雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

沖縄戦を伝え続けていくべき理由、を自分にも問いかける

 写真は実家近くの海。小学生、中学生の頃、よく通って本を読んでいた。海は私の原風景で、やっぱりそこでも自分の中で沖縄というキーワードを感じる。

 

 このずっと放置していたこのブログは、私の中の書くことが好きっていう気持ちを大切にするための場所にしようと数日前に決めた。だから、できるだけどうでもいい話題を書こうって思っていた。ダラダラと思いのままに書く為に。でも、次のブログを読んでしまった。

 

 

yuka-s.hateblo.jp

 

 一つ下の大学生のブログ。沖縄から関東の大学に進学していること、それから彼女も高校一年生の時に県のプログラムでラオスに行っていること(私は1期で彼女は2期にあたるだろう、多分)というところに共通点を感じて、ぐっと惹かれた。

 

 分かる、ラオス研修ってやっぱり衝撃的だった。一方で沖縄との共通点もたくさん見つかった。私たちの代もやっぱり不発弾被害者の為のリハビリセンターに行って、お互いのモヤモヤをたくさん話していた。

 

 (下は当時の日記)

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 ラオスからの帰国後、私の場合は自分の足元を知りたいと思った。そして沖縄の文化に惚れ込んだ。沖縄の土地神、土帝君(とぅーてぃーくん)もその一つ。土帝君について調べているときも、やっぱり戦争による断絶を目の当たりにもした。私は現代沖縄の土帝君について関心があったから、沖縄の各市町村にFAXで質問状を出した。その結果は様々だったけれども、中でも基地のある町からの回答が忘れられない。

 「土帝君は現在も基地の中にあって、調査不可能。住民は住む場所だけではなく、心の拠り所も失ったんです」

 基地のある町だけじゃない。土帝君が沖縄戦で破壊されて、その後復興されていない地域はたくさんある。住民がその土地神をもう必要としていなかったと考えたらそれまでだけれども、そこにも文化の断絶が確かにある。

 

 私は沖縄の人がどのような生活をしているかに興味があって、現在、関東の大学で民俗学を学んでいる。それに加えて、国語の教員免許や地歴の教員免許、学芸員資格の取得も目指している。

 将来はまだ分からないけれど、なんとなく教育に関心がある。でも、学校教育ではないはず。もっと広い意味での教育。いや、教育は与えられるものっていう意味をはらんでいて、それは政治的なものから抜け出せないと思っているから、教育という言葉は相応しくないかもしれない。自分の興味に近いことをいうと、学習支援という言葉が良いかも。思えば、この広い意味での教育に対する興味も、なんとなく取った生涯学習論で芽生えたものだった。そこらへんは全然まとまっていないけれど、沖縄で教育に携わるなら、やっぱりタイトルの質問に対する答えを自分なりにも持っていたい。

 

 ずっと沖縄について知ることが大切だと思ってきたし、知りたい欲求のままここまで来た。知ることと同時に伝えることも大事だって思ってた。高校時代公募マニアをしていた時も散々そういうことを小論文に書いていた。でも、知ってどうする?伝えるってどのように?何のために?

 だって、伝えるということにはどうしても主観が入る。伝えるにあたって、自分の立場が求められる点はたくさんあるはずだ。この立場っていうのは、例えば、米軍基地反対か賛成かっていうような二元論じゃない。自分がどういうバックグラウンドをもって、どういう経験や本を読んで、どういう考えを形成してきたのか。そして、どういう点で迷い、結論が出ていないのか。この空白の部分までしっかりと把握していることだと思う。

 

 ここで、自分はもっと学ぶべきとか、自覚しながら日々を過ごすって書いて締めると、あまりに公募マニアしてた頃と成長がない。もちろん、知ることに終わりはないんだけれども、知った先を見据えてみたい。

 

 先週、大学の民俗学の授業で米軍基地の問題と民俗学を絡めた話を聞いた。戦争で破壊された門中墓を戦後復興においてどのように再建したか、というトピックと、突如返還された西原飛行場の利用についてのトピック。後者の方では返還された地域の聖地がどうなっているか、ということにも言及された。これは土帝君でも感じた問題だったからすごく興味深かった。

 沖縄の問題は経済とか政治的価値について語られがちで、そこの人の感情とかリアリティみたいなものがいつもそぎ落とされているように感じる。でも、上の講義では民衆の感情史みたいなものを論理的に数値も用いながら語っていて、私の中でこれだ!という感覚があった。今大学で学んでいることがどこにどうつながるか分からなくなって不安に駆られることもあるけれど、私は今まで見えなかったものを適切に論理的に言語化できるような人になりたいなと思う。その為にはスキルが要るから、今それを学んでいるのだと思う。

 

 (まぁ、実際の私は自分じゃどうにもならないような感情の起伏に振り回されたかと思えば、体調を崩したりと踏んだり蹴ったりだし、今も課題を溜めちゃっているんですけれどね。)

 

 

 沖縄戦を伝えていくべき理由、それは悲惨さを繰り返さない為だとか色々あるけれど、私的に今思うのは次のようなこと。(それも理由の一つに過ぎないんだけれども)自分が自分を語り続けるため。

 

 沖縄の人にとって、やっぱり沖縄戦というのは自分の中に染み付いたものだと思う。(これは私が戦跡が多い南部出身だったり、祖父母が戦争体験者だというのも大きい、かも)自分の地域で不発弾が見つかった思い出、高校の通学路には異様な雰囲気のガマがあったということ、そういうものがあったということそのものも、それを自分はどう思い見ていたのかという感情の面も、紛れもない事実である。しかも、それって自分がどう感じていたか、という一世代の問題じゃない。自分の祖父や母がどう見てたか、ということも自己形成に大きく関わってくる。そういうことをしっかり言葉にして、認識するということは、自分を捉え直すことにもなると思う。そして、次の世代にもちゃんと伝えることは、次の世代の自己形成にもつながる。(うーん、うまく言葉にできているか不安だ。)

 

 うちの祖母は戦争体験についてあまり語りがたらない。でも、それじゃあ戦争の記憶は継承できないんじゃないと怒ることは絶対にしてはならないと思う。それも記憶や経験そのものも祖母のものだから。それ以上に、祖母が何故語らないのか、語らないということの情報がもつ意味の方が大きい。

 祖母が言うことをかき集めたうえでの推測なんだけれど、祖母は裕福な育ちで戦争の時は台湾に疎開をしていた。台湾での暮らしは貧しかったらしいんだけれど、そこは語らないからよく知らない。でも、「私の戦争体験は一般的じゃない」という点において引け目みたいなのを感じるときがある。その時私は語らないことこそが祖母の抱えたものを雄弁に語っているように思う。

 

 私ができること、伝え続けるべきことは、祖母が語らなかったという記憶を伝えることだと思う。祖母が語らない姿は私の目にどのように写ったのか、という内省も含みつつ。

 

 うえの方に私は広い意味での教育に関心があると書いたけれど、私は郷土教育や社会教育に関心があって、子供だけじゃない広い立場の人が自分の足元を知り(沖縄の文化や記憶とか)自分を語ることを手助けしたいのかもしれない。そして、その語り自体も記録して、一次資料として伝えたい。

 

 ここまでつらつらと書いてきて、私が自語りが好きであることはバレバレだけれども、私は人のライフヒストリーを読むのも大好きだ。

 沖縄について(いや、沖縄という土地にしばられずにも)政治や経済で語られてリアリティを失う、当事者を軽視した議論になることが多いのは、やっぱり自分語りが上手くいっていない、伝わらない自分語りになっているからじゃないか、とさえ思う。自分語りは主観的なもので、政治や経済は数値で表せるという問題も大きい。

 

 もちろん、当事者意識をみんなに持ってもらうというのはかなり難しい。沖縄に居るとき、私は東日本大震災原発についてあまりよく知らなかった。それが北関東に越してきて、周りの同級生が「震災の時は~」なんて気軽に話しているのに驚いた。震災というワードが当事者性をもって語られていたから。茨城には東海原発があるし、うちの大学は全国各地から学生が集まっていることもあって、原発の問題も他人事ではない。そこに来てようやく私は当事者意識を少しだけもつようになった。でも、今住んでいる学園都市は仮住まいのつもりでもあるから、当事者意識は当事者とは比べ物にならないと思う。(このことについては長くなるからまた今度、書きたくなったら書く)

 

 あんまりまとまらくなってきたから、そろそろ終わりたい。

 

 私は伝えないことで、そこにあったものがなかったことにされることが怖いのだ。戦争体験者の高齢化、沖縄戦の当事者が減ることは時の流れとして当たり前のことである。でも、同じ「ない」でも、そういうことがあったと知っているうえで失われて「ない」のと、もともとそういうことが「なかった」とされるのでは全く意味が違う。これは文化に対してもそうだ。失われていくものを止めることはできないかもしれないけれど、そういうものがあったことを記録することはとても大切だと思う。

 

 そうやって考えてみるとやっぱり今の自分が、沖縄南部の田舎で育って関東に来た自分が、何をどう考えているかをこうやってちゃんと言葉にすることも大事だし、私のやりたいことって多分そこからなんじゃないかなと思った。

 

 うーん、大きなテーマを語りすぎた。大層でもないことをつらつらと書いたから、これを電子の海に投げるのは勇気がいる。(深夜だから許して)

 

 ちなみに、平和について中学生の頃に書いたものがブログに落ちてたので、貼る。拙いし、公募マニアの片鱗も見せていて恥ずかしいけれど、自分の根っこみたいなものも感じた(今から5年前(!))

 

kinokonoko.hatenadiary.jp

 

 因みに直接コメントで書く勇気がないので、ここで書いちゃうけれど、このブログを書くきっかけをくれたゆかさん(最初に引用したブログの彼女)とは、共通点を感じることがあって、ラオス話もしたくなったし、折角同じ関東にいるんだから、会って話す機会があったらな、と思いました。

はじめたこと、諦めたこと

 今日も何だか調子が悪く、美容室に行っただけで気分が悪くなってしまった。

 周りからは「病院に行ったら?」とも言われたりするんだけれど、病気とか病気じゃない以前にこういう体質だと思う。今までだってそうだったように、自分の弱いところをしっかり知って上手く付き合いたい。そしてそれが出来ているうちは、病院は良いかなぁと思う。今は人生つらいモードなので省エネで行こう。

 

 そうは言っても、今日もサークル行けなかったなぁなんて落ち込んでいると見つけた下のツイート。

 

 

 ああ、まさしく自分だって思った。

 興味の範囲が広いから、あれこれ手を出して限界を知る。時間が有限で、体も心も一つであることが惜しくてたまらない。でも、そんなんだからキャパオーバー起こして調子を崩す。大学生になってからようやく私も手放すことの大事さを知った気がする。

 ということで、大学生活において自分が始めたことと同時に諦めたことをまとめてみようと思う。言語化することでサークルに行けなかった今日の自分を慰められるかもしれないし。

 

 はじめたこと

・単位ゲッター

 私の所属している学科では、履修における規則が緩い。その為興味の赴くままにたくさん履修できてしまう。専攻の民俗学文化人類学、周辺領域の地理学や宗教学。趣味としての日本語学、日本文学。必修の英語と中国語と体育。そのほかにも資格の為の博物館学や道徳教育など、本来課せられる履修上限を取っ払ってもらったうえで今年は70単位履修している。

 単位ゲッターなので単位数だけ考えると、今年で卒業できちゃったりする。大学生活で頑張ったことなんて聞かれたら、多分真っ先に挙げられることは授業だろうなぁと思う。就活なんかでは課外活動の実績をよく聞かれるらしいし、私は専門を突き詰める以上に幅広くとっているので、あまり自慢できることじゃない気もするけれど。来年以降はさすがに自重して、専門の勉強に勤しみたい。そうは言っても、大学の楽しみ方の一つとして単位ゲッターは絶対にアリな選択だ。実際、色んな分野の授業を受ければ受ける程、自分の視点が広くなっていくのを感じてすごく楽しい。

 

・資格

 上の勉強と関連して、私はあり得ないほどの資格取得を目指している。国語教職(中高)、地歴教職(高校)、学芸員資格、社会教育主事資格、司書教諭資格。教育学部じゃないのに、これだけ資格を取ってどうするんだっていうくらい。資格状況だけみると「ブレている」という指摘も受けるけれど、どれも私の中でつながっているから何一つ諦めたくない。

 

・茶道

 サークルとして茶道をはじめた。理由はたくさんある。まず、日本文化にどっぷりつかってみたかった。私は沖縄出身で、大学進学を機にはじめて本土に来た。満開の桜や、ありえないほどの寒さ、黒いつゆのうどんなど、入学当初の私は見たことなかったものをたくさん目にして、半分留学生のような心持だった。だから、どうせ卒業したら沖縄に帰るかもしれないし、この4年間どっぷり日本文化に浸かってみたいと思ったのだ。

 それから、私の専攻は民俗学、特に精神文化に興味がある。信仰とか、死生観とか。茶道は禅の思想から来ているので、お稽古の時には禅語の掛け軸をかけたりするし、先生が解説してくれる。これが嬉しかった。大学での学びは文献資料中心だけど、教科書じゃできない学びもあると思っているから、サークルと授業とで上手くバランスとりたいと考えたのだ。

 似たような考えで、守破離の思想みたいなのにも惚れ惚れした。茶道では一応教本があるけど、先生の前でそれを出すと嫌な顔される。メモを取るのもやめた方が良いといわれる。あくまでも見て、実践して覚える。その考えって何とも日本的(東洋的?)だなぁと感じた。ひたすら漢詩を暗唱する寺子屋的な?大学という機関そのものは西洋から輸入されてきたシステムだし、ここでいっちょバランスとるかーなんて呑気なことも考えた。(しかし、後に見て学ぶ、体で覚える方法が自分に向いていないと気づく)

 あとは、定番だけどおしとやかになりたいとか、和菓子につられたりもした。

 

 実際茶道に入ってどうだったかっていうのは、また別の機会に書きたいけれど、私は茶道が向いていないと思う。同期の中で一番下手でよく注意を受けるし、実際今日みたいに行けないことも多い。今までやっていた部活は全部創作系(美術とか文芸とか放送とか)で、正直そっちの方が向いていたような気もする。でも、茶道が楽しいなって感じることも多い。人間関係も恵まれているので、何とか続けて居られる。茶道は奥が深すぎて、4年間続けても全く理解できないと思う。「茶道、ほんのちょっと齧りました」くらいにしか言えない。でも、それだけ文化の奥深さに触れられたっていうことだから、良いかなと思っている。

 

・旅行

 沖縄に居るときはあまり旅行できなかった。本土に来て見るもの全てが珍しくて楽しいから、どこにでも行ってしまう。小旅行みたいな感じで、東京散策も好き。

行ったところ(時系列・よく行く東京以外)

袋田の滝18きっぷの旅)

・水戸(偕楽園

・大洗(友人のお勧めスポットをまわった)

筑波山(初登山)

・横浜(友人を訪ねて)

・静岡(新聞部合宿・川でキャンプしたり、深海水族館に行ったり)

・中国(北京・上海・四川省)訪中団というプログラムで

・日光(弾丸一人旅)

・長野(スキー)

・愛知(友人宅で年越し)

・福島(雪の中の露天風呂に入りたかった・大内宿)

・北茨城(御船祭)

・岐阜(岐阜大仏に会いに)

・滋賀(日吉大社

・奈良(世界遺産巡り)

・京都(ぶらぶら一人旅&茶道合宿)

・タイ

秩父(宗教学実習)

 

諦めたこと

・大学新聞

 大学入学したての頃、サークルを掛け持ちしていた。その一つが大学新聞。文章を書く仕事をしてみたかったし、マスコミにも興味があったから入った。実際、理系の最先端の人から話を聞いたり、オリンピック強化選手と話をしたり、とても刺激的だった。でも、体育会系のノリと拘束時間が長いこと(別に強制じゃないんだけれども、頑張っている人が居る中で自分が休むことに罪悪感を抱いて無理だった)で辞めてしまった。体がもう一つあったらやりたかったことの一つだ。

 

・県人会

 全く行けていないのが沖縄県人会。たまには沖縄の人と話して思い切り訛りたいし、沖縄で就職も考えるなら情報交換の場にもなる。何より、同じバックグランドをもっている人たちってやっぱり強い。でも、学園祭の時にエイサーをするという話を聞いて、行かなくなっちゃった。リズム感がないので踊れないのだ。もったいないことしたと思う。

 

・(バリバリする)バイト

 大学一年の秋から冬にかけて飲食バイトをしていた。美味しいまかないもあったし、何より地元の人に愛されている老舗で、とても素敵な空間だった。そこで働けるのは嬉しかったんだけれども、忙しくてダメだった。授業の関係で入れるのは休日だけ。となると、一日13時間みたいなシフトになったりしてどんどんしんどくなった。お局様に気に入られなかったのも、悪口が蔓延していたのも辞めた理由の一つ。給料明細もなくて、自分の計算と給料が合わなくなった時、辞める決心をした。

 バイトで得たことは色々あるけど、その中で私はバイトができないんだなという発見があった。状況を見て動くということが苦手。いつも「もし、こうだったらどうしよう」という考えが先行して、自分の頭で考えられない(いや、考えてはいるんだ。考えすぎて動けないだけで)。何かする前には指導係のお局様に確認してしまう。そして怒られる。いわゆる使えない奴だ。これはショックだった。机に向かって黙々とやる勉強はわりかし得意だったから、自分は賢いと思っていた。でも賢さにも色々種類があって、私は飲食バイトが向いていなかった。

 今は大学周辺にある研究所での被験者バイト(自動運転の自動車を作る為に、電極を付けて単調なゲームをしたり、株取引きゲームをしたり)や大学見学に来た高校生に案内をする短期雇用、そして週一回個別教室で受験生に日本史を教えている。どれもあまり稼げないけれど、仕方ないかな。キャパオーバーを起こしている今、塾講も受け持ち生徒の受験が終わったら辞めたい。節約家の自分の中でバイトは限りなく優先順位が低く、何かあったらすぐ辞めたくなる。

 

あしなが育英会

 あしなが育英会奨学金を借りていた関係で、募金活動とか合宿とか色々活動があった。他大学の大学生と関わる良い機会だったし、社会活動としても興味があったから、はじめは喜々と参加していたけれど、これも忙しくてしんどくなっていった。あしなが育英会は、その理念が自分の考えとずれていたこともあって、退会した。経営理念に納得できない自分が借り続けることは、全国のあしながさんに失礼だと思ったから。

 最近になって、あしなが育英会の中で給付奨学金ができたらしい。それを聞いて退会したことを少し後悔した。

 

・学生団体・ボランティア

 本当はもっと外に出て活動したーい。高校生の時に参加した聞き書き甲子園でスタッフとして働いていた大学生に憧れていた。だから、関東の大学に進学した暁には学生団体で活動すると決めていた。でも、現実は厳しい。茨城から都内に行くだけで重くのしかかる交通費。自分のことだけで手いっぱいになってしまって、結局参加できずじまいに居る。

 ボランティアもそうだ。私は自分が言語通級に通っていたこともあり(滑舌が悪く、ラ行とダ行の区別がつけられなかった)聴覚障害に関心を持っている。春の文化人類学実習の授業でPC要約筆記の団体を調査対象としてことをきっかけに、PC要約筆記者として活動したいと思った。でも、この養成講座が授業と被っていることに心が折れ、これも実現できずにいる。手話通訳も同じ。

 

 

 

 

・書くこと

 正しくは公募マニア、かも。前のブログでも書いたように高校生の頃はアホ程書いていたのに、書かなくなった。でも、こうやって書いていると気持ちがどんどん整理されていくのを感じるから、私にとってやっぱり書くという行為は手放したらいけないものなのかもしれない。そして、今も前と変わらず好きな人、お世話になった人には手紙を出すようにしているし、こうしてブログを書いているんだから諦めたとはまた少し違うのかもしれない。

 

 

 まとめてみたら、はじめたことより諦めたことの方がずっと多い。諦めたことに悔いがないというと嘘になるけれど、それ以上に選んだもので得たものもあるから仕方ないのかもしれない。

 

書くってどういうこと何だろう

 

 どうやら今日は書きたくてたまらない日のようだ。

 何かをひたすらに書きたいという欲求は、懐かしく感じる。一方で、私は何で大学生になってから書かなくなっちゃったんだろうとか、自分の気分が落ち込んでいる時に書きたくなるって何だか皮肉だなぁとか考えていた。

 

 そして思う、書くって私にとってどういうことだろうと。

 

 物心ついてからは書くことが好きだった。誰に頼まれるまでもなく、壁新聞を発行したり絵本を描いたりして遊んでいた小学生時代。ブロックメモを持ち歩き、いつでもどこでも書いていた中学生時代。そして、公募マニアとして数々のコンテストに出品して、世界を広げた高校生時代。

 私はあまり要領がよくないので、書くことが自分の気持ちを整理する手段でもあった。話すより、書く方がずっとずっと得意で、本好きの名と共に自分の学校での立ち位置を作ってくれていたようにも思う。そして結果として、公募マニア(副賞と東京に行ける表彰式目当てだった)として活動していたことが大学受験でも役に立った。こうして書いてみると、私は書くことにずっと救われてきたなと思う。

 

 私が何で書かなくなったのか。多分、今は救われる必要がないから、なのかもしれない。書かなくなった日々は書いていた日々よりずっと楽だ。授業中、誰も私のことなんていじめてないのに、ひたすらつらくなってトイレに逃げる日々は終わった。国語便覧でどれだけの文豪が自殺しているか数えて呆然とする日も、数学のテストが出来な過ぎて全ての解答欄に短歌をつづった日も全て過去のことだ。世界史の授業でどっかの国で起きた内戦の話を聞いただけで気分が悪くなるような、感受性の強い自分はどこへ行ったのか。

 

 別に今だって完全に書いていないわけじゃない。大学では人文系学部に属しているので、結構な文字数のレポートが頻繁に課されている。憧れの国語の先生がいたから、国語教育にあまり関係ない専攻なのに、国語教職を取っている。ツイッターでも相変わらずよく呟いている。でも、あの頃とは何かが違う。

 

 あの頃と今、重要な違いは、現在私の文章を読んでくれる国語の先生がいないことだ。高校時代、国語の先生はいつも私の一番の読者で居てくれた。国語の誤答ノートに有島武郎の自殺理由を書き連ねてみれば、先生も3ページ越えで感想を寄こしてくれた。今思えば先生の本来やるべき仕事量を超えたお願いばかりしていたのに、いつも嫌な顔一つしなかった。ある小論文コンテストで入賞した際、表彰式という名目で行った鎌倉旅行や太宰府天満宮、高校が閉門する20時まで粘って書いていたこと、私の高校生活は孤独であったように思っていたけれど、いつも先生が見守ってくれていた。

 

 そして、あの頃の私は自分では抱えられないほどの自己顕示欲を持っていた。容姿が良いわけでもなければ、運動ができるわけでも、リーダーシップを発揮するわけでもない私が自分を表現する術は書く以外なかった。中学、高校にかけて思っていた、特別でありたいという考えがなくなったのは、いつの頃だったのだろうか。

 

 沖縄を離れたのも大きかったと思う。今でも沖縄に帰ると書きたくなる。大好きな沖縄の景色や民俗、一方で現実に引き戻されるような数々の暗い事情。数年後に迫った就職をどこでするのか、という問題とも重なって、沖縄は私の問題意識である。

 別に今住んでいる茨城が嫌いなわけじゃない。学園都市は学生にとってすごく住みやすい。ほとんどの学生が大学の周りに住んでいるから、夜遅くまで飲んだり遊んだり。大学を卒業してもこの生活が惜しくなると思うし、ああ青春だったなぁなんて思う未来が想像できる。でも、沖縄みたいに土地を愛して、土地に好かれている感覚はない。今は上手く言語化できないけれど、うちなーんちゅアイデンティティと絡んで、これもまた私の書きたい欲を大いに刺激してくれていたんだと思う。

 

 要するに今の私は、読んでくれる読者も居なければ、社会に向かって大声を放つ必要性もなく、仮住まいの見知らぬ土地でブログを書くくらいしか手段がないのだ。そりゃあ書かなくなる。今だって、11月末恒例のどっかーんと心が沈んでいるから書きたくなっただけなのかもしれない。

 

 でも、正直、少し楽になったよねと思う。結論も見えずにこうやってダラダラと書いてて思ったことだけど、社会的要因とか欲求不満とかからではなく、書きたいから書く。それってすごく楽だ。

 上に書いたように私は高校時代、公募マニアだった。自分でも言っちゃうけど、結構凄かったので全国最優秀賞もバンバン取っちゃって、コンテストで賞を取る為の文章を着々と製造する職人みたいだった。それはそれで、副賞が欲しいとか、スパルタ学校になじめなかったけど別に落ちこぼれじゃないんだぞアピールがしたかったとか、色んな欲が隠れていて、それが今につながっている。当時はあの学校で生き残る大切な手段だった。でも、評価される文章を書く為に自分が好きだったことを忘れていたとするならとても寂しい。

 

 別に救われようとして書かなくてもいいじゃん。着地点が見えないまま書き連ねて、その結果首尾一貫してなくても、ここはブログだから誰も何も言わない。気楽にまた好きに書けたりしたらいいなって、大学二年の秋にようやく思った。

 

luvlife.hatenablog.com

 好きなブログはいくつかあるけど、特にこのブログが好き。きらくにいこう

南条あやを中心としたネットワークについて

 南条あやについて思うことがあったので、大学のレポートで書いたものを貼る。文化人類学についての授業で、先生から個々人にテーマが与えられた。私は南条あやを中心としたネットワークについて、という題だった。

 

生きづらさ系と生きづらさを核としたコミュニティ

 

 

はじめに

 南条あやは、1990年代末に自身の日常を綴ったウェブ日記で人気を博した。彼女の特徴は、女子高生である一方でリストカットオーバードーズを繰り返し、精神科に通院していることだ。従来、タブーとされていたことを包み隠さず、しかも軽い文体でポップに書いた彼女の日記は、彼女の自殺から18年経った現在でも精神的な悩みを抱えた若者のバイブルとなっている。

 南条あやのファンは、若い女性を中心としながらも幅広い世代に広がっている。南条あやは境界性パーソナリティー障害であると主治医から言われていた。しかし、日記にはその病名はほとんど出てこない。それ以上に圧倒的な文量で書かれるのは、過激な自傷行為の描写や、服薬している薬の効用、親との軋轢である。こうした記述からは、南条あやが多くの生きづらさを抱えていたことが読み取れ、南条あやのファンは、彼女の生きづらさに大きく共感しているともいえる。実際、南条あやのファンは彼女と同じ境界性パーソナリティー障害の患者だけに限らない。摂食障害やうつといった他の精神疾患を患った者や、通院しておらず病名はついてないけれども、漠然とした生きづらさを抱えた者が南条あやの支持層として含まれている。

 本レポートでは、南条あやのファン、すなわち生きづらさを核としたコミュニティとは一体どのようなものか分析したい。その上で彼らが好んで使うインターネット上でのコミュニケーションの特徴や意義、問題点をまとめたい。

 

 

  • 生きづらさとは何か

 渋井哲也は『若者たちはなぜ自殺するのか』で、様々な悩みを抱えながらも、それをうまく表現できずにアクティング・アウトを繰り返す人を「生きづらさ系」と呼んでいる。(渋井、2007)ここにおけるアクティング・アウトとは、自殺行為や自傷行為、依存症といった行為を指している。これらの行為は南条あややそのファンにも共通するものだ。南条あやは、自身の辛さをあくまでもポップな文体で書いていた。彼女の度重なる自傷行為も、生きづらさを上手く表現できない故のアクティング・アウトだったのだろう。香山リカ南条あやの日記『卒業式まで死にません』の解説で「南条さんの文章はあまりに明るくテンポも快調なので、読む方はつい彼女の苦しさや痛みの方は見過ごしてしまいそうになります」と書いている。(南条、2001、p.310)ここからは、南条あやが渋井の言う「生きづらさ系」に当てはまることが分かる。

 また、雨宮処凛は現代の生きづらさが不安定労働や貧困といった社会的・経済的な問題とも絡んだ複雑なものとした上で、社会的な問題とは別に、人間関係や個人的な問題、親との関係で精神的な生きづらさを「純粋な生きづらさ」と呼んでいる。(雨宮、2008、p.9)

 自己を語ることで自分の存在を意味付け、認識していく動きは時代によっても変化する。そうした歴史の流れで、人間関係や個人的な問題が純粋な生きづらさとして変化していったともいえる。60年代や70年代のいわゆる学生運動が盛んだった時代では、自己語りは政治や社会との関わりの中で語られた。安保闘争などがその象徴である。また80年代から90年代半ば頃には自己啓発セミナーや海外旅行を通した自分探しの名の下に自己語りがなされるようになる。徐々に社会の方から個人へと、自己語りの場がシフトしていっていることがここから読み取れる。

 その後、90年代後半にはPTSD機能不全家族で育ったAC等の言葉の普及からもわかるように、心理学や精神医学の中での自己語りがなされるようになる。こうした現象は心理学化した社会とも呼ばれている。(渋井、2007)南条あやもこの時期に登場し注目を浴びている。またこの時期は、J-popでもトラウマや自傷をうたう椎名林檎Coccoが流行している。これらのアーティストは現在も活動しており、いわゆる生きづらさ系の人から熱烈な人気を誇っている。ちなみに、南条あやCoccoの熱狂的なファンであり、カラオケではCoccoの曲しか歌わないCocco縛りをよくやっていた。自殺現場もCoccoの曲をたくさん収録しているということで南条が好んでいたカラオケボックスである。

 こうした傾向については、土井隆義も『友だち地獄』の中でリストカット少女の「痛み」の系譜として分析している。(土井、2008)土井は、1971年に出版された高野悦子の『二十歳の原点』と南条あやの『卒業式まで死にません』を比較しながら、時代を読み解こうとしているのだ。高野悦子もまた思春期に生きづらさを抱えて自殺した。死後出版された日記が若者に読み継がれている、という面では南条ととても似ている。

 高野悦子学生運動にとても熱心だった。このことから土井は、「高野の世代の青年文化は親世代という異質な人びとへの抵抗の中から、その思想性を培ってきた」(土井、2008、p.67)とする。一方で南条は、世代闘争とそれがともなった対抗的な青年文化を失った世代の一人とし、「自分の世界観を相対化しうるような異質な人びとと出会う機会をほとんどもたず、自らが世界の中心であるとかんじられてしまうとき、自分の拠り所は自らの身体のなかにしか見出されない」(土井、2008、p.68)と言っている。この論調は、自らの身体にしか拠り所が見出されなくなった南条が自傷行為に耽溺する理由にもつながる。つまり、土井は南条の自傷行為を「身体の隅々へと拡散している自己を手っ取り早く感じる手段」と意味づけているのだ。(土井、2008)

 自傷行為そのものは病気ではなく、境界性パーソナリティー障害やうつに多くみられる症状でしかない。自傷行為は前述したように生きづらさのアクティング・アウトである。このことから、土井が行った、南条の自傷行為への意味づけをそのまま生きづらさへと解釈することもできる。渋井や土井が指摘しているような心理学化した社会は、その傾向を益々強めている。それを強く感じさせるのが「メンヘラ」という言葉の一般化である。  

 「メンヘラ」とは精神的に病んでいる人を指す言葉である。インターネット上の巨大掲示板2ちゃんねるメンタルヘルス板にいるような人間ということから名づけられた。この言葉は2008年に雨宮処凛が著作の中で生きづらさを抱えた人に対して用いている。雨宮処凛南条あや南条あやのファンもまたメンヘラ―と呼んでいる。(雨宮、2009)この言葉は一種のインターネット用語であり、2008年には語に注釈がつけられている。しかしこの言葉は時代が経ると共に一般化し、2015年には『現代用語の基礎知識』にも掲載されるようになった。(自由国民社 編、2015)そして2017年現在では、メンヘラは精神的に病んでいる人という意味以上に解釈されるようになっている。具体的なメンヘラ女の特徴として、構ってちゃん、ヒステリック、ネガティブ、SNSに依存している、寂しがり屋、夜行性、体調不良をアピールしてくる、がよく挙げられる。これらの特徴は、渋井の言うような「生きづらさ系」には当てはまらない。その一方で個人の性格を精神的に病んでいる、として解釈しメンヘラとカテゴリ化することは、やはり社会の心理学化が進んだともいえるだろう。雨宮が言うように純粋な生きづらさを精神的な生きづらさとするならば、純粋な生きづらさは広がっているとも考えられる。

 南条あやとそのファンを結ぶ生きづらさとは何か。それは、時代の流れによって変容していくものである。南条あやはインターネットアイドルであり、本名の鈴木純南条あやと決してイコールな存在ではない。その意味では南条あやもまた時代によって変わりゆく生きづらさと共に、時代に生み出された存在なのかもしれない。彼女が活躍した1990年代末、南条あやは女子高生にも関わらず精神科に通院しているという、病んだ存在が珍しく受け止められた。彼女の人気は、この珍しさにも起因している。メンヘラという言葉が一般化し、多くの人が病んでいるとされがちな現代では、南条あやの存在はもう珍しいものではない。実際、南条あやの死後18年の間に南条あやのようなカリスマ性を持った人物は表れていない。第二の南条あやと呼ばれた者もいるが、それでも彼女程の影響力は持ち合わせていない。そもそも第二の南条あやと呼ばれている段階で、それは彼女の二番煎じでしかないのだ。南条あやが抱え、そしてファンが共感した生きづらさは、社会に広がる一方で、南条あやはもう二度と出てくることのない存在だといえる。

 

  • 生きづらさと核としたインターネットコミュニティの形成

 南条あやが活躍していた1990年後半はインターネットが普及し始めた時代である。それと同時に、パソコンでもHP作成が容易になったり、携帯電話からのホームページアクセスが可能になったりすることで、個人個人が情報を発信していくようになる。南条あやのWeb日記もそうした流れの中で生まれた。

 上で述べてきたような生きづらさを抱えた人びとは、インターネットを通したコミュニケーションを好む傾向にある。それはインターネットが提供するコミュニケーション環境に由来しているだろう。高比良はインターネットを通したコミュニケーションの特徴を以下のようにまとめている。(森 2014)まず同期性である。これはコミュニケーションが時間的に同期しているか否かを意味している。対面コミュニケーションは同期を基本としているが、インターネットでは非同期を選択することも可能である。これによって、すぐ反応を返す必要がなくなり、コミュニケーションを吟味しながら返すことができる。次に匿名性である。匿名性は、コミュニケーションの参加者を他の参加者が識別できない「識別性の欠如」とコミュニケーションを行っている参加者を他の参加者が識別できない「視覚的匿名性」の2種類がある。最後に伝達される手がかりの形式が挙げられる。インターネットでは文字を用いることで送り手が言語化した情報のみを伝えることができる。自分がどのような情報を伝達するのかを選択できるのだ。対面コミュニケーションの場合は表情や周囲の反応といった非言語情報も伝達されてしまう。

 

 精神的な病に対して寛容になっている現在でも、精神病に対する偏見は根強く、精神病に対する理解も十分とは言えない。自身の生きづらさを漏らすことは対面コミュニケーションよりも、自分の正体を明かさず、そして自分のペースで発信できるインターネット上の方が好まれることは想像に難くない。渋井は死にたいと願う生きづらさ系の若者を取材するうち、Web日記で共感を求める小百合と出会う。彼女はWeb日記を書く理由として「自分の日常を綴る場所が欲しかったんです。Web日記は自分が感じたことを吐き出すところかな。不特定多数の人に公開することに惹かれた。ネットだったら知らない人も感想とかメールとかくれるじゃないですか」と語っている。(渋井、2007、p.117)また、同じくユカもホームページを作った理由として「居場所を作りたかった」と言っている。(渋井、2007、p.57)

 

 また渋井は著作で、こうした生きづらさ系が開設したサイトの雰囲気を「同じような空気」と感じ、そうしたサイトにアクセスする人たちと「友達になりたい」と思うようになったという彰文や、自分のサイトで悩み相談に乗ることで相手と同時に自分も元気づけていう将人について言及している。(渋井、2007)南条あやもこうした若者と同様に、自殺関連サイトに連日アクセスし、その利用者と親密に交流していた。彼女の婚約者である相馬ヰワヲとも自殺関連サイトで出会っている。実際、こうしたいわゆる自殺関連サイトは、援助的に機能している側面もあると考えられる。末木は自殺関連サイトの利点を次のように語っている。「自殺関連サイトの利用者はそこでのコミュニティ活動や、書き込みを眺めながら幻想的自己肯定感を味わうことによって自らの自殺念慮に対処をしている。つまり、自殺関連サイトはこうした人々の意場所として機能している場合もあるのである。」(末木、2013、p.170)

 

 自殺関連サイトの利用者で形成されたコミュニティは、血縁や地縁でもなければ、趣味縁に類似していながら、趣味縁でもない生きづらさを核としたコミュニティであるといえる。生きづらいことは現実世界では言い出しにくいほか、境界性パーソナリティー障害やうつ、統合失調症など精神的な病を患っていると、その症状によって人間関係の構築もまた困難になる。だからこそ、インターネット上のコミュニティが意味をもつのだと思う。この生きづらさを核としたコミュニティは、しばしば共感がキーワードとなる。上で引用した彰文や将人は、共感できたからコミュニティに惹かれるようになり、その共感から相談にも乗っている。南条あやについても「自分は第二の南条あやである」と自称するファンや「自分なら南条あやの明るい文体に隠された傷に寄り添えた」という感想が多いことから、ファンは南条あやに深く共感していることが分かる。

 自傷行為をインターネットでカミング・アウトすると、「まずは治療していこう」という雰囲気よりも「まずは行為を認めていこう」「自傷している自分を認めよう」という雰囲気が強まっていく。(渋井、2007)それも、この共感がベースとなっている生きづらさ系コミュニティの特徴を端的に表しているだろう。自傷行為をする人たちが、「カウンセリングを受けているがなかなか自傷行為を治せない」「そもそも自傷行為とは治すものなのか」というような精神医療に対する不信感や疑問を共有し、自己語りや語り合い、認め合い、そして自傷仲間づくりをするようになる。さらに、自分の持つ精神医学や自傷、生きづらさへの対処法などの知識をデータベース化、共有することで、「自傷行為をする人」という自己はますます強固なものとして確立されるようになる。腕を切りたくなったら氷を握ると良い、手首に赤のマーカーで線を引くと落ち着く、というような自傷への対処法もそうした生きづらさ系コミュニティで共有されている知恵である。

 

 共感や当事者なりの知恵によって、生きづらさを抱えた人がその生きづらさを少しでも解消できることには大きな意味がある。しかし、時には生きづらさ系コミュニティが自傷行為を広げる要因にもなる。自傷行為をする人という自己確立がインターネットで共有化され蓄積することで、インターネット上で同じ自傷行為をする人や自傷行為をしていなくともその行為に共感的なひと、自傷行為の奥底にある生きづらさと似たような悩みを抱えている人たちなど周辺層もネットワーク化が進むからだ。(渋井、2007)この行動感染を渋井は以下のように説明している。「本来『自傷』は『生きづらさ』の表現手段の一つであり、『刻印』の一つにすぎない。『生きづらさ』を抱いた人が必ずしも『自傷』をするわけではない。しかし『自傷』という行為に波長が合えば、自傷をしていなかった人でも、同じ行為をして、より心理的な波長を合わせようとする。」(渋井、2007、pp31-32)

 

 自傷オーバードーズというようなアクティング・アウトは、生きづらさを表現する術であることから、その行為の悲惨さを競い合うかのようにエスカレートしていくことが多い。自傷行為の第一人者である松本は、自傷キャラを自認することは、自分でも気づかないうちに周囲の期待に応えようとして自傷エスカレートする恐れがある。また、他人の自傷の写真や自傷を美化する詩は、自傷したい衝動を刺激する可能性があると指摘している。(松本、2015)

 

 このように生きづらさを核としたコミュニティは、従来援助が届かなかった層への援助や自助作用をもっている一方で、自傷行為の感染や集団自殺へとつながる危うさも孕んでいる。また、インターネット掲示板やホームページだけではなくSNSが発達した現代では、新たな様相を生んでいる。

 

 それはツイッターの病み垢に見られる多元化した自己だ。1990年から2000年代にかけては、掲示板やWebブログでの交流が主だったが、現在、その交流の場はツイッターへと変化している。従来のようにホームページを開設する以上に、ツイッターのアカウントは簡単に作ることができる。このことからホームページで交流していた時代と比較し、多くの若者が気軽に病みアカウントを持つようになった。電通総研の調査によると、最近の高校生、大学生の半数がツイッターのアカウントを複数所持している。(電通総研、2015)これは前述したように、メンヘラという言葉が一般化していった流れとも関連しているだろう。浅井は現代の若者のアイデンティティとして、多元化する自己を挙げている。浅井によると多元化する自己の特徴は、つきあいの内容に即して友人を使い分ける傾向、場面によって自己を使い分ける傾向、自分を意識的に使い分ける傾向である。(浅井、2013)

 

 こうした傾向は、生きづらさ系コミュニティの紐帯を弱くするのではないか、と考える。インターネット上でそれぞれ異なる名のついた自分が存在することは、生きづらさ系コミュニティのアクティング・アウトを冷静に客観視できるようになることでもある。その意味で、多元化する自己は生きづらさ系コミュニティの危うさを解消することにもつながる。しかし、病みアカウントの運営者の自殺は依然として起こっている。掲示板では文字媒体のみのコミュニケーションに限られていたが、技術の進歩が写真、音声、映像を用いたコミュニケーションを可能にしたことにより、さらにそのアクティング・アウトが過激化していくこともあるからだ。

 生きづらさが時代と共に変容していくように、その生きづらさ系コミュニティも変化していく。特にコミュニティの形成はコミュニケーション手段に左右されることから、コミュニティの在り方は、生きづらさそのものより時代の影響を受けやすいだろう。

 

おわりに

 本レポートでは、生きづらさとそれを核としたコミュニティについて、時代の変遷と共にまとめた。生きづらさとは普遍的にそこにあるもの、というよりも、その語り方によって変容していくことが分かった。それは、生きづらさ系コミュニティも同様であり、これからも技術の進歩やコミュニケーション様式の変化と共に、変容していくことが推測される。生きづらさを抱える者から大きな支持を受ける南条あやの日記であるが、彼女自身も生きづらさの変遷に組み込まれた存在であることを実感させられた。

 

参考文献

 浅野智彦(2013)『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』河出書房新社

 雨宮処凛(2008)『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティ、ナショナリズ

ム』光文社新書

 雨宮処凛(2009)『排除の空気に唾を吐け』講談社現代新書

 渋井哲也(2007)『若者たちはなぜ自殺するのか』長崎出版

 自由国民社 編(2015)『現代用語の基礎知識自由国民社

 末木新(2013)『インターネットは自殺を防げるか コミュニティの臨床心理学とその

実践』東京大学出版会

電通総合研究所「若者まるわかり調査2015」

http://www.dentsu.co.jp/news/release/2015/0420-004029.html (最終閲覧日:2017

年8月13日)

土井隆義(2008)『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』ちくま新書

南条あや(2004)『卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記』新潮社

南条あや(1999)「南条あや保護室http://web.archive.org/web/20030805035852/nanjouaya.com/hogoshitsu/memory/index.html (最終閲覧日:2017年8月13日)

松本俊彦(2015)『自分を傷つけずにはいられない―自傷から回復するヒント―』講談   

森津太子 編 (2014)『放送大学教材 社会心理学放送大学教育振興会