雑記帳

沖縄と民俗と言葉と本と

留学日記 9月13日木曜日

 

 

 

 きのう久しぶりに日記を書いて、ようやく自分の中でリズムが取れたなって感じた。リズム、刺激的な生活の中で目にしたものを自分の中で咀嚼するためのリズム。焦りや抽象的な不安を解消するためのリズム。地に足をつけて、生活していくためのリズム。私はわたしのために文章を書いていこうと思う。なんてったって、わたしは書くのが好きだ。

 

 留学っていうと、国際交流のような外に発信するエネルギーばかり求められる気がする。私も含めて、みんな外国人の友達が作りたくてそわそわしているようだ。色んなバックグラウンドをもつ子と友達になれたら、楽しいんだろうなって思いながらも、わたしはその空気が少し苦手だ。何で苦手なんだろう、急かされているような感覚、人との関係性の中で自分の価値が測られているような感覚、「外国人」の友達をつくりたいって、その人に対して失礼じゃないかっていう不信感。

 

 

 今まで読んだ留学記の多くが、多国籍の友人たちとお酒呑んで、クラブに行って、みたいなものだったからかもしれない。ちょっぴり憧れる気持ちもないわけではないけれど、わたしにそれが無理であることにはとっくに気づいている。そして多分わたしはそれを楽しいと思わない。だから良いんだって、強がってみせる。私は自分が大切にしたいものも、人も、ちゃんと分かっているのに、社会が求める正解像に苦しむ傾向があるようだ。ストレスに感じていること、それを一つ一つ言葉にしていくことは得体の知れない「みんな」に対抗していく術である。

 

 きのうは夕方までのんびりしていたおかげか、自分の中で体と心と環境のバランスが取れた良い日だった。つくばでの大学生活では、授業を詰められるだけ詰めていたけれど、そのペースで留学生活を送ったら絶対に身がもたない。得たいものを得るために、時間をたっぷり確保しよう。中国語で仕事をしたいわけでもなく、1年留年することもなく、奨学金のおかげでお金の心配もない私は、この一年をどう使っても良いのだ。幸運なことに、自分で使える時間はたっぷりある。そしてそれは、これまでの大学生活を駆け抜けてきたご褒美だ。

 

 一つだけ取っていた授業は観光中国語。HSK2級レベルということで(HSKは級が上がるごとにレベルが高くなり1級から6級まである、私はHSK4級を持っている)保険のつもりでとっていた授業だったけれど、オールチャイニーズの先生の言葉を聞き取るだけで精一杯で、いよいよ自分の中国語が信じられなくなった。でも、授業内容そのものは確かに一度習ったような気がするものばかり。それに空港でチケットを買うにはとか、道を尋ねるにはとか、実践的かつ実用的な内容だったから、一生懸命授業を取ろうと思う。11月には友達がこっちに来る予定もあるから、それまでに中国語をできるようになっている予定だ。

 

 教室に居るのは、日本人のほかにインドネシア人、韓国人、フランス人など様々だ。私とペアになった子は韓国人の女の子だった。同じ漢字文化圏にいる日本人は、雰囲気で何となく中国語を理解できるんだけれども、他の国の人は悪戦苦闘している様子だった。何で彼等は中国語を学んでいるのだろう。私と同じでないことだけは確かだ。今度、勇気を出して聞いてみよう。言葉ができない私もそうなんだけれど、お互いに母語じゃない言葉を必死に操って、何とかコミュニケーションを取ろうとしているあの空間は、どこか愛おしい。

 

 結局のところ、語学に対する不安は語学学習でしか解消されない。でも、その語学学習に向かうためには、心身が疲れていないことや時間の余裕なども必要であって。何事もバランス、調和である。