雑記帳

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黙想タイム~目を瞑りたくなかったのに~

 

今年度から、私の通う中学で取り入れられている制度がある。

 それは、授業が始まってすぐの「黙想タイム」だ。

 先生方の話によると、荒れている学校もこの「黙想タイム」のお陰で落ち着くようになり、成績まで上がったとか。

 

 

 

 生活委員の「黙想!」

 という一言で騒々しい教室にも静寂が訪れる。そんな数分間が私は、気に入っている。

 また、みんなが黙想している間にそっと目を開けることも好き。あんな奴も、こんな奴も、静かに目をつぶっている中で一人キョロキョロしていると、何だか別世界に来たようにも思えるのだ。

 

 今日は、その黙想について書こうと思う。

 

 今日、私はこの黙想タイムにどうしても目を瞑りたくなかった。理由など無い。とにかく皆と一緒に目をつぶることが嫌になったのだ。

 

 よく勘違いされることが多いが、黙想とは本来「静かに考えること」であって、目をつぶる必要はない。

 それを知って私は、黙想タイムにクラス全員が目をつぶっている中、堂々と目を開けていた。

 すると、私は何も間違ったことはしていないのに「間違ったことをしている生徒」となり、注意を受ける。

 どうしてだろう?

 1時間目から6時間目まで6人の先生が、私を注意した。私がみんなと同じように目を瞑らなければ、黙想タイムは永遠に終わらないのだと言った先生も居た。それは、おかしい。私の通う中学が取り入れているのは「黙想」だ。目をつぶるという行為ではない。 

 

 「黙想しろ」というから、私は黙想をしていた。ただ目を開けていただけだ。でも、そのことを注意された私は何も言えずに、皆と同じように目をつぶる。私は目を瞑りたくなかったのに。そもそも目をつぶる必要は無いのに。

 

 どうして?

それは、正しいことなのだろうか?

目をつぶった私は、社会適応能力があるのだろか?

 

 私は集団の中にいる。校門をくぐった瞬間、ただの私は、3年1組42番の私となる。だから、ただの私が目を瞑りたくないと思っても、学校という集団に居る3年1組42番の私は、目を瞑らなくてはならないのだろうか?

 

 集団の中にいるということはどういうことなのだろうか?

 もしかしたら、集団の中でただ一人、私のような疑問を抱くことすら間違いなのかもしれない。

 また、皆はそんな疑問を抱いたとしても、私のように気になって仕方がないということにはならないのかもしれない。

 それに、皆はもっと大人で私が幼すぎるのかもしれない。

 

 私は目を瞑りたくない。そんなシンプルなことを貫くために、頭がぐちゃぐちゃになっていく。

 

 「社会の中で殺される個人」そんなことを聞いたことがある。少し言いすぎだが、私の疑問も集団に殺されるのかもしれない。

 現に、私は「嫌だ」と思いながらも、毎時間目をつぶっている。

 

もちろん、黙想時に先生方が目をつぶるよう指導する理由もわかる。きっと、黙想がスムーズに行えるようにだろう。

 

 それでも私は、目を瞑りたくないのだ。どうしても、嫌だったのだ。

 

 集団で生きるとは、なんだろう?

 

 

 

 

 編集後記

 実は上の文章は、今日書いたものでない。先日の授業中に悶々としながら書いたものだったりする。