今日はお父さんの8回目の命日です。
お父さんが死んで、8年が経ったということ。
去年のこの日に文章を書いていたように、今日も書いてから寝たい。
今日は慌ただしく始まった。
今日まで4泊5日の日程で、大学の友達が台湾に遊びに来ていたので、ホテルで台湾ビールを飲みながら話していたのが昨日の夜。今日は早めに起きて朝ごはん屋さんに行くはずだった。そのあと、余裕をもって空港へ。ほら、完璧でしょ。
でも、目が覚めたのは空港について居る予定の時間だった。11時半発の飛行機に対して、目覚めたのは9時12分。
空港に着いてるはずの時間に起きるタイプの絶起
— きのこのこ (@kinokonoko1111) 2019年4月8日
私達二人して目覚ましの音で起きられなかったのだ。「ヤバい」と思った瞬間に、飛行機の最終チェックインの時間、タクシーとMRT,最短の経路をスマホで検索する。そして10分でホテルのチェックアウトを済ませて部屋を出た。なかなか久しぶりの修羅場。
結果的に、友人の飛行機は間に合った。でも修羅場を潜り抜けたあとだったからか、別れの感傷などはなく。軽くハグして、夏の再会を約束した。
友達と分かれると、急に自分が異国に一人で居ることが実感させられた。実は今日、私は前もって授業を休む連絡をしていた。本当は友達を空港に送ってからも間に合う授業だ。休みたかったのは、お父さんが死んだ日を思い切り自分の為に過ごしたかったからだ。私の中に、12歳のあの時のまま取り残されてしまった私が居るとしたら。いつもは省みることはできないけれど、今日くらいは甘えさせてやりたかった。
先週の月曜日、先生に授業を休みたいというと、当たり前のように「どうして?」と聞かれた。少し考えたあと、「日本から友達が来るから」と言ったけれど、上に書いたようにそれは本当の答えじゃない。どうして「家族の命日だから」と言えなかったのだろう。周りの留学生仲間にも「日本から友達が来るから休むんだ、さぼり~」と笑っていた。今日の休みは自分の中での一大決心みたいなもので、笑っていいものではないんだけれど、自分で自分を笑った。これは一種の自己防衛なのかもしれない。自分の中では、かさぶたになりつつあるもので、傷は相変わらずそこにあるけれど、別段痛みに悩まされていないからかもしれない。今さら同情されたくないし、気を遣わせてしまうのもだるいし、ましてや「8年の前なのに学校休むの?」なんて言われたくないから、言わなかった。
考えてみれば、今日が父親の命日であることをほとんどの人に言っていない。今日分かれた友達とは、あまりにパタパタしすぎてそういう空気じゃなくなっていた。
そういえば、台湾の友達にはほとんど私が中学生の頃に父親を亡くしていることを話していない。うちのお父さんはね~と、全て過去形で話している。お父さんが生きていれば、今はこの年齢。お父さんが生きていた仕事を、今もやっているように語る。嘘はつけないから、基本的に過去形だけれども。父の死は私のことを語る上で絶対に外せないものだと思っているのに、何となく、言いたくなかった。こっちで出会う子ら(大学もそうだけれど)の多くが、裕福で、幸せそうな家庭に育っているからかもしれないし、私の生い立ちみたいなもの(大したものじゃあない。沖縄の田舎で生まれ育って、父親を亡くしているだけ)に対して「不幸アピール」と言われた傷が癒えてないからかもしれない。そう考えると、ひとり親家庭が当たり前の沖縄は沖縄なりの生きやすさがあった。
私のなかの「父の死」というものの、人との付き合い方も変化している。そういえば、今日はまだ一回も泣いていないや。海外で過ごす命日は、こんなにも遠いものなのか。
友達を見送って桃園国際空港から台北に戻る時、もしお父さんが生きていたらと一瞬だけ考えた。お父さんは台湾に遊びに来たんだろうな。食い倒れの旅をしたのだろう。歴史ある沖縄のホテルで働いていて、調理師免許も持っていたし、バーテンダーもしていた父。台湾のお酒をしこたま飲んだのだろう。
まあ、もちろんこれはあり得ない話なんだけれども。父の死がなければ、私は別人だ。民俗学を専攻していなかった可能性も高く、台湾に留学していなかった可能性も高い。
お父さんが死んで、執り行われた葬式。自分のものとして受け入れられない肉親の死が、仏教の文脈の中に回収されていくことがたまらなく嫌だった。どうして人は死んだら葬式を行うのだろう。長い歴史の中で、人は必ず死ぬ。その時、どういった対応をしてきたのだろう。最初の疑問はこういうものだった。中学2年生の私には言語化できない部分も多かったし、父の死に対する考えは毎年変化している。
4月8日は父の命日だが、同時にお釈迦様の誕生日でもある。(旧暦だけれど)なんだかそのことが、大層皮肉なことにも感じられた。皮肉なんだけれども、どこかで強く惹かれている自分も居て。
今日はふらりとお寺に行ってきた。
MRT圓山駅そばにある仏教寺院。
台湾は道教のイメージが強いけれども、仏教寺院も当然ながら存在している。
お父さんの命日を自分の為に過ごそう、と決めたのは去年から。この日にお寺を訪れたのもはじめて。
先日行った龍山寺でチラシを見かけたのがきっかけだったりする。台湾でも祈福法會は新暦(台湾でいうところの國暦)でやるんだね。
道教のお祭りが大変盛大なものだから、こっちもきっと盛大だろうと思っていたら、そんなことはなかった。
写真には写っていないけれど、周りには大量の僧侶が居た。昼時だったからか、みんなしてお弁当を食べていた。僧侶というと道徳心の塊みたいなイメージだったけれども、スマホいじりながらお弁当食べている僧侶も結構居て笑った。私にとって、この日にお寺に行くことは一種の覚悟を必要とするものであった。でも、実際に訪れたお寺は、平和そのものだった。若い私は目立っていて、たくさんの僧侶と目が合った。そのたびにニコニコされた。お寺で頂いたお茶も美味しかった。
フィールドワークのようなものをするだけの体力と気力はさすがになく、途中で切り上げたけれども、あのお寺は良い空間だった。
帰宅して、部屋に帰ると、寂しくなった。数日前の友達と台湾の果物を食べていた空気がほんのり残っていて、しんみり来た。今日はお父さんの命日であるという悲しみと、友達が日本に帰っちゃった寂しさがいっぺんに来て、どうにもならなそうだったから、睡魔に身をゆだねることにした。悲しい時には寝るのが一番だ。悲しいなって思ったのは、今日初めてのことで、どこかで安心している自分も居た。8年目だけれども、私はまだ悲しいんだぞ。いつまででも、おばさんになっても、悲しんでいいことなんだぞと自分に言いながら、何度も寝た。今日はその為に休んだのだから。
目が覚めると、外はもう真っ暗。数日前から感じていた風邪の予兆のようなものが、確かに風邪となっていた。身体がしんどいのは大変なことだけれども、身体がしんどいと何だか心までもちゃんと労われる気がする。私は心を置いてけぼりにしがちだったけれど、台湾では風邪ばかりひいているからか、多少は心のしんどさがましだ。
そして、今にいたる。
例年の中で一番穏やかなに過ごせた日だったように思う。
しんみり過ごさなかったのは、朝の絶望の起床のおかげかもしれない。
お父さんの死をこうやって考えてます、という一つの記録として。そして、8年経った4月8日に私はちゃんと穏やかに、自分の為の日として過ごせてますという自信のために、これを書きたかった。私は大丈夫。しんどくなったり、だめになったり、ひきこもったり、色々あったけれども、大分強くなった気がする。これからも色々あるけれど、きっと大丈夫。
社会人になった時、年度初めのこの日を自分の為に過ごすのは難しくなるかもしれない。だからこそ、学生のうちだけは大切に過ごそうと決めた。
追記
ボカロPとしても活躍していたwowakaさんが亡くなったと聞いた。『ワールズエンド・ダンスホール』や「ローリンガール」は、父の病院に行く道中、法事の合間、その後の中学生活でたくさん聴いていたものだったから、驚いた。あの辛かった時期、音楽に身をゆだねて、たくさん支えてもらったなあと思う。今でもその音楽を聴くと、あの頃のことを鮮明に思い出すし、今でも自分の心に響くものがある。今、wowakaさんの死に対していえることはほとんどないけれど、ご冥福をお祈りします。