雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

明日、大学を卒業します

 

 私は明日、大学を卒業する。

 

 新型コロナウイルスの関係で、一般の学生の卒業式参加は禁止となってしまったけれども、3月25日が卒業の日であることは違いない。袴を着てサークルの友達とも、学類の友達とも写真を撮る予定だし、学位記だって学類長から頂けるし。

 春休みの帰省で2週間と少し沖縄に帰っていたわたしも、この卒業に合わせて北関東に戻ってきた。

 

 いつも、沖縄から北関東に戻るのは少しだけきつい。羽田空港を降り立った瞬間から、私の言葉から訛りが抜ける。旅行や一時滞在っぽいうちなーんちゅを横目で見ながら、私は北関東行の高速バスチケットを買う。エスカレーターではちゃんと左側に立つし、歩くスピードだって心持早くなる。少しづつ、私が関東向けの私になっていく。18年間、いや、おそらくそれ以上に身体に染み付いてきた色々なものが離れていく。関東の私も私だ。でも、この瞬間が少し寂しくて、覚悟が必要となる。沖縄は私の故郷である。私はいつか沖縄に帰るだろう。

 

 大学卒業を前にしたこの春休み、今回の帰省のテーマは子ども時代に対してしっかりと別れを告げることだったようにも思う。特に永遠に続くかと思った高校時代について。高校三年の時の先生とも会って母校を久しぶりに訪れて、高校一、二年の頃の先生とも会った。

 久しぶりに会った人たちの言葉やその温かなまなざしから、高校時代の私が危うかったことを感じる。急に思い出してしまった。教室に居られなくて、トイレでCoccoを聴いていた日々を、学校に馴染めない自分は一生社会に馴染めないまま死んでいくのだと信じてたことを。どうしようもなくしんどい時は保健室で寝ていたし、保健室の先生は顔パスで寝かしてくれた。でも、保健室の優しい空気が嫌で嫌でたまらなくて、そこに居るしかない自分も憎くてたまらなかった。学校に馴染めないくらいで弱者にされてたまるか、と思っていた。

 

 自分では目立たない地味な生徒だったと思っていたのに、先生方が今でも気にかけてくれている、そのことがありがたかった。私は高校を憎んでいたし、沖縄を大事に思っている一方で沖縄のことも憎んでいた。高校の頃の先生に「今度教育実習に行くんです」って言ったら、「あなたが万が一先生になったら、どの口で『学校に来いとか言うの』って言ってあげるね」と笑われた。そういえば先生は一度も私に「学校に来い」とか言わなかったな、と思った。私は故郷の島にたくさん踏まれてきたと思ったけれど、そうでない人だってたくさんたくさん居た。でも今回の帰省で、高校時代の私が自分の内側ばかり見つめていて、気付けてなかったたくさんのやさしさに気づいたら、やっぱり涙が止まらなくなってしまった。

 

 それでも、毎回の帰省の終わりには思うのだった。「今の私が頑張るべき場所は関東なのだ」と。そして私は北関東で過ごした四年間に救われてきた。

 

 遠くなってしまったあの時間。そしてあの時間を遠くさせてくれたのは大学生活だ。大学四年間は高校三年間より長いけれど、今でも高校を引きずっている自分がいる。大学での時間は、あの頃の自分を救うための時間でもあった。

 

 大学四年間は憧れがつまった四年間だったと思う。保健室の先生に「一人暮らししたらちゃんと自分の生活を成り立たせられるか心配」だと言われていた私だったけれども、家を出て、一人でちゃんと生活できていることが嬉しい。自転車を漕いでスーパーに買い出しに行くこと、アルバイトしてお金を稼ぐこと、ご飯を作って洗濯すること、そうしたこと一つひとつが頭の中だけでいっぱいいっぱいになっていた私の足を地につけてくれた。一年間の留学生活は、大して言葉もできないくせに勢いだけで渡航しちゃって大変だった。それでも台湾の人達は、私の拙い言葉に耳を傾けてくれたし(傾けてくれない人も居た)言語交換していた友達やインターンシップで一緒だった香港人、日本人留学生等々しっかり関係を築けていて嬉しかった。言葉ができることで世界が鮮明になることを知った。場所に関わらず、自分が自分のペースのまま生きていけることが自信となった。

 

 そして、何より北関東の大学で過ごした日々。好きなことを思う存分やらせてもらったなあと思う。高校の先生にふと「今友達と一緒に住んでいるんですよ」って言ったら、「あなたの口から『友達』という言葉が聞けるなんて」と言われた。私は「いやいや、高校時代だって友達いましたよ」と返したけれど、やっぱり高校生の頃の私からすると友達と一緒に住むなんて考えられなかったよな、とも思う。大学の卒業旅行では、大阪の神社で巫女体験をした。巫女体験を一緒にできる友達が居るなんて、さいっこうだよ。自分の好きをはっきり出しても「変人」と揶揄しない人達と一緒に居られたことを嬉しく思う。また、挑戦したいことに挑戦させてくれる大学で本当に良かった。あれこれ手を出して、私は200単位近く取得して大学を卒業する。(台湾大学で取得した単位を含めたら200単位を超える)真剣に受けた授業もそうでない授業もあったけれど、一つひとつ何かしら心に留まるものはあって。その時々で惹かれたり、頭を悩ませたりした時間はやっぱり尊かった。私は専攻の民俗学のほかに、言語学も、教育学も、博物館学も、心理学も、文学も、文化人類学も、宗教学も、考古学も、日本史も、東洋史も、西洋史も取っていたし、必修で外国語があったり、情報や体育もあった。書の授業もあれば、憲法も取った。私は大学院に進むけど、これほどまで興味の赴くままに触手を伸ばせた時期はもうないだろう。ほんっとに楽しかったなあ。

 

 こうした日々の全てが私に「ちゃんと生きていけるんだ」っていう自信をくれた。私はきっと大丈夫。危うかったあの頃をちゃんと過去にしてくれた。憧れがつまった、私の大事な大事な大学生活である。高校の頃の私より、いまの私は伸びやかであると自分で思う。

 今回の沖縄帰省、親戚に嫌なことを言われたりして(中国ヘイトとか、容姿のこととか、それはそれはもうね色々と)私が憎んでいた社会は社会でやっぱりそう簡単に消えてはくれないんだけど、私は私の好きな自分で居たいし、好きな自分で居られる場所に居ようと決めた。

 

 明日友達と会うのも、満開の桜の下で写真を撮ることも楽しみだなあ!

卒論提出しました


 気がついたら、冬が来ていた。
 わたしはこの秋から冬にかけて、自分のアパートの和室に置いたこたつの中でずっと卒業論文を書いていた。

 和室の窓から見えるイチョウの木は段々色付いて、そして散っていった。季節感を伝えるのは、この窓からの景色だけで、あとは卒論を書いて、授業に出て、たまに息抜きと称して友達と飲みに行って、季節は過ぎていった。


 わたしの卒論のテーマは、沖縄の外来神信仰。高校二年生の頃からのテーマで、今の大学もそのテーマでレポートを書いて合格した。台湾留学も絡んでくるようなテーマである。
 

 ただ、そういうテーマだからといって卒論提出までは全然順調じゃなかった。台湾留学から帰国したのは7月末。夏休み期間で調査をした。そのあと大学院入試が10月末で、合格発表が11月はじめ。そして卒論提出が12月中旬。大変な秋学期になることは分かっていたし、そのうえで4年卒業を選んだ。覚悟はしていたけど、やっぱり大変だった。

 何が大変だったかって、10月末の院試を終えてから書き始めたから時間が足りないということがひとつ。

 ただ、それ以上に集中できなかったことが大変だった。卒論を書きながらわたしは今学期、20単位ほどの授業を履修していた。台湾大学の単位互換が失敗した場合の予防線だった。だから日中は授業に出なければならなくて、卒論はいつも夕ご飯を食べ終わったあと20時から2時くらいまでの間で書いていた。といっても毎日6時間パソコンに向かってるわけでなかったけれど。1限が8時40分スタートだから、2時就寝が最終ライン。この生活リズムは曜日によって変わったり、締切直前になるとリズムなんて言ってられなくなったりしたけれど、11月12月の2ヶ月はほとんどこのリズムで過ごしていた。

 そこそこの期間継続して取り組まないといけないものだから、リズムがないと続けられないだろうなと考えていた。それでも集中したいときに授業のために中断しなければならないことはきつかった。それに、普段の期末レポートとか、テスト対策は一夜漬けだったし、コツコツ勉強してきたことはなかったから、先の見えなさにしんどさを感じていた。

 それから、まわりのことに妙に苛立っていた。わたしは自分のスケジュールのなかでいっぱいいっぱい、頑張っていたつもりだったけど、卒論チキチキレースをしていることには違いなく。さらに言うなら、わたしは留学していたし、さらに教職があるから4年秋になってまでたくさんの授業を取ってるわけだけど、ほかに4年秋まで授業を残してる人はここまで単位を落としてきたから取っている人が多く。(もちろんそうじゃない人もたくさんいるけど)後輩が「来年、再来年先輩のようになっていたらこわいなあ」とか言ってくるのが、たまらなくしんどかった。こうした声を苦笑いで聞き流しながら(時には「いや、留学も教職でもないあなた達はそうならないだろうよ」と諌めつつ)、別に早く書き上げているのがえらいわけじゃないって言い聞かせながらわたしは書いていた。一番大事なのは書き上げて提出することで、その次は質。早く書いているかどうかなんてどうでも良いんだって。

 うちは定期的なゼミも滅多になかったからだろうか、卒論を書くことは大変孤独な作業だったように思う。自分が書いていることに間違いないか不安に思いながら、毎日文字を積み上げるしかなかった。わたしの場合調査地があって、夏の間そこで見たこと聞いたことを中心に構成していく卒論だった。だからこその難しさもあった。

 先生からは「卒論はせっかく字数制限もないから書けるだけ書いて」と言われていたから、とにかくたくさん書いた。最終的には本論7万字、補遺4万字。でも、ツイッターとかでは「長い卒論は結局のところ蛇足ばかり」という言葉を目にしたり、別の専攻の友達からもそれに近いことを言われたり。そうなってくると、自分の記述が冗長なんじゃないかと不安でたまらなくなった。不安になると筆が止まるから良くない。そもそもギリギリスケジュールなので、筆が止まっている場合じゃないのだ。これは分野によっても全然違うんだろうから、自分の先生のことを信じていれば良いんだろうけど、まわりのどうでもいい言葉が冷たく響いていた。


 こうして書いてみると、そうそうあんなことかしんどかったなと思い出してくる。ただ、でも、わたしは自分が提出することに対しては大きな自信があった。まわりからは危うく見られていたかもしれない。先生から「何が何でも出すことだけは諦めないで」と言われていたし、実際提出3日前まで考察が書けていなかった。提出できる状態になったのは締切の朝だ。でも、自分が卒論を書いて、提出することはわたしの中で疑いようのないことだった。書いていることの質に不安になっても、まわりの声に心がワサワサしていても、それだけは信じていられた。ただでさえ長いのだから、最初で自分で何かを端折って考察まで書いてしまえば楽だったように思うけど、それはしなかった。我ながら肝が座っている。

 それに、ただ単に卒論を書くことそのものは楽しかった。夏休みの調査で見たことを文字にしてみると見えるものがあるのも楽しかったし、自分の考えていたことを裏付けるものが出てくるのも嬉しかった。

 
 今回、あまり生みの苦しさみたいなものは感じなかったと思う。時間との勝負で、ただ自分の頭で考えてきたこと、夏休みに見たこと聞いたことを書いていく時間だった。テーマや調査地に救われていたのだ。このテーマでやれてよかったと思う。友達が卒論終盤に「卒論は大学四年間の伏線回収みがある」って言っていた。確かに、わたしの卒論には調査地だけでなく、地元も台湾大学も登場するのでそんな感じがする。ああ、わたしはこういうことに興味をもっていて、こういうことがしたくて、大学を選んだし、留学したんだなと感じながら書いていた。そういう意味では幸福な時間だ。



 だからだろう、わりと苦しかったはずなのに、卒論を提出してしまうと、嬉しさより寂しさが先に来ていた。あ、終わってしまったのかって。悔しさもあった。時間があればもっと書けたと思う。そう思うと、やっぱり留学したのた4年で卒業しようとしてるのには無理があったように感じられたし、一方では、私には修士論文もあるんだなということが少し救いにもなった。


 卒論を提出したことを先生方にメールで報告すると、「秋学期を乗り越えたことを自信におもってください」と言われ、たいへん嬉しかった。

 卒論提出翌日から、秋学期のテストがあり、それが終わったらすぐに福岡に飛んだ。福岡、佐賀を旅してこれから沖縄に帰る。沖縄で年を越すのは2年ぶりである。大晦日はすき焼きにしようね、と母からラインが来た。入院していた祖母も一昨日退院したらしい。

 沖縄で抱えているレポートもあるけれど、それでも沖縄でのんびりして、その後にはしっかり関東に戻ってこよう。年明けには卒論の口頭試問がある。わたしは次のステップにいくために今回頑張った。できなかったことはできなかったこと、頑張ったことは頑張ったこととして認めて、少し休んだら、またやりたいことをやろうと思う。

11月7日~11月15日 息抜き記録

 

 卒論を抱えていると、何でもない日記を書きたくなる。

 ここ最近の日々は、日中授業に行って、夜ご飯を食べたあとから卒論を書いている。毎日、まいにち間に合うだろうか、と心配しているし、結構やばいスケジュールと、それでも思うように進まない現実とでちょっと疲れている。だから、自分の中のバランスを取り戻すかのように、なんでもない文章を書きたくなる。以下、息抜きの記録です。(結構多い)

続きを読む

大学院合格していました

 

 この前の日記でちらっと書いたけど、10月末に行われた大きな試験の結果が出た。合格発表は10時、1限目と2限目の間の休み時間で行われた。トイレに籠って、息をひそめて、その結果を見た。自分の身体が次第にこわばっていくのが分かる。でも頭の芯の方は冷めていて、どこか冷静だった。自分の番号を見つけた時、真っ先に来たのは安堵で、嬉しさはジワジワやってきた。合格していた。よかった、本当に良かった。

 

 来年の春から、わたしは大学院生になります。

 

 留学中、「日本の同級生は専門性を高めているのにわたしは全然だめだ」と思っていたのは、この大学院試を見据えていたから。一年留学して4年で卒業したいと思っていたのも、進学を考えていたからでした。

 7月末に帰国して、夏休みは沖縄で調査して、勉強をはじめられたのは結局9月からだったし、本当に間に合うかぎりぎりのところだったと思う。現に過去問を一通り解けるようになったのは院試の一週間前だった。



 先生方、先輩方に「大丈夫だよ」と励まされるたびに「ああ、これからこの期待を裏切るのか」と思ってたし、「結構難しいからねえ」と言われると「もうダメだ」と思っていた。同級生はみんな進路が決まっていることもつらい要因だった。単位互換の問題も抱えていたし、そもそも日中の授業も多いからいっぱいいっぱいになって、卒業を伸ばすことを何度も何度も考えた。

 

 ただ救いだったのは、勉強していることが楽しいと思えていたこと。気持ち的には大分追い詰められていたけれど、民俗学事典を持ち歩いて、付箋だらけにして読んでいるのが楽しかった。わたしの大学生活、興味の赴くままに走ってきたけれど、それを整理する貴重な時間だったかもしれない。低いスタート地点だったからこそ、一日いちにちの伸び幅も大きくて、昨日の自分より今日の自分は確かに進んでいるのだと思えた。そういう気持ちがあったから、今回の結果がダメでもまた挑戦しようと思えていたのだと思う。

 

 


chAngE Miwa

 

 

  私の受験ソングはmiwaのchAngE。といっても、ひたすら聴いていたのは高校生の時で、大学入試の直前にもこの曲を聴いていた。今でも覚えている、高鳴る胸の鼓動を抑えながら音楽を聴いていた時のこと。

 

 chAngE なびかない 流されないよ

 今感じることに 素直にいたいの

 

パターン化したこんな世界じゃ 自分が誰なのか分からなくなる

枠にはまりたくないわ 決めつけないでよ

 

 あの頃の自分は、とにかく今を変えたかった。沖縄で感じていた閉塞感。高校に居た時は自分を否定されているような気がした。だから、絶対に沖縄を、実家を、あの環境から出なくちゃダメなんだと思っていた。あの焦燥感にも似た、切実さ。自分の中の熱い感情が沸き上がってどうしようもならない時があったから、私は今ここに居ると思うし、大学に入ってわたしは確実に変わった。

 今では信じられないけれど、高校入学時には今いる大学の存在すら知らなかった。私は沖縄の大学とか看護学校に行って、沖縄から出ずに人生を終えるものだと信じてやまなかった。私が行った高校だって、高校受験の時には「あんたがあの高校でついていけるわけない」と母に言われていたし、結局沖縄を出たことに対する罪悪感はある。進路選択時に誰かがかけてくれた言葉とか、小さなちいさなきっかけが積み重なって、いまがあるけれど、そうじゃなかった人生もかなりリアルなものとして自分の側にはあるのだった。

 

 大学に入って、これまでの人生では出会うことのなかった人たちに出会った。それは引け目にもなったりしたけれど、新たな道が見えるようにもなった。勢いで決めた留学も、友達や先輩が海外に飛び出していくのを見て決めた。そうして得たものは大きい。大切なものを得られたからこそ、高校生までの自分が感じていた閉塞感もいつの間にか感じなくなった。ただ、得たものが大きいからこそ、自分が子供の頃に描いていた未来図との差も大きくて。そこに対する戸惑いも、確かにある。

 

 そうやって思い返すときに、18歳の時の自分の切実さを、21歳の私はちゃんと受け止められているのか、と思う。18歳の時がらりと進路を変えたこと、その後の生活。大学院試の勉強をしながら、大学に通いながら、miwaのchAngEを聴いて、あの切実さを思い出せば出すほど、あの切実さから遠ざかっているのを感じていた。いつの間にか思春期は終わってて、あの時「絶対に忘れない」と思った感情までもが遠くにある。

 

 大学院に合格して安心したのは、進路未決定の不安から逃れられたこと、プレッシャーからの開放以上に、あの時の自分を裏切らずに済んだからだと思う。私はいまも、自分で最善だと思う道を選んで、そこでちゃんとやれることをしっかりやっていますよ、という自信を持てて良かった。

 

 大学に入って「私は変わった」と思うところ、高校の頃の自分なら人文系で大学院進学という進路は選ばないだろうなあと思う。高校の頃自分が辛かったのは、周りが押し付けて来る「正しさ」に敏感でありすぎたのだろう。高校の勉強をせずに文章ばっかり書いて好きな勉強ばかりしてごめんなさいとか、学校に馴染めずに学校行けない日があってごめんなさいとか、常に思っていた。偏差値教育に反吐が出ると思っていたけれど、反吐が出るのはそれを自らが内面化しているからだとも意識していて、そんな自分も嫌いで仕方なかった。「大切なのは自分がどうありたいか、それだけだよ」と言ってくれる大人は周りにいたのに、その意味がわからなかった。

 

 でも、今は自分が最善であるという道を選んで、そこに対してきっちり結果も貰って。社会的にそれが「賢い」生き方なのかどうかなんてどうでもよいなあと思えてしまうのだった。もちろん、経済的なところなどはしっかり考えているし、いつまでも親の支援を受けているわけでもない。だから、誰かに何を言われても知らん顔すればいいし、自分は胸を張れる。もちろん、その思いが揺らぐ日もあるんだけれど。

 大学院に合格してジワジワ込みあがってきた嬉しさはそういう類の実感でもあった。ああ、良かったなあ。春からの生活で、何が変わって何が変わらないか分からないけれど、新生活を楽しみに思えることが幸福だ。

 

 

 次は12月中旬までに卒業論文を書く。分かりきっていたことだけども、日々が目まぐるしい。でも、年末まで走って走って走り抜きたい。