雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

父の7回目の命日

 

 今日は文章を書かないと眠れない、そんな日だ。

 父親が死んで、7年になる日。

 

 よく歴史はある事件の前と後で時代を分けることがある。戦前と戦後、沖縄復帰前と復帰後、ソ連崩壊前と後、9・11前と9・11後、3・11前と3・11後。それだけある事件を前にして生活が激変するということなのだろう。

 それならば、私の20年の人生とは父が死ぬ前と死んだ後で分けられると思う。

 

 中学二年生の春、父親が死んだ。

 亡くなったとか、逝ったとか、永眠とか、そんな柔らかい言葉なんてそぐわないほど、その死は圧倒的だった。中1の学年末テストの頃だったと思う、父親が末期がん宣告されたのは。それから2か月も持たなかった。今まで普通に生きていた人に、死はこんなにも簡単に忍び寄るものなのか。日に日に父は弱っていった。ホスピスという選択肢もあったのにも関わらず、抗がん剤治療を選んだ父は諦めていなかったんだと思う。だから、私達家族もそれを応援していたはずだった。でも、死は確実に近づいていた。それは誰の目にも明らかだった。

 

 思春期の入り口に立っていた私は、その頃ちょうど反抗期だった。

そんな私にとって、父の死は寂しいとか、悲しいとかいう感情以上のものをもたらした。胸にぽっかり穴が開いたような喪失感、それを寂しいと形容することは簡単だけれども、寂しさだけではないことは、自分自身が一番分かっていて。本当に衝撃的だったのは、自分の周りにふと訪れた死だった。

 

 父が死んだ日、とてもとても悲しかったはずなのにお腹がすいた。その時食べた味噌汁と白米と漬物の味が忘れられない。ちゃんと、美味しかったからだ。肉親が死んだ数時間後に食べることができる自分の図太さがたまらなく嫌だった。気持ち悪かった。

 

 父の葬式は仏式で執り行った。我が家は一般的な沖縄の家庭で、ヒヌカンや東御廻り、土帝君という沖縄独自の信仰、祖先祭祀を基本としていたはずなのに。これがたまらなく嫌だった。普段は寺社仏閣を好んでまわっているにも関わらず、本当に許せなかった。父の死、死そのものを自分の言葉で十分に咀嚼するより前に、仏教という大きな観念に取り込まれるような気がしたからだ。

 母にこの巨大な違和感を伝えても、「これが社会常識だから」としか言わなかった。のちに「葬式を執り行うことで死が整理できた」とも感想を漏らしていたけれど、私の違和感はそういう次元のことではなかった。(葬式などの宗教実践が生者の為になる、というのは宗教機能説という、という話を大学の宗教社会学の話で聞いた。その時、母の思う葬式の意義と私の違和感が決してかみ合わない次元で話していることを知った)

 

 思えば、母と何となくかみ合わなくなったのも、父の死後である。

 

 母は父の死後、私達兄弟に呪いをかけた「天国のお父さんが悲しまないように、貴方たちはちゃんとするのよ」と。「不登校なんてもってのほかだし、成績も落としてはならない」

 

 母は愛する人を失った悲しみと向き合う為に1年間仕事をしなかったのに、そんなの卑怯だと思った。でも、母がずっと泣いていて、親戚も先生も「あなたがしっかりして、お母さんを支えるのよ」と言うから、私は逃げ道を失ったのだ。

 今でも覚えている、私は父が死んだ直後のテストで学年5位以内に入った。母は得意気であったけれど、私は何かを置いてけぼりにしたような気分でいた。その気持ちは成人した今でも同じである。私はもう20歳で、父が死んでから7年も経つのに、13歳のあの頃の自分を胸に潜めている。実家から2000キロも離れた茨城で1人暮らしをしていても、私の一部はまだ沖縄南部の田舎に置いてけぼりである。

 

 こうやって脅迫的に文章を書くのも、父の死の前後からだ。私は調子が良い時より、しんどい時に文章を書く傾向にある。もともと本を読んだり書いたりするのが好きな子供であったとは思う。でもその好きが救いになったのは、確かにあの頃からだ。

 

 父の死についても、何度も文章にした。弁論大会みたいなもので発表したこともあるし、読書感想文の題材にしたこともある。エッセイや手紙でも度々話題に上がった。肉親の死は弁論大会やいわゆる「感動作文」の典型的なテーマであるので、反応はあんまり良くないし、自分自身も自分の咀嚼できていない大切な記憶を切り売りしているのではないか、という不安もあった。でも、それ以上に私はあの時感じた違和感を言葉にすることが大切だったのだ。今、こうやって感情的に文章を書くのも、多分そういう気持ちからである。

 こうやって言葉にしてしまうと、自分自身のけなげさに泣けたりするんだけど、父の死を作文の題材に選ぶのは、それについて誰かに話したくてたまらなかった優等生なりのアピールだったのかもしれない。保健室の如何にも「あなたは大人に保護される存在ですよ」という妙に優しくたるんだ空気がたまらなく嫌だった私は、父の話を誰にもしていなかった。当時の担任の先生からカウンセラーを何度も紹介されていたけれど、その度に断っていた。弱い子に見られたくなかったんだと思う。(美術の先生が言ってくれた「親が死んで大丈夫な人は大丈夫じゃないよ」という言葉は少し私の心を氷解させてくれたけれども、先生はすぐ離任なさった)家でもその話題をすると、母が泣く為、家族間でも父の話はいつの間にかタブーになっていた。

 

 だから作文の題材に父の死を選んで、先生からの添削を通して対話できるのが嬉しかった。文章の上ではいつもの数倍素直に弱みを見せることができたのだと思う。でも、私はあくまで優等生的な自分を捨てられなかったので、何度父のことを題材にした作文を書いても、結末を明るく結んでしまうのだった。困難を糧に成長する像、これが中高生の作文コンクールで求められている型であるのは十分に理解していたからだ。大人の顔色ばかり窺う、典型的なバカ。

 

 その状況が少し変わったのが、高校進学後。私は入学した自称進学校が合わなくて、心身のバランスを崩していた。母の言いつけ通り不登校こそしなかったものの、自称進学校では今まで被っていた「優等生」の皮は容赦なく剥がされ、和を乱してばかりだった。授業を抜け出してトイレに籠っていてばかりいた地獄の3年間のはじまりはじまり。

 でも、高校の時に出会った国語の先生は恩師だと思う。あれだけ父のことを話せたのは、あの先生だけだった。父の死をタブー視せず、私を「保護すべき子」とするのでもなく、等身大に向き合ってくださった。学校の先生なのに、私に休むことの大切さを説いてくれたこと。「あなたの感性が好き」と全肯定し続けてくれたこと。高校に合うとか合わないとか以前に、あのままの生き方をしていたら絶対にどこかで転んだであろう私に、適切な転び方を教えてくれたのだと思う。他の先生から「高校のお母さん」と揶揄されていたくらいに、私の親みたいなこともしてくれた。国語の先生で、担任で、部活動顧問でもあったというのも大きいけれど、学校が閉まる20時まで話して、何度も家まで送ってもらったことを思い出す。今、大学で教職を取っているからだけれども、本当に学べば学ぶほど、先生の懐の大きさが身に染みる。

 

 その時からである、父の命日を自分の為に過ごそうと思うようになったのは。学校は休んでならない、という気持ちにがんじがらめだったけれども、「父の死んだ日くらいは好きなように過ごしてもいいんじゃない」という先生の言葉にはっとした。学年主任にこの日が忌引きにならないか交渉してくれたりして、その気遣いが嬉しかった。母にとってだけではなくて、私にとっても大切な日であって良いのだなと思えた瞬間だった。

 

 そうは言っても、父の命日を自分の為に過ごせたことは少ない。法事がある年は、貴重な女手として働かされた。父の死を仏教を通してみることは今でも違和感がある。だから、本当にその日はしんどい。嫌で嫌でたまらない。近所や親戚からの目や母の為にやっているに過ぎない。法事がなくたって、4月8日は高校・大学の入学式と被っていた。入学式という祝い事と父の死。そのコントラストがきつかったし、その節目を感じる度に絶えず前進しなければならない自分と、13歳のまま取り残されている自分を感じていた。

 

 静かに自分ひとりで父の命日を過ごしたのは7回目にして、今年が初めてだ。だから今日は自分の為に過ごしたいと思っていた。本当は旅をしようと決めていた。山梨くらいで綺麗な桜を観たかった。電車に揺られてぼんやりしたかった。けれども前々日くらいから調子を崩していて、そんなパワーもない。理想とは裏腹にベットで死にたくなっていた。

 

 中学・高校の頃の私は父の死以上に、死のもつ力に圧倒されていた。でも、自分ひとりでゆっくりできる時間を見つけた時、初めて肉親を1人失った悲しさに気づいたのだと思う。今、甘えられる大人がゼロなつくばに居るからなおさら。肉親が一人死んだからって、その安心感が二分の一になるとかそんなものじゃない。7年前のこの日、もっと、無条件に自分のことを愛してくれるんだっていう何かが無くなった。母は存命だけれど、前みたいに全体重でもたれかかることはできない。(実際、高校時代に調子を大きく崩した時に「あんたは手に余るしあんたを見てると私もしんどくなる」と言っていた。そういうことも察した担任が介入してくれたのだと思う)

 

 でもそれ以上に、お父さんは私がつくばで頑張っている姿も知らないんだよなあって思ったことが胸に来た。ほんとうに。私の中のお父さんは永遠に、7年前の4月8日から老けないし、生きて居る私との距離は大きくなるばかりだ。なんなら、お父さんの中の私は中学のセーラー服を着ている、永遠に。私が就職して、初任給で何を買うか。どんな職に就くのか。結婚して家庭を設けるかもしれないし、そうしないかもしれない。これから無数の可能性を持って続く、私の人生をお父さんは見ることができない。見たかっただろうなあと思う。私も見せたかった。

 

 7年の月日は長い。中学2年生だった私も、大学3年生だ。でも7年経っても、父の死について、私はまだまだ言葉にできない。ここは学校の作文の場ではないから、正直に書くと、私は父の死を一生抱えながら生きるんだと思う。乗り越えることなんてないし、乗り越える、という言葉は私の実感から離れている。もはや父の死は、父の死後の私を形つくった土台であるからだ。もう一部なのだ。時間ともに父の死に対して思うことは変わってくる。これは不可逆なことじゃない。決して成長なんて言葉で説明されることでない。このことを成長と捉えるのは、あの頃の自分を幼いものとすることになる。父の死から見えること、感じることをそうやって序列化するのは間違いだ。今の素直な気持ちと、あの頃の気持ち。胸の中に居る13歳の自分を蔑ろにしないということは、どちらにも敬意を払うということだから。

 

 旅に出かけることを諦めた私は今日、ヒトカラに行った。1時間だけだけれど、Coccoをひたすら歌って泣いた。帰りにお酒とつまみ、ケーキを買った。遠出をしなくても、つくばの桜はまだまだ綺麗だった。夜だって、自分の為に丁寧に料理をして、Coccoの武道館ライブDVDを観ながらお酒を飲んだ。自分なりに自分を労わったつもりだ。それでも、今の私はどこか不安定だし、例年父の命日から数日は調子がすぐれない。(もともと調子を崩しがちなので、父の死のせいにするのは間違っているかもしれないけれど)でも、それで良いんだ。いつまでも父の死を引きずる自分を貶めない。認める。自分で自分を労わり続ける。4月8日、自分に甘く過ごしたはずの今年もつらかったけれど、いつもの違和感とは違う。今年は例年以上に自分の足で立っている、という実感が強い。来年の4月8日は、今年とはまた違った環境で過ごすだろう。どんな日になるかは分からないけれども、どんな日でも否定しないでおこうと思う。

 

追記

書いてて思いだしたけれど、父の葬式の時、私は丹念に記録を取っていたんだよね。それが何につながるか分からないまま、葬式の様子、周りの様子、自分の感情を丁寧に書き記していた。肉親の死にそういう対応をする私に対して、周りは戸惑っていたけれど、あの頃の私にとってその行為は絶対にやるべきことのように思われた。今勉強している民俗学文化人類学(それがどこまで真剣にできているかは別として)の原点は、確実に7年前の4月8日にあったのだと思う。

 もちろん、父が生きて居る頃から民間信仰や沖縄の文化が好きだったから、父が死ななかったとしても、今と同じ道にいることも考えられる。今の不安定な自分に対しても、全てを父の死に原因を求めるわけではない。ただ、父の葬式の時の日記帳が実習のフィールドノートにそっくりだったことに思うことがある。