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きのこのこのこのこ

最近大学生になりました。南の島から東路の果てへお引越し

『羅生門』読書感想文

 高校の授業で『羅生門』を習った。あの芥川龍之介の『羅生門』である。 

あれは確か入学したての頃だったと思う。憧れの進学校(実はそれほどでもないのだが、あの頃は脳内美化がひどかった)に入学し、『羅生門』を読む。なんと格好いいのだろう。私はうぬぼれた。

 

 肝心の授業ノートが手元に無いのでどのような授業だったかは思い出せないが、私が授業終了後に書いた感想文だけは手元にある。

 確か題は「羅生門の学習を終えて」だったはず。

 根を詰めて書くようなものではなく、クラスメイトはさらさらっと書き終えたのに対し、私はとりつかれたように書いた。大量の数学の課題は放ったらかしにして書いた。

 

 『羅生門の学習を終えて』 

 この物語を初めて読んだ時、私は怒涛のように感情が湧いてきた。それは悲しみでもあり、怒りでもあった。そして思ったものだ。「悪とはなんだろうか」そして「生きるとは悪であろうか」と。

 

 羅生門の学習を全て終えた今の私は、あの頃の私にこう答える。「悪とは何者であるかわからない、けれども生きるとは悪かもしれない」。物語のなか、下人は羅生門で老婆が死人の髪の毛を抜く姿を目にする。しかしその光景に激しい怒りを覚えたのもつかの間、下人は老婆と同じように悪事をはたらくのだ。しかも、「生きるために仕方なくやった」というこれまた老婆と同じ言い訳をして。もし下人が羅生門で盗人とならなかったら、彼は間違いなく死んでいただろう。だから、彼の言い訳は分からなくない。でも、どうして下人は生き抜くために悪人とならざるをえなかったのだろうか。人は悪を犯さなければ生きていけないなら、そのことに私は途方のない虚無感を感じてしまう。

 

 下人の生き方に対して私が抱いた虚無感。それに対しての救いを私はまた、この『羅生門』に求めた。題名にもなっている「羅生門」。これは実際に存在した門の名前とは異なるようだ。羅生門の元ネタとなった今昔物語集で示されている門の名前は「羅城門」である。物語で重要な役割を果たす「羅生門」だが、どうしてこれが「羅城門」ではならなかったのか。私は下人にとってこの門が「生きるための門」であったからだと思う。羅生門で下人の善悪は強く揺さぶられた。老婆の行動に怒り、悪が絶対的に許されないものだと感じた瞬間も、自らの命をなげうってでも善で有りたいと願った時もあった。しかし、反対に老婆の一見幼稚な言い分に心動かされ、最終的には悪に染まってしまった。羅生門は下人にとってそうやって、生きるための方法を模索した場なのだ。下人の心はなんて単純なのだろうか。でも、思うのだ。その単純な下人の心は醜いのかもしれない。幼さが残っているのかもしれない。けれども、下人は生きることについて、善悪について真剣に考えた。そして、その結果たどり着いた結論があの結末であり、誰も下人に対して正しいとか、間違っているかとは言えないのだと。

 

私には下人の出した答えは、ある意味で「命の現実」を突きつけている気がした。私は善と悪その2つが互いに存在しあう世界で生きている。時には善も悪もめちゃくちゃにひっくり返ることもあるだろう。だから、私には何が善で、何が悪であるか簡単には判断できない。また私は、下人のような極限的な状況に立たされたことがない。でも、毎日の中で少なからず善と悪の選択をしている。時には自分に言い訳しながら悪を選ぶ時もある。それは、幼い行動なのか?それは、悪なのか?やっぱりわからない。そういった面で、この話は現代にもつながるのではないかと思う。

 

作者の芥川龍之介は、一二一年前の七月二四日に自殺した。彼はどうして生きることをやめてしまったのだろう。彼の生み出した下人は悪になろうとも、必死に生きようとしたのに。生きることは苦しい。私はこの学習を通して、このことがいつも頭から離れなかった。何故人は苦しみながら、悪に染まりながら生きなければならないのか?私達にも当てはまるかもしれない下人の生き方に、虚無感を感じる私は幼い。私の心も羅生門によって揺さぶられた。私は無いとわかりきっている救いを求めずにはいられない。そんな私をどうか、どこかで作者には笑って思い切り馬鹿にして欲しい。

 

私の行方は誰も知らない。私さえも知らない。何も見えない暗闇のような世界で私はちゃんと生きていけるだろうか。授業が終わり私は今、下人に自分の姿を重ねずにはいられない。

 

 

この作文は遅れて提出したので課題点は誰よりも低く、中学の時みたくチヤホヤもされなかった。

 

田舎の中学でチヤホヤされ続けていた私は、この時期劣等感にまみれていた。私は数学ができない。私が得意だと思っていたことは全てどうってことなかった。

 

だからだろうか。『羅生門』を読んでも、私が行き着く結論は「生きることは悪」であるということだった。なら、何故下人は生きることを選んだのか?私はこうして生き続けているのだろうか?と疑問だった。

 

思春期をこじらせているのである。中学校は私にとって辛いものでしかなかった。大嫌いな馬鹿みたいな人たちに囲まれて、無意味に時が過ぎていったと感じていた。だから、高校生になったら私は全て楽になる。と何の根拠もナシに信じ込んでいた。でも、本当はもうこの時期には気づいていた。

 

そんなことはない、と。中学校と高校、環境ががらりと変わるはずがない。そもそも、自分自身が何にも変わってないのだ。周りに求めてばかりではどうしようもない。

 

もともと本が好きな私は、この羅生門に大変のめり込んだ。私が感じた途方も無い虚無感の行方とワケを下人に求めた。彼の救いようのない運命と恨むとともに、作者である芥川龍之介の自殺に腹を立てた。

 

分かりきっているが、私は羅生門を読むことで何かが変わったわけでもない。羅生門に深い感銘を受けたわけでもない。ただ、また思春期をこじらす要因になっただけだ。

 

 

羅生門

羅生門

 

 

 

編集後記

芥川龍之介の作品では本音をいうと『鼻』や『地獄変』のほうが好き。高校教科書には何故『羅生門』が載っているのだろうか。

 

私が書いた感想はとても当たり前の感想だと思っていたが、後で「病んでいる」と騒がれた。何故だ。学校側は生徒に何を感じて欲しかったのだろう。何となく悔しくなって読み返しても、私が抱いた感想は全く同じものだった。