雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

卒論提出しました


 気がついたら、冬が来ていた。
 わたしはこの秋から冬にかけて、自分のアパートの和室に置いたこたつの中でずっと卒業論文を書いていた。

 和室の窓から見えるイチョウの木は段々色付いて、そして散っていった。季節感を伝えるのは、この窓からの景色だけで、あとは卒論を書いて、授業に出て、たまに息抜きと称して友達と飲みに行って、季節は過ぎていった。


 わたしの卒論のテーマは、沖縄の外来神信仰。高校二年生の頃からのテーマで、今の大学もそのテーマでレポートを書いて合格した。台湾留学も絡んでくるようなテーマである。
 

 ただ、そういうテーマだからといって卒論提出までは全然順調じゃなかった。台湾留学から帰国したのは7月末。夏休み期間で調査をした。そのあと大学院入試が10月末で、合格発表が11月はじめ。そして卒論提出が12月中旬。大変な秋学期になることは分かっていたし、そのうえで4年卒業を選んだ。覚悟はしていたけど、やっぱり大変だった。

 何が大変だったかって、10月末の院試を終えてから書き始めたから時間が足りないということがひとつ。

 ただ、それ以上に集中できなかったことが大変だった。卒論を書きながらわたしは今学期、20単位ほどの授業を履修していた。台湾大学の単位互換が失敗した場合の予防線だった。だから日中は授業に出なければならなくて、卒論はいつも夕ご飯を食べ終わったあと20時から2時くらいまでの間で書いていた。といっても毎日6時間パソコンに向かってるわけでなかったけれど。1限が8時40分スタートだから、2時就寝が最終ライン。この生活リズムは曜日によって変わったり、締切直前になるとリズムなんて言ってられなくなったりしたけれど、11月12月の2ヶ月はほとんどこのリズムで過ごしていた。

 そこそこの期間継続して取り組まないといけないものだから、リズムがないと続けられないだろうなと考えていた。それでも集中したいときに授業のために中断しなければならないことはきつかった。それに、普段の期末レポートとか、テスト対策は一夜漬けだったし、コツコツ勉強してきたことはなかったから、先の見えなさにしんどさを感じていた。

 それから、まわりのことに妙に苛立っていた。わたしは自分のスケジュールのなかでいっぱいいっぱい、頑張っていたつもりだったけど、卒論チキチキレースをしていることには違いなく。さらに言うなら、わたしは留学していたし、さらに教職があるから4年秋になってまでたくさんの授業を取ってるわけだけど、ほかに4年秋まで授業を残してる人はここまで単位を落としてきたから取っている人が多く。(もちろんそうじゃない人もたくさんいるけど)後輩が「来年、再来年先輩のようになっていたらこわいなあ」とか言ってくるのが、たまらなくしんどかった。こうした声を苦笑いで聞き流しながら(時には「いや、留学も教職でもないあなた達はそうならないだろうよ」と諌めつつ)、別に早く書き上げているのがえらいわけじゃないって言い聞かせながらわたしは書いていた。一番大事なのは書き上げて提出することで、その次は質。早く書いているかどうかなんてどうでも良いんだって。

 うちは定期的なゼミも滅多になかったからだろうか、卒論を書くことは大変孤独な作業だったように思う。自分が書いていることに間違いないか不安に思いながら、毎日文字を積み上げるしかなかった。わたしの場合調査地があって、夏の間そこで見たこと聞いたことを中心に構成していく卒論だった。だからこその難しさもあった。

 先生からは「卒論はせっかく字数制限もないから書けるだけ書いて」と言われていたから、とにかくたくさん書いた。最終的には本論7万字、補遺4万字。でも、ツイッターとかでは「長い卒論は結局のところ蛇足ばかり」という言葉を目にしたり、別の専攻の友達からもそれに近いことを言われたり。そうなってくると、自分の記述が冗長なんじゃないかと不安でたまらなくなった。不安になると筆が止まるから良くない。そもそもギリギリスケジュールなので、筆が止まっている場合じゃないのだ。これは分野によっても全然違うんだろうから、自分の先生のことを信じていれば良いんだろうけど、まわりのどうでもいい言葉が冷たく響いていた。


 こうして書いてみると、そうそうあんなことかしんどかったなと思い出してくる。ただ、でも、わたしは自分が提出することに対しては大きな自信があった。まわりからは危うく見られていたかもしれない。先生から「何が何でも出すことだけは諦めないで」と言われていたし、実際提出3日前まで考察が書けていなかった。提出できる状態になったのは締切の朝だ。でも、自分が卒論を書いて、提出することはわたしの中で疑いようのないことだった。書いていることの質に不安になっても、まわりの声に心がワサワサしていても、それだけは信じていられた。ただでさえ長いのだから、最初で自分で何かを端折って考察まで書いてしまえば楽だったように思うけど、それはしなかった。我ながら肝が座っている。

 それに、ただ単に卒論を書くことそのものは楽しかった。夏休みの調査で見たことを文字にしてみると見えるものがあるのも楽しかったし、自分の考えていたことを裏付けるものが出てくるのも嬉しかった。

 
 今回、あまり生みの苦しさみたいなものは感じなかったと思う。時間との勝負で、ただ自分の頭で考えてきたこと、夏休みに見たこと聞いたことを書いていく時間だった。テーマや調査地に救われていたのだ。このテーマでやれてよかったと思う。友達が卒論終盤に「卒論は大学四年間の伏線回収みがある」って言っていた。確かに、わたしの卒論には調査地だけでなく、地元も台湾大学も登場するのでそんな感じがする。ああ、わたしはこういうことに興味をもっていて、こういうことがしたくて、大学を選んだし、留学したんだなと感じながら書いていた。そういう意味では幸福な時間だ。



 だからだろう、わりと苦しかったはずなのに、卒論を提出してしまうと、嬉しさより寂しさが先に来ていた。あ、終わってしまったのかって。悔しさもあった。時間があればもっと書けたと思う。そう思うと、やっぱり留学したのた4年で卒業しようとしてるのには無理があったように感じられたし、一方では、私には修士論文もあるんだなということが少し救いにもなった。


 卒論を提出したことを先生方にメールで報告すると、「秋学期を乗り越えたことを自信におもってください」と言われ、たいへん嬉しかった。

 卒論提出翌日から、秋学期のテストがあり、それが終わったらすぐに福岡に飛んだ。福岡、佐賀を旅してこれから沖縄に帰る。沖縄で年を越すのは2年ぶりである。大晦日はすき焼きにしようね、と母からラインが来た。入院していた祖母も一昨日退院したらしい。

 沖縄で抱えているレポートもあるけれど、それでも沖縄でのんびりして、その後にはしっかり関東に戻ってこよう。年明けには卒論の口頭試問がある。わたしは次のステップにいくために今回頑張った。できなかったことはできなかったこと、頑張ったことは頑張ったこととして認めて、少し休んだら、またやりたいことをやろうと思う。

11月7日~11月15日 息抜き記録

 

 卒論を抱えていると、何でもない日記を書きたくなる。

 ここ最近の日々は、日中授業に行って、夜ご飯を食べたあとから卒論を書いている。毎日、まいにち間に合うだろうか、と心配しているし、結構やばいスケジュールと、それでも思うように進まない現実とでちょっと疲れている。だから、自分の中のバランスを取り戻すかのように、なんでもない文章を書きたくなる。以下、息抜きの記録です。(結構多い)

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大学院合格していました

 

 この前の日記でちらっと書いたけど、10月末に行われた大きな試験の結果が出た。合格発表は10時、1限目と2限目の間の休み時間で行われた。トイレに籠って、息をひそめて、その結果を見た。自分の身体が次第にこわばっていくのが分かる。でも頭の芯の方は冷めていて、どこか冷静だった。自分の番号を見つけた時、真っ先に来たのは安堵で、嬉しさはジワジワやってきた。合格していた。よかった、本当に良かった。

 

 来年の春から、わたしは大学院生になります。

 

 留学中、「日本の同級生は専門性を高めているのにわたしは全然だめだ」と思っていたのは、この大学院試を見据えていたから。一年留学して4年で卒業したいと思っていたのも、進学を考えていたからでした。

 7月末に帰国して、夏休みは沖縄で調査して、勉強をはじめられたのは結局9月からだったし、本当に間に合うかぎりぎりのところだったと思う。現に過去問を一通り解けるようになったのは院試の一週間前だった。



 先生方、先輩方に「大丈夫だよ」と励まされるたびに「ああ、これからこの期待を裏切るのか」と思ってたし、「結構難しいからねえ」と言われると「もうダメだ」と思っていた。同級生はみんな進路が決まっていることもつらい要因だった。単位互換の問題も抱えていたし、そもそも日中の授業も多いからいっぱいいっぱいになって、卒業を伸ばすことを何度も何度も考えた。

 

 ただ救いだったのは、勉強していることが楽しいと思えていたこと。気持ち的には大分追い詰められていたけれど、民俗学事典を持ち歩いて、付箋だらけにして読んでいるのが楽しかった。わたしの大学生活、興味の赴くままに走ってきたけれど、それを整理する貴重な時間だったかもしれない。低いスタート地点だったからこそ、一日いちにちの伸び幅も大きくて、昨日の自分より今日の自分は確かに進んでいるのだと思えた。そういう気持ちがあったから、今回の結果がダメでもまた挑戦しようと思えていたのだと思う。

 

 


chAngE Miwa

 

 

  私の受験ソングはmiwaのchAngE。といっても、ひたすら聴いていたのは高校生の時で、大学入試の直前にもこの曲を聴いていた。今でも覚えている、高鳴る胸の鼓動を抑えながら音楽を聴いていた時のこと。

 

 chAngE なびかない 流されないよ

 今感じることに 素直にいたいの

 

パターン化したこんな世界じゃ 自分が誰なのか分からなくなる

枠にはまりたくないわ 決めつけないでよ

 

 あの頃の自分は、とにかく今を変えたかった。沖縄で感じていた閉塞感。高校に居た時は自分を否定されているような気がした。だから、絶対に沖縄を、実家を、あの環境から出なくちゃダメなんだと思っていた。あの焦燥感にも似た、切実さ。自分の中の熱い感情が沸き上がってどうしようもならない時があったから、私は今ここに居ると思うし、大学に入ってわたしは確実に変わった。

 今では信じられないけれど、高校入学時には今いる大学の存在すら知らなかった。私は沖縄の大学とか看護学校に行って、沖縄から出ずに人生を終えるものだと信じてやまなかった。私が行った高校だって、高校受験の時には「あんたがあの高校でついていけるわけない」と母に言われていたし、結局沖縄を出たことに対する罪悪感はある。進路選択時に誰かがかけてくれた言葉とか、小さなちいさなきっかけが積み重なって、いまがあるけれど、そうじゃなかった人生もかなりリアルなものとして自分の側にはあるのだった。

 

 大学に入って、これまでの人生では出会うことのなかった人たちに出会った。それは引け目にもなったりしたけれど、新たな道が見えるようにもなった。勢いで決めた留学も、友達や先輩が海外に飛び出していくのを見て決めた。そうして得たものは大きい。大切なものを得られたからこそ、高校生までの自分が感じていた閉塞感もいつの間にか感じなくなった。ただ、得たものが大きいからこそ、自分が子供の頃に描いていた未来図との差も大きくて。そこに対する戸惑いも、確かにある。

 

 そうやって思い返すときに、18歳の時の自分の切実さを、21歳の私はちゃんと受け止められているのか、と思う。18歳の時がらりと進路を変えたこと、その後の生活。大学院試の勉強をしながら、大学に通いながら、miwaのchAngEを聴いて、あの切実さを思い出せば出すほど、あの切実さから遠ざかっているのを感じていた。いつの間にか思春期は終わってて、あの時「絶対に忘れない」と思った感情までもが遠くにある。

 

 大学院に合格して安心したのは、進路未決定の不安から逃れられたこと、プレッシャーからの開放以上に、あの時の自分を裏切らずに済んだからだと思う。私はいまも、自分で最善だと思う道を選んで、そこでちゃんとやれることをしっかりやっていますよ、という自信を持てて良かった。

 

 大学に入って「私は変わった」と思うところ、高校の頃の自分なら人文系で大学院進学という進路は選ばないだろうなあと思う。高校の頃自分が辛かったのは、周りが押し付けて来る「正しさ」に敏感でありすぎたのだろう。高校の勉強をせずに文章ばっかり書いて好きな勉強ばかりしてごめんなさいとか、学校に馴染めずに学校行けない日があってごめんなさいとか、常に思っていた。偏差値教育に反吐が出ると思っていたけれど、反吐が出るのはそれを自らが内面化しているからだとも意識していて、そんな自分も嫌いで仕方なかった。「大切なのは自分がどうありたいか、それだけだよ」と言ってくれる大人は周りにいたのに、その意味がわからなかった。

 

 でも、今は自分が最善であるという道を選んで、そこに対してきっちり結果も貰って。社会的にそれが「賢い」生き方なのかどうかなんてどうでもよいなあと思えてしまうのだった。もちろん、経済的なところなどはしっかり考えているし、いつまでも親の支援を受けているわけでもない。だから、誰かに何を言われても知らん顔すればいいし、自分は胸を張れる。もちろん、その思いが揺らぐ日もあるんだけれど。

 大学院に合格してジワジワ込みあがってきた嬉しさはそういう類の実感でもあった。ああ、良かったなあ。春からの生活で、何が変わって何が変わらないか分からないけれど、新生活を楽しみに思えることが幸福だ。

 

 

 次は12月中旬までに卒業論文を書く。分かりきっていたことだけども、日々が目まぐるしい。でも、年末まで走って走って走り抜きたい。

 

近況報告:秋になった北関東でちゃんと生きています

 

 熱い日差しが照り付ける沖縄に住んでいたこと、ましてや私が中国語を操って台湾で生活していたことなんて嘘のように、私は今北関東の暮らしにすっかり馴染んでおります。

 写真は、沖縄から茨城空港への飛行機。窓から田んぼが見えて、わぁっとなった。そう、これがわたしの知っている北関東だ。約一年の留学と、二か月の夏休みを経て、私は元居た大学に戻ってきたのだった。ただいま、わたし。ちゃんと大きくなって帰ってくれたかな。

 

 今回お引越しをしたのも大きな生活の変化だった。今までは大学の学生宿舎に住んでいたんだけれども、学生宿舎で悶々と息詰まった記憶がよみがえってくると、どうしても戻りたくなかった。そうこうしているうちに同じタイミングで留学から帰ってきた友達とルームシェアをすることに決まったのだった。自分で契約したアパートに住むのも、友達とルームシェアするのも、はじめての体験で、留学が終わっても刺激的なことはそこかしこにあるなあと思った。友達とのルームシェア、相手の生活が染み込んでいくような感覚があって、今までにない生活です。色々あるけれど、それなりに楽しくやっている。

 

 ただ、冷蔵庫などの大きめの家電は友達が預かってくれていたとは言え、移動手段がほぼ自転車しかないこの土地で新しい住環境づくりを行うのには骨が折れた。数キロ先のニトリやホームセンターまで往復して、100均に行って、スーパーにも行って、そうしているうちに、残り少ない夏休みはなくなり、新学期がやってきた。

 

 

 久しぶりの日本の大学は緊張したし、やっぱり楽しかった。単位互換問題や教育実習のことなど、頭が痛くなるような問題は次々起こって、そのたびに心がいっぱいいっぱいになってちょっと泣いていた。

 

 現状報告、実は卒業単位が足りてなく、さらに言うとその足りていない単位は今学期履修できず。このままだと確実に卒業が怪しくなっているんだけれども、台湾大学での単位をどうにかこうにか互換することで何とか卒業しようとしている。でも、その結果が出るのは11月で、まだまだ不安はある。この件について泣きついたら先生方がたくさん相談に乗ってくれ、どうにかこうにか単位互換が成功するように、そして万が一単位互換が失敗しても卒業できるように、と作戦を立ててくれた。本当にありがたい。

 

 それでも今学期もわたしの履修はパンパンで、卒論込みで30単位。正直4年秋学期の履修ではない。でも、久々の母語で受けられる授業が面白くって、今学期はがっつり集中して聴いていることが多い。

 日本の大学に帰ってきたことの感想はまたどこかで書きたいんだけれど、一年離れていたからか日本の大学の良さもたくさん感じている。なんかさ、台湾の本科留学生がよく「日本の大学生は遊んでばっかりでしょ~笑」とか言っていて、私もモヤっとしながらうまく言い返せない、みたいな感じを繰り返していた。日本の大学生は勉強しないという固定観念が私自身にもあった。でも、帰ってきてから思ったのは「日本の大学生は勉強しない」ってことはなくて、ただ単に私が勉強していなかったんだということ。私の友達は卒業単位を取り切っている子ばっかりだけれども、最後の学生生活だからとみんな結構授業を取っている。そういう友達に刺激され、わたしも今まで一度も触れてこなかった考古学とかも履修してみたり。これがまた面白いんだ。わたし、絶対考古学好きなはずなのに今までタイミングがなくて履修できてなかっただけだったわ。日本での学びと、台湾での学び、その種類が違うんだよね。言葉を覚えて、生活をしながら、肌で学んだことはたくさんある。その一方で、母語だからこそ到達できる深さもきっとあって。日本に帰ってきて、良さがまた発見できて良かったと思う。

 

 教育実習もこのままいけば、来年の9月に行えるはず。しかも、大学に入ったときから「ここで実習できたらな」と思っていた学校で。教科は日本史です。本当は国語という手もあったし、最初はそのつもりだったんだけれども、いろいろあって変わった。大学に入った時から変わってないことも、変わったこともあって、そういう積み重ねがこの四年の成果のようにも感じたり。変化も、変化しなかったことも、私がここで色々考えてきたことの結果だもんね。

 進路は未だ未決定で、来年の予定が全然決まっていない私だけれども、とりあえず教育実習を行うことだけは確定。この予定は、ふわふわと浮いていた私の心を留めてくれた。教育実習を行ったあとのことは、またおいおい考えようと思う。そもそもまず、教職関係の集中講義は怒涛のようにあるし、教育実習までの道のりも楽じゃない。

 

 

 それから、留学終了後に受けたHSKの結果が出た。なんと5級、6級同時合格。5級はさすがに受かっただろうと思っていたけれど、6級に関しては過去問を解く余裕もなく、手ごたえもよく分からなかったからびっくりした。HSK6級は最高級なので、HSKの受験はこれにてとりあえず終われる(スコアにこだわったらキリがないんだけれど)留学中はあんなに「中国語ができない」とがんじがらめになっていたけれど、目標をすんとクリアしてみると、イマイチ実感がない。HSK6級保持者はもっと中国語できると思っていた、というのが正直な感想。嫌味ではなく、だって、だって、わたしはまだまだだという意識がある。

 

 実際にHSKの結果が出た翌日に大きな試験があった。私の進路に関わる大きな試験。(結果が出るまでボヤして書く)中国語はその試験科目でもあったんだけれども、やっぱり難しかった!これはHSK6級が大したことないってわけじゃなくて、私が「どういう場で、どんなふうに中国語を使いたいか」というところに肝がある。

 台湾で出会った日本人の多くが「HSK6級はある意味スタート地点にすぎない」と言っていた意味がわかる。道はどこまでも続くのだ。そうは言っても、留学前にゴールだと思っていた場所を通過点と思えること、これには自分自身の成長を分かりやすく感じられて良い。評価するところはしっかり評価して、でも次をしっかり見据えていきたい。この中国語能力をキープしたいという消極的なところではなく、これからもどんどん伸ばせたらなあと思う。

 

 またその大きな試験の為、今月は民俗学の勉強もしっかりした。試験勉強というのが苦手で、あんまり集中できなかったなあというのは反省なんだけれども、同時に半ば強制的に体系だって何かを勉強する機会もまた貴重だなあと思った。概説書を何冊か通して読んで、分厚い中項目の民俗学事典を通しで読んで、また小項目の民俗学事典を覚えて、直近5年分の雑誌も読んで。恥ずかしいんだけれどもそうしてやっと自分が専攻しているものが一体どういうものなのか、うっすら分かった気がする。いや、まだ分からないんだけれども。学史もちゃんと勉強して、自分の居る大学がどういう大学なのか。また自分の問いが学史上のどこに位置付けられるのかも考えたり。

 

 試験そのものの結果はまだまだ出ない。試験勉強しながら自分の至らなさをひしひしと感じていた日々だったし、今回だめでもすんなり立ち直れるような気がしている。チャンスはまだあるので、今回だめなら次の機会に向けてまた頑張ればいいやと思う。試験勉強の開始が遅れたのも、その手の勉強があまりできてなかったのも、留学していたことが影響しているんだけれども、試験勉強をしながら一度も留学を後悔しなかった。わたしはその時々で自分が一番いいと思う決断をしっかりしているんだから、その先どこに何が繋がっているか分からないけれど、大丈夫な気がするのだった。

 

 秋になった北関東でちゃんと生きています。

 以上、近況報告でした。大きな試験が終わったおかげで心にちょっと余裕ができたから、またこうして日記を書きたいね。