きのこのこの雑記帳

どきどき台湾留学2018.9.1~ 沖縄と民俗と言葉と本と

5月22日 色々と頭の中がパンクしそうな日

 ある一日の記録。

 

 

  毎朝8時からの中国語の授業。台湾大学での学修も残り一か月になり、レポートやらプレゼン、テストの話題が耳に入ってくるようになった。今日もその一つで、プレゼンがあった。プレゼン、と言っても簡単なもので課題も直前に言われただけ。それでも、クラスメイトの発表を聞くのは楽しかった。直前に言われたプレゼンをさらりと作れるのだから、やっぱり、台湾大学の学生は留学生であっても「優秀」なんだなと思う。

 

 別に自分が「優秀」と言いたいわけではない。私の台湾大での友達は「プレゼンを作るくらい当たり前」と言うだろう。でも、正直言って高校や中学のプレゼンのレベルを考えると、そしてその同級生を思い返すと、やはり「優秀」なのだ。「すごいなあ」と思う。台湾大で出会った日本人に「交換留学といえども頭のいい大学から来ている子が多いよね」と話していたら、「そうは思わない。馬鹿なところもたくさんいるじゃん」と返された。そうなのか。

 日本の同世代人口のうち、4年制大学への進学率は49.4%、沖縄県は35.4%(2017年3月高校卒業者)

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 さらに国立大学に入れるのは同世代人口の8.8%ほどだそう。さらに留学できる学生は同世代人口の一体何パーセント?みんなすごいなあと思うのだ。すごいなあと。ぼんやりと。

 

 私も確かにそこに居るのだけれども、時々気持ちが追い付かなくなる。因みにだけれども、その狭い世界で「あいつ英語できないし」とか言っている声を散々聞いて、大学名でお互いをバカにするのを耳にするから、またぼんやりと「大変だなあ」と思う。まあ、私は英語も中国語もできないのだから散々言われているのだろうけれども。

 

 いや、ちょっと待ってよ?この「私は英語も中国語もできない」とずっと書いてきているけれども、これも大きな認知の歪みがあるのだろう。そもそも台湾で居留証を得て、銀行口座を開設し、インターン申し込みをし、英語なり中国語で仮にも台湾大学の授業を受けているのだから、全く英語も中国語もできないことはない。でも私と同じようなレベル、もしくは私より英語ができる子、中国語が出来る子が馬鹿にされているのを耳にしているから、「私は本当にだめだ」という気持ちになるのだ。私の中国語は確かに伸びているはずなのに、私はずっと「自分は英語も中国語もできない」という認識のままである。最近これが正直しんどいです。

 

 

 いや、台湾大学に来ている人は高いレベルの世界で、高い次元のことを言っているから、「英語も中国語もできない」わけで「学歴が低い」なのだろう。それは分かる。ただ、本当に私はそのレベルで育ってきていないし、その世界への志向性をもっていないから、ただひたすらに場違いな気がする。さらに言えばわたしにとっては無意味な方向で貶められている気がする。

 

 誰かが「完璧主義で、頑張ってきた人が出来ない人を馬鹿にするのは当たり前」という風に言っていた。その場では「そうかな」と笑ったけれども、今ならはっきり言おう。できる人の努力は認められるべきではあるけれど、それが出来ない人を馬鹿にする理由にはならない。

 

 ちなみに学歴について。「あの子○○大学から来ているから仲良くしたい」って話を何度も聞いたんだけれども、そしてそういう発言をする子は友達だったりするのだけれども、その発言ってどうなの?と思う。そういう話を聞くと、「じゃあ、私と仲がいいのは私がいわゆる難関大にいるからなの?」と思ってしまう。「○○大学だから」と言ってしまうと、そこにおいて私という個人はあくまでも大学ブランドの乗り物でしかなくなる。私という個はブランドを前にかき消される。ああ、私が繊細なのだろうか。繊細だってよく言われる。私が何に傷ついているのか、できるだけ論理的に、具体的に話そうとすると「哲学だね」と笑われる。違う子には「先生みたい(笑)」と言われた。つまり、「お堅くて、つまらない」そうだ。

 

 さらに言うと、聞いてびっくり、肌で感じてさらにびっくりだったのは、「陽キャ」「陰キャ」「ブス」みたいな言葉、概念が飛び交っていること。私は言うまでもなく、陰キャに分類されるだろうし、友達とそう言って笑う。でも自分で自分を「陰キャ」って言うのって実は痛い行為で、できれば言いたくない。何が嫌かって、自虐が嫌なんではない。(嫌だけど)それ以上に「陽キャ」とか「陰キャ」とかアホらしいと思っている枠組みの中に自分を当てはめる行為の方が痛みを伴う。人はそうやって分類できるはずの存在ではないから。歩いているだけで「ブス」とか容姿について言われるのなら、それは通り魔みたいなものだ。友達が「私もかわいく生まれたかった。可愛く生まれたら人生イージーモードだった」と言っていて、私自身はそう思ったことがあまりないのでピンと来てなかった。そういうと「あなたは顔で判断されたことないんだよ」と言われた。痛みをまた感じた。

 

 「気にしなければいい」「関わらなければいい」「留学先で日本人と関わっているのがまず悪い」その言葉は聞き飽きた。そういうことじゃあないんだ。できるだけ関わりたくないし、気にしたくない。ここで関わっている日本人もごく少数だ。それでも耳に入るし、同じ台湾大学の学生(本科生であろうとも、交換生であろうとも)である以上、そういう目で晒され、態度で気づいてしまったり、笑われたりするから、つらいのだ。そうやって、つらいと思うことがアホらしいと思えば思うほど、それでも否が応でも気になる自分が嫌なのだ。何故?感じたことを自分なりにこうやって咀嚼することは、決して悪いことではない。感じること、それを言葉にして、違和感を考えることまでも、自分で否定してはいけない。

 

 大学入ってからはそういう悩みをほとんど持っていなかったのに、ここに来て感じている。高校で感じていたことに近いのかもしれない。「私がそう感じるのだから、否定しないで」と母に怒った日のことを思いだす。

 ただ、ここは海外で沖縄に居た時と違って私は自分で動くことができる。私はもう21歳で、あの頃よりはタフなのだ。

 

 

 授業が終わって、私はバスに飛び乗った。この日は華陀神醫先師千秋で、龍山寺でお経があげられるだろうと見越していたからだ。

 

 お寺では予想どおり、お経があげられていた。女性があげているお経はしばし、歌のようで、聞いていて心地よい。龍山寺は人気観光地なので、その間にも大勢の観光客が手を合わせにくる。そういった景色を観ながら、私は信じるという世界観に惹かれているのだと思う。ひっきりなしにやって来る人は何を祈っているのか、彼等が手にしている線香の香り、耳から入ってくる祈りの言葉。道教の信仰はそのまま俗世につながってたりもするので、別に信仰世界が「純粋」で「高貴」なものとは思わない。けれども、祈ることを軸とし、連綿と受け継がれてきた時を思う。その悠久の時を感じると、私はとても楽になる。純粋におもしろいと思う。

 

 龍山寺は観光地なので、お経が終わると供物は早々に取り下げられていた。神様もせわしないなあと思った。

 

 その後、再度台湾大学に戻って漢詩の授業。

 杜甫の「江南逢李龜年」を習った。先生が「みなさんは台湾大学の学生で、理想も高いだろうけれど、もし自分が落ちぶれた後に旧友と再会したらどう思う?つらい?」というような問いかけをしていた。私の地元には帰る家があって、先祖がずっと守ってきた畑があって、親戚はわたしを無条件で受け入れるだろうし、私の小中高校の友達は私が「優秀」だから付き合っていたわけではない(そもそも「優等生」ではなかった)というのが分かっているから、再会を喜べるだろうなと思う。「自分が落ちぶれた」といっても社会的な評価に過ぎない。

 

 私はいわゆる「レベルの高い」世界で、そういう空気にうんざりしているけれども、時には自分の生まれみたいなのを恨む時さえあるけれども(インターナショナルで教育受けたバイリンガル以外「英語できない」と言われているのを聞いている世界だ)そうやって、思えるのは豊かさ以外の何物でもない。