雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

沖縄帰省  沖縄で食べたもの

 

 沖縄に帰省している時もできるだけ日記を書こうと思っていたけれど、結局沖縄では書く時間が取れなかった。

 調査が夜まで詰まっていて描けなかったのは、1日。他の日はなぜ書けなかったかと言うと、我が家は言葉に溢れすぎていることが原因だろう。

 

 私の家族は全員おしゃべり。家が静まる時は無いんじゃないのか、というくらいに。台湾でのこと、弟がいまやっている社会学調査のこと、親戚のお姉さんの結婚式のこと、母の友達の子供の受験結果について。テレビがついていればそのこと。とにかく何でも話した。弟とは本や映画、音楽の趣味が微妙に似通っていて、微妙に違うので、延々とお互いの好きを話す。

 

 文章を書こうと思うには適度な孤独が必要だと思う。何かを書きたいなと思う前に、口に出してしまうような実家では無理だった。

 

 

 さてさて本題、沖縄で食べたものもの。

 


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  • そのいち、ちらし寿司。

沖縄に帰った翌日のお昼に出てきた。

 

 数日遅れのひな祭り、ということらしい。寝ぼけ眼でリビングへ行ったら、母がいそいそと作ってくれていた。


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 祖母も母も得意料理はちらし寿司。ちょっと酢が効いているところが箸をとまらなくさせるんだと思う。酢飯の上にのる薄焼き卵や海苔とのコントラストも最高。

 

 
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 家には雛人形も飾られていた。私に見せてから片付けようと思っていた、とのこと。この雛人形は、幼稚園に上がる前に祖父母が買ってくれたもの。それから毎年飾っている。

 

 母とは今まで色々あったけれども、母が全力で私を愛してるのには違いない。その愛はちゃんと私に伝わっている。むしろ、それが分かっているからこそ、母娘関係は難しい。

 

  •  そのに 三枚肉


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 これはカンカー(地域によってはシマクサラシという)の祭祀で使った供物の豚肉。

 カンカーとは旧暦2月に行う悪疫払いのこと。色々と興味深い行事だけれども、書いていたらキリがないから、今回はその様子は省略する。

 

 私の地元では字を班単位(これは昔のサータヤー、砂糖小屋の単位)に分けて祭祀を行う。今回は私の祖父母宅が班長に当たっていたため、供物の準備から見せてもらった。


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 供物の準備はそう難しくない。地域の商店で豚の三枚肉を購入し、茹でるのみ。

 毎月のようにある地域の祭祀。誰が供物を用意するのか、祭祀ごとに決まっているどころか、調理の方法もまた祭祀ごとに決まっている。 

 私が好きな供物はシンプルに三枚肉を茹でただけのものである。

 


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 ウサンデーといって、祭祀が終わった後に参加者みんなで食べる。茹でた豚肉だけでは物足りないので、これに塩をつける。すると、豚肉の旨味が自然に引き出されて美味しいのだ。豚肉ってこんなに美味しかったっけ?と思うくらい。ビールも泡盛もどんどん進む。

 

 地域一の長老である祖父が、昔の祭祀はこのウサンデーをもらう為にどれだけの地域住民が参加したのか、という話をする。そして、わたしはそれを地域のおじさんと一緒にウンウン言いながら聞く。その話を聞いて思うのは、昔の沖縄が貧しかったということや昔の地域が活き活きとしていた頃の話ではなく、「そのお肉はやっぱり美味しかったんだろうなぁ」ということだった。おじぃちゃんにそれを言ったら「それはそれは美味しかったさぁ」と満面の笑みだった。

 

 


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 生きていくうえで思い出の食事はいくつかあるけど、ビーフシチューは我が家の思い出の食事のひとつ。

 

 ある時のクリスマス、沖縄県最大規模のイルミネーションを見た帰りに寄った喫茶店、そこのビーフシチューがとろけるような美味しさだった。その頃、私はまだ小学生で、お父さんもまだ生きていた。家族四人で食卓を囲んだ、思い出。

 

 自分で車を運転できるようになってから、友達と真っ先に向かったのも、この喫茶店だった。どこかレトロなんだけれど、昭和とアメリカとファンタジーが入り混じったようなお店の雰囲気も大好き。

 今回も本当は別のお店に行くはずだったのに、予約が取れずに困っていたところ、弟が半ば強引に決め、糸満に向かって車を走らせた。私にとっての思い出のお店だけど、弟にとっても思い出のお店なのだ。

 

  • そのよん いろどり定食


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 台湾行き飛行機に乗る直前、食べた和食。那覇市の彦本店にて。こちらも思い出のお店。毎年、初詣のあとに家族全員で行っていた。

 私の父は、沖縄の歴史あるホテルで働いていて、調理師免許の資格も持っていた。そのため、家族思い出のお店は今食べても本当に美味しい。

 小学生の頃から私が頼むのは「いろどり定食」

 天ぷらとざる蕎麦と海鮮丼に茶碗蒸しまでついて、和食のお子様ランチみたいだといつも思う。ざる蕎麦もそばの香りが高く、海老天ぷらの軽やかな衣、美味しくないはずがない。

 たった3泊4日の弾丸帰省だったのに、これを食べている間、急にしんみりしてしまった。

 

 

 弾丸帰省のデメリットは、食べたいものが無限に出てくるのに、食事の機会がそれに全く足りないことだ。3泊4日、食事の機会は10回程度しかなかった。それじゃあ足りない。

 台湾でも日々、「美味しい」を言いながら過ごしているけれど、日本食の何でも口に合ってしまう安心感ところには舌を巻く。日本食(沖縄料理も多いけど)、最高である。

留学日記 沖縄帰省のおわり

 


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 沖縄帰省は楽しかった。卒論調査の成果については考えたくなくて、これは非常にまずい状況であるんだけれども、それでも沖縄に帰って良かったと思う。

 

 沖縄に着いて、入国審査官に「謝謝」と言おうとした。すぐにここは日本だ、と気づいて苦笑いしながら「ありがとうございます」って言ったのだけど、このことがどうも忘れられない。

 お礼を言うときに「ありがとうございます」より「謝謝」の方が先に出てくる驚きもそうだけど、「ありがとうございます」って何だか長くて言いづらいなぁとか、日本語の音って何だかころころしているよなぁとか、思った。

 

 中国語もそんなに出来ないんだけれども、それでも日々を中国語で過ごして、世界を切り取るカテゴリの中に「中国語」が建設されつつある。留学を勧めてくれた先生(医学部の先生だった)が「ぜひ貴方の頭の中に中国語の領域を作ってください、これは財産になります」と言った。その時はその言葉がいまいち分かってなかったけれど、いまは少し分かるかもしれない。そして、そのことによって母語である日本語にも新たな気づきがあるのだから面白い。

 

 昨日の夜、台湾に帰った。

 飛行機はお金がないから、LCCPeachである。倉庫のようなターミナルを抜けて乗り込んだ飛行機、まわりの乗客はみんな台湾人だった。日本語の雑誌を読んでたにも関わらず、日本人のCAさんは私に中国語で話しかける。これがちょっと面白かった。こちらも中国語で返してみる。隣に座った台湾人のお母さんとその赤ちゃんとも中国語で話した。まだ沖縄に居るはずなのに、飛行機に乗り込んだ途端、そこはもう台湾のようでそれもまた面白かった。

 航空会社や周りの乗客によっては、外国に居るのに空港の搭乗口から日本が始まるときがある。搭乗時刻の15分前から日本人が並んでいたベトナムの空港とか、飛行機に乗り込んだ途端、暖かいおしぼり(しかもレモングラスの香り付き)が出てきたモスクワからの帰りとか。「日本」とか「台湾」とか、「沖縄」を規定する国境は目に見えない。実際に赤い線が引かれているわけでないのだから。国境なんてもの、「はい、入国したのでここから日本です」ではなくて、本当はもっとダイナミックなものだと思う。その時々で変化し得る。そして〇〇人というものも同様に。

 

 台湾の桃園空港に着いたら、移民局で手続きしてもらった後、自動化ゲートで入国した。駅の改札を通過するように、居留証をピッとするだけ、たった10秒足らずで入国できる。未来を見た。どんどん国境なんて低くなってしまえば良いのに、と思う。

 

 入国の為、長蛇の列に並んでいる外国人を見ながら、自動化ゲートで抜けた私は何だか台湾人っぽいなと感じた。それと同時に思ったのは、半年近く前の9月ドキドキしながら入国審査の列に並んでいた自分のこと。何だか遠い昔のようだ。

 

 寮に着いて、「ただいま」と呟く。母は「あなたにとって帰る場所は沖縄だけ」と言うけれど、私にとっては沖縄もつくばも台湾も変える場所になっている。台湾に住むのは一年足らずだから、少し傲慢かもしれないけれど、お気に入りのもので作った部屋があって、待ってくれる人が居るのだから、そこはもう帰る場所である。そしてそれは豊かなことだと思うんだ。

 

 沖縄での調査で「大学卒業したら、沖縄の男と結婚して、ここに住んで、ここに貢献してね」と言われた。

祖父母は何度も何度も繰り返し聞く、「今度はいつ帰って来るの?大学の卒業はいつなの?」と。祖父母の中で、わたしが大学卒業後沖縄に帰ることは確定事項なのだろう。祖父母は、私が沖縄県外進学をしたのは沖縄に学びたい大学がなかったから「仕方なく」だと思っている。これは半分正しくて、半分違う。

 

 いつか、私は沖縄に帰るだろう。でも今ではない。あと1年後なのか、10年後なのかもまだ分からない。

 私は沖縄で生まれ育った。でも、今台湾にも、つくばにも育ててもらっている。多分、今回のように帰省して調査の中で発見する「沖縄」も、台湾生活の中で発見する「沖縄」も私の中で等しく価値をもっていることには違いない。どちらも大切にしていきたいものだ。どちらも大切にできると信じている。

 

 

 

留学日記 弾丸帰省 台湾と沖縄の往来の中で


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 私はいま、沖縄行きの飛行機に乗っている。いま飛行機が離陸したから、あと1時間と少しで沖縄に着くだろう。近いものだなぁ、と何度も感じた感慨を噛みしめる。そんなに近い場所でわたしは今、沖縄とは全く違う毎日を過ごしているのだ。

 

 

 台湾に戻ってまだ1ヶ月も経ってないのに、弾丸帰省をする。

 台湾に帰ってからも、弟との台湾一周、沖縄の友達との高雄旅行というように、よく見知った人とばかり会って居たから、沖縄を恋しく思う瞬間は無かった。

 

 

 それでも帰るのは、卒業論文のテーマに選んでいるウマチー(お祭り)が年に一度、明日行われるからだ。

 調査の準備は十分とは言えず、台湾大学での課題のことも考えると、気分が沈む。正直なところ、私が卒業を一年遅らせることができるならばどんなに楽か。でも、やっぱり金銭的な都合ってあるんだよねぇ。

 

 ある先生は、留学と卒論を同時並行に進める必要のある私に対し、こう言ってた。

「卒論を書きながらの留学の方が、目的意識を持って、日々を過ごせるから良いんじゃない?」と。

 

 本当だろうか。

 留学と卒論と、どちらも疎かになるんじゃないかって、わたしは怯えてますよ。

 ただ一方で、台湾と沖縄を往来することには大きな意味があるんじゃないかなと思っている。

 

 台湾でも、つくばでも、沖縄でも、その地に到着して、日常が再開すると、自分が土地に適応していく。例えば沖縄に着いた瞬間、私はかなり訛った日本語を話すけど、つくばでは東京式アクセントで日本語を話す。他にも、満員電車での身のこなしとか、台湾ではMRTで飲食禁止とか、小さな部分で適応している部分は無数にあるだろう。

 

 それだからこそ、わたしはうまく生活をまわしていけるんだ。どれも私であることに違いない。しかしこうした往来の中で、異なる自分が顔を覗かせ、従来適応していたはずの社会に違和感を抱くときもある。

 

 いま、最も感じるのは沖縄と、その他の土地で生きる私の差。わたしは生まれも育ちも沖縄で、アイデンティティの根幹には「沖縄」があったはず。しかし、時々信じられなくなるのだ、私が沖縄の田舎町で育ってきたことが。昔の自分が持っていた価値観が、激動していることある。自分を取り巻く評価も激動している、たぶん。だって、わたしは沖縄に居た頃、本当にトロくて運動もできなくて、音痴だった。笑われていた。

 

 確実に遠くなっていく過去があり、その度に「沖縄」もまた遠くなっていく気がする。皮肉なことだと思う。わたしは「沖縄」を勉強したくて、それが可能な大学に進学したはずで、「沖縄、琉球」を東アジアの視野の中で考えたかったから留学したはずなのだから。また、こうやって「沖縄」を知るために帰って、その「沖縄」との距離を痛感させられるのだから、帰省は痛みを伴う行為でもある。

 

 でも、本当のところで、その「痛み」もまた「沖縄」なのだと思う。私が感じる痛みは、地方出身者にある程度共通する痛みであって、「沖縄」との距離感だって沖縄出身で外に出た多くの先人が書き記している。

 私が明日見させて頂くお祭りも、近代化による生業の変化、若者の流出が問題化している。私だって、流出していく若者の一人だし、それを分かっているからこそ、進路を考えると身を引き裂かれそうな気持ちになる。そう思うと、私の葛藤もまた「沖縄」を構成していく一つの要素なのだ。

 

 だから、沖縄と台湾の往来そのものにもしっかり意味がある。そしてその自分自身の葛藤を見つけて記述しておくことは、沖縄のある側面を記述するすることにもなるのではないかと思う。

 

 と、ここまで書いてウトウトしているうちに、飛行機は着陸の最終体制に入った。窓の外からは那覇の夜景が見える。

 帰ってきたよ、沖縄。沖縄が私にとっての帰る場所であることは、揺るぎない事実だ。たぶん、迎えに来てくれた母と少し話して、夕飯に沖縄そばを食べる頃には、私がいま感じてる憂いみたいなものは、忘れるのだろう。

 また今回の帰省は、中国語の世界から日本語の世界への帰省でもある。日本の航空会社でチケットを取ったこともあり、飛行機に乗り込んだ瞬間から、日本語に取り囲まれる。すごいよ、他人の会話の情報量が多い。気を張らなくてもアナウンスが分かる。そして、それがちょっと変な感じ。

 

 そういうことに気付けるのも、往来の良さだ。飛行機が着陸した。ただいま、沖縄。ただいま、日本🗾

日記 あいみょんとアーバンギャルドが染み入る夜です

 

 3月5日

 

 今日は23時には寝るのが目標。ここ数日、色々あって睡眠時間が短いのだ。今日の復習や、明日の予習、明日の課題等々、山積みなのは端に置いておいても日記を書きたいと思うのは、ひとえに私が書くことを愛しているからだと思う。わたしはインターネットのある時代に生まれて良かったな。わたしの小さな自己顕示欲を満たしてくれるインターネット。

 

 私の日記は往々にして役に立ちません。だってそのようには書いていないんだもん。特に今日はそう。私の日記は、あくまでも私のために書いているんだと思う。長らくブログを放置しておいたくせにこう言っちゃなんだけれども、私はキーボードを打ちながら今日あった出来事を緩やかに消化していっているんだと思う。

 高校生の時なんかは、消化なんて穏やかなものではなかった。排泄だったと思う。書かなくちゃ死ぬぞ、みたいな。絶対に正気を保って高校を卒業するんだぞ、という気合い。いや、何言ってるんだって思うわけだけれど、あの頃は本気だったからね。

 

 今の自分にとって、日記を書く時間は消化の方がぴったりくる。書かないと気持ち悪いけれど、死にはしません。たまに便秘になったりする程度。これも高校生、中学生くらいの自分だったら許せないことだったろうと思う。人間、いつまでも激しくあるべきだと、心から思っていた。激しくあればあるほど、喜びも大きいんだと。いまの消化日記、誰のためにもならないはずなのに、わざわざネットの海に流してしまうのは、私の自己顕示欲です。えへへ。

 

 グーグルで何かを検索するとトップに出て来るのは、たいてい「役に立つ」系の記事なんだけれど、そしてそれらは大概「気になりますよね?ちょっと調べてみました!」系の薄っぺらいものなんだけれども、わたしはいつまでもインターネットで、誰かのタメにならない言葉を聞いて居たいなと思う。そして、私もインターネットにそういう言葉を流し続けたい。自分で役に立たないとか言っていたけれど、そういう日記ってインターネットの財産だと思うんですよね。伊達に思春期を南条あやで過ごしていないんだよ、こっちは。

 

 

 日記のお供は、高校の先生からの仕送りに入っていたショウガ甘酒。高校の恩師は、今でも私のことをよくしてくれて、台湾の宿舎に日本と沖縄のいいものを送ってくれる。有り難くって涙が出る。喉がちょっと痛いので、甘酒で暖まって寝たいと思います。

 

 それからyoutubeを垂れ流しにしながらBGMにしているのは、あいみょんの歌。あいみょんは、2018年の紅白に出ていたこと、友達が話題にしていたことで名前だけは知っていたけれど、ここ数日初めてちゃんと聴いてハマってしまっている。「あいみょん」という名前からして、自分がハマるとは思わなかった。

 

 そのきっかけとなったのは、「生きていたんだよな」という曲。


あいみょん - 生きていたんだよな 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

二日前このへんで
飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた
血まみれセーラー 濡れ衣センコー
たちまちここらはネットの餌食
「危ないですから離れてください」
そのセリフが集合の合図なのにな
 

  という歌詞からはじまる。「あいみょん」という名前のポップさからは程遠い歌詞にびっくりしてしまった。

 私は今台湾に住んでいるから、グーグルで検索すると繁体字のサイトがヒットする。台湾のサイトでは「厭世少女あいみょん」という風に紹介されているわけで、「え、そっち系の人でしたか」となった。

 自分でもこじらせを引きずっていることにびびるけれど、アーバンギャルドCocco椎名林檎が好きな私には、気になっちゃっている。前に出したアーティストより、あいみょんの毒気は大分薄いんだけれど。

 

 私がこの曲の中で好きなところは、「生きていたんだよな」と事実だけを述べ、自殺少女に対する解釈を行わないところだ。明るく、前を向いて行こうという曲調ではなく、かと言ってアーバンギャルド「平成死亡遊戯」のようにメンヘラ的な世界から抜け出せないわけではない。

 


アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI

 だって、アーバンギャルドの「平成死亡遊戯」は自殺した南条あやに捧げる曲なんだけれど、

インターネットであちらにつないで

画面の向こうのあの娘につないで

ADSL ISDN

テレホーダイならつながるかな

 

あの娘みたく きっと死ねない私

変わろうとも変われない時代と似てるかな

 

 って歌っているからね。南条あやの自殺から16年が経とうとしていたけれど、(平成死亡遊戯は2015年公開)ずっと南条あやが生きていた世紀末に居るような歌詞。「南条あやになりたかった」女の子がたくさん居る世界。どっぷりその世界観に浸かっていた自分はいたのは確か。

 

 でも、あいみょんの正直な「生きていたんだよな」という感慨みたいなもの。確認みたいな、実感ようなもの。そのテンションの方がいまの自分の気持ちに合致しているのかもしれない。もう、あちら側には住んでいない。笑っちゃうくらい、日々が穏やかで、あの頃の私だったら「ずるい」と思った気がする。いや、それでも引きずっている部分があるから、自殺をテーマとした曲が気になったりするんですけれど。そして、こじらせている自分もそんなに嫌いじゃないんですけれど。

 

 でも日々を穏やかに過ごせても、20歳を越えて21歳になっても、ハマっちゃう音楽に出会えることが嬉しい。

 私は、母が音楽を聴かないし、映画も観ないし、本を読まない人だったから、そしてそうやって生きることが「大人になること」だって言われてきたから、自分が思春期を抜けたら染み入る音楽に出会えなくなるとばかり思っていたよ。そうじゃないんだな、そのタイミングならそのタイミングなりで響く音楽に出会えるんだな、と気付いたよ。

 

 あ、今日は日記を書くつもりだったのに、youtube巡回しているうちにもう23時半をまわっている。もう寝ていたはずの時間だ。まだ今日の授業もことも、入会を迷っているオカリナサークルのことも、言語交換のことも書けていない。困ったな。でも、そうやって論理的じゃないところで、youtubeが止められないとか、自分が書こうと思ってなかったことを書いているっていうのも、素敵なことだよね。ここで自分の発見があるわけだから。

 

 

 

 SHISHAMOライブに行った話を貼る。

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 21歳になった話

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