南条あやは1990年の3月30日に亡くなったから、今年で20年。
南条あやがもし生きていれば今年で38歳。私の人生の先輩は、みんな「30歳越えたら楽になるよ」と言うし、「40歳越えればもっと楽になった」とガハハと笑う。でも、私たちはアラフォーの南条あやと会うことはできない。彼女は永遠の18歳だ。
私は今、21歳。永遠の18歳になってしまった南条あやから、どんどん遠くなる。南条あやに心酔していた18歳の私からもどんどん遠くなる。
南条あやが生きた平成という時代は、もうすぐ幕を閉じる。今日は平成最後の南条あやの命日である。
平成最後の○○という文言はもう既に使い果たされてしまっている気がするけれども、南条あやほど「平成」が似合う人も居ないように思う。
アーバンギャルドだって、「平成死亡遊戯」という曲を作っているくらいだし。
アーバンギャルド - 平成死亡遊戯 URBANGARDE - HEISEI SHIBOU YUGI
平成の大革命は、言うまでもなくインターネットの登場だった。南条あやはインターネット上で、自分の病んでいるところをさらけ出しながら日記を綴った。そのポップな日記は人気を博したし、ファンクラブも登場し、いつしか彼女は「ネットアイドル」と呼ばれるようになった。しかし最後は、インターネットで消費されて死んだ。
インターネットによって、南条あやが殺されたと表現するのは、過激である。でも、そう書きたくなる。南条あやの日記を編集して出版された本は、『卒業式まで死にません』。これは彼女の口癖だったという。彼女は女子高生の象徴セーラー服を愛していた。18歳だった彼女にとって、3月31日は女子高生で居られる最後の日である。
もう一つ、彼女は「病んでいる自分」というキャラから降りれなくなっていたのではないか。南条あやは「いつでもどこでもリストカッター」であり、精神科に通院していた。しかし、手首を切らない自分は読者の期待を裏切るのではないか、という意識が時折見え隠れする。
彼女の日記の特徴は、日常を事細かに、けれども明るく記述していることだ。南条あやは「病んでいるキャラ(今で言うメンヘラにあたる。当時はココロ系と呼んだ)」であるが、その日記は驚くほど明るかったのだ。自分の抱える闇をポップに笑い飛ばしてしまうところが、1990年代のサブカルチャーとして受け入れられた。今よりもっと、精神科への偏見が強かった時代だ。
しかし日常を事細かに書いていた南条あやにも、隠していた存在が居た。婚約者の存在だ。南条あやの日記は、日記の体をなしながらも第三者の目を意識して書かれていることが分かる。
南条あやの本名は鈴木純という。しかし、南条あやと鈴木純はイコールの存在ではない。
平成の末である2019年。今なら不特定多数の目を意識して書かれるブログも(このブログがまさにそうである)、メンヘラも、自分の存在をコンテンツ化することもそう珍しくない。
南条あやのファンは現在でもたくさん居る。インターネットで検索すると、今でも「第二の南条あや」を名乗る人はいる。ある層の中で、南条あやは憧れの存在である。
一方で、これほどまでに「コンテンツ」と言われる世の中で南条あやのような存在はもう出てこないのではないか、とも思う。
「メンヘラ」という言葉がサブカルチャーの範疇を越えて使われ出して、多くの中高生が自分の日常をインスタやツイッターやブログに載せて。南条あやのような存在は、もう珍しくない。
そもそもさ、コンテンツとして生きることってもう古くない?
炎上芸を繰り返すブロガーは煽るように「大学を辞めろ、会社辞めろ、そしてブログを書け」と言ったりするわけだけど、そういう突飛な生き方(大学を辞めてブロガーになることが突飛なのかは置いといて)を面白がるのにも飽きたなあと思う。
インターネットには誰かの日常を綴る言葉が溢れているわけだけど、その日常に編集が入っているのも当たり前なわけで。私の周りの女子大生、自分が写った写真を無編集でネットに載せるなんてあり得ないからね。それをSNSで見る私たちも、編集を織り込み済みで受け取る。そもそも、私達の年代ではツイッターのアカウントだって複数持っている子ばかりである。例えば、リア垢(高校大学の同級生とつながる垢)と闇垢、趣味垢というように。外に見せる顔と、病みを華麗に切り替える。
一か月後にやってくる平成の次の時代、南条あやのような求心力を持った存在が現れるようには思わない。
上に南条あやはインターネットで殺されたと書いた。しかし、もちろん南条あやの悲痛な叫びを分かった上で、笑い飛ばしながら寄り添っていた人も居ただろう。私が南条あやと出会った時、彼女はもうこの世に居なかった。でも、制服のブレザーにいつも忍ばせていた彼女の本は、私に勇気を与えてくれた。そのうえで、南条あやの後ろに隠れている鈴木純に寄り添いたいと思っていた。
ただ高校を卒業して、私は今21歳。一人暮らしもはじめたし、今私は外国に住んでいる。高校卒業後に待っていた未来を踏みしめると共に、私が苦しかった高校が如何に狭い世界であったかを実感する。そうして距離ができると、南条あやに対する感情もまたどんどん変化していく。
あなたが女子高生でなくても、あなたが「いつでもどこでもリストカッター」でなくても、誰もあなたの存在を否定することはできないんだよ。居て欲しかった人はたくさん居たはず。
フリーライターとかじゃなくてもいい、ただ私はおばさんになった南条あやが居て欲しかったなと思う。確かに私は高校生の苦しかった頃、南条あやに惹かれていた。でも、彼女がもし生きていればそれは救いになっただろうと思う。そして、彼女の死の直前の日記に『卒業式まで死にません』なんて題名がついちゃっているんだろうと怒りを覚える。どうしてことさら「女子高生」を強調するタイトルなんてつけるのさ。南条あやの時代から現在に至るまで、ある市場において「女子高生」の肩書が付加価値をもつことを嫌と言うほど感じる。
Coccoも深刻な自傷行為を抱えていたし、メンタルの問題を抱えていることは一目瞭然だった。
私も南条あやと同じくらいCoccoが好きだ。完全にこじらせていたので、教室を抜け出すときはトイレでCoccoを聴いていたものだ。もちろん、その時制服のポケットには南条あやが居た。
Coccoが2016年に出したアルバム「アダンバレエ」。この作品は「生存者(サバイバー)による生存者(サバイバー)のためのアルバム」だという。
2017年には20周年ライブを日本武道館で行った。私は二日間ともCoccoのライブに駆け付けた。その時もCoccoは「サバイバー」という言葉を使っていて。「もう死んでもいいっていうところから、生きててよかったっていうところまで、みんなでよく来たね。だって20年だって」とCoccoは笑っていた。会場の人達はみんな泣いていた。私も泣き通しだった。
私はその時19歳で、Coccoが「案外大丈夫だったね」と言う言葉に「私は今でもそうじゃない」と返したかった。Coccoの昔からのファンが、それぞれ色々あっただろう20年間を振り返っている様子が羨ましかった。一方で私は南条あやのことを思っていた。Coccoのライブ会場に南条あやが居たっておかしくないなって心から思った。
「Coccoのライブはとっても危うくて、憑依したみたいに神がかって歌うんだ」と、先輩ファンから聞いていたけれど、2017年のCoccoから1990年代後半のような危うさを感じることはなかった。今のCoccoは明るい歌も歌う。グーグルで「Cocco」って検索すれば、息子と二人で微笑む写真だって見つかる。でもだからと言って、Coccoの魅力が失われたわけではない。
あの頃の危うさが失われたけれど、歌唱力が伸びたCoccoが笑顔で歌う会場は、幸せそのものだった。Coccoが「生きてて良かった」と言い、ファンがその言葉に涙すること。Coccoの「生きてて良かった」に、ファン一人ひとりが重ねたしんどい夜が思われた。南条あやがこの場にいれば、どんなに良かっただろうと思った。
私が『卒業式まで死にません』を持ち運ばなくなったのはいつからだろう。大学進学の引っ越しの際には真っ先に段ボールに詰めたのに、台湾の住まいには持ってきていない。
高校生の頃、私は「惰性で生きたくないんです」って言ったことがある。それは、南条あやと同じ夭折した少女である尾山奈々の言葉でもあった。高校生の頃の私は、この言葉に深く共鳴していた。意味も分からずやる勉強、偏差値で自分の存在が測られているような世界。そこでは自分の存在は勉強ロボットのようだったし、代替可能だと思っていた。意味も分からずに耐えるだけの毎日にうんざりしていた。惰性で生きるくらいだったら死んでも良いと、本気で思っていた。
でも大学進学して、一人暮らしがはじまって。ある時、電車の中で思ったんだった。「惰性でも生きるって案外すごくない?」と。この電車で行き来している名もしらない人達にも日常があって、家に帰ったら洗濯をして、ご飯を作って暮らしているんだって思うと、すごいことだなあと思った。生きることが日常の積み重ねだとするならば、それは途方もない繰り返しだ。惰性でなんて到底生きていけない。現に今の私は昼夜逆転しながらこの文章を書いて居るし、部屋は汚いし、やるべき勉強はできていない。調子が悪くなると、すぐに眠れないし、お風呂も入れなければ、ご飯を食べるのにさえ一苦労する。
人は惰性でなんて生きていけないんだって思うと、通りすがりの人の生活も尊いものに感じる。そして、「惰性で生きたくない」と言った尾山奈々やあの頃の私が小さく見えるのだ。
『卒業式まで死にません』が手元になくても良いやと思えたのは、そういうことの繰り返しだった。
高校は耐えるだけの場所であると思っていたから、そこでできた友達とは卒業したら疎遠になるとばかり思っていたけれど、そんなことはなかった。帰省するたびに会って、高校の時より彼女達のことが好きになっている。高校の先生は今でも妹のように私をかわいがってくれるし、大学での出会いにも恵まれている。大学で出来た友達とお寺をまわって、博物館に行って、本について語る時、「ああ、私がずっと望んでいたことだ」って思う。大学で学んでいる教職課程で、あの頃に対する解釈が変わることもある。専攻している民俗学は楽しい。普段使っている焼き物作家に話を聞きに行ったこと、地元の祭祀を見せてもらっていること、民俗学を学べば学ぶほど、人は惰性でなんて生きていないだって思う。そして今、台湾という異国に留学しながらも、私はわたしのペースで生きていけるんだっていう事実が確かに自信となっている。
そういうことを繰り返して、私は南条あやと距離を感じるようになった。
私はおばさんになるまで生きるし、その時はCoccoのように「生きてて良かった」と言うと思う。
でも、だからといって南条あやの存在が今の私にとって要らないものであるかというとそうではない。私にとって南条あやに心酔していた時期もまた、かけがえのないものである。時々読み返して、その時々によって違うように読める本は、名作だと思う。だからこそ、彼女に対して「南条あや」の部分ではなくても、いわゆるコンテンツ力が低くても生きていて欲しかったなあと思うのだ。
平成最後の南条あやの命日。
南条あやは永遠に平成に囚われるし、平成の次の時代には南条あやのような生き方が生まれないで欲しいと思う。
でも、もちろん、あやちゃんのことは大好きなんだけれど。
追記
ツイッターで南条あやを検索したら、色んな人が南条あやのことを思っていて。誰も忘れてなんかないんだなと思った。生きていてほしかったなぁというつぶやきも多くて、私も本当にほんとうにそう思います。