雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

日本に帰ってきました

 

 10ヶ月の台湾留学を終えて、日本に帰ってきました。

 本当はもっと前にこの日記を書きたいと思っていたんだけれど、帰国してからもう1か月半が経ってしまった。

 日本に帰ってくると、一気に色んな問題が降りかかる。帰国翌日から家族が入院、手術したこと、つくばと沖縄を往復して秋からの新生活準備をしていること、半年で卒業論文を書くため調査をしていることなどなど。とりあえず卒論提出して、進路も決まっているだろう年末まで、立ち止まることは許されない。だから、なかなか台湾での日々を言葉にする機会を失っていた。台湾での生活と日本での生活、それぞれ空気が違うから、私が台湾に10ヶ月住んでいたことすらも忘れてしまいそうだった。

 

 だからこそ、今一年前の日記を読むとハッとさせられることは大いにある。

kinokonoko.hatenadiary.jp

不安も挫折もあった。ルームメイトとは結局最後まで仲良くなれかったし、外国人の友達をたくさん作ってパーティ!みたいなものとは遠い日々だった。

一年前の私は「台湾に来てしまった」と表現している。本当にあの時はそう思っていたのだ。留学を決めること自体、やらかしたんじゃないかって。

でも、その一年後のわたしは胸を張って「台湾に行って良かった」と言える。中国語もできない小娘に台湾人はたくさん耳を傾けてくれた。台湾のことを「民主的な中国」だと思っていたわたしは、多様で重層的な台湾に圧倒されていたし、台湾からみえる日本も、沖縄も発見の連続であった。

 

 今ならはっきりと言語化できるのだけれども、私が留学を決めた理由の一つに「沖縄と本土の二項対立にうんざりしていた」ことがあった。たとえば就職。沖縄で就職するか、東京で就職するのか、その人生における大きな選択はまだまだできそうになかったし、どれを選んでも後悔しそうだって思っていた。私は自分が「沖縄の子」であることを強く意識しているからか、関東での日々では「沖縄との違い」ばかりに目に行っていた。沖縄に、私は固執しているんじゃないかって思っていたし、それでも「あなたって本当に故郷愛が凄いよね」って言われると反発したい気持ちもあった。沖縄は確かに大事だけれど、関東も沖縄も好きなところも嫌いなところもそれぞれあるんだった。そもそも私はどうして沖縄を出たんだっけ?関東ではこんなに沖縄を恋い焦がれているのに、高校までの社会でうまく馴染めなかった苦い記憶が胸にはあった。色んな気持ちでぐちゃぐちゃになったから、沖縄と日本本土のほかにもう一つの物差しを手に入れたくて、台湾を選んだんだった。

 

 

 台湾は民族的にも、歴史的にも多様で重層的な場所だ。留学生仲間もみんな色んなバックグラウンドを持っていたから、いつしか私は、複雑なものを抱えたまま生きて良いんだなと思った。私のなかの複雑な思い。沖縄と日本本土と、しっかり分ける必要はなし、どっちかを選んだらどっちかを得られないわけでもない。

 

 実際、台湾は私にもう一つの物差しを与えてくれた。もう一つどころではないかもしれない。私はもともと琉球王国時代への関心が強く、そこから中華圏への興味があった。だから、私の関心のフィールドは沖縄を中心とした、東アジアだなあと漠然と思っていた。でも台湾原住民と出会ったことで、興味の幅がぐっと南の方にも広がった。台湾原住民について学んで、集落に足を運んで、博物館インターンをしたこと。本当にこれは私の留学を大きく変えた。私の留学を豊かなものにしてくれた。

 

 もう一つの出会いは、祖父母の台湾疎開について。昔からぼんやりとその話を聞いてはいたけれど、真剣に考えたことはなかった。それが台湾でジャーナリストさんと出会ったことで、一気に関心と理解が広がった。「日本統治時代の台湾で沖縄の人はどう暮らしていたんだろう」大きな問いが生まれて、長期休みには弟と二人、曽祖父が赴任していた竹山まで足を運んだこともある。日本統治時代の台湾に関心をもって、本も読んだし、講演会などもできるだけ足を運んだ。台湾のことを、ある種の自分事として学ぶことができたのも、自分のルーツがそこにあったからだ。現在、台湾はリノベーションブームということもあって、日本統治の建物がオシャレスポットへ変身している。そういう時期に留学できたのも良かったのだろう。ノスタルジックに歴史を語るだけではなく、歴史や文化をどう「今」に活用していくのか。台湾は街を歩くだけで無限の学びを与えてくれた。

 

 一年前の私と今の私を比べると、今の私は自信がついたなと思う。それは「中国語が少し話せますよ」みたいなスキルの上での自信ではなくて。「なんとかなるさ」と言える類の自信。私は、言葉も通じない国で、自分のペースで生きることができたんだなあという自信。何も出来ない私に手を差し伸べてくれる人がたくさん居たんだなという安心感。肝が据わったともいえるかもしれない。

 

 今思えば、本当に幸福な時間だった。台湾で毎日自分の興味に合わせてお祭りに行けたこと、本を読んでいたこと、映画を観ていたこと。日本からぽかんと切り離された時間だったからこそ、不安もたくさんあった。けれども、そういう時間だったからこそ考えられたことも、飛び込んでみれたこともあった。

 

 もちろん、留学に行ったことで失ったものもあるだろう。例えば、台湾大学での授業を受けながら、母語で興味のあることを専門的に学べることのすばらしさを痛感していた。就活だってそうだ。一旦保留にしてしまっている。それでも不思議と後悔していないのだった。

 

 台湾留学に対する私の気持ちは、時が経てばたつほどまた変わるかもしれない。そういったことも全部含めて、私は今後のことも楽しみである。これから大変なことはたくさんあるけれど(そもそも半年で卒論を書きながら、来学期は授業もたくさん受けるのだ!)その時々で最善だと信じられる選択をしていれば、いつか行きたい場所にちゃんとたどり着けるような、そんな予感がする。

 

 色んな体験をさせてくれて、言葉ができなくても耳を傾けてくれて、ありがとうね、台湾。

 

 

台湾大学の学修を終えました。ただいまインターン

 

 

 ほんの1ヶ月前は台湾大学の交換留学生として、毎日授業に通っていたのだ、というと嘘のように思える。私は台湾大学での学修を終え、台湾大学学生寮も追い出された。交換留学で私が台湾に居られるのはたったの10ヶ月しかない。だからだろうか。毎日がめまぐるしくて、1ヶ月前のことがひどく遠い昔のようにだって感じられるのだった。
 前回の日記を書いたあと、端午節のフィールド調査をしたり、彰化への旅行に行ったり。期末のテストウィークにさらされたりもした。

 


 そう、テスト!やる気がどうにも起きず、大変おっくうだった。単位はすべて回収できたけれど、最後まで台湾大学での勉強があんまり好きになれなかった。私の語学力のせいで、多くの科目は教養科目にすぎなかったこともあり、授業に関してだけ言えば、日本に帰って勉強したかったくらい。私は日本では大学四年生で、教養科目で習うようなことはすでにどこかで聞いたことばかりだったのもあるし、日本の友達と比べて勝手に焦っていたところもある。そんなんだから、テストにも当然やる気を見いだせず。何とか乗り切ったという表現が正しい。単位はすべて来たけれども、苦しかったな。やっぱり自分がやりたくない勉強からはできるだけ避けていたいよ。

 


 その合間で、台湾大学でできた友達とのお別れもしたし、桃園の山奥のタイヤル族集落へ出かけたこともあった。ずっと行きたかった故宮博物院の南院に行けたことも良い思い出だ。台湾大学学生寮は入居時から汚かったわりに、退去の際の掃除テストは厳しく、引っ越しには手間取ったし、大層くたびれた。

 

 

 本当に色んなことがあった。多くの留学生が帰国するなか、私は台湾留学の延長戦というべき時間を過ごしている。台湾大学からひと駅離れたアパートに住み、留学開始時からの予定どおり、台湾原住民関係の私立博物館でインターンをしているのだ。朝7時半には家を出て、満員電車に揺られて1時間ほどの道のり。これまで約9ヶ月台湾に住んできたけれど、今まで見てきた台湾と、インターンをしながら見る台湾がまた少しだけ変化しているのが面白い。


 通勤途中何となく車窓を眺めていると、健康体操をしているおばちゃん達の姿を見つけたり、ここの通りには朝ご飯屋さんが立ち並ぶのだという発見をしたり。日本の通勤の様子は、スーツの人ばっかりでなんだか黒っぽいけれど、台湾はものすごくラフだったり。気楽な交換留学生だった頃は、そんな朝早い時間に電車に乗らなかったし(そもそも授業があった)自分自身の時間の余裕からか、台湾もゆったりとした町並みに見えていた。ただ、今度は自分が9時から17時という出勤時間をもってみると、台北もせわしなく思えるのだった。少しずつ、台湾人のリアルな金銭事情も耳にして、私が奨学金で買っていた物の価値を再認識する。


 私はできるだけ色んなところに足を運ぶよう心がけていたし、台湾についての本もできるだけ読んできた。それでも、私の知らない台湾は無限にあって。立場の数だけ台湾があるのだということを何度だって突きつけられる。今をそれを肌で実感できて良かったのかもしれない。私はもうすぐ日本に帰る。日本に帰ったとき、私が見てきた台湾を台湾のすべてのように語ってはいけない。それと同じように、気楽な交換留学生の、たった一年しか住んでない私が目にした台湾を、価値のないものとして語ってもいけない。自分が見てきたものすべて、自分の財産だし、真実だ。謙虚に、けれども卑屈にならないようにして語ろう。考えてみれば、交換留学にインターンを組み合わせるような形の留学、最初はぜんぜん考えていなくて、大学の先生にお勧めされるがままに奨学金の申請書を書いたのだった。インターンできるだけの中国語能力、っていうことはずっと私を悩ましていたし、不安の種でもあった。でも、今になってはっきり言えるのは、挑戦して良かったなという気持ち。留学を決めたころ、一年半前の自分には、今の自分の姿が全く見えてなかった。自分にできるとも思ってもなかった。それにもかかわらず、今のようなかたちの留学をおすすめしてくれた先生や、それを全面的に支援してくれている奨学金の団体(奨学金が取れなかったら留学を取りやめようと思っていた)には本当に感謝している。

 

 

 インターンの方はおおむね順調です。インターン先の博物館は、日本語ボランティアガイドとしてずっと関わってきた博物館。だから、通い慣れているし、職員さんとはすでに知り合いだし、文物に対するある程度の知識もある。でも、ボランティアガイドとして、さらには来館者として、見てきた博物館は表の部分でしかなくて。インターン生として受け入れてもらうなかでの発見も毎日ある。どんな仕事でも、裏方の地道な作業のうえで成り立っているのだなあと思う。一方で博物館の収蔵庫のなかに入ったり、貴重な経験もさせてもらっている。学芸員資格取得のため、去年のちょうど今頃沖縄の県立博物館で実習をさせてもらったけれど、日本の公立の総合博物館と、台湾の私立の専門博物館では、類似点も相違点もあって、日々勉強になっている。特に「民族」博物館でインターンできていることは、私にとって非常に意味のあることだ。日本には民族博物館は少ない(民俗博物館ではない)ということもそうだけれども、文物の扱い方や文物との向き合い方、そのまなざしみたいなところで、考えさせられることばかり。例えば、私がインターンしているのは台湾原住民の博物館なんだけれども、「台湾原住民」として彼らをひとくくりにしない配慮や、文物に関わる合法性の重視などなど。そういった問いに対して、一つ一つ立ち止まって考える機会があるのは、本当にありがたいことだと思う。

 

 インターンを行う上で最も不安だったのは中国語。こちらの点は、周りの職員さんや実習生仲間に大変助けてもらっている。「何とかなった」というより、「何とかさせてもらっている」という方が近いかもしれない。ただ、インターンを行えるくらいの中国語力というのは、留学当初のひとつの目標だったから、一つ自信にもなっている。嬉しいのは、ほかの実習生と同じ実習内容をさせてもらっていること。
 語学力、というだけではHSKや中国語検定で測れるような能力を考えがちだったけれど、実際の生活は総合力だ。インターン期間で博物館についての講義があった。そこでの中国語は、私にとって難しいものも多かったんだけれども、日本で受けていた博物館学の知識が私を救った。IPMといわれて何を指しているか気づけるだけで、理解度はグッとあがる。中国語学部でもないのに台湾留学、というのは語学の面で大変な部分もあったけれど、どこで何に救われるか分からないものだとも思う。

 

 それから、私の実習生仲間の多くは香港の学生だった。台湾の中国語(台湾華語)は特殊なところがあるし、私は私で発音に自信がなかったけれども、彼女たちと仲良くできているところも嬉しいことの一つだ。ああ、私はこの一年で台湾だけではなく、もっと広い世界、中華圏につながる力を手に入れられたんだなあと。小さなことかもしれないけれど、これは嬉しかった。

 

 インターンはまだ続くし、課題もあったりして、これからきっと大変だ。本当に平日はくたくただったりする。ただ、できる限りのものを日本に持ち帰りたい。インターン期間の終わりと、台湾留学の終わりはほぼイコールみたいなもので、焦る気持ちもあるけれど、大丈夫、だいじょうぶ、私は着実に歩めている、と自分にささやこう。

6月6日 中国語に専念するといったのはうそでした

 

 卒論題目を提出したら、残りの期間は中国語に専念する。

 そう言っていたのは先週の私ですが、それは嘘です。

 

 何度だって思うんだけれど、やるべきことをやるべき時にやれる人なら、それは私ではない。中国語を勉強しなくては、と言いつつ目移りするものがたくさんある。

 

 

 

 今日は卒論のことについてやっていた。卒論題目提出したんじゃないのとか、卒論のことなんて留学終わってからもできるじゃんとか、自分の中から声がする。けれども、今日の私はこれがやりたかったんだ。

 

 なんでだろう。日本の大学に居る人らがぐんぐんと専門性を伸ばしていることに対する焦り。私の進路はどうなってしまうんだろういう焦りは確かにある。ただ、それ以上にふと手に取ってみた字誌がやっぱり面白くて、止まらなかったという方が近いかもしれない。上の写真は調査地の字誌(郷土誌)卒論のテーマに据えている外来神についての記述に付箋を貼っていったら、あんなにたくさん。やっぱりすごいなあと思う。ぞくぞくする。

 

 これからのインターンのことを考えたり、今せっかく台湾に住んでいるのだからと思うと、やるべきことは中国語だ。中国語を学ぶにあたって、最高の環境に居るといえよう。でも、「ぞくぞくする」という感情に敵うものは何一つない。

 

 調査地の字誌は情報量が多く、かなりしっかり調査されていることが分かる。字誌の内容の8割を郷土史家の方が書いたというのだから、驚きだ。聞き取りのデータも得ることができた。この郷土史家の方はすでにお亡くなりになられている。だけれども、個の方が集めたデータで、私がものを考えられるということに、しっかりとバトンを渡されたのだと感じる。「ぞくぞく」の正体は多分これだ。

 

 聞き取りのデータを書き起こそうと思い立つ。

 ヘッドホンで何度も音声データを聞く。分かるところから打ち込んでみる。ただ、その音声の大部分が方言(琉球語)で語られていて、かなりつらい。私は同年代の中ではかなり「聞ける」方だと思っていた。けれども、対人コミュニケーションでの「聞ける」と聞き取りのテープの「聞ける」は全く違うのであった。

 

 どれだけ集中的にできているかは別として、今私は中国語を学んでいる。中国語を学ぶことによって、台湾社会の解像度は日々上がっていくし、開けていく世界に毎日感動している。

 台湾人の台湾語客家語、台湾原住民の言語についての話を聞くことも多い。こうした言語は中国語を前に衰退の道を辿っている。そういう話を聞いている時に思うのが、「私は琉球語を話せない」ということだ。

 

 私の母語はうちなーやまとぐちだ。関東から那覇空港に降り立った瞬間に、私の言語スイッチは切り替わって、それまで東京四季アクセントをなんとか保っていたはずの言葉も、沖縄のイントネーションに変わる。そうして思うのだ。「ああ、ただいま」と。この実感が迫る瞬間はかなり心地の良いものである。ただ、そのうちなーやまとぐちと、自分よりずっと上の世代の言葉とは断絶が大きい。

 

 沖縄に帰ったら琉球語も学びたいなと思う。卒論の為にある程度は学ばないといけないだろう。今までの長期休みと同じように、毎晩祖父母宅に通って話を聞かせてもらうことになるだろうから、多少耳が慣れるということはある。ただ、その次元ではなく腰を据えて学びたいのだ。琉球語を学ぶための教本は出版されているし、CDまでも付属していることもある。ただ、そのCD音源の多くは首里を基準としている。できれば、祖父母がまだ元気なうちに、祖父母の発音を学びたい。祖父母の発音とは首里の言葉とは異なる、沖縄本島南部の田舎の方の発音だ。

 今までだって何度も「教えて欲しい」と頼んできたけれど、いつも「おばあの発音は汚いから」と断られてきた。高校生の頃は、そう言われてしまうと簡単に引き下がっていた。でも、今なら「汚い」発音なんてないとはっきり言えるし、私は祖父母の言葉だからこそ学びたいんだといえる。「琉球語教えて」と急に言われたところで、祖父母だって困るだろうから、教本の例文の発音を直してもらうようにした方がいいのだろうか。祖父母に話してもらった言葉をボイスレコーダーで録音したい。

 その為には「おばあの発音は汚いから」と言って、私の前ではなるべく話さないようにしてきた祖母を説得しないと。やっぱり卒論を仕上げるのが先かな。調査地と自分の地元は別だけれども、卒論を仕上げて、私が何に惹かれているのかをしっかり形にできたらいいのだけれども。いや、そもそも私は卒論を書けるのか????

 

 ああ、やりたいことが多すぎる!

 

 台湾に住んでいるのに、私はまた沖縄のことを考えている。目前に迫ってくる必要性の問題では、中国語を何とかすべきであることは分かりきっているのに!

 ただ、ここまで本気で琉球語を学びたいと思えたのは、台湾に来たからだ。一年かけて中国語を学んで、少しずつ台湾社会がはっきり見えて来るのを実感したこと。今学期台湾語を齧ってみて、台湾の中にも分断された言葉があることを知ったこと。台湾原住民の言語復興運動について見聞きしていること。そういうことが私を琉球語学習へと駆り立てるのだった。

 

 沖縄でやりたいことが沸々とわいてくる、という意味では、私の心は少しづつ台湾を離れる準備をしているのかもしれない。台湾を離れるまであと二か月無い。

 

 午後は友達と唐詩の勉強をした。来週に迫った期末テスト対策である。お互いに唐詩の暗唱を確認しあいながら、思う。唐詩だって、私が中国語を理解できるようになったからアクセス可能になった世界なんだよなあと。漢詩は中学、高校の国語の時間にも学ぶ。けれども、訓読しながら日本語として読んだ漢詩の世界と、中国語で学ぶ唐詩の世界は、同じ作品でも全く違っていて。中国語で読む唐詩が美しいと思うとき、その美しさにアクセス可能な自分を誇らしいと思うのだった。琉球語だって、そうなんだろう。

6月5日 海角七号 君想う、国境の南

 

 朝の中国語の授業、それから昼下がりの唐詩の授業の合間に映画を観た。

観た映画は「海角七号

 

 

海角七号/君想う、国境の南 [DVD]

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海角七号 2枚組特別版(台湾盤) [DVD]

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 この映画はかなり有名なので、今さらあらすじを書くまでもないと思うけれど、一応書いておく。

 

日本統治時代の台湾、最南の町に赴任した日本人教師が、台湾人の教え子、日本名友子と恋に落ちる。 終戦の後駆け落ちを約束していた友子を台湾の港に残して、彼はやむを得ず内地に戻る引揚船に乗った。そして、日本への7日間の航海で毎日恋文を書き綴ったのだった。日本人教師の死後、その娘がこの恋文を台湾に送るが、すでに宛先不明となっていた。

 日本統治時代の切ない恋。これに対して、現代のミュージシャンの夢に破れて故郷に帰ってきた阿嘉が郵便配達の仕事をはじめることで、再び物語がまわりはじめる。

 阿嘉の故郷である田舎町で日本人アーティストを呼び、ビーチコンサートを行うことに。ただ、このビーチコンサートには地元住民が参加すべきであるという市長の考案から、前座として地元住民で即席バンドが結成される。この即席バンドのマネージメントのために白羽の矢が立ったのは、中国語が話せる売れないモデルの友子であった。

 

 この即席バンドのエピソードが映画の中心に据えられているが、日本統治時代の切ない恋に、現代を舞台とした恋が絡む作りになっている。

 


《海角七號》完整預告

 

 2008年に公開されたこの映画、台湾でかなりの人気作である。台湾好き日本人のブログやツイッターでも、何度も見かけたタイトルであった。

 ただ、台湾ドラマにありがちな恋愛ストリートが苦手ということもあり、私はずっと避けてきたタイトルでもあった。それにも関わらず観ようと思ったのは、前日の博物館で「タイヤル族のトンボ玉が映画に出てくる」ということを耳にしたからだ。

 

 結果として、観て良かったなあと思う。

 現代パートのストーリーそのものはありがちものではあったけれども、いくつか惹かれる点があった。

 

 まず、映画の舞台となっている恒春の背景が綺麗。これはとても大きい。

 それから、台湾語と台湾華語が飛び交うところには「台湾らしさ」を感じた。台湾語で話しかけられた小島友子が「台湾語は分からないって!」とキレるシーンもあるくらいだ。私も台湾語はほんの少ししか理解できないので、友子の気持ちがよくわかる。そういうところも含めて、台湾語と台湾華語が飛び交うことが、まさに台湾の日常なんだろうなあと思うのだ。

 

 先学期、映画から台湾社会を見ることを目指した授業を取っていた。侯孝賢らによる台湾のニューシネマの特徴として写実性が挙げられる。具体的には、公共の場での使用を禁じられた台湾語を映画で多く使ったことを挙げていた。

 台湾語と台湾華語が飛び交う映画を観ながら、上のことを思い出していたのだ。「海角七号」の監督である魏徳聖は、台湾ニューシネマの担い手であるエドワード・ヤンのもとで働いていた経歴をもつ。

 

 別に現代において、台湾語がつかわれる映画なんて珍しくないのかもしれない。ただ、台湾の近代史は言語統制と密接な関係があった。日本統治時代は日本語を使うことが求められ、白色テロの時代には中国語(北京語)を使うことが求められ。私の台湾人の友達は台湾語を聞けても話せないという。現在では、台湾原住民の言語復興運動や、客家人による客家語教育も盛んに行われていることからも分かるように、常に言語の壁があるのが台湾である。

 だから、台湾語を話す登場人物と台湾華語を話す登場人物が居て、70年前の手紙には日本語が記されていて、という他言語世界は、まさに台湾が歩んできた歴史を端的に切り取っているのだ。長い時を経て台湾に届いた日本語の手紙だが、郵便配達員の阿嘉が最初日本語を理解できないために放置される、ということからも日本統治時代から大きく変化した台湾社会を覗くことができる。

 

 

 

 この映画で日本統治時代は、ノスタルジックに描かれはするものの、批判的に描かれることはない。これは中国映画とは大きく異なるところだろう。

 例えば、日本人教師と駆け落ちしようとしたものの港に置いておかれた友子は、その後どうなったのか。郷里に帰るしかなかったのだろう。ただ、郷里でも辛い思いをしたのではないか。後の白色テロではスパイとして目をつけられたりはしなかったのか、などと思うところはあるのだけれども、基本的に描かれるのは日本人教師側の視点だ。そういう意味でも、かなり好意的に描かれている。

 作品終盤の「のばら」の合唱など感動的ですらある。

 

 ただ特筆したいことに、この映画の監督である魏徳聖は、今作の次に「セデックバレ」を撮っている。「セデックバレ」は1930年、台湾原住民であるセデック族によって起こった抗日事件である霧社事件を描く。


セデック・バレ 第二部:虹の橋(字幕版)

 「セデック・バレ」で描かれている日本兵の態度には目を覆いたくなるものがある。

Youtubeのコメント欄には、監督が親日派であるとか、「セデック・バレ」が反日映画であるとか書かれていたけれど、台湾の歴史を複雑なまま理解したいと思う。

 

 

 ちなみに「セデック・バレ」を観た時は、中国語に自信がなくて英語字幕を付けていたのだけれども(台湾で観たから日本語字幕はなかった)今回はオール中国語で観られたことが嬉しい。子供向けのコンテンツだけではなく、一般向けのコンテンツにアクセスできるだけの中国語が身についてきたんだなあということだ。そのことで得られる世界がグッと広がったようにも思う。本当なら、このくらいの中国語力をもって留学を始めたかったものだと思う。無茶な願望なんだけれども。

 

 

 

海角七号」については日本語のブログでも感想等々色々書かれていた。