雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

南条あやを中心としたネットワークについて

 南条あやについて思うことがあったので、大学のレポートで書いたものを貼る。文化人類学についての授業で、先生から個々人にテーマが与えられた。私は南条あやを中心としたネットワークについて、という題だった。

 

生きづらさ系と生きづらさを核としたコミュニティ

 

 

はじめに

 南条あやは、1990年代末に自身の日常を綴ったウェブ日記で人気を博した。彼女の特徴は、女子高生である一方でリストカットオーバードーズを繰り返し、精神科に通院していることだ。従来、タブーとされていたことを包み隠さず、しかも軽い文体でポップに書いた彼女の日記は、彼女の自殺から18年経った現在でも精神的な悩みを抱えた若者のバイブルとなっている。

 南条あやのファンは、若い女性を中心としながらも幅広い世代に広がっている。南条あやは境界性パーソナリティー障害であると主治医から言われていた。しかし、日記にはその病名はほとんど出てこない。それ以上に圧倒的な文量で書かれるのは、過激な自傷行為の描写や、服薬している薬の効用、親との軋轢である。こうした記述からは、南条あやが多くの生きづらさを抱えていたことが読み取れ、南条あやのファンは、彼女の生きづらさに大きく共感しているともいえる。実際、南条あやのファンは彼女と同じ境界性パーソナリティー障害の患者だけに限らない。摂食障害やうつといった他の精神疾患を患った者や、通院しておらず病名はついてないけれども、漠然とした生きづらさを抱えた者が南条あやの支持層として含まれている。

 本レポートでは、南条あやのファン、すなわち生きづらさを核としたコミュニティとは一体どのようなものか分析したい。その上で彼らが好んで使うインターネット上でのコミュニケーションの特徴や意義、問題点をまとめたい。

 

 

  • 生きづらさとは何か

 渋井哲也は『若者たちはなぜ自殺するのか』で、様々な悩みを抱えながらも、それをうまく表現できずにアクティング・アウトを繰り返す人を「生きづらさ系」と呼んでいる。(渋井、2007)ここにおけるアクティング・アウトとは、自殺行為や自傷行為、依存症といった行為を指している。これらの行為は南条あややそのファンにも共通するものだ。南条あやは、自身の辛さをあくまでもポップな文体で書いていた。彼女の度重なる自傷行為も、生きづらさを上手く表現できない故のアクティング・アウトだったのだろう。香山リカ南条あやの日記『卒業式まで死にません』の解説で「南条さんの文章はあまりに明るくテンポも快調なので、読む方はつい彼女の苦しさや痛みの方は見過ごしてしまいそうになります」と書いている。(南条、2001、p.310)ここからは、南条あやが渋井の言う「生きづらさ系」に当てはまることが分かる。

 また、雨宮処凛は現代の生きづらさが不安定労働や貧困といった社会的・経済的な問題とも絡んだ複雑なものとした上で、社会的な問題とは別に、人間関係や個人的な問題、親との関係で精神的な生きづらさを「純粋な生きづらさ」と呼んでいる。(雨宮、2008、p.9)

 自己を語ることで自分の存在を意味付け、認識していく動きは時代によっても変化する。そうした歴史の流れで、人間関係や個人的な問題が純粋な生きづらさとして変化していったともいえる。60年代や70年代のいわゆる学生運動が盛んだった時代では、自己語りは政治や社会との関わりの中で語られた。安保闘争などがその象徴である。また80年代から90年代半ば頃には自己啓発セミナーや海外旅行を通した自分探しの名の下に自己語りがなされるようになる。徐々に社会の方から個人へと、自己語りの場がシフトしていっていることがここから読み取れる。

 その後、90年代後半にはPTSD機能不全家族で育ったAC等の言葉の普及からもわかるように、心理学や精神医学の中での自己語りがなされるようになる。こうした現象は心理学化した社会とも呼ばれている。(渋井、2007)南条あやもこの時期に登場し注目を浴びている。またこの時期は、J-popでもトラウマや自傷をうたう椎名林檎Coccoが流行している。これらのアーティストは現在も活動しており、いわゆる生きづらさ系の人から熱烈な人気を誇っている。ちなみに、南条あやCoccoの熱狂的なファンであり、カラオケではCoccoの曲しか歌わないCocco縛りをよくやっていた。自殺現場もCoccoの曲をたくさん収録しているということで南条が好んでいたカラオケボックスである。

 こうした傾向については、土井隆義も『友だち地獄』の中でリストカット少女の「痛み」の系譜として分析している。(土井、2008)土井は、1971年に出版された高野悦子の『二十歳の原点』と南条あやの『卒業式まで死にません』を比較しながら、時代を読み解こうとしているのだ。高野悦子もまた思春期に生きづらさを抱えて自殺した。死後出版された日記が若者に読み継がれている、という面では南条ととても似ている。

 高野悦子学生運動にとても熱心だった。このことから土井は、「高野の世代の青年文化は親世代という異質な人びとへの抵抗の中から、その思想性を培ってきた」(土井、2008、p.67)とする。一方で南条は、世代闘争とそれがともなった対抗的な青年文化を失った世代の一人とし、「自分の世界観を相対化しうるような異質な人びとと出会う機会をほとんどもたず、自らが世界の中心であるとかんじられてしまうとき、自分の拠り所は自らの身体のなかにしか見出されない」(土井、2008、p.68)と言っている。この論調は、自らの身体にしか拠り所が見出されなくなった南条が自傷行為に耽溺する理由にもつながる。つまり、土井は南条の自傷行為を「身体の隅々へと拡散している自己を手っ取り早く感じる手段」と意味づけているのだ。(土井、2008)

 自傷行為そのものは病気ではなく、境界性パーソナリティー障害やうつに多くみられる症状でしかない。自傷行為は前述したように生きづらさのアクティング・アウトである。このことから、土井が行った、南条の自傷行為への意味づけをそのまま生きづらさへと解釈することもできる。渋井や土井が指摘しているような心理学化した社会は、その傾向を益々強めている。それを強く感じさせるのが「メンヘラ」という言葉の一般化である。  

 「メンヘラ」とは精神的に病んでいる人を指す言葉である。インターネット上の巨大掲示板2ちゃんねるメンタルヘルス板にいるような人間ということから名づけられた。この言葉は2008年に雨宮処凛が著作の中で生きづらさを抱えた人に対して用いている。雨宮処凛南条あや南条あやのファンもまたメンヘラ―と呼んでいる。(雨宮、2009)この言葉は一種のインターネット用語であり、2008年には語に注釈がつけられている。しかしこの言葉は時代が経ると共に一般化し、2015年には『現代用語の基礎知識』にも掲載されるようになった。(自由国民社 編、2015)そして2017年現在では、メンヘラは精神的に病んでいる人という意味以上に解釈されるようになっている。具体的なメンヘラ女の特徴として、構ってちゃん、ヒステリック、ネガティブ、SNSに依存している、寂しがり屋、夜行性、体調不良をアピールしてくる、がよく挙げられる。これらの特徴は、渋井の言うような「生きづらさ系」には当てはまらない。その一方で個人の性格を精神的に病んでいる、として解釈しメンヘラとカテゴリ化することは、やはり社会の心理学化が進んだともいえるだろう。雨宮が言うように純粋な生きづらさを精神的な生きづらさとするならば、純粋な生きづらさは広がっているとも考えられる。

 南条あやとそのファンを結ぶ生きづらさとは何か。それは、時代の流れによって変容していくものである。南条あやはインターネットアイドルであり、本名の鈴木純南条あやと決してイコールな存在ではない。その意味では南条あやもまた時代によって変わりゆく生きづらさと共に、時代に生み出された存在なのかもしれない。彼女が活躍した1990年代末、南条あやは女子高生にも関わらず精神科に通院しているという、病んだ存在が珍しく受け止められた。彼女の人気は、この珍しさにも起因している。メンヘラという言葉が一般化し、多くの人が病んでいるとされがちな現代では、南条あやの存在はもう珍しいものではない。実際、南条あやの死後18年の間に南条あやのようなカリスマ性を持った人物は表れていない。第二の南条あやと呼ばれた者もいるが、それでも彼女程の影響力は持ち合わせていない。そもそも第二の南条あやと呼ばれている段階で、それは彼女の二番煎じでしかないのだ。南条あやが抱え、そしてファンが共感した生きづらさは、社会に広がる一方で、南条あやはもう二度と出てくることのない存在だといえる。

 

  • 生きづらさと核としたインターネットコミュニティの形成

 南条あやが活躍していた1990年後半はインターネットが普及し始めた時代である。それと同時に、パソコンでもHP作成が容易になったり、携帯電話からのホームページアクセスが可能になったりすることで、個人個人が情報を発信していくようになる。南条あやのWeb日記もそうした流れの中で生まれた。

 上で述べてきたような生きづらさを抱えた人びとは、インターネットを通したコミュニケーションを好む傾向にある。それはインターネットが提供するコミュニケーション環境に由来しているだろう。高比良はインターネットを通したコミュニケーションの特徴を以下のようにまとめている。(森 2014)まず同期性である。これはコミュニケーションが時間的に同期しているか否かを意味している。対面コミュニケーションは同期を基本としているが、インターネットでは非同期を選択することも可能である。これによって、すぐ反応を返す必要がなくなり、コミュニケーションを吟味しながら返すことができる。次に匿名性である。匿名性は、コミュニケーションの参加者を他の参加者が識別できない「識別性の欠如」とコミュニケーションを行っている参加者を他の参加者が識別できない「視覚的匿名性」の2種類がある。最後に伝達される手がかりの形式が挙げられる。インターネットでは文字を用いることで送り手が言語化した情報のみを伝えることができる。自分がどのような情報を伝達するのかを選択できるのだ。対面コミュニケーションの場合は表情や周囲の反応といった非言語情報も伝達されてしまう。

 

 精神的な病に対して寛容になっている現在でも、精神病に対する偏見は根強く、精神病に対する理解も十分とは言えない。自身の生きづらさを漏らすことは対面コミュニケーションよりも、自分の正体を明かさず、そして自分のペースで発信できるインターネット上の方が好まれることは想像に難くない。渋井は死にたいと願う生きづらさ系の若者を取材するうち、Web日記で共感を求める小百合と出会う。彼女はWeb日記を書く理由として「自分の日常を綴る場所が欲しかったんです。Web日記は自分が感じたことを吐き出すところかな。不特定多数の人に公開することに惹かれた。ネットだったら知らない人も感想とかメールとかくれるじゃないですか」と語っている。(渋井、2007、p.117)また、同じくユカもホームページを作った理由として「居場所を作りたかった」と言っている。(渋井、2007、p.57)

 

 また渋井は著作で、こうした生きづらさ系が開設したサイトの雰囲気を「同じような空気」と感じ、そうしたサイトにアクセスする人たちと「友達になりたい」と思うようになったという彰文や、自分のサイトで悩み相談に乗ることで相手と同時に自分も元気づけていう将人について言及している。(渋井、2007)南条あやもこうした若者と同様に、自殺関連サイトに連日アクセスし、その利用者と親密に交流していた。彼女の婚約者である相馬ヰワヲとも自殺関連サイトで出会っている。実際、こうしたいわゆる自殺関連サイトは、援助的に機能している側面もあると考えられる。末木は自殺関連サイトの利点を次のように語っている。「自殺関連サイトの利用者はそこでのコミュニティ活動や、書き込みを眺めながら幻想的自己肯定感を味わうことによって自らの自殺念慮に対処をしている。つまり、自殺関連サイトはこうした人々の意場所として機能している場合もあるのである。」(末木、2013、p.170)

 

 自殺関連サイトの利用者で形成されたコミュニティは、血縁や地縁でもなければ、趣味縁に類似していながら、趣味縁でもない生きづらさを核としたコミュニティであるといえる。生きづらいことは現実世界では言い出しにくいほか、境界性パーソナリティー障害やうつ、統合失調症など精神的な病を患っていると、その症状によって人間関係の構築もまた困難になる。だからこそ、インターネット上のコミュニティが意味をもつのだと思う。この生きづらさを核としたコミュニティは、しばしば共感がキーワードとなる。上で引用した彰文や将人は、共感できたからコミュニティに惹かれるようになり、その共感から相談にも乗っている。南条あやについても「自分は第二の南条あやである」と自称するファンや「自分なら南条あやの明るい文体に隠された傷に寄り添えた」という感想が多いことから、ファンは南条あやに深く共感していることが分かる。

 自傷行為をインターネットでカミング・アウトすると、「まずは治療していこう」という雰囲気よりも「まずは行為を認めていこう」「自傷している自分を認めよう」という雰囲気が強まっていく。(渋井、2007)それも、この共感がベースとなっている生きづらさ系コミュニティの特徴を端的に表しているだろう。自傷行為をする人たちが、「カウンセリングを受けているがなかなか自傷行為を治せない」「そもそも自傷行為とは治すものなのか」というような精神医療に対する不信感や疑問を共有し、自己語りや語り合い、認め合い、そして自傷仲間づくりをするようになる。さらに、自分の持つ精神医学や自傷、生きづらさへの対処法などの知識をデータベース化、共有することで、「自傷行為をする人」という自己はますます強固なものとして確立されるようになる。腕を切りたくなったら氷を握ると良い、手首に赤のマーカーで線を引くと落ち着く、というような自傷への対処法もそうした生きづらさ系コミュニティで共有されている知恵である。

 

 共感や当事者なりの知恵によって、生きづらさを抱えた人がその生きづらさを少しでも解消できることには大きな意味がある。しかし、時には生きづらさ系コミュニティが自傷行為を広げる要因にもなる。自傷行為をする人という自己確立がインターネットで共有化され蓄積することで、インターネット上で同じ自傷行為をする人や自傷行為をしていなくともその行為に共感的なひと、自傷行為の奥底にある生きづらさと似たような悩みを抱えている人たちなど周辺層もネットワーク化が進むからだ。(渋井、2007)この行動感染を渋井は以下のように説明している。「本来『自傷』は『生きづらさ』の表現手段の一つであり、『刻印』の一つにすぎない。『生きづらさ』を抱いた人が必ずしも『自傷』をするわけではない。しかし『自傷』という行為に波長が合えば、自傷をしていなかった人でも、同じ行為をして、より心理的な波長を合わせようとする。」(渋井、2007、pp31-32)

 

 自傷オーバードーズというようなアクティング・アウトは、生きづらさを表現する術であることから、その行為の悲惨さを競い合うかのようにエスカレートしていくことが多い。自傷行為の第一人者である松本は、自傷キャラを自認することは、自分でも気づかないうちに周囲の期待に応えようとして自傷エスカレートする恐れがある。また、他人の自傷の写真や自傷を美化する詩は、自傷したい衝動を刺激する可能性があると指摘している。(松本、2015)

 

 このように生きづらさを核としたコミュニティは、従来援助が届かなかった層への援助や自助作用をもっている一方で、自傷行為の感染や集団自殺へとつながる危うさも孕んでいる。また、インターネット掲示板やホームページだけではなくSNSが発達した現代では、新たな様相を生んでいる。

 

 それはツイッターの病み垢に見られる多元化した自己だ。1990年から2000年代にかけては、掲示板やWebブログでの交流が主だったが、現在、その交流の場はツイッターへと変化している。従来のようにホームページを開設する以上に、ツイッターのアカウントは簡単に作ることができる。このことからホームページで交流していた時代と比較し、多くの若者が気軽に病みアカウントを持つようになった。電通総研の調査によると、最近の高校生、大学生の半数がツイッターのアカウントを複数所持している。(電通総研、2015)これは前述したように、メンヘラという言葉が一般化していった流れとも関連しているだろう。浅井は現代の若者のアイデンティティとして、多元化する自己を挙げている。浅井によると多元化する自己の特徴は、つきあいの内容に即して友人を使い分ける傾向、場面によって自己を使い分ける傾向、自分を意識的に使い分ける傾向である。(浅井、2013)

 

 こうした傾向は、生きづらさ系コミュニティの紐帯を弱くするのではないか、と考える。インターネット上でそれぞれ異なる名のついた自分が存在することは、生きづらさ系コミュニティのアクティング・アウトを冷静に客観視できるようになることでもある。その意味で、多元化する自己は生きづらさ系コミュニティの危うさを解消することにもつながる。しかし、病みアカウントの運営者の自殺は依然として起こっている。掲示板では文字媒体のみのコミュニケーションに限られていたが、技術の進歩が写真、音声、映像を用いたコミュニケーションを可能にしたことにより、さらにそのアクティング・アウトが過激化していくこともあるからだ。

 生きづらさが時代と共に変容していくように、その生きづらさ系コミュニティも変化していく。特にコミュニティの形成はコミュニケーション手段に左右されることから、コミュニティの在り方は、生きづらさそのものより時代の影響を受けやすいだろう。

 

おわりに

 本レポートでは、生きづらさとそれを核としたコミュニティについて、時代の変遷と共にまとめた。生きづらさとは普遍的にそこにあるもの、というよりも、その語り方によって変容していくことが分かった。それは、生きづらさ系コミュニティも同様であり、これからも技術の進歩やコミュニケーション様式の変化と共に、変容していくことが推測される。生きづらさを抱える者から大きな支持を受ける南条あやの日記であるが、彼女自身も生きづらさの変遷に組み込まれた存在であることを実感させられた。

 

参考文献

 浅野智彦(2013)『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』河出書房新社

 雨宮処凛(2008)『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティ、ナショナリズ

ム』光文社新書

 雨宮処凛(2009)『排除の空気に唾を吐け』講談社現代新書

 渋井哲也(2007)『若者たちはなぜ自殺するのか』長崎出版

 自由国民社 編(2015)『現代用語の基礎知識自由国民社

 末木新(2013)『インターネットは自殺を防げるか コミュニティの臨床心理学とその

実践』東京大学出版会

電通総合研究所「若者まるわかり調査2015」

http://www.dentsu.co.jp/news/release/2015/0420-004029.html (最終閲覧日:2017

年8月13日)

土井隆義(2008)『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』ちくま新書

南条あや(2004)『卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記』新潮社

南条あや(1999)「南条あや保護室http://web.archive.org/web/20030805035852/nanjouaya.com/hogoshitsu/memory/index.html (最終閲覧日:2017年8月13日)

松本俊彦(2015)『自分を傷つけずにはいられない―自傷から回復するヒント―』講談   

森津太子 編 (2014)『放送大学教材 社会心理学放送大学教育振興会

終わりの見えないしんどい

 

 久しぶりにブログを書く。

 中学、高校時代は呼吸困難になりそうになりながら、もがくために書いていたのに、大学に入ってからすっかり書かなくなったなぁと思っていた。

 第一志望の大学はとても楽しくて、民俗学文化人類学、宗教学、文学などなど、本当に自分が好きでたまらないものを思い切り学ぶことができる。今までは変人扱いされてたけど、ここではそんなことない。初めて思い切り語れる友達ができた。小さく、どこに行くにも飛行機が必要だった沖縄を出たことで、今まで見たことのないものにたくさん触れることができた。

 だから、もう書かなくても良いんだなって思っていた。大学生になって、昔のような書かなくちゃどうにかなっちゃいそうという衝動がなくなったのは、自分が満たされているからだと思っていた。

 

 でも、今書かなくちゃどうにかなっちゃいそうだし、とてもしんどい。

 何で自分がしんどいのか分からない。思えば、思春期を迎えた頃からずっとしんどい。中学高校は単純に学校が合ってなかったから、自分のしんどさは全部学校のせいにしていた。でも、大学になってもやっぱりしんどい時はしんどい。どうしてだ。

 

 特に11月末になるとダメだ。5年連続でダメになっている。ダメになっている、というのは、胸がわさわさして、とにかくしんどい以外の感情がなくて、他人の生活音さえも耳に刺さるし、集中力がない。頭がちゃんと動いていない気がする。でも、こうやって文章書いていられるくらいだからまだまだ大丈夫。しかも、12月もしばらく経った頃にはまたいつもの通りになる。本当にこれの繰り返し。

 

 伊達に生きづらさを生きてないから、いつまでもこの状況が続くわけじゃないことも分かっている。ある時、徐々にだけど「あれ、なんか大丈夫かも」っていう気持ちになっていく。いつものことだ。

 

 ただ、少しずつ生きづらさを生きるのが上手くなっている気がしていたから、今回ダウンしているのが悔しい。高校時代とは違い、しんどい時はしんどいって言えるようになった。(高校生の私は自分の感情にしんどいと名づけることさえ嫌だったのだ。だって、自分の感情はしんどいだけじゃなくて、本当はほんの少しの怠けとか甘えが入っているから。そこにしんどいって名づけちゃうと、しんどいの言葉の範疇から出た感情が零れ落ちちゃう気がしていたし、自分の感情は自分のものだから何一つこぼれ落としたくなかったのだ)

 頑張れない自分をクズ呼ばわりすることもできるだけ辞めた。自分がクズだとしてもそれを今さら掘り起こして自分自身にぶつけたところで、何も生まないから。睡眠だってちゃんと取っている。QOLをお金で買うことも覚えた。

 しかし、日々を有意義に過ごさないと自分の存在がなくなるような感覚はまだある。いつも何かに追われているような、頑張っても頑張っても自分は決して満足できないという感覚。

 

 11月末にダメになるのは、寒さとか日照時間とか色々あるんだろうけど、その一つの要因には忙しさが多分ある。文化系の部活に入っていた私はいつも11月が忙しい。今年だって、学園祭もあったし、介護等体験もあった、弾丸帰省もした、宗教学実習もあった。どっかで抜かないとダメになるなっていうのはずっと感じていたのにダメだった。本当はダメになっている暇などない。今だって、一か月以上ぶりの休日に片付けなくちゃならないレポートも課題もあった。何で私はいつもそんなに追われているのだろう。別に誰もそんな忙しさを私に求めていないのに。

 

 つまるところ、今回のことだって根は深い。問題は私が空白の時間を過ごせないことと、私は自分を許せないんだなっていうこと。そんなこと、ずっと前から知っていたように思うし、成長がないなぁって自分を責めだすとキリがない。こんなんで私は社会に出られるのだろうか。いや、真面目だから就職そのものはできると思う。ただ、その先もこうやってダメになっちゃう時期があるようでは、健康に働き続けることができるのだろうか。何より、ずっとこのままなんてしんどい。

 

 あーあ、全て思春期をこじらせているせいだと思っていたのに、そうじゃないみたいだ。だって、私はもう成人した。ずっと文学少女に憧れていたけれど、もう少女なんて言える年齢じゃない。尾山奈々も南条あやも越えてしまったし、もうすぐ高野悦子も越える。夭折した少女の日記を集めているだけで、私はきっとおばさんになる。でも、だからって生きづらくないわけじゃないし、中学高校にあった保健室みたいな優しい空間(しかし気持ち悪くてダメだった。今さらだけど考えてみれば私は保健室にさえ適応できなかったのか)があるわけじゃない。

 

 もう、本当に、どうしたら良いんだろうね。

 とにかく幸運なことに大学は推薦入試でしばらくお休みだから、それまで休んで回復したい。思いのままに文章を書いていたけど、私はやっぱり書くことが好きだわ。話すことよりもずっとずっと素直になれる。しんどいとしか書いてないけど、少し楽になった。

 

 それから最後に、尾山奈々は「惰性で生きたくないんです」って書いて自殺した。高校生の私は、それに深く共鳴した。でも、大学生になって一人暮らしをはじめて、惰性でも生きてるってすごいなって思った。本当にぼんやりだけど、電車で行き来している人たちも毎日ご飯作ってご飯食べて生活してるんだなって思ったら、ふいに思った。そう思った時に尾山奈々もあの頃の自分も小さく見えて、何か自分は大丈夫な気がしたんだ。

 

 だから自分は今回も多分大丈夫な気がする(大丈夫だといいな)

帰省と知名のヌーバレー

 

 帰省した。

 旧盆に合わせて沖縄に帰って来た。

 去年の今頃は入試準備に追われていて大変だったし、高校の頃はそもそも夏休みが2週間程度しかなかった。だから、私は沖縄の夏を随分久しぶりに満喫している。

 

 茨城での大学生活はとても楽しい。沖縄に帰りたいなんて思ったことは一度もない。でも、ずっと沖縄が恋しかった。

 

 あり得ない程青い空の下でさとうきび畑の隙間を縫うように散歩をするのも、コーラを片手に沖縄てんぷらを頬張りながら水平線を眺めるのも、大好きだった。帰省して1週間、うだるような暑さの中で、「ああ愛しいな」って思える瞬間にばかり出会っている。

 

 

 旧盆最終日であるウークイの日に行われた、知名のヌーバレーに行って来た。ヌーバレーは沖縄県南部で旧盆明け行われる祭りのことで、お盆が終わってもグソー(あの世)に帰れない魂を追い返す祓いの儀式。そうは言っても、決して厳かでもしめやかでもない。エイサーあり、日舞あり、手話ダンスありの楽しい行事だ。

 中でも、沖縄県南城市旧知念村の知名地区で行われるヌーバレーが有名で、何度も色んな人から「とりあえず見ていた方がいい」との助言を受けていた。今年はたまたま日程の都合があったこともあって、行って来た。

 

 

 ヌーバレーが好きそうな友達も居なければ、母にも伯母にもフラれたので、一人で行って来た。せめて場所だけは知りたい、と役場勤めの伯母に連絡をしても「知名のバス停で降りて、音が鳴ってる方に歩けばいいさーね」とのアバウトすぎる回答。一時間に一本程度しかないバスも、まさかの20分遅れ。

 「沖縄ってこんなんだったな」と笑えてくる。炎天下の中で待たされるのは嫌だけど、ヌーバレーが行われるのはすっかり日差しも和らいだ夕方。伯母の言うとおり知名のバス停で降りたら、耳馴染みのあるエイサーが聞こえてきた。会場は山近くの広場で、舞台は幕も背景も全部手作りだ。

 

 小さな地域の行事なのに、観客はたくさん。「内地から孫から来たから、一緒に見てるわけよー」と語るおじいに、「一度来てみたいと思ってた」と笑うおばさん。広場のまわりにはレンタカーも停まっていて、若い子が一人で参加するのは浮くかなとの心配も杞憂だった。お盆で余ったレモンケーキとさんぴん茶をお供にして、早速腰掛けてみる。(ベテランの方は座布団持参で観覧するみたいで、次回からの参考にしよう)

 

 

 ヌーバレーの何が凄いかって、演目が何でもアリなところだと思う。そしてその一つ一つのレベルが高くて、観客も一緒に盛り上がれる。演者は地元の人ばかり何だけれども、忙しい中しっかり稽古も積んでおられて、知名のヌーバレーにかける思いやプライドが伝わってくる。

 

 私が到着した頃にやっていたのはPTAの子供エイサー。その次は日本舞踊だった。しかも演目は『細雪』。季節感も地域性もまる無視じゃん!って思うけど、舞台に上がったオバサマ方は優雅に踊って、合いの手にはおじい達の指笛。なんじゃそりゃって、笑っちゃう。でも観客も演者もすごく楽しそうだから、私もすごく楽しくなる。

 区長の挨拶の時には「おじいちゃん~!」という孫からのラブコールが聞こえたり、「浮気節」のダンスでは「あい、〇〇さん太ったんじゃないの~もう年だね」なんていう勝手な批評が聞こえてくる。私にとって知名は決して地元ではないし、演者も他人に過ぎない。でも、そんなことなんてどうでも良くなるくらい、十六夜のヌーバレーではみんな距離が近かった。

 

 ヌーバレーも佳境に入ってきたころに披露される組踊は、琉球語で演じられる。学校や国立劇場おきなわで上演される時は、共通語の字幕がつけられるものだけれど、もちろん手製の舞台には、そんなものはない。

 私は琉球語が理解できない。自分の祖父母の会話ですら、本質的なことは何も分かっていない。ここでも、周りの大人が舞台を観て笑っているのに対して、どこか置いてけぼりをくらった気持ちになったのは事実だ。

 ジェネレーションギャップは確かに存在するし、このギャップは沖縄において深い溝を生み出す。そのことをきっちり受け止めたうえで、それでも私はこのイマイチ理解できない組踊から目を離せなかった。いつだったか、高校にやってきた字幕付き・解説付きの『執心鐘入』より面白かったかもしれない。

 どうしてだろう、と思う。劇場で披露される組踊は高クオリティーだ。でも、問題はそういうことじゃない。私は多分、知名のヌーバレー会場で、他のおじぃ・おばぁ達と時間を共有していること自体が面白かった。訳の分からない言葉の海で漂っていることが気持ちよかったのだ。

 

 昔の田舎の行事って全部こんな雰囲気だったのかもしれない。飛び入りで鑑賞していた私が楽しめたのは、演者も観客も本気で楽しんでいるからだと思う。言い換えれば、知名のヌーバレーは確かに生きているのだ。

 

 伝統として受け継がれてきているから、自分の代で止めるのは嫌だから、なんていう理由でダラダラ続いている行事が沖縄にはたくさんある。日本化が進み、琉球語も理解できなければ、行事の意味も分からない人が増えているのだから、当たり前である。

 私こそ、何となく民俗や宗教が好きだから地域の祭祀に参加しているけれど、それももっと幼い頃から触れてきた人とは、持ちあわせているものが違うんだろうなぁと思う。行為一つ一つに対して、頭で考え理解して解説することはできても、それを本当にやり続けてきた人と世界観を共有するのはとても難しい。

 

 

 習慣にならってただやっているだけの行事にはないパワーが、ヌーバレーにはあった。そのパワーはそこに飛び入り参加した他人までもを楽しませてしまうパワーである。

 もちろん、文化は変化していくのが自然な形だ。知名のヌーバレーを支えている地謡。高いレベルで、本当にこの地謡があるからこそのヌーバレーであると思う。今年はそのお弟子さんという二人の留学生が来ていた。

 聞くと日系アメリカ人で、先祖に沖縄県人をもつらしい。演奏後英語でコメントしていて、観客はあまり理解できていない様子だったけれども、拍手は一際大きかった。

 あまり口にしたくないけれど、文化が変化していくように世代交代も当たり前のことだ。次の世代がどう関わっていくかに伝統文化の継承はかかっている。知名のヌーバレーに関して言えば、未来は明るいんじゃないかな。

 

 担い手が外国人であっても、演者と観客の言葉が通じてなくても、一つの行事を作りあげることはできる。日舞や手話ダンスの類は、昔からある演目ではないだろう。でも、それでいいのだ。(寂しいけれど)例え、ヌーバレーの演目から組踊や琉舞、エイサーといった沖縄文化のアイコン的存在が消えても、担い手が変化しても、演者と観客が一体となって楽しんでいる舞台があれば、それだけでヌーバレーは生きているといえると思う。

 

 私が文化を愛するのは、そういう力強さに惚れているからなのだ。時間の関係で、最後の演目まで観ることができなかったのが非常に残念。来年こそはリベンジしたいし、いっそ念仏踊りの影響がみられる国場エイサーも手登根エイサーも観たい。本音を言えば石垣のアンガマも観に行きたい。目取真の綱引きも外せない。まだもうちょっと帰省は続くけれど、もう既に来年の帰省が楽しみだ。

 

 それにしても、盆行事って面白い。県立図書館で調べてみたけれど、ヌーバレーの起源はよく分からないし、エイサーと本土の盆踊りは密接に関わっている。大学に戻ったら調べてみたいことがまた増えた。

ほおずき市に行ってきました

 

 7月9日・10日に浅草寺で行われていたほおずき市に行ってきた。

 

 私が行ったのは最終日である9日の夕方だったこともあり、浅草駅を降りた瞬間から凄まじい流れの人・人・人。正直引き返そうかと思うくらい。でも、すれ違う人の中には浴衣姿の方もチラホラ居て、しかも一様にほおずきの鉢を手にしているものだから、その輝きたるや素晴らしい。額に光る汗が一層夏を感じさせるから、私も意を決して人込みの中に飛び込む。

 

 

 

 日本の伝統文化は都市化により忘れられつつある、なんていうのが通説だけども、人込みの中にもまれていると、そうじゃないんじゃないかなと思いたくなる。近所のフラワーショップでも買えるような花を買いにここまで出かけるなんて、よっぽどの物好きだ。

 

 

 

 そうは言えども、私も物好きの一人。人込みにもまれながらも、ハッとするくらい鮮やかなほおずきの花を目にすると嬉しくなる。

 紺地の浴衣に朱の花はすごく映えてて、美しい。緑の葉はどこか涼し気だ。大勢の人がほおずきを求めて賑わうなんて、実は豊かなことなのかもしれない。夏日だったのにも関わらず、ほおずき市に来る人はいい顔してた。

 

 

 フラワーショップでほおずきを買わずに、わざわざ浅草まで足を運ぶのは、どこかでこの熱気を楽しみにしているからではないか。「人ごみは嫌ね」なんて言いながら、ほおずきを選んで、自宅に飾らないと夏がやって来ないからではないか。

 

 そもそもほおずき市は、観音信仰との関わりが大きい。ほおずき市の開催日である7月10日は四万六千日 と呼ばれ、この日に参拝すると4万6千日参拝したのと同じだけのご利益が受けられるという伝承がある。そして、その伝承をもとに大勢の人が寺に押し掛けるから、商魂たくましい市が形成される。これがほおずき市のはじまりだ。ほおずきが仏花として扱われるのも関係が深いだろう。

 

 

 たった一度のお参りでご利益を受けようとする精神は厚かましいし、そもそも仏教と現世利益の結びつきってどうなってるんだと思わないわけではない。でも、そういう言い伝えや行事って、微笑ましい。

 現在のほおずき市は、チョコバナナやりんご飴といった出店も充実している。いつ頃から現在の形が定着したかは定かではないけれども、昔から人は信仰を建前にしたお祭りを楽しんでたんだろうな、と思った。日本の観光の原点にあたる、お伊勢まわりも、そういう側面をもつことだし。

 

 

 もちろん私も参拝しましたとも。因みに閏年である今年は、お遍路のご利益も3倍。川越と二子玉川で簡単お遍路を二回もまわった私には、そろそろ宝くじくらい当たってもいいんじゃないかな。

 

 そして、ほおずきも買った。かなりの貧乏学生で、友達とのスタバもパンケーキも我慢しているのに、ほおずきの鮮やかさを前にすると我慢できなかった。小さな木籠に三つだけだけれども、形の良いほおずきを選定するのは楽しく、自室は一気に華やいだ。

 

 

 そんな豊かさを噛みしめられる人になりたい。季節の行事に参加して、四季の移ろいに気を配れるのも、受け継がれてきた歴史や民衆の声に耳を傾けれる豊かさ。激狭で何にもない部屋だけれども、花の美しさを楽しめる豊かさ。

 普段は課題やらテストに追われて季節の変化に気づかないかもしれない。貧乏生活でスイーツをあまり食べられてないかもしれない。でも、ほおずき市のような行事があって、そこで楽しめるんだったら、私は十分豊かな生活を送っている。