットで死にたくなっていた。

 

 中学・高校の頃の私は父の死以上に、死のもつ力に圧倒されていた。でも、自分ひとりでゆっくりできる時間を見つけた時、初めて肉親を1人失った悲しさに気づいたのだと思う。今、甘えられる大人がゼロなつくばに居るからなおさら。肉親が一人死んだからって、その安心感が二分の一になるとかそんなものじゃない。7年前のこの日、もっと、無条件に自分のことを愛してくれるんだっていう何かが無くなった。母は存命だけれど、前みたいに全体重でもたれかかることはできない。(実際、高校時代に調子を大きく崩した時に「あんたは手に余るしあんたを見てると私もしんどくなる」と言っていた。そういうことも察した担任が介入してくれたのだと思う)

 

 でもそれ以上に、お父さんは私がつくばで頑張っている姿も知らないんだよなあって思ったことが胸に来た。ほんとうに。私の中のお父さんは永遠に、7年前の4月8日から老けないし、生きて居る私との距離は大きくなるばかりだ。なんなら、お父さんの中の私は中学のセーラー服を着ている、永遠に。私が就職して、初任給で何を買うか。どんな職に就くのか。結婚して家庭を設けるかもしれないし、そうしないかもしれない。これから無数の可能性を持って続く、私の人生をお父さんは見ることができない。見たかっただろうなあと思う。私も見せたかった。

 

 7年の月日は長い。中学2年生だった私も、大学3年生だ。でも7年経っても、父の死について、私はまだまだ言葉にできない。ここは学校の作文の場ではないから、正直に書くと、私は父の死を一生抱えながら生きるんだと思う。乗り越えることなんてないし、乗り越える、という言葉は私の実感から離れている。もはや父の死は、父の死後の私を形つくった土台であるからだ。もう一部なのだ。時間ともに父の死に対して思うことは変わってくる。これは不可逆なことじゃない。決して成長なんて言葉で説明されることでない。このことを成長と捉えるのは、あの頃の自分を幼いものとすることになる。父の死から見えること、感じることをそうやって序列化するのは間違いだ。今の素直な気持ちと、あの頃の気持ち。胸の中に居る13歳の自分を蔑ろにしないということは、どちらにも敬意を払うということだから。

 

 旅に出かけることを諦めた私は今日、ヒトカラに行った。1時間だけだけれど、Coccoをひたすら歌って泣いた。帰りにお酒とつまみ、ケーキを買った。遠出をしなくても、つくばの桜はまだまだ綺麗だった。夜だって、自分の為に丁寧に料理をして、Coccoの武道館ライブDVDを観ながらお酒を飲んだ。自分なりに自分を労わったつもりだ。それでも、今の私はどこか不安定だし、例年父の命日から数日は調子がすぐれない。(もともと調子を崩しがちなので、父の死のせいにするのは間違っているかもしれないけれど)でも、それで良いんだ。いつまでも父の死を引きずる自分を貶めない。認める。自分で自分を労わり続ける。4月8日、自分に甘く過ごしたはずの今年もつらかったけれど、いつもの違和感とは違う。今年は例年以上に自分の足で立っている、という実感が強い。来年の4月8日は、今年とはまた違った環境で過ごすだろう。どんな日になるかは分からないけれども、どんな日でも否定しないでおこうと思う。

 

追記

書いてて思いだしたけれど、父の葬式の時、私は丹念に記録を取っていたんだよね。それが何につながるか分からないまま、葬式の様子、周りの様子、自分の感情を丁寧に書き記していた。肉親の死にそういう対応をする私に対して、周りは戸惑っていたけれど、あの頃の私にとってその行為は絶対にやるべきことのように思われた。今勉強している民俗学文化人類学(それがどこまで真剣にできているかは別として)の原点は、確実に7年前の4月8日にあったのだと思う。

 もちろん、父が生きて居る頃から民間信仰や沖縄の文化が好きだったから、父が死ななかったとしても、今と同じ道にいることも考えられる。今の不安定な自分に対しても、全てを父の死に原因を求めるわけではない。ただ、父の葬式の時の日記帳が実習のフィールドノートにそっくりだったことに思うことがある。