雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

大学院合格していました

 

 この前の日記でちらっと書いたけど、10月末に行われた大きな試験の結果が出た。合格発表は10時、1限目と2限目の間の休み時間で行われた。トイレに籠って、息をひそめて、その結果を見た。自分の身体が次第にこわばっていくのが分かる。でも頭の芯の方は冷めていて、どこか冷静だった。自分の番号を見つけた時、真っ先に来たのは安堵で、嬉しさはジワジワやってきた。合格していた。よかった、本当に良かった。

 

 来年の春から、わたしは大学院生になります。

 

 留学中、「日本の同級生は専門性を高めているのにわたしは全然だめだ」と思っていたのは、この大学院試を見据えていたから。一年留学して4年で卒業したいと思っていたのも、進学を考えていたからでした。

 7月末に帰国して、夏休みは沖縄で調査して、勉強をはじめられたのは結局9月からだったし、本当に間に合うかぎりぎりのところだったと思う。現に過去問を一通り解けるようになったのは院試の一週間前だった。



 先生方、先輩方に「大丈夫だよ」と励まされるたびに「ああ、これからこの期待を裏切るのか」と思ってたし、「結構難しいからねえ」と言われると「もうダメだ」と思っていた。同級生はみんな進路が決まっていることもつらい要因だった。単位互換の問題も抱えていたし、そもそも日中の授業も多いからいっぱいいっぱいになって、卒業を伸ばすことを何度も何度も考えた。

 

 ただ救いだったのは、勉強していることが楽しいと思えていたこと。気持ち的には大分追い詰められていたけれど、民俗学事典を持ち歩いて、付箋だらけにして読んでいるのが楽しかった。わたしの大学生活、興味の赴くままに走ってきたけれど、それを整理する貴重な時間だったかもしれない。低いスタート地点だったからこそ、一日いちにちの伸び幅も大きくて、昨日の自分より今日の自分は確かに進んでいるのだと思えた。そういう気持ちがあったから、今回の結果がダメでもまた挑戦しようと思えていたのだと思う。

 

 


chAngE Miwa

 

 

  私の受験ソングはmiwaのchAngE。といっても、ひたすら聴いていたのは高校生の時で、大学入試の直前にもこの曲を聴いていた。今でも覚えている、高鳴る胸の鼓動を抑えながら音楽を聴いていた時のこと。

 

 chAngE なびかない 流されないよ

 今感じることに 素直にいたいの

 

パターン化したこんな世界じゃ 自分が誰なのか分からなくなる

枠にはまりたくないわ 決めつけないでよ

 

 あの頃の自分は、とにかく今を変えたかった。沖縄で感じていた閉塞感。高校に居た時は自分を否定されているような気がした。だから、絶対に沖縄を、実家を、あの環境から出なくちゃダメなんだと思っていた。あの焦燥感にも似た、切実さ。自分の中の熱い感情が沸き上がってどうしようもならない時があったから、私は今ここに居ると思うし、大学に入ってわたしは確実に変わった。

 今では信じられないけれど、高校入学時には今いる大学の存在すら知らなかった。私は沖縄の大学とか看護学校に行って、沖縄から出ずに人生を終えるものだと信じてやまなかった。私が行った高校だって、高校受験の時には「あんたがあの高校でついていけるわけない」と母に言われていたし、結局沖縄を出たことに対する罪悪感はある。進路選択時に誰かがかけてくれた言葉とか、小さなちいさなきっかけが積み重なって、いまがあるけれど、そうじゃなかった人生もかなりリアルなものとして自分の側にはあるのだった。

 

 大学に入って、これまでの人生では出会うことのなかった人たちに出会った。それは引け目にもなったりしたけれど、新たな道が見えるようにもなった。勢いで決めた留学も、友達や先輩が海外に飛び出していくのを見て決めた。そうして得たものは大きい。大切なものを得られたからこそ、高校生までの自分が感じていた閉塞感もいつの間にか感じなくなった。ただ、得たものが大きいからこそ、自分が子供の頃に描いていた未来図との差も大きくて。そこに対する戸惑いも、確かにある。

 

 そうやって思い返すときに、18歳の時の自分の切実さを、21歳の私はちゃんと受け止められているのか、と思う。18歳の時がらりと進路を変えたこと、その後の生活。大学院試の勉強をしながら、大学に通いながら、miwaのchAngEを聴いて、あの切実さを思い出せば出すほど、あの切実さから遠ざかっているのを感じていた。いつの間にか思春期は終わってて、あの時「絶対に忘れない」と思った感情までもが遠くにある。

 

 大学院に合格して安心したのは、進路未決定の不安から逃れられたこと、プレッシャーからの開放以上に、あの時の自分を裏切らずに済んだからだと思う。私はいまも、自分で最善だと思う道を選んで、そこでちゃんとやれることをしっかりやっていますよ、という自信を持てて良かった。

 

 大学に入って「私は変わった」と思うところ、高校の頃の自分なら人文系で大学院進学という進路は選ばないだろうなあと思う。高校の頃自分が辛かったのは、周りが押し付けて来る「正しさ」に敏感でありすぎたのだろう。高校の勉強をせずに文章ばっかり書いて好きな勉強ばかりしてごめんなさいとか、学校に馴染めずに学校行けない日があってごめんなさいとか、常に思っていた。偏差値教育に反吐が出ると思っていたけれど、反吐が出るのはそれを自らが内面化しているからだとも意識していて、そんな自分も嫌いで仕方なかった。「大切なのは自分がどうありたいか、それだけだよ」と言ってくれる大人は周りにいたのに、その意味がわからなかった。

 

 でも、今は自分が最善であるという道を選んで、そこに対してきっちり結果も貰って。社会的にそれが「賢い」生き方なのかどうかなんてどうでもよいなあと思えてしまうのだった。もちろん、経済的なところなどはしっかり考えているし、いつまでも親の支援を受けているわけでもない。だから、誰かに何を言われても知らん顔すればいいし、自分は胸を張れる。もちろん、その思いが揺らぐ日もあるんだけれど。

 大学院に合格してジワジワ込みあがってきた嬉しさはそういう類の実感でもあった。ああ、良かったなあ。春からの生活で、何が変わって何が変わらないか分からないけれど、新生活を楽しみに思えることが幸福だ。

 

 

 次は12月中旬までに卒業論文を書く。分かりきっていたことだけども、日々が目まぐるしい。でも、年末まで走って走って走り抜きたい。

 

近況報告:秋になった北関東でちゃんと生きています

 

 熱い日差しが照り付ける沖縄に住んでいたこと、ましてや私が中国語を操って台湾で生活していたことなんて嘘のように、私は今北関東の暮らしにすっかり馴染んでおります。

 写真は、沖縄から茨城空港への飛行機。窓から田んぼが見えて、わぁっとなった。そう、これがわたしの知っている北関東だ。約一年の留学と、二か月の夏休みを経て、私は元居た大学に戻ってきたのだった。ただいま、わたし。ちゃんと大きくなって帰ってくれたかな。

 

 今回お引越しをしたのも大きな生活の変化だった。今までは大学の学生宿舎に住んでいたんだけれども、学生宿舎で悶々と息詰まった記憶がよみがえってくると、どうしても戻りたくなかった。そうこうしているうちに同じタイミングで留学から帰ってきた友達とルームシェアをすることに決まったのだった。自分で契約したアパートに住むのも、友達とルームシェアするのも、はじめての体験で、留学が終わっても刺激的なことはそこかしこにあるなあと思った。友達とのルームシェア、相手の生活が染み込んでいくような感覚があって、今までにない生活です。色々あるけれど、それなりに楽しくやっている。

 

 ただ、冷蔵庫などの大きめの家電は友達が預かってくれていたとは言え、移動手段がほぼ自転車しかないこの土地で新しい住環境づくりを行うのには骨が折れた。数キロ先のニトリやホームセンターまで往復して、100均に行って、スーパーにも行って、そうしているうちに、残り少ない夏休みはなくなり、新学期がやってきた。

 

 

 久しぶりの日本の大学は緊張したし、やっぱり楽しかった。単位互換問題や教育実習のことなど、頭が痛くなるような問題は次々起こって、そのたびに心がいっぱいいっぱいになってちょっと泣いていた。

 

 現状報告、実は卒業単位が足りてなく、さらに言うとその足りていない単位は今学期履修できず。このままだと確実に卒業が怪しくなっているんだけれども、台湾大学での単位をどうにかこうにか互換することで何とか卒業しようとしている。でも、その結果が出るのは11月で、まだまだ不安はある。この件について泣きついたら先生方がたくさん相談に乗ってくれ、どうにかこうにか単位互換が成功するように、そして万が一単位互換が失敗しても卒業できるように、と作戦を立ててくれた。本当にありがたい。

 

 それでも今学期もわたしの履修はパンパンで、卒論込みで30単位。正直4年秋学期の履修ではない。でも、久々の母語で受けられる授業が面白くって、今学期はがっつり集中して聴いていることが多い。

 日本の大学に帰ってきたことの感想はまたどこかで書きたいんだけれど、一年離れていたからか日本の大学の良さもたくさん感じている。なんかさ、台湾の本科留学生がよく「日本の大学生は遊んでばっかりでしょ~笑」とか言っていて、私もモヤっとしながらうまく言い返せない、みたいな感じを繰り返していた。日本の大学生は勉強しないという固定観念が私自身にもあった。でも、帰ってきてから思ったのは「日本の大学生は勉強しない」ってことはなくて、ただ単に私が勉強していなかったんだということ。私の友達は卒業単位を取り切っている子ばっかりだけれども、最後の学生生活だからとみんな結構授業を取っている。そういう友達に刺激され、わたしも今まで一度も触れてこなかった考古学とかも履修してみたり。これがまた面白いんだ。わたし、絶対考古学好きなはずなのに今までタイミングがなくて履修できてなかっただけだったわ。日本での学びと、台湾での学び、その種類が違うんだよね。言葉を覚えて、生活をしながら、肌で学んだことはたくさんある。その一方で、母語だからこそ到達できる深さもきっとあって。日本に帰ってきて、良さがまた発見できて良かったと思う。

 

 教育実習もこのままいけば、来年の9月に行えるはず。しかも、大学に入ったときから「ここで実習できたらな」と思っていた学校で。教科は日本史です。本当は国語という手もあったし、最初はそのつもりだったんだけれども、いろいろあって変わった。大学に入った時から変わってないことも、変わったこともあって、そういう積み重ねがこの四年の成果のようにも感じたり。変化も、変化しなかったことも、私がここで色々考えてきたことの結果だもんね。

 進路は未だ未決定で、来年の予定が全然決まっていない私だけれども、とりあえず教育実習を行うことだけは確定。この予定は、ふわふわと浮いていた私の心を留めてくれた。教育実習を行ったあとのことは、またおいおい考えようと思う。そもそもまず、教職関係の集中講義は怒涛のようにあるし、教育実習までの道のりも楽じゃない。

 

 

 それから、留学終了後に受けたHSKの結果が出た。なんと5級、6級同時合格。5級はさすがに受かっただろうと思っていたけれど、6級に関しては過去問を解く余裕もなく、手ごたえもよく分からなかったからびっくりした。HSK6級は最高級なので、HSKの受験はこれにてとりあえず終われる(スコアにこだわったらキリがないんだけれど)留学中はあんなに「中国語ができない」とがんじがらめになっていたけれど、目標をすんとクリアしてみると、イマイチ実感がない。HSK6級保持者はもっと中国語できると思っていた、というのが正直な感想。嫌味ではなく、だって、だって、わたしはまだまだだという意識がある。

 

 実際にHSKの結果が出た翌日に大きな試験があった。私の進路に関わる大きな試験。(結果が出るまでボヤして書く)中国語はその試験科目でもあったんだけれども、やっぱり難しかった!これはHSK6級が大したことないってわけじゃなくて、私が「どういう場で、どんなふうに中国語を使いたいか」というところに肝がある。

 台湾で出会った日本人の多くが「HSK6級はある意味スタート地点にすぎない」と言っていた意味がわかる。道はどこまでも続くのだ。そうは言っても、留学前にゴールだと思っていた場所を通過点と思えること、これには自分自身の成長を分かりやすく感じられて良い。評価するところはしっかり評価して、でも次をしっかり見据えていきたい。この中国語能力をキープしたいという消極的なところではなく、これからもどんどん伸ばせたらなあと思う。

 

 またその大きな試験の為、今月は民俗学の勉強もしっかりした。試験勉強というのが苦手で、あんまり集中できなかったなあというのは反省なんだけれども、同時に半ば強制的に体系だって何かを勉強する機会もまた貴重だなあと思った。概説書を何冊か通して読んで、分厚い中項目の民俗学事典を通しで読んで、また小項目の民俗学事典を覚えて、直近5年分の雑誌も読んで。恥ずかしいんだけれどもそうしてやっと自分が専攻しているものが一体どういうものなのか、うっすら分かった気がする。いや、まだ分からないんだけれども。学史もちゃんと勉強して、自分の居る大学がどういう大学なのか。また自分の問いが学史上のどこに位置付けられるのかも考えたり。

 

 試験そのものの結果はまだまだ出ない。試験勉強しながら自分の至らなさをひしひしと感じていた日々だったし、今回だめでもすんなり立ち直れるような気がしている。チャンスはまだあるので、今回だめなら次の機会に向けてまた頑張ればいいやと思う。試験勉強の開始が遅れたのも、その手の勉強があまりできてなかったのも、留学していたことが影響しているんだけれども、試験勉強をしながら一度も留学を後悔しなかった。わたしはその時々で自分が一番いいと思う決断をしっかりしているんだから、その先どこに何が繋がっているか分からないけれど、大丈夫な気がするのだった。

 

 秋になった北関東でちゃんと生きています。

 以上、近況報告でした。大きな試験が終わったおかげで心にちょっと余裕ができたから、またこうして日記を書きたいね。

日本に帰ってきました

 

 10ヶ月の台湾留学を終えて、日本に帰ってきました。

 本当はもっと前にこの日記を書きたいと思っていたんだけれど、帰国してからもう1か月半が経ってしまった。

 日本に帰ってくると、一気に色んな問題が降りかかる。帰国翌日から家族が入院、手術したこと、つくばと沖縄を往復して秋からの新生活準備をしていること、半年で卒業論文を書くため調査をしていることなどなど。とりあえず卒論提出して、進路も決まっているだろう年末まで、立ち止まることは許されない。だから、なかなか台湾での日々を言葉にする機会を失っていた。台湾での生活と日本での生活、それぞれ空気が違うから、私が台湾に10ヶ月住んでいたことすらも忘れてしまいそうだった。

 

 だからこそ、今一年前の日記を読むとハッとさせられることは大いにある。

kinokonoko.hatenadiary.jp

不安も挫折もあった。ルームメイトとは結局最後まで仲良くなれかったし、外国人の友達をたくさん作ってパーティ!みたいなものとは遠い日々だった。

一年前の私は「台湾に来てしまった」と表現している。本当にあの時はそう思っていたのだ。留学を決めること自体、やらかしたんじゃないかって。

でも、その一年後のわたしは胸を張って「台湾に行って良かった」と言える。中国語もできない小娘に台湾人はたくさん耳を傾けてくれた。台湾のことを「民主的な中国」だと思っていたわたしは、多様で重層的な台湾に圧倒されていたし、台湾からみえる日本も、沖縄も発見の連続であった。

 

 今ならはっきりと言語化できるのだけれども、私が留学を決めた理由の一つに「沖縄と本土の二項対立にうんざりしていた」ことがあった。たとえば就職。沖縄で就職するか、東京で就職するのか、その人生における大きな選択はまだまだできそうになかったし、どれを選んでも後悔しそうだって思っていた。私は自分が「沖縄の子」であることを強く意識しているからか、関東での日々では「沖縄との違い」ばかりに目に行っていた。沖縄に、私は固執しているんじゃないかって思っていたし、それでも「あなたって本当に故郷愛が凄いよね」って言われると反発したい気持ちもあった。沖縄は確かに大事だけれど、関東も沖縄も好きなところも嫌いなところもそれぞれあるんだった。そもそも私はどうして沖縄を出たんだっけ?関東ではこんなに沖縄を恋い焦がれているのに、高校までの社会でうまく馴染めなかった苦い記憶が胸にはあった。色んな気持ちでぐちゃぐちゃになったから、沖縄と日本本土のほかにもう一つの物差しを手に入れたくて、台湾を選んだんだった。

 

 

 台湾は民族的にも、歴史的にも多様で重層的な場所だ。留学生仲間もみんな色んなバックグラウンドを持っていたから、いつしか私は、複雑なものを抱えたまま生きて良いんだなと思った。私のなかの複雑な思い。沖縄と日本本土と、しっかり分ける必要はなし、どっちかを選んだらどっちかを得られないわけでもない。

 

 実際、台湾は私にもう一つの物差しを与えてくれた。もう一つどころではないかもしれない。私はもともと琉球王国時代への関心が強く、そこから中華圏への興味があった。だから、私の関心のフィールドは沖縄を中心とした、東アジアだなあと漠然と思っていた。でも台湾原住民と出会ったことで、興味の幅がぐっと南の方にも広がった。台湾原住民について学んで、集落に足を運んで、博物館インターンをしたこと。本当にこれは私の留学を大きく変えた。私の留学を豊かなものにしてくれた。

 

 もう一つの出会いは、祖父母の台湾疎開について。昔からぼんやりとその話を聞いてはいたけれど、真剣に考えたことはなかった。それが台湾でジャーナリストさんと出会ったことで、一気に関心と理解が広がった。「日本統治時代の台湾で沖縄の人はどう暮らしていたんだろう」大きな問いが生まれて、長期休みには弟と二人、曽祖父が赴任していた竹山まで足を運んだこともある。日本統治時代の台湾に関心をもって、本も読んだし、講演会などもできるだけ足を運んだ。台湾のことを、ある種の自分事として学ぶことができたのも、自分のルーツがそこにあったからだ。現在、台湾はリノベーションブームということもあって、日本統治の建物がオシャレスポットへ変身している。そういう時期に留学できたのも良かったのだろう。ノスタルジックに歴史を語るだけではなく、歴史や文化をどう「今」に活用していくのか。台湾は街を歩くだけで無限の学びを与えてくれた。

 

 一年前の私と今の私を比べると、今の私は自信がついたなと思う。それは「中国語が少し話せますよ」みたいなスキルの上での自信ではなくて。「なんとかなるさ」と言える類の自信。私は、言葉も通じない国で、自分のペースで生きることができたんだなあという自信。何も出来ない私に手を差し伸べてくれる人がたくさん居たんだなという安心感。肝が据わったともいえるかもしれない。

 

 今思えば、本当に幸福な時間だった。台湾で毎日自分の興味に合わせてお祭りに行けたこと、本を読んでいたこと、映画を観ていたこと。日本からぽかんと切り離された時間だったからこそ、不安もたくさんあった。けれども、そういう時間だったからこそ考えられたことも、飛び込んでみれたこともあった。

 

 もちろん、留学に行ったことで失ったものもあるだろう。例えば、台湾大学での授業を受けながら、母語で興味のあることを専門的に学べることのすばらしさを痛感していた。就活だってそうだ。一旦保留にしてしまっている。それでも不思議と後悔していないのだった。

 

 台湾留学に対する私の気持ちは、時が経てばたつほどまた変わるかもしれない。そういったことも全部含めて、私は今後のことも楽しみである。これから大変なことはたくさんあるけれど(そもそも半年で卒論を書きながら、来学期は授業もたくさん受けるのだ!)その時々で最善だと信じられる選択をしていれば、いつか行きたい場所にちゃんとたどり着けるような、そんな予感がする。

 

 色んな体験をさせてくれて、言葉ができなくても耳を傾けてくれて、ありがとうね、台湾。

 

 

台湾大学の学修を終えました。ただいまインターン

 

 

 ほんの1ヶ月前は台湾大学の交換留学生として、毎日授業に通っていたのだ、というと嘘のように思える。私は台湾大学での学修を終え、台湾大学学生寮も追い出された。交換留学で私が台湾に居られるのはたったの10ヶ月しかない。だからだろうか。毎日がめまぐるしくて、1ヶ月前のことがひどく遠い昔のようにだって感じられるのだった。
 前回の日記を書いたあと、端午節のフィールド調査をしたり、彰化への旅行に行ったり。期末のテストウィークにさらされたりもした。

 


 そう、テスト!やる気がどうにも起きず、大変おっくうだった。単位はすべて回収できたけれど、最後まで台湾大学での勉強があんまり好きになれなかった。私の語学力のせいで、多くの科目は教養科目にすぎなかったこともあり、授業に関してだけ言えば、日本に帰って勉強したかったくらい。私は日本では大学四年生で、教養科目で習うようなことはすでにどこかで聞いたことばかりだったのもあるし、日本の友達と比べて勝手に焦っていたところもある。そんなんだから、テストにも当然やる気を見いだせず。何とか乗り切ったという表現が正しい。単位はすべて来たけれども、苦しかったな。やっぱり自分がやりたくない勉強からはできるだけ避けていたいよ。

 


 その合間で、台湾大学でできた友達とのお別れもしたし、桃園の山奥のタイヤル族集落へ出かけたこともあった。ずっと行きたかった故宮博物院の南院に行けたことも良い思い出だ。台湾大学学生寮は入居時から汚かったわりに、退去の際の掃除テストは厳しく、引っ越しには手間取ったし、大層くたびれた。

 

 

 本当に色んなことがあった。多くの留学生が帰国するなか、私は台湾留学の延長戦というべき時間を過ごしている。台湾大学からひと駅離れたアパートに住み、留学開始時からの予定どおり、台湾原住民関係の私立博物館でインターンをしているのだ。朝7時半には家を出て、満員電車に揺られて1時間ほどの道のり。これまで約9ヶ月台湾に住んできたけれど、今まで見てきた台湾と、インターンをしながら見る台湾がまた少しだけ変化しているのが面白い。


 通勤途中何となく車窓を眺めていると、健康体操をしているおばちゃん達の姿を見つけたり、ここの通りには朝ご飯屋さんが立ち並ぶのだという発見をしたり。日本の通勤の様子は、スーツの人ばっかりでなんだか黒っぽいけれど、台湾はものすごくラフだったり。気楽な交換留学生だった頃は、そんな朝早い時間に電車に乗らなかったし(そもそも授業があった)自分自身の時間の余裕からか、台湾もゆったりとした町並みに見えていた。ただ、今度は自分が9時から17時という出勤時間をもってみると、台北もせわしなく思えるのだった。少しずつ、台湾人のリアルな金銭事情も耳にして、私が奨学金で買っていた物の価値を再認識する。


 私はできるだけ色んなところに足を運ぶよう心がけていたし、台湾についての本もできるだけ読んできた。それでも、私の知らない台湾は無限にあって。立場の数だけ台湾があるのだということを何度だって突きつけられる。今をそれを肌で実感できて良かったのかもしれない。私はもうすぐ日本に帰る。日本に帰ったとき、私が見てきた台湾を台湾のすべてのように語ってはいけない。それと同じように、気楽な交換留学生の、たった一年しか住んでない私が目にした台湾を、価値のないものとして語ってもいけない。自分が見てきたものすべて、自分の財産だし、真実だ。謙虚に、けれども卑屈にならないようにして語ろう。考えてみれば、交換留学にインターンを組み合わせるような形の留学、最初はぜんぜん考えていなくて、大学の先生にお勧めされるがままに奨学金の申請書を書いたのだった。インターンできるだけの中国語能力、っていうことはずっと私を悩ましていたし、不安の種でもあった。でも、今になってはっきり言えるのは、挑戦して良かったなという気持ち。留学を決めたころ、一年半前の自分には、今の自分の姿が全く見えてなかった。自分にできるとも思ってもなかった。それにもかかわらず、今のようなかたちの留学をおすすめしてくれた先生や、それを全面的に支援してくれている奨学金の団体(奨学金が取れなかったら留学を取りやめようと思っていた)には本当に感謝している。

 

 

 インターンの方はおおむね順調です。インターン先の博物館は、日本語ボランティアガイドとしてずっと関わってきた博物館。だから、通い慣れているし、職員さんとはすでに知り合いだし、文物に対するある程度の知識もある。でも、ボランティアガイドとして、さらには来館者として、見てきた博物館は表の部分でしかなくて。インターン生として受け入れてもらうなかでの発見も毎日ある。どんな仕事でも、裏方の地道な作業のうえで成り立っているのだなあと思う。一方で博物館の収蔵庫のなかに入ったり、貴重な経験もさせてもらっている。学芸員資格取得のため、去年のちょうど今頃沖縄の県立博物館で実習をさせてもらったけれど、日本の公立の総合博物館と、台湾の私立の専門博物館では、類似点も相違点もあって、日々勉強になっている。特に「民族」博物館でインターンできていることは、私にとって非常に意味のあることだ。日本には民族博物館は少ない(民俗博物館ではない)ということもそうだけれども、文物の扱い方や文物との向き合い方、そのまなざしみたいなところで、考えさせられることばかり。例えば、私がインターンしているのは台湾原住民の博物館なんだけれども、「台湾原住民」として彼らをひとくくりにしない配慮や、文物に関わる合法性の重視などなど。そういった問いに対して、一つ一つ立ち止まって考える機会があるのは、本当にありがたいことだと思う。

 

 インターンを行う上で最も不安だったのは中国語。こちらの点は、周りの職員さんや実習生仲間に大変助けてもらっている。「何とかなった」というより、「何とかさせてもらっている」という方が近いかもしれない。ただ、インターンを行えるくらいの中国語力というのは、留学当初のひとつの目標だったから、一つ自信にもなっている。嬉しいのは、ほかの実習生と同じ実習内容をさせてもらっていること。
 語学力、というだけではHSKや中国語検定で測れるような能力を考えがちだったけれど、実際の生活は総合力だ。インターン期間で博物館についての講義があった。そこでの中国語は、私にとって難しいものも多かったんだけれども、日本で受けていた博物館学の知識が私を救った。IPMといわれて何を指しているか気づけるだけで、理解度はグッとあがる。中国語学部でもないのに台湾留学、というのは語学の面で大変な部分もあったけれど、どこで何に救われるか分からないものだとも思う。

 

 それから、私の実習生仲間の多くは香港の学生だった。台湾の中国語(台湾華語)は特殊なところがあるし、私は私で発音に自信がなかったけれども、彼女たちと仲良くできているところも嬉しいことの一つだ。ああ、私はこの一年で台湾だけではなく、もっと広い世界、中華圏につながる力を手に入れられたんだなあと。小さなことかもしれないけれど、これは嬉しかった。

 

 インターンはまだ続くし、課題もあったりして、これからきっと大変だ。本当に平日はくたくただったりする。ただ、できる限りのものを日本に持ち帰りたい。インターン期間の終わりと、台湾留学の終わりはほぼイコールみたいなもので、焦る気持ちもあるけれど、大丈夫、だいじょうぶ、私は着実に歩めている、と自分にささやこう。